センター・コート

(最終回)

作:逃げ馬

 




 それから、一ヶ月が経った。
 明日香は、洋子と共にテニス部に復帰していた。あの日から、部員や、クラスメイト達の態度はすっかり変わっていた。テニスコートでは、部員達が元気に練習を続けている。
 「そろそろかなあ・・・」
 柴田先生が、練習をしている明日香と洋子を見ながら呟いていた。
 「おい! 圭子!!」
 後ろから呼びかけられて、柴田先生が振り返った。後ろで、竹内が右手を上げていた。
 「俊介君・・・どうしたの?」
 「ちょっと遊びに来たんだ・・・おまえこそ、あの二人を見ていたけど・・・」
 竹内は、明日香達を見つめながら、
 「そろそろか?」
 柴田先生は、竹内に頷くと、
 「高原さん! ちょっと!」
 明日香が、柴田先生のところに走って行く。
 「何でしょうか?」
 「今日は、私が練習のパートナーになってあげるわ」
 「えっ・・・?」
 「練習といっても、試合形式よ。もちろん、本気で来てね!」
 そう言うと、柴田先生は更衣室に入っていった。
 「柴田先生と、高原先輩が試合をするんだって!!」
 山本が、みんなに叫んでいる。たちまち、みんなの練習が止まってしまった。
 「本当か?」
 「柴田先生・・・高原さんには敵わないだろう?」
 新谷が、みんなと話している。
 「そうかな・・・?」
 みんなの話を、フェンスにもたれて腕組しながら聞いている竹内は、思わず呟いていた。
 『圭子は、高原君のテニスをよく知っているし、試合経験も多い。体力だって、まだ24歳で充分にある。それに・・・』
 更衣室から、テニスウエアに着替えた柴田先生が現れた。
 「うわー・・・」
 「綺麗・・・」
 部員達から声があがる。
 「・・・」
 竹内は、黙って柴田先生を見つめている。『まるで、現役選手だな・・・』そう思いながら見つめていた。
 竹内の目に映っている柴田先生は、まるで体からオーラが出ているように見えた。そう、クルーズと同じように・・・。
 「高原さん」
 柴田先生が、明日香の前に立った。
 「1セットだけだけど、本気でやりましょうね」
 「はい!」
 二人がコートに入っていく。
 「高原さん! 手加減してあげなよ!」
 新谷が、笑いながら声をかけた。
 「柴田先生は、そんなに下手じゃない・・・」
 西田は、真剣な目で柴田先生を見つめている。
 「なめてかかると、痛い目にあうぞ。高原!」
 柴田先生のサーブで、ゲームが始まった。ボールを高くトスすると、
 「?!」
 「あれは?!」
 ボールが落ちてくると、柴田先生はジャンプをして思いっきり打った。
 「ジャンプサーブ?!」
 西田が叫んだ。ボールが唸りをあげて飛んでくる。明日香は全く動く事が出来なかった。ボールは、コートの後ろのフェンスで跳ね返っていた。
 「・・・フィ・・・フィフティーン・ラブ!」
 審判をしている山本も、咄嗟に声が出なかった。
 「すげえ・・・」
 「高原さんが、動けなかったぜ!」
 部員達が驚いている。
 「ジャンプサーブは、学生時代から圭子の武器だったからな・・・」
 竹内は、じっと柴田先生を見つめている。
 「先生・・・すごいな」
 明日香はにっこり笑って、柴田先生を見つめている。柴田先生も、ネットの向こうで微笑んでいる。
 柴田先生が、またジャンプサーブをする。ボールが唸りをあげて飛んでくると、明日香はダッシュをして、ダブルハンドのスイングで打ち返した。
 「重い!」
 ラケットにあたった柴田先生のサーブは重かった。球速も、ボールの重さもクルーズのサーブと同じくらいだ。それを強引に打ち返した。
 柴田先生がボールを追う。軽快にコートを走ると、ボールのコースに入った。にっこり笑ってラケットを構えた。
 「あれは?!」
 西田が声をあげた。
 「ダブルハンド?!」
 ちょうど取材にやってきた、黒田と高村もコートの中で起こっている事に驚いて声をあげる。
 ボールが飛んでくる。明日香も、ダブルハンドのスイングで返そうとした。しかし、
 「?!」
 ボールが重い、ラケットが押されてコントロールが出来ない。打ち返したボールは、ネットに引っかかってしまった。
 「サーティーン・ラブ!」
 山本がコールした。
 「高原さんが、こんなに押されるなんて・・・」
 新谷が呆然としている。
 「同じダブルハンドなのに、なぜあんなに違うんだ?」
 西田も、驚きの目を柴田先生に向けている。隣に立っている洋子は、言葉も出ない。
 「どう言う事なんだ、同じ打ち方で、体格だってほとんど変わらないのに、ボールがまるっきり違うなんて・・・」
 高村が首を傾げながら二人を見つめている。
 「高村・・・今も連勝記録を続けているクルーズが、以前に一度だけ、大学生だった頃に負けた事があるんだ」
 「なんだって?! それが公式戦なら、記録として・・・」
 「いや・・・公式戦だったがな、相手の選手は、第2セットまでリードしていたんだが、けがをして棄権しなければいけなくなったんだ・・・放棄試合、つまり負けさ!」
 「まさか?!」
 「そうだ・・・」
 二人の視線が、コートに立つ柴田先生に注がれる。『そうだとしたら、今、高原君はクルーズに勝る選手と試合をしている事に・・・』
 高村のペンを握る腕に力が入った。
 柴田先生は、有利に試合を進めている。ジャンプサーブのスピードは、体格に勝るクルーズのサーブ以上のスピードで明日香を襲う。それをダブルハンドのスイングで打ち返しても、柴田先生は明日香と同じダブルハンドのスイングで返してくる。その球速は明日香よりも速く、ボールも重い。明日香は、第一ゲームをあっさり落としてしまった。
 ベンチに座ってタオルで汗を拭く明日香の周りに、部員達が集まってきた。
 「明日香・・・どうしちゃったの?」
 洋子が声をかけると、
 「すごいよ柴田先生は、マルソーより上手い。ひょっとしたら、クルーズと同じくらい強いかもしれないね」
 明日香の顔に、微笑が浮かんでいる。
 「第一ゲームを落としたぞ。どうやって、とり返す?」
 西田が、尋ねた。
 「同じダブルハンドなのに、なぜあんなに違うんだろう。次のゲームは、それをしっかり見てみるよ」
 柴田先生は、ベンチに座って竹内と滝沢先生と話をしていた。
 「まだまだ現役選手としてやれるじゃないか」
 竹内が笑うと、
 「ダメダメ! 1ゲームでもキツイわよ!」
 「あの娘と、マルソーやクルーズとの試合経験の差を埋めるために、こんな練習をしているんだね・・・」
 滝沢先生が、腕を組んだまま笑っている。柴田先生は、微笑みながら頷いた。
 「圭子は、最近は僕が帰国する度に一緒にテニスをしていました。今の圭子の能力は、現役選手そのものですよ」
 「さあ、あの娘は、この後どうしてくるかな? 楽しみだわ」
 柴田先生が立ちあがった。
 「無理は、しないでくれよ!」
 竹内が、心配そうに言うと、柴田先生は微笑みながら頷いた。明日香も、ベンチから立ちあがると、コートに歩いて行く。
 第二ゲームが始まった。明日香は、サーブを打つと、ネットに付こうと走って行く。
 「さあ、先生! 見せてもらいますよ!」
 柴田先生は、ラケットを構えると、綺麗なフォームでスイングをする。明日香は、しっかりそれを見つめていた。すばらしい速さのボールが、明日香のコートのライン際に決まった。
 『そういう事だったのか・・・』
 「ラブ・フィフティーン!」
 明日香は、にっこりと笑った。
 「先生! 見せてもらいましたよ!」
 柴田先生も、微笑んでいる。
 「そう・・・それなら、答えを見せてね!」
 明日香は、ボールをトスすると、おもいっきり打った。ボールが柴田先生をめがけて飛んでいく。柴田先生は、フォアハンドのスイングで打ち返してきた。
 「綺麗なフォームだ」
 黒田が、カメラのシャッターを押すと、カメラからフィルムを巻き上げる、乾いた音が響く。
 明日香は、ボールのコースに入ると、ラケットを構えた。ボールが飛んで来ると、おもいっきりスイングした。
 『ポーン・・・』
 ボールが飛んでいく。さっきまでより球速が速い。ボールが、エンドラインで弾んでフェンスにあたって音をたてた。
 「フィフティーン・オール!」
 山本が、コールをした。
 「さすがね!」
 柴田先生が笑っている。
 『柴田先生のスイングは、今までの僕のスイングよりラケットとボールがあたっている時間が長かったんだ。それで、僕より球速も速く、ボールは体重がのっているから重かったんだ・・・』
 明日香は、ボールをコートでバウンドさせながら考えていた。
 「あいつ、柴田先生のスイングとの違いがわかったようだな」
 西田は、じっと明日香を見つめている。
 明日香はにっこりと笑うと、ボールをトスしておもいっきり打った。激しいラリーが続く。
 「すごいな・・・」
 新谷は、呆然と目の前で繰り広げられるラリーに見入っている。
 「がんばれ! 明日香!」
 洋子が声援を送る。
 「高原・・・」
 西田は眩しそうに、その長い足でコートを走る明日香を見つめていた。
 試合は、接戦だったが次第に明日香が押し気味になっていった。
 明日香のスマッシュが、柴田先生のコートで弾んだ。
 「負けたわ!」
 柴田先生が肩で息をしながら笑った。竹内が、コートに走る。
 「圭子、大丈夫か?」
 「うん、大丈夫!」
 明日香が、ネットに向かって駆け寄った。
 「先生! ありがとうございました!」
 「私こそ、久しぶりに楽しかったわ!」
 二人が握手をすると、柴田先生は、明日香の肩をポンと叩いて、竹内と一緒に歩いて行った。
 「「「高原さん!」」」
  みんなが、明日香に駆け寄った。
 「すごいよ」
 「びっくりしました」
 口々に明日香を誉める。
 「高原!」
 西田が明日香の前に立った。
 「西田君・・・」
 「よくやったぞ!」
 そう言うと、明日香の肩をポンと叩いて微笑んだ。
 「ありがとう」
 明日香も笑った。その光景を、フェンスの向こうで高村と黒田が微笑みながら見つめていた。 

 

 春になり、新学期が始まった。
 3年生になった明日香達は、テニス部に新しく入ってきた新入生の指導もしながら、練習に励んでいた。
 女子のキャプテンだった島田の死後、部員達と和解をした明日香と洋子は、キャプテンになることを勧められたが、今も女子のキャプテンは島田だと言って断っていた。そして、男子のキャプテンである西田が、クラブを引っ張っていた。
 その日も、練習を終えた明日香と洋子は、西田や新谷、山本と一緒に帰っていた。
 学校の前の道を、おしゃべりをしながら歩いて行くと、パン屋の前にやってきた。
 「おじさん、こんにちは!」
 明日香が、店にいるおじさんに声をかけた。
 「よぉ! 明日香ちゃん、すっかり元気になったね!」
 「おじさん、クレ−プ5つね!」
 洋子が言うと、
 「よしきた!」
 おじさんが、手際良くクレープを焼いて、みんなに渡していく。
 「ありがとう!」
 明日香がにっこり笑った。
 「また来てよ!」
 おじさんも笑った。おじさんの後ろから、こちらを伺うように、おばさんが店を覗いている。明日香達が帰っていくと、
 「あんた、あんた!」
 「なんだよ」
 「あんな娘をうちのお客にして・・・」
 「なに言っているんだ!」
 「だって、あの娘は、男なんでしょう?!」
 おじさんは、おばさんを見ると、大きなため息をついた。そして、
 「俺には、そんな事は関係ないよ」
 そう言うと、工房に入ってパンの生地を捏ね始めた。
 「まったく! 都合が悪くなるといつも逃げるんだからねぇ!」
 おばさんも、大きなため息をついていた。

 明日香と洋子は、西田たちと別れると、廃工場のテニスコートにやってきた。最近は、クラブでの練習が終わった後、洋子と一緒に、ここで日が暮れるまで練習をするのが日課になっていた。
 明日香達は、トレーニングウエアに着替えると、コートに入った。
 「さあ、始めよう!」
 洋子が言うと、
 「うん・・・」
 明日香が、ボールを『ポン、ポン、ポン』とコートでバウンドさせると、いつもより高めにトスをした。タイミングをはかってジャンプすると、『ポーン』という音がコートに響いた。ボールが、洋子のコートに飛んでいく。しかし、
 「フォルト!」
 洋子が叫んだ。
 「まだダメかぁ・・・」
 明日香が顔をしかめる。
 「そんなに簡単には出来ないよ。柴田先生だって、随分かかったって言っていたよ」
 「それはわかるけど・・・」
 明日香は、“パシフィック・カップ”までに、柴田先生が明日香との練習で見せたジャンプサーブを会得しようとしていた。しかし、一ヶ月たっても、まだ確実にサーブが決まらなかった。
 「来月は、もう試合だし、早く確実に決められるようにならないと」
 明日香は、また、ボールを3回コートでバウンドさせると、上に向かってトスをした。タイミングをはかってジャンプをすると、柔らかい体をしならせてボールを打った。ボールがすごい勢いで洋子のコートに飛んでいく。今度は、洋子もうち返す。しかし、うち返したボールは、ネットに引っかかっていた。
 「今度は、入った?」
 「うん・・・すごく速いし、重いボールだったよ。ラケットを握っている手がしびれちゃって」
 「うーん・・・でも、確実に決まらないとなぁ」
 「そうだ!」
 洋子は走り出すと、空き缶を幾つか拾ってきた。それをコートに並べていく。
 「明日香、これを狙ってサーブをしてみて」
 「無理だよ、そんな小さな的に当てるなんて」
 「でも、それくらいのコントロールがないと、クルーズには勝てないよ」
 明日香は、またボールをコートでバウンドさせると、トスをしてサーブを打った。しかし、ボールは缶から離れたところでバウンドしていた。
 「もっとちゃんとボールを見て!」
 洋子の声が、コートに響く。
 明日香がまたサーブをする。缶のすぐ横でボールがバウンドする。
 「うーん・・・」
 もう一度サーブをする。体をしならせてジャンプサーブをすると、速いボールが飛んでいく。ボールが缶を弾き飛ばしてカラカラと音をさせていた。
 「お見事!」
 驚いて声のした方向を見ると、パン屋のおじさんが、袋を持って立っていた。
 「おじさん」
 「はい・・・差し入れだよ」
 おじさんが袋を差し出した。
 「わーい! 明日香、ちょっと休憩しよう!」
 3人が、古いベンチに座ってパンを頬張っている。
 「面白そうな事をしているねぇ」
 「もう時間がないですから、コントロールを付けようと思えば、これくらいしないとね」
 洋子が笑っている。
 「がんばらないとなぁ」
 明日香が少し真剣な顔になっている。缶コーヒーを飲み干すと、
 「おじさん、ありがとう!」
 そう言うと、明日香はコートに入ってサーブの練習を始めた。ボールをコートで3回バウンドさせると、トスをしてタイミングを合わせてジャンプをする。
 『ポーン!』
 軽快な音が、コートに響いてボールが飛んでいく。
 『パカーン!』
 空き缶が弾き飛ばされて転がっていた。
 「高原・・・」
 塀の向こう側から、西田が明日香を見つめていた。バイトに行く途中に歩いていると空き缶の転がる音が聞こえて、気になって覗いてみると明日香が練習をしていたのだ。
 「あいつ・・・クラブが終わっても、こんなところで」
 明日香は、フォームをチェックしながら、サーブを打ちつづけている。明日香がサーブを打つたびに、空き缶が弾き飛ばされていく。西田は、バイト先に向かって歩いて行く。
 「明日からは・・・」
 西田は、呟きながら歩いていた。


 翌日の放課後、明日香達は、いつものようにクラブに参加するために、テニスコートにやってきた。
 「先輩! こんにちは!」
 「こんにちは!」
 挨拶を返しながら、明日香と洋子がコートに入っていく。
 「今日は、試合形式でいこうか?」
 洋子の言葉に、
 「そうだね、どれくらい使えるかも見てみたいし」
 明日香も頷いていた。
 西田は、男子部員達に、その日の練習メニューの指示を出していた。
 「よし! 練習開始!」
 「「「「「はい!!」」」」」
 男子部員達が、コートに散って練習を始める。西田は、女子の使っているコートに目をやった。その中の一つで、明日香と洋子が、後輩達を指導しながら練習をしている。後輩達は、明日香のボールをまともに打ち返す事が出来ない。結局、明日香は手加減をしながら指導している。
 「あれじゃあな・・・」
 西田は、周りを見まわすと、
 「新谷!」
 「なんだ?!」
 「後を頼むぞ!!」
 そう言うと、ラケットを持って女子部員達が練習しているコートに向かって歩いて行く。
 「おい! 西田! おい!」
 新谷は、呆然と西田の後姿を見送った。女子部員達も、突然、西田が歩いてきたので驚いている。西田は、明日香達の練習しているコートまでやって来ると、新入生達に、
 「君たち、高原先輩は、もうすぐ大きな大会に出なければいけないからね。悪いけど、山本先輩達と練習してくれるかな?」
 西田が、山本たちの練習しているコートを指差した。山本も、察したのか西田の方を見て頷いた。
 「みんな! こっちに来て!!」
 山本が、新入部員達に声をかけた。みんなが山本たちのコートに移動していく。コートには、明日香と洋子が残っていた。西田は二人をじっと見つめている。
 「西田君・・・」
 西田は、コートに入っていくと、ボールを拾ってコートでバウンドさせている。
 「もう、今の高原なら、練習相手が中尾では物足りないだろう。今日は、俺が相手をしてやるよ」
 西田は明日香に笑いかけると、ちょっと真剣な顔になって、
 「・・・あの時に、俺は高原に何もしてやれなかったからな。これくらいしかできないけど・・・」
 「西田君・・・」
 明日香は、言葉が出なかった。
 「さあ、高原! 本気で来い!!」
 明日香は、にっこり微笑むとボールを高くトスをする。明日香の白く長い指からボールが離れて宙に浮く。次の瞬間、明日香はタイミングをはかってジャンプをすると、体をしならせて思いっきりボールを打った。
 『ポーン!!』
 軽快な音がコートに響くと、ボールが西田のコートに飛んでいく。
 「速い!!」
 西田は、必死に打ち返す。しかし、ラケットが勢いに押されてボールが浮いてしまった。
 「これじゃあ、後輩達では、相手にならないな!」
 西田はネットに向かってダッシュをした。しかし、
 「?!」
 明日香が、ダブルハンドのスイングで打ち返してくる。それを打ち返そうとした西田は、ラケットから腕が痺れるほどの衝撃を受けた。それでも、強引に打ち返す。激しいラリーが続く。
 「西田君・・・」
 明日香は、西田の心遣いが嬉しかった。いつまでも、こうしてテニスをしていたい気分だった。それは、西田も同じだった。明日香はコートのどこにボールを打ち返しても、必ず拾って返してくる。今の、高校生の男子でも、西田を相手にそこまで出来る選手は、なかなかいなかった。西田の前で、明日香は長い足でコートを走り、ダイナミックなフォームでボールを返してくる。
 コートからは、いつまでもボールの音が響いていた。

 それから、大会までの間、明日香は、西田を練習相手にしてテニスを続けていた。クラブが終わった後の、廃工場での練習にも、西田はバイトに行く直前まで、明日香の相手をしていた。そして・・・


 パシフィック・カップが開幕した。


 明日香は、柴田先生や洋子と一緒に、会場に向かった。会場の入り口には、マスコミがたむろしている。3人が入り口に近づくと、カメラマン達が、一斉にストロボを焚いて写真を撮り始めた。
 柴田先生と洋子は、それを見て顔をしかめた。しかし・・・明日香は毅然として、顔を前に向けて歩いて行く。
 「一言お願いします!」
 「高原選手! 参加するべきでないという意見もありますが・・・」
 レポーター達は、一言でもコメントを取ろうと、明日香にマイクを向けている。しかし、明日香はにっこり微笑むと、競技場の中に姿を消した。

 ロッカールームで、テニスウエアに着替えた明日香に、柴田先生は優しい眼差しを向けていた。
 「高原さん」
 「はい!」
 「言い難いけど、この試合では・・・みんな、あなたには冷たいと思うの・・・」
 「・・・」
 明日香は、黙って頷いた。
 「でも・・・僕は・・・やりますよ。試合が出来るだけでも嬉しいです」
 明日香は、右腕に付けた白いリストバンドを見つめた。それは、病床で島田が、明日香に託したものだった。
 「僕を信じてくれた。島田さんのためにも!」
 柴田先生が頷いた。
 「がんばれ! 明日香!!」
 洋子が、笑顔で励ました。

 1回戦の相手は、日本のトップレベルの選手。高見沢めぐみだった。明日香が現れるまでは、日本女子テニス界で、西山と共に、2強時代を築いた選手だった。
 「今日の相手は、高原だな。マルソーと、互角に渡り合う選手だからな。気をつけろよ!」
 コーチが、声をかけると、
 「キャリアが違いますよ。あんな、女になってまでトップになろうとする男女なんて、2セットで終わらせてやります」
 そう言うと、高見沢は、長い髪を後ろでまとめて、コートに向かった。

 明日香と、高見沢がコートに入場してきた。しかし、いつもの試合とは、雰囲気が違った。
 観客が、明日香に向かって激しいブーイングを浴びせている。
 「男がそんな格好をするな!」
 「そんなになってまで、強くなりたいのか!」
 その中を、明日香は平然と、コートに向かって歩いて行く。
 「フン・・・こんな中で、まともにプレーができるかしら?」
 スタンドから、西山が明日香を見ていた。その瞳には、冷たさが漂っている。
 「タカハラ・・・」
 クルーズも、スタンドで明日香を見守っていた。『あなたの実力を見せて!』心の中で、声援を送っていた。
 試合が始まった。高見沢がサーブを打つと、明日香は、軽快なフットワークでボールのコースに入って、ダブルハンドのスイングでボールを打ち返した。速いボールが、高見沢のコートに飛んでいく。高見沢は打ち返す事が出来なかった。
 「ラブ・フィフティーン!」
 コールされると同時に、観客席からブーイングが起きる。
 「明日香・・・落ち着いてますね」
 洋子が、柴田先生に囁いた。
 「大丈夫。この試合は勝てるわよ」
 柴田先生も、にっこりと笑った。
 試合は、明日香のペースで進んでいた。高見沢は、サービスゲームもキープできず。明日香の球速の速いサーブは面白いように決まっていた。試合は、明日香の圧勝で終わった。
 ブーイングを浴びながら、明日香が引き上げてきた。しかし、その表情は平然としている。
 「明日香!」
 洋子が、通路を走ってくると、明日香と握手をした。
 「カッコ良かったよ!」
 「そうかな?!」
 二人から、久しぶりに笑い声が起きた。
 「タカハラ!」
 通路に、ウイリアムズコーチと一緒にクルーズが現れた。彼女はこの後、試合をする事になっていた。
 「ナイスゲーム!」
 そう言うと、にっこり笑って二人は握手をした。カメラのフラッシュが、二人を青白く照らしていた。
 「私も、すぐに行くから!」
 そう言うと、クルーズは、通路をコートに向かって歩いて行った。やがてコートから、大歓声が聞こえてきた。

 明日香とクルーズは、手のつけようがないほどの強さで対戦相手を圧倒していた。明日香は、ブーイングを浴びせられても、冷静にプレーをして相手には、まともにプレーをさせないほどの強さを見せていた。そして・・・準決勝、試合前のロッカールームで、明日香はテニスウエアに着替えていた。綺麗な長い髪を後ろでまとめると、右腕の手首に、島田から貰ったリストバンドを巻いた。シューズの紐を締めると、前に立っている柴田先生と、洋子に微笑みかけた。
 「今日勝てば、日本の女子選手でトップになれるわ。今日は、全力で戦いなさい!」
 「はい!!」
 3人が、にっこりと微笑んで、お互いを見つめていた。

 「これで、私の世界選手権出場は決まりね!」
 対戦相手の西山は、記者に囲まれながら、笑っていた。
 「しかし、高原選手もいますが?」
 高村が尋ねた。
 「あなた、何を言っているの? 彼は、男でしょう。だから、後二人は外国選手だから、私が日本女子のトップな訳!」
 そう言うと、西山は、周りの記者達に微笑むと、
 「さて、男から女になったような選手とテニスをしたくはないけど、御手並み拝見といきますか」
 西山は、記者に囲まれながら、通路を歩いて行った。

 歓声と、ブーイングの声が入り混じるコートに、明日香と西山が入場してきた。西山は、手を振って観客に応えている。『これで、今日の主役は、わたしね』そう思っていた。試合開始前に、明日香は、ネットに近寄って西山に握手を求めた。しかし、西山は、プイッと横を向くとネットから離れていった。歓声が起こる。
 「あいつ・・・よくやるなあ・・・」
 カメラを構えながら、黒田が笑った。
 「高原君、大丈夫かな?」
 高村が心配そうに呟いた。
 「大丈夫さ! 彼女は落ち着いているよ。この試合は見物だね!」
 黒田が笑った。
 試合は、明日香のサーブで始まった。
 「フフフッ、どこまで試合が出来るかしら。観客は、ほとんどわたしの味方よ!」
 西山は、直前まで笑っていた。明日香は、右腕の手首に巻いた白いリストバンドを見つめていた。
 「島田さん・・・行くよ!」
 呟くと、ボールをコートで3回バウンドさせて、スッとトスを上げた。タイミングを合わせてジャンプをすると、柔らかい体をしならせながら、思いっきり打った。
 『ポーン!』
 軽快な音が、コートに響いた瞬間、西山のコートでボールが弾んで、後ろのフェンスに跳ね返っていた。コートは、水を打ったように静かになった。
 「・・・フィフティーン・ラブ!」
 ようやく、審判がコールをした。その声は、震えていた。
 「なによ・・・今のは?!」
 西山は、呆然としていた。そして、ある記憶が蘇ってきた。彼女が大学生の頃に対戦した、どうしても勝てなかった相手の記憶が・・・。
 また、明日香がサーブを打つ。西山も、必死に打ち返そうとしたが、球速とボールの重さに押されて、まともに打ち返す事が出来ない。ボールは、音をたててネットに引っかかっていた。
 「そんな・・・わたしが、あんな娘に・・・」
 西山は、一ポイントも取れずに第一ゲームを落としてしまった。観客は、ブーイングを明日香に浴びせている。明日香は、平然とベンチに戻ると、タオルで汗を拭いていた。
 「次のゲームは、こちらのサービスだから、ここで流れを変えて勝つ」
 西山は呟くと、明日香を見た。
 「あの娘、いったいどんな神経をしているのかしら。こんなにブーイングを浴びせられているのに・・・」
 第二ゲームが始まった。西山がサーブを打つと、明日香は軽快なフットワークでボールのコースに入って、ダブルハンドのスイングで打ち返してきた。素晴らしい速さのボールが、西山を襲う。打ち返そうとした西山のラケットは、ボールの勢いに押されてまともに打ち返す事が出来なかった。
 「そんな・・・まるで・・・」
 西山は、明日香をじっと見つめていた。その姿に、かつてのライバル、柴田圭子の姿が重なった。
 「そんな・・・わたしが負けるはずが!」
 試合が進んでいく。しかし、西山は明日香に対して、全く歯が立たなかった。
 第三ゲーム、明日香のジャンプサーブが、西山のコートに飛んでいく。打ち返そうとした西山が転倒をした。ボールは、コートで弾んでいた。転倒した西山は、起き上がると足を引きずっている。周りにいた係員が駆け寄ると、審判に向かって何か言った。
 「この試合は、西山選手が脚に負傷をしたため、放棄試合とします」
 審判が、マイクで言うと、観客からどよめきが起きた。明日香は、ラケットをケースにしまうと、さっさと引き上げていった。
 「あいつ、上手に転んだな」
 黒田が笑った。
 「どう言う事だ?」
 「負けるわけには行かないだろう? だから、勝負がついていないというイメージを作りたかったのさ!」
 「それで?」
 「そう言うわけさ!」
 高村は、肩を支えられながら引き上げる西山を見つめた。西山は、たくさんの記者に囲まれながら引き上げていった。
 西山が、ロッカールームに戻ってきた。記者達を振り切って、ロッカーに入る。一緒にロッカールームに入った竹村がドアを閉めて振り返ると、西山が笑顔で立っていた。
 「足は、大丈夫なのですか?!」
 驚いて尋ねると、
 「大丈夫よ!」
 「それならなぜ・・・?」
 「わたしが、あんな娘に負けるわけには行かないでしょう」
 竹村は、呆然と西山を見つめていた。
 「それに、わたしはもう日本の“女子”選手でトップになっているわけだし」
 西山が、「フフフッ」とわらっている。竹村は、恐ろしそうに西山を見つめていた。

 明日香が通路をロッカーに引き上げてきた。
 「タカハラ!」
 クルーズが微笑んでいる。
 「強かったわよ!」
 そう言うと、明日香を軽く抱きしめた。
 「ありがとうございます!」
 「わたしも、すぐに行くわよ!」
 そう言うと、親指をぐっと立てて明日香に向かって微笑むと、通路をコートに向かって歩いて行った。


 そして、決勝戦。
 明日香は、ロッカールームで柴田先生と洋子と話をしていた。
 「いよいよね!」
 洋子が明日香に微笑んだ。
 「うん・・・やっとクルーズさんと戦えるね・・・」
 明日香の顔は、緊張からか少し青白い。
 「あなたのテニスを、思いっきり楽しんでらっしゃい!」
 柴田先生が、力強く言うと、明日香も頷いた。3人が、ロッカールームを出て行くと、誰かが、明日香の前に立ちはだかった。
 「西田君?!」
 「じゃあ、私たちはスタンドに行ってるわね!」
 柴田先生と洋子が、通路を歩いて行った。
 「高原・・・」
 「来てくれたんだ。ありがとう!」
 明日香は、頬を赤く染めて俯いた。
 「決勝戦くらいは、応援に来ないとな!」
 西田は、優しく明日香の肩に手を置いた。
 「思いっきり、クルーズにぶつかって来い!」
 「うん!!」
 明日香は、力強く頷くと、
 「じゃあ・・・行ってくるね!」
 通路をコートに向かって歩いて行った。西田は、その姿が見えなくなるまで、明日香の後姿を見つめていた。
 二人がコートに入場してきた。観客達が歓声とブーイングを二人に浴びせる。二人は、コートに入るとがっちりと握手を交わした。
 「よろしく」
 クルーズが微笑んだ。
 「よろしくお願いします」
 明日香も微笑みながらしっかりと握手をすると、二人は自分のコートに歩いて行った。再び、歓声とブーイングの嵐が二人を包んでいく。
 「明日香・・・」
 洋子が両手を組んで祈るように呟いた。柴田先生は、黙ったまま明日香を見つめている。
 「高原・・・」
 西田は、拳を握り締めながらコートに立つ明日香を見つめている。『思いっきり行け!』心の中で叫んでいた。
 明日香のサーブでゲームが始まった。明日香は、右の手首に巻かれたリストバンドを見つめると、ボールを三回コートでバウンドさせてから、高くトスを上げた。タイミングをはかってジャンプをするとボールを打つ。『ポーン!』ボールがクルーズのコートをめがけて飛んでいく。クルーズが、ボールを返そうとすると、打ち返したボールはネットにあたって音を立てていた。どよめきがコートを揺るがした。クルーズは、にっこり微笑んでいる。
 「また、強くなったわね・・・」
 思わず呟いていた。
 試合は、一進一退で進んでいた。第一セットはクルーズが取り、第二セットは、明日香がリードしながら進んでいた。しかし、クルーズの強烈なボールは、次第に明日香を圧倒し始めていた。
 クルーズの強烈なボールが明日香を襲う。明日香も、懸命にダブルハンドのスイングで応戦したが、ボールはラインを超えて弾んでいた。歓声が起きる。
 「タイブレイクか・・・」
 黒田がファインダーを見ながら呟いた。
 「まずいな・・・」
 高村も声に出して呟いていた。
 離れた観客席では、西田が柴田先生と洋子に話し掛けていた。
 「先生、高原は・・・」
 「確かに、不利だけどね。これも経験だから・・・」
 柴田先生が、苦笑いをしている。
 「どんな事にでも、向かっていくのが明日香だから!」
 洋子が明るく言った。みんなが頷いている。3人は、コートに立つ明日香の姿を見つめている。
 『あれだけ練習したんだ・・・負けるな!高原!!』
 西田は、心の中で叫んでいた。
 タイブレイクが始まった。先に7ポイントを取った方が、セットを取る事になる、いわば延長戦だった。
 明日香は、クルーズの強烈な打球に苦戦していた。しかし、懸命にダブルハンドのスイングで応戦している。息詰まるようなラリーが続く。明日香が懸命に打ち返す打球をクルーズは、スライスをかけて打ち返してきた。コートで弾んだボールが、コートの外に逃げていく。明日香は、俊足を活かして追いつくと強引に打ち返した。
 「?!」
 そして、明日香は見た。ボールのコースにクルーズが入っている。『読まれていた?』そう思った明日香の目に、クルーズのダイナミックなスイングが映っていた。明日香も、ダッシュをしてコートの反対方向に走る。ボールに追いついて打ち返したが、ボールはクルーズのコートの外で弾んでいた。歓声が起きる。
 「このままでは・・・」
 明日香は、肩で息をしながらネットの向こうに立つクルーズを見つめた。クルーズも、微笑みながら明日香を見つめている。
 「この試合・・・」
 明日香は、唇を噛み締めながらクルーズを見つめていた。
 クルーズがサーブを打つと、明日香はダイナミックなフォームでボールを打ち返した。強烈なボールがクルーズのコートに飛んでいく。クルーズが打ち返したボールは、
 「!!」
 打ち返したボールが、ネットの上で弾んでいた。明日香は、ダッシュをしてネット際に走る。
 「どちらに落ちる?!」
 ネットで弾んだボールは、明日香のコートに落ちてきた。バウンドしたボールを明日香が掬い上げるように打った。しかし、
 『ガサッ』
 音をたててネットに引っかかっていた。歓声が二人を包んでいた。
 「強くなったわね!」
 クルーズが、明日香と握手を交わした。
 「ありがとうございました」
 明日香は、握手を交わすと、クルーズと抱き合っていた。しかし、明日香の中には、なにか割り切れないものがあった。
 表彰式を終えて、ロッカーに向かって記者に囲まれながら、クルーズが歩いて行く。
 「圧勝でしたね!」
 竹村が笑いながら話し掛けた。
 「そう見えますか?」
 クルーズは、竹村を見向きもしないで、前を見ながら歩いて行く。
 「いよいよ、世界選手権で西山選手と対戦・・・」
 「西山? 世界選手権の代表は、決勝まで勝ち進んだタカハラでしょう?!」
 竹村の言葉に、かぶせるように言うと、
 「あいつは、男ですからね。女子の大会には出場できませんよ!」
 竹村は、大笑いをしている。
 「ここまで素晴らしい選手を、理不尽な理由で出さないとしたら、私は日本のプロテニスの良識を疑います!」
 クルーズは、周りにいる記者達に向かって言った。クルーズを見つめている高村は、彼女の毅然とした態度に圧倒されていた。『こんな選手と、あの娘は試合をするのか?』高村は、鳥肌が立っていた。
 明日香が、ロッカールームに引き上げてきた。
 「頑張ったわね!」
 「お疲れ様!」
 柴田先生や洋子に声をかけられた。
 「よく頑張ったぞ!」
 西田も、笑顔で明日香を見つめながら肩をポンと叩いた。黙って頷く明日香。
 ロッカールームのドアを開けると、
 「悪いけど、一人にしてくれるかな?」
 そう言うと、明日香はドアを閉めてしまった。明日香は、ロッカーの前においてある椅子に崩れるように座ると頭を抱え込んでしまった。
 「ウッ・・・ウウッ・・・・ウッ・・・」
 明日香は、小さな肩を振るわせながら泣いていた。明日香は、悔しかった。試合に負けた事がではない。あのタイブレイクでのプレー。クルーズにポイントを 取られたとき、明日香はクルーズを見て、一瞬『この試合は、負けるかもしれない』と思ってしまったのだ。
 そう・・・明日香は、プレー中に既にクルーズに負けていたのだ。そんな自分が許せなかった。
 右腕のリストバンドを見つめる。
 「島田さん・・・ごめんね・・・」
 涙が、リストバンドに落ちていた。落ちた涙が、リストバンドに染み込んでいく。
 『コンコン・・・』
 ドアがノックされた。
 「どうぞ・・・」
 明日香は、涙を拭いながら答えた。次の瞬間、部屋に入ってきた人物に驚いた。
 「クルーズさん!」
 さっきの試合で着ていたテニスウエア姿のまま、クルーズがロッカールームに入ってきた。
 明日香の前に立つと、明日香の右手に、
 「はい・・・これ!」
 明日香の右手に、さっきまではめていた赤いリストバンドを握らせた。
 「世界選手権で待っているわよ!」
 そう言うと、にっこり笑ってロッカールームを出て行った。
 ロッカールームの外には、たくさんの記者が中の様子を伺っていた。その記者たちを掻き分けるようにクルーズが歩いていく。記者たちの中に高村の顔を見つけると、クルーズはにっこりと微笑んだ。
 「これから、世界選手権までの間に、アスカはもっと強くなるでしょう・・・今から楽しみだわ!」
 そう言って微笑むと、クルーズは通路を歩いて行った。
 ロッカールームの中で、椅子に座っている明日香の大きな瞳から涙がこぼれている。
 「クルーズ・・・さん・・・・」
 明日香は椅子に座ったまま、クルーズに貰ったリストバンドを握り締めると、いつまでも涙を流していた・・・。


 大会から、数日が経った。
 明日香は、クルーズとの試合に負けたショックから、なかなか立ち直れなかった。
 普段通りに後輩達の指導はしていたが、その表情には精彩がなかった。西田や、洋子たちは心配していたが、明日香は苦笑いをするだけだった。
 明日香は、クルーズとの試合に、今までのすべての技術を使って試合に臨んでいた。しかし、結果はストレート負け。この後、どうやってクルーズに立ち向かうのか。その糸口は、全く掴めていなかった。


 同日、東京・TS出版
 パシフィック・カップが終わってから、高村は仕事が手につかない状態になっていた。
 「彼女は、あれだけ頑張っていた・・・それでもクルーズには敵わないのか・・・?」
 高村の脳裏には、パシフィック・カップの決勝戦の様子が蘇ってきていた。懸命にプレーをしていた明日香が、最後にはクルーズに押し切られるように負けてしまった。たとえアンラッキーがあったとしても・・・。
 「どうしたの?」
 はっとして前を見ると、前に座っている中島が、心配そうにこちらを見ていた。
 「えっ?・・・ごめん。ちょっとこの前の試合のことを考えていたんだ」
 高村は苦笑いをして、パソコンの画面に視線を戻した。
 「なにか、気になる事があるの?」
 中島が、可愛らしい笑顔でこちらを見ている。高村は少しためらったが、思いきってパシフィック・カップでの明日香の試合を見て感じた疑問を中島に話した。
 「ふ〜ん・・・でも、日本人で、クルーズに事実上勝った人が、彼女のコーチなんでしょう?」
 「ああ・・・そうなんだ」
 「なぜ、自分が戦ったときの事を教えないのかしら・・・」
 「あっ?!」
 高村は、突然立ち上がると、扉に向かって走った。中島が驚いて、
 「高村君! どこへ行くの?」
 「資料室に行って調べてくる! うちの会社は、ビデオも出しているから資料があるはずだ!」
 「待って! 私も行く!」
 二人は、会社のビデオライブラリーを片っ端から調べてまわった。しかし、なかなか見つからない。
 「高村君、これかな?」
 中島が、埃を被ったビデオを見つけてきた。
 「間違いない・・・それだ!」
 高村は、長身の体を折り曲げるようにして、中島の可愛らしい顔を見つめた。
 二人は、ビデオをセットして再生してみた。
 「これは・・・?」
 映っている画像を見た高村と中島は、見ているうちに体が興奮から震え出していた。


 数日後、
 「明日香! 高村さんから小包が届いたよ」
 洋子が、明日香の部屋に小さな包みを持って現れた。
 「ありがとう、なにかな?」
 明日香が梱包を解くと、中からビデオテープが一本出てきた。ラベルもなにもついていない。
 「Hなビデオかな?」
 明日香がクスッと笑うと、
 「明日香! なに言っているのよ。今のあなたは、女の子なんだからね!」
 洋子が、頬を膨らませて怒っている。
 「ごめん、ごめん・・・」
 明日香は、部屋においてあるビデオデッキにテープを入れてみた。画面にテニスコートが映っている。映っている選手は・・・。
 「あれは、クルーズさんだよね?」
 「そうだね・・・手前の選手は・・・?」
 映っていた選手がアップになった瞬間、二人は同時に声を上げていた。
 「「柴田先生?!」」
 画面は、試合の模様に変わっていた。柴田先生は、得意のジャンプサーブでクルーズを圧倒していた。そして、クルーズのサービスゲーム。明日香たちは、柴田先生のとった行動に驚いていた。
「明日香・・・これって・・・」
「なぜこんなプレーを・・・?」
柴田先生の試合内容は、クルーズを圧倒していた。そして第2セット。リードしていた柴田先生は、クルーズのボールを打ち返そうとしてコートに転倒してしまった。膝を抱えてうずくまったまま動けない。係員に肩を支えられて退場する柴田先生の大きな瞳からは、涙が流れていた。
 「・・・」
 明日香達は、声が出ない。
 「先生・・・クルーズさんより強かった・・・」
 ようやく明日香が呟くように言った。
 「なぜ・・・先生は、あの戦い方を明日香に教えてくれなかったんだろう?」
 洋子の言葉に、
 「あの戦い方は、誰でも出来るわけじゃあないからね・・・」
 明日香は、リモコンでビデオを巻き戻すと、
 「でも・・・クルーズさんに勝つには・・・」



 翌日、学校に行った明日香は、クラブが始まる前に、柴田先生と昨日見たビデオの話をしていた。
 「高村さんは、そんなに古いビデオをあなたに見せたの?」
 柴田先生は、苦笑いをしている。
 「でも、参考になりました」
 「そうかな?」
 「先生、僕にも、あの“ライジングショット”の打ち方を教えてください」
 柴田先生は、明日香をじっと見つめていた。しばらく明日香の瞳を見つめていたが、
 「あれは、私の戦い方よ。あなたには、自分にあった戦い方があるんじゃないかな?」
 「僕もいろいろ考えてみました・・・でも、クルーズさんには、全く隙がありません。普通の戦い方では、僕には・・・」
 『勝ち目がない』その言葉を思わず明日香は言いそうになった。それを、何とか飲み込んだ。しかし、柴田先生は、もちろんそれを察していた。
 「・・・わかったわ! 教えてあげる。でも時間がないから、練習はきついわよ!」
 「はい!!」
 明日香は力強く答えた。後ろから西田がポンと、明日香の肩を叩いて通りすぎていく。
 「頑張れよ!」
 西田は、にっこり笑ってコートに歩いて行く。明日香は、微笑みながら、その後姿を見送った。

 厳しい練習が続く、明日香には、柴田先生が自ら相手になって、“ライジングショット”の打ち方を教えていた。クラブが終わると、明日香は、西田と洋子を練習相手にして、あの、廃工場のテニスコートで練習をしていた。練習がある程度進むと、パン屋のおじさんがいつも差し入れをもって来て、明日香たちにとっての息抜きの時間になっていた。
 高村と黒田も、たびたび学校に姿を見せていた。しかし、二人は明日香の練習の邪魔にならないように気を遣って取材をしていた。明日香の練習は、次第に熱を帯びていっていた。
 そして、夏が来た・・・。


 「いよいよ来週は、世界選手権ね!」
 柴田先生が、明日香に微笑みかけている。
 「はい!」
 明日香もにっこり笑った。部員達も、暖かい眼差しを明日香に向けている。
 いろいろな確執があったが、結局、世界選手権の女子シングルスの代表は、西山と明日香の二人体制で出場する事になった。アメリカからは、クルーズと、チャン。フランスからはマルソー、他にも強豪がひしめき合い、文字通りの世界一決定戦にふさわしいメンバーになっている。
 「明日は日曜日だし。練習はお休みにしましょう」
 柴田先生が言うと、
 「えっ?! いいのですか?」
 「休養も必要よ! ゆっくり息抜きをしていらっしゃい!」
 先生は、そう言うとコートを出ていった。


 翌日、西田は遠征を控えている明日香を、以前にみんなで遊びに行った海に連れ出していた。
 「いよいよだな・・・」
 砂浜で海を見つめながら、西田が明日香に言った。
 「うん・・・いろいろあったけどね・・・」
 明日香も、視線を海に向けたまま言った。明日香の白いフレアースカートが、風に靡いている。明日香は手を添えてスカートを押さえた。
 「前にここに来たときには、みんなが一緒だったよな」
 西田は、大きく伸びをした。
 「中尾や新谷、山本に島田・・・」
 西田は、明日香の顔をじっと見つめている。
 「そして・・・もう島田はいない。でも、あいつの想いは、おまえや俺、そしてみんなの中に生きている」
 西田は、明日香の柔らかい体を抱きしめた。驚く明日香。明日香の胸の鼓動は早鐘を打つように早くなっていた。
 「俺は一緒に行く事はできないけど・・・頑張ってこいよ!」
 西田は、体を離して明日香の瞳を見つめながら言った。
 「島田や、みんな・・・俺のためにもな!」
 明日香は、黙って頷くと瞳を閉じた。西田は、明日香に優しくキスをした。
 誰もいない砂浜に、波の音だけが響いていた・・・。

 その日の夜、海から帰った西田は、バイト先の居酒屋に向かった。
 「こんばんは!」
 「よお! ご苦労さん!!」
 頭の禿げ上がった、中年の店長が笑いながら声をかけた。
 その日も、西田は忙しく店の中で働いていた。客が少し減ったとき、
 「おい! 西田!!」
 店長が、声をかけた。
 「はい?!」
 「おまえと一緒にテニスをしている高原って娘。今度、世界選手権に出るんだろう?」
 「そうですが?」
 西田は、テニスにほとんど興味を持たない店長が、突然に明日香の事を尋ねたので、少し驚いていた。
 「壮行会か、何かをやるのか?」
 「いいえ・・・みんなを騒がせたと言って、学校主催の壮行会を辞退したと言っていました」
 「そうか・・・」
 店長は首を傾げると、
 「西田。それならうちでやれよ」
 「えっ?」
 「お金なら心配するなよ。前におまえ、あの娘が騒がれていたときに、ずいぶん落ち込んでいただろう。あの娘をしっかり励ましてやれよ! せっかくの世界大会出場なのに、壮行会無しなんて寂しすぎるぞ!」
 「店長・・・」
 「明日は、学校で言ってやれ! 彼女の親しい人も、ぜひ呼んでやれよ!」
 そう言うと店長は、にっこり笑った。


 数日後、東京の高級ホテル。
 ホテルでは、世界選手権に出場する西山紀子の壮行会が行われていた。
 着飾った西山は、ワイングラスを持って各界の有名人や、タレント達に囲まれて微笑んでいた。
 「・・・それでは、ここで西山選手から一言いただきたいと思います」
 司会者の言葉に、西山は微笑みながらマイクの前に立った。会場は暗くなり、スポットライトが西山を照らしている。
 「私は、これまでで一番良い仕上がりになっています。パシフィック・カップでの負傷も完璧に治っています・・・」
 「本当は、怪我じゃあなかったんだよなあ・・・」
 竹村が、西山を見ながら呟いていた。ビールを一気に飲み干した。
 「私は、世界選手権に出場する唯一の“日本女子選手”として好成績を収めてきます!」
 会場から拍手が起きる。西山は、出席者の顔を見つめながら満足そうに微笑んでいた。


 その頃、大阪では、西田がバイトをしている居酒屋に、テニス部員や明日香の親しい人達が、続々と集まっていた。
 西田は、店員の格好のまま、準備のために店を駆け回っていた。
 「おい! 西田!」
 新谷が、料理を運んでいる西田に声をかけた。
 「なんだよ?! 忙しいのに!」
 「ビールは・・・?」
 新谷が、ニヤッと笑った。
 「飲みたいのなら、あそこのテーブルに行くんだな!」
 西田が指差した先には、滝沢先生や柴田先生。洋子の父の中尾教授や白井医師。“スポルト・ジャパン”の記者の高村や黒田カメラマンが座っている。その前には、ビールが並べられている。
 「勘弁してくれよ!」
 新谷が苦笑いをしている。
 「先輩! 諦めるんですね!」
 山本が、悪戯っぽい笑顔で笑っている。西田は、それを振り返りながら料理を運んでいた。
 壮行会が始まった。明日香はみんなに暖かい言葉をかけてもらっていた。
 「明日香ちゃん!」
 パン屋のおじさんが、明日香の顔を眩しそうに見ていた。
 「おじさん・・・今までありがとう!」
 明日香がにっこりと微笑んだ。
 「頑張ってくれよ!」
 おじさんは、明日香の柔らかい手をぎゅっと握り締めた。

 会が終わってみんなが家路につく時。店を出ようとしている明日香に、西田が駆け寄った。
 「明日香!」
 明日香が振り返ると、西田は、
 「これを・・・」
 そう言って差し出したのは、赤い御守り袋だった。
 「俺は、応援に行けないけど・・・」
 西田は、明日香の大きな瞳を見つめると、
 「おまえの優勝を信じているから・・・」
 「ありがとう・・・」
 明日香は、御守り袋を胸に当てていた。
 「今日は・・・本当にありがとう! 嬉しかった」
 明日香の瞳は潤んでいる。洋子が脇から、
 「西田君、良いとこあるね。見直しちゃった」
 そう言って笑った。
 「照れるだろう! それより中尾。明日香を頼んだぞ!」
 「任しといて!」
 洋子と西田は、がっちりと握手をした。洋子は、柴田先生や明日香と共に現地に行って、明日香の練習のパートナーを務める事になっていた。
 「それじゃあ・・・」
 「頑張れよ!!」
 明日香と洋子が、夜の街を歩いて行く。西田は、二人の姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。


 世界選手権が開催されるイギリスに入った明日香達は、最後の調整に励んでいた。そして・・・。
 世界選手権が開幕した。明日香は第二シードに入り、一回戦の相手は全豪オープンの準優勝者。クルーズの同僚でもあるステラ・チャンだった。
 「強豪と当たっちゃったわね」
 洋子が苦笑いをしながら言った。
 「うん、でもいずれは当たるわけだし」
 明日香は平然としている。
 「アスカ!」
 突然、クルーズが声をかけてきた。
 「クルーズさん?」
 「私は、第一シード。あなたとは決勝まで当たらないわ」
 クルーズはにっこり微笑むと、
 「必ず、決勝まで来てね!」
 明日香の肩を軽く叩くと、練習用のコートに歩いて行った。
 「キャスは・・・今までで最高の仕上がりね・・・」
 柴田先生が呟いた。
 「面白そうですね・・・」
 明日香も微笑むと、
 「頑張ります!」
 柴田先生と洋子に言った。二人も大きく頷いていた。
 
 女子シングルスの試合が始まった。明日香がステラ・チャンと一緒にコートに入っていく。歓声が二人を包んでいる。
 「キャスからいろいろ聞いているわ。よろしくね!」
 「こちらこそ!」
 握手を交わすと、二人はそれぞれのコートに入って行く。
 「いよいよだな・・・」
 観客席の一角に設けられている記者・カメラマン席で高村が呟いていた。
 「いい顔をしているよ・・・彼女は」
 黒田は、ファインダーを覗きながら笑っている。
 明日香のサーブでゲームが始まった。明日香は、ボールをコートで3回バウンドさせると、右の手首につけている純白のリストバンドを見つめた。
 「島田さん・・・行くよ!!」
 明日香は、左手の手首に目をやった。赤いリストバンドが巻かれている。それは、クルーズが明日香に渡したものだった。
 明日香がラケットを構えると、観客が静まり返る。ボールを高くトスをするとタイミングをはかってジャンプをした。『ポーン!』軽快な音がコートに響く。チャンは、全く動く事が出来なかった。ボールは既にコートの後ろでバウンドしていた。
 「なんなの・・・?」
 「フィフティーン・ラブ!」
 「また、速くなってる!」
 高村は、呆然としている。
 「面白くなってきたな・・・」
 黒田は、ファインダーの中で明日香を追いつづけている。
 明日香は、格上の相手に対して押し気味に試合を進めていく。チャンは、慌てていた。
 「なぜ、私が・・・!」
 第二セット、明日香の強烈なスマッシュが、チャンのコートで弾んでいた。大歓声が起きる。

 「やったあ!!」
 洋子は、思わず叫んでいた。柴田先生は、何も言わずに優しい目でコートに立つ明日香を見つめていた。
 「まずは、一つね!」
 柴田先生は、深呼吸をすると、上に広がる青空に目をやった。
 
 「さすがは、アスカね!」
 引き上げてくる明日香に、クルーズが声をかけた。微笑みながら、明日香の肩をポンと叩いた。
 「わたしも、頑張るわよ!」
 クルーズは、手を振って歩いて行く。明日香は、コートに向かっていくクルーズの背中を見送った。その背中に、クルーズの自信が見えたように、明日香には思えた。

 クルーズの、一回戦の試合相手は、あの西山紀子だった。
 クルーズは、平然と入場してきた。一方の西山は、観客の声援に応えながら入場してきた。
 二人は、コートに入るとネットの前で握手を交わした。そのとき、クルーズが、
 「あなただけは許さない・・・」
 突然、はっきりした日本語で西山に言った。
 「えっ・・・?」
 「今まで、アスカにした仕打ち、絶対に許さないわ!」
 クルーズは、ラケットを持ってコートの外へ歩いて行く。西山は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
 クルーズのサーブで試合が始まった。クルーズの高速サーブが、西山のコートへ飛んでいく。西山は、全く動く事が出来なかった。観客から、どよめきが起きる。
 「凄い・・・」
 高村が呟く。
 「180Kmは出ていたな・・・」
 黒田も、カメラを握る手に力が入る。
 クルーズの強烈なサーブが、次々に西山を襲う。西山は全く打ち返す事が出来ずに、第一ゲームを落としてしまった。
 「凄いサーブだ・・・」
 スタンドから見守る明日香は、クルーズのサーブを見て鳥肌が立っていた。
 「キャスは、本気を出しているわね」
 柴田先生の目も、コートに向けられたままだ。
 第二ゲームは、西山のサービスゲームだ。しかし、西山のサーブはクルーズには全く通用しなかった。簡単に拾われ、逆にクルーズに、強烈なスマッシュを打たれて一方的な展開になっていく。
 「こんなに差があるの? 西山さんと、クルーズさんは?」
 洋子が驚きの声をあげる。明日香も、柴田先生も声が出ない。
 試合が進んでいく。クルーズの強烈なショットは正確にコントロールされてライン際に決まる。最後には、クルーズの強烈なスマッシュが西山の足元で弾んでいた。結局、西山は一ポイントも取れずにクルーズに敗れ去った。
 クルーズと西山がネットを挟んで握手を交わす。
 「テニスはコートでするものよ! マスコミを利用して相手を試合前に潰そうとするなんて・・・これで、少しは懲りた?!」
 そう言うとクルーズは、さっさとコートを後にした。
 「・・・」
 西山は、屈辱感を味わいながらロッカールームに引き上げる。マスコミが、彼女のコメントをとりに走ってきた。いつもはマスコミに対して愛想のよい西山も、今日はマスコミの相手をするのが煩わしかった。
 「残念ながら、負けてしまいましたが?」
 記者の一人が尋ねると、
 「“パシフィック・カップ”での負傷がまだ完全には癒えていませんでしたからね。それがなければ、こんなにふがいない結果にはなりません!」
 吐き捨てるようにそう言うと、西山は黙り込んだまま、ロッカールームに姿を消した。
 「なぜ・・・なぜ、あたしがこんな事に・・・どんな顔をして日本に帰れと言うのよ!!」
 西山は、顔を覆って泣き出した。その翌日、西山は人目につかないように、ひっそりと日本へ帰国していった。

 試合は、どんどん進んでいく。明日香は、快進撃を続けていた。並み居る強豪選手を次々に破って準決勝にまで進出した。そして・・・。

 「いよいよ、準決勝ね」
 ロッカールームに、柴田先生と、洋子。そして明日香が集まっていた。
 「マルソー選手には、ジャパンカップで負けていますよね。ちょっといやだなあ・・・」
 洋子が顔をしかめている。
 「でも、僕だって練習をして、あれから少しは上手くなっているはずだし!」
 明日香は、にっこり笑うと、
 「思いっきり暴れてくるよ!」
 柴田先生と、洋子も頷いた。そのとき、
 「第一試合は、クルーズがストレートで勝ったぞ!!」
 記者が、廊下で叫んでいる。
 「やっぱり・・・」
 洋子が呟く。
 「キャスと試合をするためにも、頑張っていらっしゃい!」
 柴田先生が、優しい微笑をたたえた顔で励ました。
 「はい!」
 明日香は、元気に応えるとロッカールームの扉を開けて廊下に出た。たちまち、記者に囲まれてしまう。
 「試合に向けて、一言お願いします!」
 「コンディションは、どうですか?」
 「マルソー選手には、以前に敗れていますが?」
 矢継ぎ早に、質問が浴びせられる。しかし、明日香は答えない。黙って廊下を歩いて行く。
 「高原君!」
 聞きなれた声に、明日香は思わず振り向いていた。高村と黒田が立っていた。高村は、にっこり笑うと、
 「頑張れよ!」
 明日香の肩をポンと叩いた。明日香は、頷いて歩いて行く。通路を歩いて行く明日香の前から、試合を終えたクルーズが、記者に囲まれて歩いてきた。クルーズは、明日香を見つけるとにっこりと笑った。
 「待っているわよ!」
 明日香に向かって優しく微笑む。明日香も、引き締まった表情で頷くと、太陽の光の降り注ぐコートに出た・・・。

 マルソーとの、試合が始まる。試合前に、明日香とマルソーは、ネットを挟んでお互いに握手を交わした。
 「楽しみにしていたわ。お互いに、頑張りましょう!」
 「よろしくお願いします!」
 二人が、コートに戻って行く。マルソーのサーブで、試合が始まった。
 マルソーのサーブが、明日香のコートに飛んでくる。明日香は、ダブルハンドのスイングで打ち返す。マルソーもパワフルなスイングで速いボールを打ち返してくる。凄まじいラリーがコートで繰り広げられる。
 「明日香・・・頑張って!」
 洋子は、両手を胸の前であわせながら声援を送っている。
 「大丈夫・・・ジャパン・カップの時とは違うわよ」
 柴田先生が、洋子に声をかけた。
 試合は、接戦だった。第一セットは明日香が取ったが、第二セットは接線の末にマルソーが取った。そして、第三セット、明日香がリードしながら進んでいく。
 「強くなったわね!」
 マルソーが、息を切らせながらボールを追う。ライン際で弾んだボールを打ち返すと、明日香がボールのコースにラケットを構えて立っていた。
 「あっ?!」
 マルソーの目に明日香の強烈なダブルハンドのスイングが写った。素晴らしい速さのボールが、コートの逆サイドのライン際で弾んでいた。大歓声がコートに響く。
 「やったー!!」
 洋子が喜びの声をあげる。柴田先生は、大きなため息をつくと、呟いた。
 「いよいよ・・・」
 クルーズは、スタンドの一番上の席に座っていた。
 「とうとう来たわね・・・アスカ・・・」
 にっこりと微笑むと、席を立った。

 ファインダーの記者の竹村は、日本のプロテニス協会から、大会に派遣されている役員に取材をしていた。
 「高原が、決勝に進出しましたね!」
 「そうだね。ここまで健闘してくれるとは思わなかったよ!」
 役員も、嬉しそうに笑っている。
 「しかしですね。高原選手はもともと男ですからね。そんな選手が決勝戦に出場してしまう事は、日本のプロテニスの良識が疑われませんか?」
 竹村は、上目遣いに役員の顔を見ると、
 「場合によっては、あなたの地位も、危なくなるかも・・・?」
 役員は、複雑な表情を浮かべた。
 「確かに、見直しを図らなければいけないかもしれないね。場合によっては、決勝戦の中止も・・・」
 「ありがとうございました」
 竹村はニヤリと笑うと、役員に背を向けて歩いて行く。ノートパソコンで記事を作ると、日本に送信した。



 翌日、城南大学付属高校では、明日香の決勝進出の話題を生徒達みんながしていた。
 「あいつ・・・頑張っているなあ・・・」
 西田はニコニコしながら、机の上にスポーツ新聞を広げていた。『高原、決勝進出!!』と、大見出しのついたスポーツ紙には、明日香がダイナミックなスイングでボールを打つ写真が掲載されている。
 「西田、高原は、クルーズに勝てるのか?」
 クラスメイトが西田に尋ねた。
 「クルーズは、この大会で今まで1セットも落としていないしな。パシフィック・カップでも、高原は負けてしまっている。でも、高原も、あれから強くなっているからな。結局は、やってみないとわからないよ」
 西田は笑った。その時、新谷が教室に入ってきた。
 「おはよう!」
 西田が挨拶をしたが、新谷は答えない。西田の机の上に新聞を置いた。
 「これ・・・見ろよ!」
 新谷は憮然とした顔をしている。
 「どうしたんだ?」
 西田は、その新聞に目を移した。次の瞬間、西田の顔は強張ってしまった。見出しには、『テニス、世界選手権女子シングルス、決勝戦中止へ?!』と大きな文字が踊っている。
 「なんだ、これは?!」
 「高原君が、元男だから決勝戦は辞めてしまおうという動きが役員の中にあるんだってさ!」
 新谷が、吐き捨てるように言った。西田は、その新聞を見ている。
 「おい、新谷。この“GASE”って夕刊紙は、“ファインダー”を出している出版社が・・・」
 「そうだよ!」
 「あいつか・・・!」
 西田の脳裏に、竹村の笑い顔が浮かんできた。
 『明日香・・・』
 西田は、明日香のそばにいてやれない自分が悔しかった。今の西田にできるのは、無事に決勝戦が行われるように祈る事しかなかった。

 その日の夜、イギリスでは決勝戦に出場する選手の記者会見が、ホテルの一室で行われていた。詰め掛けた記者たちが、明日香とクルーズに次々に質問をしていく。その時、
 「クルーズ選手! 大会の関係者が、高原選手が元男性である事を理由として、明日の決勝戦の中止を考えていると話していましたが?」
 竹村が、突然、質問した。
 明日香は、唇を噛み締める。
 「あいつ・・・」
 高村は、苦々しげに嬉嬉として話し続ける竹村を睨み付けた。
 「そうなると、あなたは世界選手権初制覇に・・・」
 「そんな形で優勝しても、なにも価値はありません!」
 クルーズは、厳しい表情で竹村を睨み付けた。言葉を失う竹村。
 「もし、明日の決勝戦を中止すると言うのなら・・・」
 クルーズは、竹村の目を見てにっこりと微笑むと、
 「私たちは二人だけでも、あのセンター・コートに立って試合をします。この大会に出場したほとんどの出場選手は、その試合の勝者を真の優勝者と思うでしょうね」
 クルーズが静かに話し続ける。
 「そんな事できっこ・・・」
 「出来ないと思いますか?」
 クルーズは、隣に座る明日香の顔を見つめて微笑むと、
 「それでも、私たちは試合をしますよ」
 きっぱりと言いきった。
 「それに、あなた方はアスカが男だったからと、今ごろになって言っていますが・・・」
 クルーズが悪戯っぽい笑顔で微笑む。
 「私はずっと前から・・・あの事故の直後から知っていましたよ」
 今度は明日香も驚いて、穏やかに話すクルーズの横顔を見つめた。
 「あの飛行機事故の後、私はアスカとテニスをする機会がありました。世界ジュニアを圧倒的な強さで勝った男子選手のプレースタイル・・・一度一緒にテニスをしただけでわかりましたよ」
 クルーズが微笑む。高村は横に座っている黒田の横顔を見た。ファインダーを覗きながら、黒田は笑みを浮かべて頷いていた。
 『こいつ・・・ひょっとして・・・?』
 「私も知っていたわよ!」
 会見場の後ろから声が響いた。居合せた記者たちが驚いて後ろを見ると、マルソーが壁にもたれて立っていた。
 「ハーイ! キャス!!」
 マルソーが、クルーズと明日香に微笑みかけながら、手を上げた。
 「ハーイ!」
 クルーズも笑っている。
 「どう言う事なのですか?!」
 竹村は、訳がわからないと言った表情で尋ねる。
 「わたしも、ジャパン・カップで一度試合をしただけでわかりましたよ。彼女は、大塚正紀選手だったのだと・・・」
 マルソーが、ちらりと明日香に目をやって答える。
 「しかし、私達には、そんな事は関係ないのです。彼女は、ひたむきにテニスをしたいだけなのですから・・・」
 そう言うと、マルソーはクルーズに目を移した。
 「・・・キャス! あなた達だけで試合をするのなら、私が審判をしてあげるわ!」
 「ありがとう!」
 「そんな・・・そんな・・・」
 竹村が呟く。

 別室では、大会の会長が役員達とモニターで記者会見の様子を見ていた。
 「誰が言ったかは知らないが、これでも、彼女達に試合をさせないというのかね!」
 会長が、役員達を見まわす。日本から派遣されている役員は、青白い顔をして俯いて小さくなっている。
 「記者会見が終われば、私がコメントを出す」
 会長は厳しい表情で言った。
 「わかりました」
 報道担当の役員が、部屋を出て会見場に走る。

 「まだ・・・なにか?」
 クルーズが、竹村を睨み付けている。竹村は、突っ立ったまま、何も言う事が出来ない。
 『今、俺たち、報道関係者に出来るのは・・・?』
 高村がすっと手を上げた。
 「どうぞ!」
 司会者が、突っ立ったままの竹村に目をやりながら、高村に促した。
 『・・・彼女たちを、気持ちよくコートに送り出してやる事だ・・・』
 そう思いながら、高村は席を立つと、マイクを手に持った。
 「スポルト・ジャパンの高村です。両選手に伺いたいのですが、これまでの試合で素晴らしいプレーを見せてこられましたが、お互い対戦相手をどう考えていらっしゃるのでしょうか?」
 「クルーズ選手からお願いします」
 司会者に促されてクルーズが、マイクを握った。
 「高原選手は、私たちの考えつかないような苦難を乗り越えて、この場所までやってきました・・・」
 クルーズは、チラッと明日香の横顔に目をやった。
 「これまでの試合を見てもわかるように、その実力も素晴らしいものを持っています。そのような選手とプレーできる明日の試合が楽しみです」
 「高原選手、お願いします」
 司会者に促されて、明日香がマイクを握った。
 「僕が女性になってしまってから、はじめてテニスをしたのが、クルーズ選手とでした・・・」
 明日香は、クルーズの方を見てにっこりと笑った。
 「・・・そして、テレビで試合を見て、何時か一緒にテニスをしてみたいと思っていました。それが、このような最高の舞台で試合が出来て、今は、胸が一杯です。明日は、胸を借りるつもりで頑張ります!」
 「お二人とも、ありがとうございました!」
 高村が、大きな声で言った。彼は、記者会見を終わらせるきっかけを作ったのだ。
 クルーズが立ちあがって明日香に握手を求める。明日香も立ちあがって、二人はがっちりと握手をした。自然に拍手が起きる。その時、会見場のドアが開いて、報道担当の役員と、大会会長が部屋に入ってきた。記者たちが驚く。不安そうな表情を浮かべるクルーズと明日香。それを横目に見ながら、会長が司会者にマイクを用意させた。
 「突然、申し訳ありません。先日、一部のマスコミによる、明日の決勝戦を中止にするとの報道がありましたが・・・」
 会長は。静かに話している。
 「大会会長として、明日の決勝戦は、予定通り行われる事を正式に申し上げます」
 会場がどよめく。クルーズと明日香の顔に、喜びの笑みが浮かんできた。
 「両選手には、明日の試合では素晴らしいプレーを見せてくれる事を希望します!」
 会長が締めくくった。
 『パチ・・・パチ・・・パチ・・・』
 拍手が聞こえた。高村が、拍手の聞こえる方向を見た。“ユナイテッド・タイムズ”のレイモンド・バークが、年老いた体をピンと伸ばして、立ちあがって拍手をしていた。
 『そうだ・・・僕も・・・』
 『パチパチパチパチ・・・』
 高村も、立ちあがって拍手をする。黒田も立ちあがった。しだいに拍手の輪が広がっていく。やがて、会見場全体が大きな拍手で包まれていった。
 竹村は、舌打ちをしながら顔をしかめている。
 明日香とクルーズは、にっこり微笑みながら握手を交わしていた。
 「明日は、お互いに頑張りましょう!」
 クルーズの言葉に、明日香は力強く頷いた。

 その夜、ホテルの明日香の部屋に電話が入った。
 「もしもし・・・」
 電話を取った明日香の耳に、聞きなれた声が聞こえてきた。
 「西田君?」
 「大変だったみたいだね?」
 西田のやさしい声に、明日香の目が潤んできた。
 「うん・・・ありがとう! でも、明日は試合が出来るよ!」
 「相手は、クルーズだ・・・ようやく、おまえの夢がかなうな」
 「うん・・・最高の場所で、最高の人と試合が出来る・・・」
 「俺は、おまえが勝つのを信じているからな」
 「うん・・・ありがとう! 頑張るね!」

 明日香は電話を切ると、窓の外を見つめた。窓から差し込む月明かりが、明日香を照らしていた・・・。

 高村は、黒田と一緒にパブでビールを飲んでいた。
 「黒田・・・」
 「なんだ?」
 二人は、カウンターに座って、ビールを美味そうに飲んでいる。
 「おまえ、彼女が男だったと前から知っていたな?」
 「フフフッ・・・」
 黒田は、含み笑いをしながらソーセージを頬張った。ビールを一口飲むと、
 「インターハイのときだったかな・・・試合中の彼女を見ていると、世界ジュニア選手権で写真を撮っていた時の彼の姿と重なって見えたんだ」
 高村は、黙ってビールを飲んでいる。黒田も、ビールで喉を潤すと、
 「カメラは、ある意味では残酷なのかもしれないな。事実を容赦なく、写し出すからな・・・」
 「そうだな・・・」
 高村は、またビールを飲むと、
 「明日は、いよいよ決勝戦か・・・最初彼女に会った時には、ここまで来るとは思わなかったがな・・・」
 「ああ・・・明日は、彼女が優勝カップを持っている写真を撮りたいな」
 黒田が笑う。高村も笑うと、ジョッキを持ち上げた。
 「彼女の優勝を祈って・・・」
 『カチン!』
 二人は、乾杯するとビールを一気に飲み干した。


 翌日、
 明日香は大会会場に着くと、雲一つない青い空を見上げながら、大きく伸びをした。
 「よかった! 晴れてくれて!」
 明日香は、会場に向かって歩いて行く。たちまち、記者に囲まれてしまう。
 記者たちの質問を振り切ると、明日香はロッカールームに急いだ。
 ロッカールームに入った明日香は、いつものように着替えを始めた。綺麗な長い髪を後ろでまとめると、右の手首に、島田から貰った白いリストバンドをつけた。そして、柴田先生と、洋子に向き直った。
 「いよいよ決勝戦ね!」
 柴田先生が声をかけた。
 「はい!」
 明日香が元気に答える。その表情には、緊張はなかった。
 「思いっきり、あなたのテニスをしてらっしゃい!」
 「はい! 先生、今までありがとうございました!」
 明日香が、柴田先生に頭を下げる。柴田先生は、胸が一杯になって目頭が熱くなった。咄嗟に天井を見上げる柴田先生。
 「明日香、そろそろ行こう!」
 洋子が、声をかけると、明日香はバッグを肩から下げた。ドアを開けて通路を歩いて行く。たくさんのマスコミが、明日香達に注目している。その中に、見なれた顔を見つけた。
 「頑張れよ!」
 高村が、にっこり笑って声をかけた。力強く頷く明日香。そして、明日香は見た。


 明日香は、目の前に広がる、緑の芝生を敷き詰めた美しいテニスコートを見つめていた。
 コートの周りのスタンドには、いっぱいに入ったギャラリーが、これから始まるファイナル・・・決勝戦の開始を待っている。
 「明日香!大丈夫?!」
 洋子が、顔いっぱいに笑顔を浮かべながら聞いてきた。
 「うん・・・大丈夫!絶好調だよ!」
 明日香も笑顔で応えた。彼女は、遠くを見るような目で、もう一度コートを見つめた・・・・
 『ついに、ここまで来たんだ。世界で二人しか立つ事の出来ない、決勝戦のセンター・コートに・・・』
 明日香は思った。

 その頃、日本でも世界選手権のテレビ中継が始まっていた。
 西田は、いつものように居酒屋でアルバイトをしていた。
 西田は、店に置いてあるテレビの画面を見ていた。テレビ画面には、世界選手権の行われる緑色の芝生を敷き詰めたセンター・コートが映し出されていた。
 「明日香・・・とうとうここまで来たな・・・」
 テレビを見ながら、思わず呟いていた。
 「お兄ちゃん、オーダー!」
 客の声に、
 「はい!只今!」
 西田は、呼ばれたテーブルに歩いて行く。

 明日香は、その大きな瞳でテニスコートを見つめていた。彼女の脳裏に、突然2年前の出来事がよみがえってきた・・・そう、彼女の運命を変えてしまった、あの日の出来事が・・・。
 目を閉じて頭を振り、その思いを振り払う明日香。
 『集中するんだ・・・これからの試合に・・・』
 自分に言い聞かせていた。
 後ろに、人の気配がした。振り返ると、肩から大きなバッグを下げたクルーズがこちらに歩いてきた。
 「いよいよね!」
 クルーズが微笑んだ。その微笑みには、自信があふれている。
 『とうとう、この人と戦うんだ・・・世界選手権という、最高の場所で・・・』
 明日香は、クルーズを見つめながら思った。
 「行きましょう!」
 クルーズに促されて、明日香とクルーズはセンター・コートに向かって足を踏み出していった。歓声が起こる。

 「さあ、今、高原選手と、クルーズ選手が入場してきました!」
 放送席で、アナウンサーが実況をしている。その横には、ゲストとして竹内俊介が座っていた。竹内は、この世界選手権の男子シングルスでは準決勝まで進出したが、敗れ去ってしまった。今、目の前で明日香が入場してくるのを見つめながら、
 『頼むぞ、高原君。僕の分まで・・・』
 心の中で声援を送っていた。
 「さて、竹内さん。高原選手が不利と言うのが、一般的な見方なのですが・・・」
 アナウンサーが尋ねると、
 「そうですね。高原君は残念ながら、まだキャリア不足です。国際大会は世界ジュニアを経験していますが、このように大きな舞台を経験していません。これは、決定的な不利ですね」
 そう言って言葉を切ると、
 「高原君が勝つには、第一セットから積極的に行ってペースを掴んで押し切るしかないでしょう。フルセットになると、キャリアに勝るクルーズが有利になります・・・」

 「さすがは、竹内先輩だな・・・」
 テレビを眺めながら西田が呟いていた。突然、店の扉が開いた。
 「いらっしゃいませ!!」
 次の瞬間、西田は目を丸くして驚いた。
 「みんな・・・」
 「よぉ! 頑張っているな!」
 滝沢先生を先頭に、テニス部員達が店に続々と入ってきた。
 「どうしてここに? みんな学校にいるはずじゃあ・・・」
 「どうせなら、おまえと一緒に応援したいしな。キャプテン抜きで応援なんてつまらないしな」
 新谷が笑った。山本が、かばんの中から写真たてを取り出した。
 「ほら! 島田キャプテンも来てますよ!」
 西田は、写真たての写真に目をやった。それは、黒田がかつて撮った制服姿の島田の写真だった。写真の中の島田はいつものように、優しい笑顔で微笑んでいる。
 「ありがとう!」
 西田は、笑顔で言うと、みんなをテレビの見える広い場所に案内した。
 「やあ! いらっしゃい!!」
 店長も声をかける。
 西田が注文をみんなから聞いていく。
 「おまえは何を?」
 新谷に尋ねると、
 「生ビール!」
 『パコン!!』
 新谷の頭から音が鳴った。西田が、おぼんで新谷の頭を叩いていた。

 ウオーミングアップを終えた明日香とクルーズが、それぞれのコートに入った。観客も静まり返る。束の間の静寂が、コートを包む。
 「いよいよか・・・」
 高村が記者席で呟く。ファインダーを覗く黒田の目が、まるで獲物を狙う動物のように鋭くなる。
 『始まる・・・』
 心地よい緊張感を感じる明日香。
 クルーズのサーブで試合が始まった。クルーズは、にっこり微笑むと、ボールをトスして思いっきり打った。『ポーン!!』大きな音がコートに響いた瞬間、明日香の横をボールが飛んでいった。
 「なんだ?!」
 高村が思わず声をあげた。
 「190は出ているぞ! 男子選手なみだな!」
 黒田も、ファインダーを見ながら呟いた。
 「凄い・・・」
 洋子が声をあげた。
 「やっぱり・・・キャスは、今までで一番良い仕上がりね・・・」
 柴田先生は、明日香を見つめていた。
 「大丈夫! 高原さんは、落ち着いているわ!」
 柴田先生は、自信を持って言った。
 明日香は、笑っていた。
 「さすがは、クルーズさん・・・」
 明日香は、再びラケットを構える。
 「今度は・・・」

 クルーズがサーブを打つ、今度は明日香も好ダッシュでコースに入ると、ダブルハンドのスイングで打ち返した。『ポーン!』軽快な音がコートに響くと、クルーズのコートの隅に、絶妙のコントロールでボールが弾んでいた。
 「フィフティーン・オール!」
 観客の歓声が、コートに響く。


 記者席に、パソコンのキーをタイプする音が響いている。高村が後ろを見ると、竹村がノートパソコンのキーを叩いていた。
 「何をしているのですか?」
 驚いて尋ねると、
 「こんな試合、見なくてもクルーズの勝ちに決まっているだろう?! さっさと仕事を終わらせるために、記事を作っているんだよ!」
 「なにも、ここで書かなくても・・・」
 顔をしかめる高村、周りの記者やカメラマン達も、憮然とした表情をしている。
 「その記事・・・無駄になるかもしれないぜ!」
 ファインダーを覗いたまま黒田が言った言葉に、竹村は舌打ちをしていた。


 大阪の、城南大学付属病院の医局では、中尾教授と白井医師がテレビを見ていた。
 「先生、どうもお手数をかけました」
 白井医師がコーヒーを入れながら言った。この夜、二人が担当している患者の容態が急変したため、家にいた中尾教授を白井医師が呼び出したのだ。
 「いやいや・・・良かったよ。間に合って・・・」
 白井がいれたコーヒーを、中尾教授は飲んでいる。視線は、テレビに向けられている。テレビでは、明日香の試合の様子が映し出されていた。
 「先生・・・応援に行きたかったのではないですか?」
 白井がおずおずと声をかけた。
 「ハハハッ・・・私は、たくさんの患者を抱えているからね。残念だが・・・」
 中尾は、コーヒーを飲みながらソファーに腰を下ろした。その視線は、テレビ画面に向けられている。中尾は、眩しそうにテレビ画面の中でプレーする明日香を見つめていた。
 「今日は明日香君は、クルーズと互角に試合をしていますよ! 期待できますね!」
 白井が笑った。その時、二人の耳に、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
 「救急車か?」
 白井が窓の外を見ながら呟いた。


 明日香と、クルーズとの試合は、一進一退で進んでいた。お互いにサービスゲームはキープして、なかなか相手に隙を見せない。
 「アスカ・・・強くなったわね!」
 明日香の強烈なジャンプサーブを、クルーズは豪快なスイングで打ち返す。明日香のコートのエンドラインの上でボールが弾んでいた。観客の大歓声がコートに響いている。


 「決まった! 第一セットは、クルーズが取りました!! これまでの展開、いかがでしょう? 竹内さん?!」
 「そうですね・・・高原選手は、これでかなり苦しくなりました。しかし、第一セットは、ほぼ互角の戦いでしたから、第二セットでの逆襲に期待したいですね」
 そう言いながら、竹内はベンチに座っている明日香に目をやった。
 『高原君・・・なぜ、あれを使わなかったんだ?』

 同じことを考えている人は、スタンドにもいた。洋子は、首を傾げながら明日香を見つめている。
 「先生・・・なぜ、明日香はライジング・ショットを使わなかったんですか?」
 柴田先生は、首を傾げながら、
 「多分、キャスのサーブが、しっかり見えるか確かめたかったんじゃないかな? あれを使うのは、リスクが大きいからね」
 そう言うと、柴田先生は、明日香を見つめていた。
 「とにかく、これで終わる高原さんではないわよ」
 そう言うと、柴田先生は無意識のうちに、胸のペンダントに手をやっていた。


 明日香達が、いつもクレープを買っていたパン屋・・・店の営業が終わった後、家の茶の間で、おじさんとおばさんがテレビで世界選手権の中継を見ていた。
 おじさんは食い入るように、テレビが写し出す明日香の様子を見守っている。その腕の拳は、堅く握り締められている。
 おばさんは、ちゃぶ台の上に置かれたお菓子鉢に入っている煎餅を食べながら、ぼんやりとテレビを見ていた。
 「男から女になってまで、こんな試合に出ても、やっぱり強い人には勝てないんだねぇ・・・」
 『ポリッ!』
 おばさんの口から煎餅をかじる音がした。おじさんは、苦々しげにおばさんの顔を見ていた。


 大阪、城南大学付属病院
 「先生! 急患です! あっ・・・よかった、中尾先生もおられた!」
 当直をしている、救命救急担当の久保医師と、松坂医師が医局に入ってきた。二人とも優秀だが、まだ30代前半の若い医者だった。
 「どうしたんだ?」
 白井が声をかけると、若い久保医師がレントゲン写真を白井に見せた。
 「おい・・・久保君、これは・・・?」
 「そうなんです。バイクで電柱にぶつかって腹部を打ったそうですが、内臓から出血しているようなのです」
 「消化器系を専門にされている、大島先生には連絡をしたのですが・・・」
 「大島君は、今日は学会で東京だろう?」
 中尾が時計を見ながら言った。
 「あと、2時間はかかるぞ!」
 「そうなんです・・・状態はどんどん悪くなるし・・・」
 松坂医師が、心細そうに言った。中尾は、患者のデータを見ている。やがて、
 「君達で、手術をするしかないだろうな・・・」
 二人を見ながら言った。驚きの表情を見せる久保と松坂。
 「そんな、僕たちに・・・」
 「そうですよ、無理です!」
 「もちろん、私も手伝うよ」
 中尾が、ソファーから腰をあげた。白井も、席を立とうとすると、
 「白井君は、ここにいてくれ。また、患者が急変するかもしれないしね」
 そう言うと、中尾は二人を連れて医局を出て行こうとしている。部屋を出る間際に、チラッとテレビに目をやった。明日香とクルーズがコートに入っていく。
 「明日香・・・頑張ってくれよ!」
 そう言うと、中尾は手術室に向かって歩いて行った。


 明日香と、クルーズがコートに入った。第二セットも、クルーズのサーブで始まる。
 「「あれは・・・?」」
 高村と黒田が驚く。
 「いよいよ・・・」
 柴田先生と、洋子の腕に力が入る。


 「やるのか? 明日香!」
 テレビで見守る西田が呟いた。
 西田の見ているテレビに映る明日香の位置は、いつもより一歩前に立っているように見えた。
 「先輩・・・高原先輩は?」
 山本が西田を不安そうに見ている。西田は、山本に頷いた。
 「いよいよ、あいつは勝負に出るよ」
 西田は、テレビに視線を戻した。『行け! 明日香!!』心の中で、西田は叫んでいた。


 明日香は、いつもの位置より一歩前に立っていた。気がついた観客達が、どよめいている。
 クルーズも、すぐに気がついた。クルーズは観客席に座っている柴田先生を見つめた。
 「あなた譲りのライジング・ショット。アスカにできるかしら・・・?」
 クルーズの白い指からボールが離れる。パワフルなスイングでボールを打った。
 『ポーン!』
 速いボールが明日香のコートに飛んでいく。明日香は、ボールのコースに入ると、ダブルハンドのスイングで打ち返す。
 『ポーン・・・』
 軽快な音が響く。第一セットより速いボールがクルーズのコートのライン際で弾んでいた。
 「ラブ・フィフティーン!」
 「決まった!」
 思わず高村が声をあげた。
 「ああ・・・ものにしたようだな!」
 黒田も、ファインダーを覗きながら言った。
 「しっかり撮らせてもらったぜ!」
 その顔には、笑顔が浮かんでいる。
 「先生!」
 洋子が柴田先生に向かって笑いかけた。柴田先生も頷いた。
 「高原さん、見事なライジング・ショットよ・・・」
 柴田先生は、コートの上に立つ明日香を見つめている。
 「お願い、このまま押し切って・・・」
 思わず呟いていた。
 また、クルーズがサーブを打つ。球速の速いボールが、明日香のコートでバウンドする。
 明日香は、素早くボールのコースを読むと、その跳ね上がったところを、ダブルハンドのスイングで打ち返した。
 『ポーン!』
 軽快な音がラケットから響く。打った瞬間、強烈な衝撃がラケットから明日香の腕に伝わった。歯を食いしばりながらスイングする明日香。ボールは、絶妙のコントロールで、クルーズの逆サイドに飛んでいく。クルーズが走ってボールを追う。まるで掬い上げるようにボールを打ち返す。少し勢いのないボールが明日香のコートに帰ってくる。
 「もらった!」
 明日香がスマッシュを打つ。ボールは、クルーズのコートで跳ねていた。
 「ラブ・サーティ!」
 コートに響くどよめきが、やがて歓声に変わっていく。


 「高原選手は、第二セットからスタイルを変えてきましたね?」
 テレビ中継では、アナウンサーが竹内に問い掛けている。
 「ええ・・・ライジング・ショットです。普通は、守備位置をコートのライン際にとります。そうするとコートでボールが跳ねかえってから、自分のところに来るまで時間があります。サーブを受けるほうは対応する時間が長くとれます。しかし、それは一方では相手にも時間を与えているわけです」
 竹内は、コートに立つ明日香を見つめた。
 「高原選手のライジング・ショットは、ボールがコートで跳ねかえったところを打ちます。高原選手には、対応する時間が少ないというリスクがありますが、一方で、クルーズもサーブを打ってからボールが戻ってくる時間が普通よりずっと早い・・・つまり対処する時間が少なくなるわけです」
 「すごいですね・・・」
 「ええ・・・動体視力と反射神経。そして、抜群のセンスがないと、クルーズを相手にしてこの戦法はできません!」
 竹内は放送席から、スタンドに座っている柴田先生を見つめていた。
 『よくここまで仕上げたな・・・圭子!』
 心の中で呼びかけていた。
 第二セットは、明日香のペースで進んで行く。試合の流れは変わった。


 大阪・城南大学付属病院
 『決まった! 第二セット、第七ゲーム、高原が、クルーズのサービスゲームをブレイクしました・・・』
 テレビから、アナウンサーの声が響いている。誰もいない医局に、アナウンサーの声だけが響いていた。
 手術室では中尾教授たちが、運ばれてきた患者の手術を始めていた。
 「開くよ!」
 中尾教授が言うと同時に、患者のお腹から血が滲み出した。
 「吸引を!」
 久保の合図で、松坂が吸引機で出血した血液を吸い取っていく。
 「うーん・・・」
 中尾教授がうめいた。
 「先生! これは?!」
 久保の額に汗がにじむ。
 三人は、患者の内臓を見て言葉を失ってしまった。予想された事とはいえ、患者の肝臓はズタズタに裂けてしまっていたのだ。
 「この部分は、ダメージが無い。半分は残せるから大丈夫だよ」
 中尾が、肝臓の一部を指で指し示した。
 「肝切除・・・ですか?」
 久保が驚く。
 「中尾先生だけでは・・・やはり、大島先生が来られるまで待ったほうが・・・」
 松坂が小さな声で言った。
 「君達がいるじゃないか!」
 中尾が力強く言った。二人を見つめる中尾。
 「君たちは、肝切除手術を見ているし、助手として経験もしている。そして知識もたっぷりある・・・」
 中尾は松坂を見ると、
 「君には、わかっているはずだぞ! この患者が、大島君が来るまでもたない事を・・・」
 松坂は俯いてしまった。
 「この患者を助ける事ができるのは、君たちだけなんだ・・・」
 中尾は、あえて『私たち』と言わなかった。若い二人に、自分達で助けると言う意識を持って欲しかったのだ。中尾は、しっかり二人を見つめていた。『ピッ・・・ピッ・・・』心電図計からの電子音だけが、手術室に響いている。やがて、二人が頷いた。
 「「わかりました。やります!」」
 中尾も頷くと、
 「よし! 行くぞ!」
 「「ハイッ!」」
 二人が元気に答える。3人は、患者を救うために全力で手術に挑んでいった。


 『ポーン!』
 ボールが、クルーズのコートに飛んでいく。クルーズが、パワフルなスイングで打ち返す。
 「?!」
 打ち返したクルーズの目に、明日香のダイナミックなスイングが映った。クルーズが走る。
 しかし、差し出したラケットの先に、ボールが弾んでいた。歓声がコートに響く。
 「さすがね!」
 クルーズが明日香に向かって微笑んだ。明日香も、にっこり笑って頷く。二人は、ベンチに向かって歩いて行く。


 「やりました! 高原が第二セットを取りました! クルーズは、この大会で初めてセットを落としました。これでセットカウント1-1です!」
 アナウンサーが、興奮気味に話している。
 「試合の流れが変わりました。これで、わからなくなりましたね」
 竹内がコメントしている。


 「やった〜!!」
 スタンドでは、洋子が大喜びしている。
 柴田先生は、何も言わない。大きく息を吐くと、優しい眼差しで明日香を見守っている。


 「よし!」
 滝沢先生が、テレビを見ながら叫んでいる。
 「すごい・・・」
 山本は、クルーズからワンセットを奪った明日香に、驚きを隠せない。
 「クルーズは、この大会で、ワンセットも落としていなかったのに」
 新谷も、テレビを見つめたまま動けなくなっていた。
 しかし、
 「やっぱり、男から女になったんだから、これくらいじゃないとなあ!」
 「そうだよ、しかし、いい体しているのになあ!」
 「男から、女になったんだから、自分で注文したんだろう!」
 「「「ハハハハハッ!!」」」
 中年の男、3人組みが、酒を飲みながら、明日香を笑っている。
 「あいつら!」
 血の気の多い新谷が、飛び掛らんばかりの勢いで立ち上がった。
 「先輩! やめて!」
 咄嗟に山本が止める。
 「そうだ! おまえよりも西田の方が、よっぽど辛いんだぞ!」
 滝沢先生が、新谷の肩を押さえ込んだ。
 「クソッ!」
 新谷は、中年の男達の座っているテーブルを睨み付けている。西田は、感情を押さえているのか、平然としていた。
 「おい! 兄ちゃん、ビール!」
 中年男の一人が、空のビール瓶を持ち上げている。
 「ハイ!」
 西田が、奥へ歩いて行く。
 「西田・・・クソッ!」
 新谷が、悔しそうに西田を見つめた。
 奥に行った西田は、ビールケースからビールを取り出すと、激しく振り混ぜ始めた。そして、冷水に少し漬けると布巾で瓶を拭いて、栓抜きと一緒に持っていく。それを見ていた店長は、にやりとしただけで、何も言わなかった。
 「ハイ! おまちどうさまでした」
 西田は、笑顔でビールを持っていく。
 「おう! きたきた!」
 中年男3人組みは、大喜びで栓を抜いた。次の瞬間、
 『シュパッ!』
 「うわ〜! なんだこりゃあ!!」
 ビールが、一気に噴出した。テーブルの上は、ビールの泡で一杯になっていた。呆然としている三人の男。
 「お客さん、困りますねぇ・・・」
 店長が、カウンターの向こう側で笑っていた。


 明日香は、ベンチに座っていた。スポーツタオルで汗を拭いて大きく息をつく。
 「あと・・・ワンセット・・・」
 明日香は、反対側のベンチに座っているクルーズを見つめた。クルーズも汗を拭いて、スポーツドリンクで喉を潤している。
 「さあ、残りワンセットですべてを出し切る!」
 明日香が立ち上がる。クルーズも立ち上がるとコートに歩いて行く。大歓声が、コートに響いている。


 「さあ、ラスト、ワンセットだ!」
 高村が、視線を明日香に向けたまま言った。
 「どちらが勝つかなんてわからないぜ! この試合は!」
 黒田は、カメラのファインダーから目は離さない。
 「クルーズが勝つに決まっているだろう!」
 竹村が叫ぶ。
 「今まで強かった選手が・・・いつも勝つとは限らない・・・」
 レイモンド・バークが、微笑みながら、明日香とクルーズを見守っている。
 「だから、スポーツは面白い」
 目を細めながら、明日香を見つめるバーク。目尻に深く刻まれた細い皺が、いっそう深くなる。


 明日香は、手に持ったボールを、コートでバウンドさせていた。
 「さあ、いくぞ!」
 第三セットは、明日香のサーブで始まった。
 明日香のジャンプサーブが、クルーズのコートへ飛んで行く。
 クルーズも、パワフルなスイングで打ち返す。激しいラリーが続く。
 「本当に、強くなったわね・・・アスカ」
 クルーズは、明日香と戦った同僚のステラ・チャンの言った言葉を思い出していた。
 『アスカと試合をしていると、まるで魔法使いを相手にテニスをしているかと思った』
 チャンが試合後に、クルーズに言った言葉だった。
 「あなたの言うとおりよ。チャン!」
 クルーズは思った。明日香のコートにボールを打つと、いつのまにか明日香が、その長い足でコートを走って現れ、ボールは、まる で明日香のラケットに吸い寄せられるように飛んで行くと、速い打球がこちらへ飛んでくる。
 『ポーン』
 明日香の打った強烈なスマッシュが、クルーズのコートに弾んでいた。


 「やりました! 高原! 第三セット、第一ゲーム。サービスゲームをキープしました!」
 アナウンサーが、興奮気味に叫んでいる。


 『ポリッ』
 パン屋のおばさんが、テレビを見ながら煎餅を食べている。
 「やっぱり・・・男から女になったら、強くなれるんだねぇ・・・」
 おばさんが、含み笑いをしながら呟いた。次の瞬間、
 「いいかげんにしないか!!」
 おじさんが、顔を真っ赤にしながら、おばさんを怒鳴りつけた。
 「ひえっ!!」
 おばさんが、驚いて飛び上がる。ちゃぶ台においてあった湯呑が倒れてお茶がこぼれている。おじさんは、それにかまわず、おばさんを叱りつける。
 「おまえは、なぜいつもそうなんだ。あの娘はな、おまえの知らないところで、一生懸命練習をしてあそこに立っているんだぞ!!」
 おじさんの脳裏に、みんなの目を避けるように廃工場のテニスコートで練習をしていた明日香の姿が甦って来る。
 「あの娘はな・・・あの娘はな・・・おまえと違って・・・」
 おじさんは、顔を真っ赤にしておばさんを睨みつけている。拳が硬く握られ、ブルブルと振るえている。
 「あんた・・・」
 おばさんは、震え上がっていた。いつも、おばさんの言う事には何も言わないおじさんが、こんなに激しく怒ったのは初めてだった。それだけに体の奥から恐怖心がわいていた。
 『ワ〜ッ!!』
 テレビから歓声が聞こえた。おじさんが、テレビに視線を戻した。
 「第四ゲームは、クルーズがサービスゲームをキープしました!」
 アナウンサーの声が、茶の間に響く。
 「明日香ちゃん・・・」
 おじさんは、テレビを見ながら呟いていた。テレビ画面は、コートに向かって歩いて行く明日香を映していた。
 「最後まで・・・諦めちゃだめだよ・・・」
 おじさんは、眩しそうにテレビに映る明日香の姿を見守っていた。そう、自分の少年時代の姿に重ね合わせて。おばさんは震えながら、テレビを食い入るように見ているおじさんの姿を見つめていた。
 「おい、テーブルを拭いておけよ!」
 おじさんが、背中を向けたまま言った。


 夜の東京の繁華街を、西山紀子は、若い男と一緒に歩いていた。
 レストランで食事をした後、二人で一緒に夜の街を歩いて行く。ふと前を見ると、ビルの前に夜遅い時間にもかかわらず、たくさんの人がビルの前に人垣を作っていた。
 「いったい・・・どうしたんだろう?」
 男が言うと、集まっている人が見ている方向に目をやった。
 「あれは?」
 西山が声をあげた。ビルの壁面に設置されている大型スクリーンに、明日香とクルーズの試合が映し出されている。ボールが、コートの間を飛び交うたびに、集まっている人達が歓声をあげていた。
 スクリーンに映っている明日香が、軽快にコートを走り、スコートが捲れるほどのダイナミックなスイングでラケットを振ってボールを打つ。クルーズのコートでボールが弾む。
 「すげ〜!!」
 「この試合、勝てるぞ!」
 「しかし、可愛いよなあ・・・」
 集まったギャラリーから声が上がる。西山は、横に立っている若い男を見ていた。羨望の眼差しで、スクリーンに映る明日香とクルーズを見つめている。
 西山は、不機嫌になってきていた。日本の女子テニスのトップと自負していたのに、ここに集まっている人達は自分に気づきもせずにスクリーンに映る明日香を見ている。
 「なによ・・・あいつは男なのに・・・」
 呟くと、にっこり笑った。
 「・・・まあ、あれくらいできて当然ね! 私があの娘に、クルーズのテニスをしっかり教えておいたから!!」
 西山が大きな声で言うと、集まっていた人達が振り返った。西山に気がついたのか、何人かの若い男が驚いているようだ。
 『これよ! これ! さあ、みんな、私を見て!』
 西山は、自分に注目が集まるのを待っていた。確かに注目は集まった、しかし、それは西山の期待したリアクションではなかったが・・・。
 「あっ! 西山紀子だぜ!」
 集まっていた人が声をあげた。しかし、次には、
 「ああ、あの高原を潰そうとした奴か?!」
 「そうだよ、テレビや雑誌で、あの高原を散々叩いていたぜ!」
 西山を囲むように、人が集まってくる。しかし、その視線は冷たい。西山は、少したじろいでいる。
 「なにを言っているの? あの娘は、私が教えたから・・・」
 「おまえが教えるはず無いだろう?! あんなにテレビで悪口を言いやがって!!」
 「そうだよ! あんなにすごいテニス選手なのに!」
 「あの娘は、女の子だよ! あのクルーズだって、そう言っているじゃないか!!」
 集まった人達が、口々に叫ぶ。突然、歓声が起きる。
 「やった!!」
 「すごい!!」
 スクリーンに、明日香の笑顔が大写しになる。
 「第三セット、第九ゲームは、高原がサービスゲームをキープしました!! スコアーは、4-5でクルーズがリードしています!」
 アナウンサーの声がスピーカーから響く。
 「おい! そんな奴は、ほっとけよ!!」
 「そうだな!」
 西山を囲んでいた人達が、再びスクリーンに視線を戻す。
 「まだ、クルーズがリードだな!」
 「大丈夫、高原なら追いつけるよ!」
 「しかし可愛いよな!」
 「でも、前は男だった・・・」
 「あれだけ可愛ければ関係無いよ!」
 集まった人達が口々に言う。
 「・・・行きましょうよ!」
 西山が、連れの若い男の腕を引っ張る。しかし、男は動かない。視線は、スクリーンが映し出す明日香のプレーに向けられたままだ。そして、
 「すごい・・・」
 思わず呟く。
 「もう! いいわよ!!」
 西山は、顔を真っ赤にして、ヒールの音を響かせながら歩道を歩いて行く。突然、
 「あっ!!」
 ヒールの踵が折れて、歩道に転んでしまった。
 「もう!! イヤ!!」
 折れたヒールの踵を、思わず歩道に叩きつける西山。


 試合が進んで行く。明日香は、コートを走る。ボールに追いつくと豪快なダブルハンドのスイングで打ち返す。クルーズも、パワフルなスイングでボールを打つ。
 明日香は、今、心からテニスを楽しんでいた。前にパシフィックカップでクルーズと対戦した時には、ただ単に『クルーズは強い』と思っただけだった。しかし、今は違った。『クルーズさんは、ただ単に速いボールを打つプレーヤーじゃない。試合の組み立てや、守りもしっかりしている。そして、相手の動きを読む。すべての面でバランスがとれているから強いんだ』明日香は、そう思っていた。
 それは、クルーズも同じだった。クルーズが、最初に明日香と出会ってから、たったの二年の間にメキメキと明日香は実力をつけてきた。クルーズは、ここしばらく、テニスを楽しめていなかった。確かにグランドスラムを制覇してテニス界のトップには登りつめた。
 しかし、明日香のコーチである柴田先生以外には、マルソーを始め、誰もクルーズを相手に互角には試合ができなかった。でも、明日香は違った。パシフィック・カップでは、粘った末に負けてしまったが、この試合では、全力で戦うクルーズと全く互角に試合を進めている。強いライバルを得てクルーズは、久しぶりにテニスを楽しんでいた。
 『ポーン!』
 クルーズの強烈なスマッシュが、明日香を襲う。明日香は咄嗟にラケットを出したが、ボールはその下をすり抜けていた。歓声が起きる。
 「さあ、第3セット、第11ゲーム、セットカウント6-5で、クルーズがいよいよマッチポイントを握りました。世界選手権初制覇になるか、クルーズ!!」
 アナウンサーが叫ぶ。


 「ほら見ろ! やっぱりダメじゃないか!! 記事を作っておいてよかったぜ!」
 竹村が記者席で大笑いをしている。
 「高原君・・・」
 高村が、知らず知らずのうちにボールペンを強く握り締めている。
 『パキッ!』
 音をたてて、高村の手の中でボールペンが折れてしまった。
 「あっ・・・」
 自分でも、驚く高村。
 「大丈夫さ、まだ、高原君の目は負けていないよ!」
 カメラのファインダーを覗きこみながら、黒田が笑った。


 「やっぱり、だれもクルーズには勝てないの?」
 テニス部員達の集まった居酒屋で、山本がテレビを見ながら呟いている。
 「大丈夫さ・・・明日香は、どんな事があっても諦めないよ。それに・・・」
 西田が、優しい視線を山本に向けた。
 「・・・俺達が、あいつを信じてやらないで、どうするんだ」
 にっこり笑う西田。山本も頷く。西田は、テレビに映る明日香を見つめた。
 「最後まで・・・頑張れ! 明日香!!」
 声に出して呟いていた。


 クルーズの高速サーブが明日香のコートに飛んでくる。コートで跳ねかえったところを明日香が打つ。強烈な衝撃が、明日香の腕に伝わる。
 「!!」
 強引に打ち返すと、ボールはクルーズのコートの隅で弾んでいた。コートをまるで地鳴りのような歓声が包んでいる。


 「明日香・・・」
 スタンドでは洋子が、両手を胸の前で組んで祈るような気持ちで見守っていた。
 「タイブレイク・・・か・・・」
 柴田先生が、呟いていた。


 「第3セット、高原選手が第12ゲームを取って、タイブレイクに持ちこみました。どうでしょう? 竹内さん」
 「面白い展開になりましたね。体格的にクルーズより落ちる高原君のスタミナが心配ですが、頑張って欲しいですね」
 竹内が、ベンチに戻って行く明日香を見つめながら答えた。


 「先輩、甘いよ!」
 西田がテレビを見ながら笑っている。
 『今の明日香は、パシフィック・カップの頃の明日香じゃない。あれから、俺と中尾が相手になって、たっぷり試合形式の練習をしたんだ。これくらいでは、バテませんよ。先輩!』
 西田は、心の中で呟いていた。

 タイブレイクのプレーが始まった。
 明日香もクルーズも、お互いに一歩も引かずに試合が進んで行く。
 「頑張れ! 明日香!!」
 スタンドから、洋子が声援を送る。
 柴田先生は、何も言わない。しかし、胸に付けているペンダントに手をやりながら、明日香をじっと見つめている。
 試合は、クルーズがリードしながら進んで行く。そして、ついにクル−ズが再びマッチポイントを握った。
 「ほら見ろよ! やっぱりクルーズには、敵わないじゃないか! いくらやっても、負けるんだったら結局何もしないのと一緒なんだよ!」
 竹村が、記者席で笑っている。
 「彼女は、これで終わる選手じゃない」
 高村が呟く。
 「そうさ、高村! これから何が起きるか、見逃すなよ!」
 黒田が、ファインダーを覗きながら笑った。
 

 マッチポイントを握られてしまった明日香は、ネットの向こうに立つクルーズの姿を見つめていた。
 「わたしは・・・あきらめない・・・」
 明日香は、右の手首に巻かれた白いリストバンドに視線を落とした。明日香の瞳には、一瞬、島田の笑顔が見えた。
 「あきらめないよ・・・島田さん!」
 明日香は鋭い眼差しでクルーズを見つめると、ラケットを構える。クルーズが、スッと高くボールをトスする。
 『ポーン!』
 速いボールが、明日香のコートに飛んでくる。
 素早くボールのコースに入り、明日香がラケットを構える。
 『ポーン』
 軽快な音がコートに響く。激しいラリーが続く。
 「こうなったら!」
 クルーズが、ボールにスライスをかけてきた。明日香のコートでバウンドしたボールは、コートの外に逃げて行く。明日香は、俊足を活かしてボールを追う。
 「!!」
 ラケットを振り、ボールを打ち返す明日香。次の瞬間、
 「あっ?!」
 勢い余った明日香は、審判と接触して転倒してしまった。転倒しながらボールの行方を追う明日香。ボールは、クルーズのコートのライン上で弾んでいた。

 スタンドで見守る柴田先生が、咄嗟に立ち上がった。そう、かつての自分と同じことが起きるのではないかと心配になったのだ。
 「明日香?!」
 洋子も立ち上がった。不安げな視線を明日香に向けている。

 明日香が立ち上がった。一緒に転んでしまった審判に手を貸して立たせると、明日香もコートに戻って行く。二三回ジャンプすると、手首をぶらぶらさせてリラックスしようとしていた。
 「大丈夫なの? アスカ?!」
 クルーズが声をかけてきた。
 「大丈夫です。さあ、始めましょう!」
 明日香が笑った。
 コートに戻った明日香に、観客達は、立ち上がって大きな拍手を送っている。
 「よかった・・・」
 クルーズが呟いた。彼女も、以前の柴田先生との試合の記憶が頭をよぎった。怪我をして相手の試合放棄の結果優勝などという結末は、もう味わいたくないとクルーズは思っていた。
 「さあ、仕切り直しね!」
 クルーズは、ネットの向こうに立つ明日香を見つめながら呟いた。


 「よかった・・・」
 記者席で、高村が呟いた。
 「これで、また、振り出しに戻ったな!」
 黒田の言葉に、高村が頷いた。
 「本当にすごい試合だよ、見ていてゾクゾクしてくるよ」
 高村は、黒田に視線を移した。
 「黒田・・・俺は、この試合で、最高の記事を書いてやる。あの娘達に負けないように!」
 「ああ・・・そうだな!」
 「最高の記事には、最高の写真が欲しいんだ」
 黒田は、ファインダーから目を離して、高村の顔を見る。
 「おまえの写真を、“スポルト・ジャパン”で使わせてくれないか?」
 高村の言葉に、黒田はにっこりと笑った。
 「おまえの頼みなら、断れないな・・・よし、最高の記事を書けよ!」
 「ああ!」
 二人は、コートに視線を戻した。明日香とクルーズの戦いが続いていた。


 コートでは、激しいラリーが続いていた。二人は、お互いのテクニックをすべて発揮しながらプレーを続けている。明日香が、クルーズの速い打球をボレーする。ボールがクルーズのコートでバウンドすると、クルーズが追いついてラケットでボールを捕らえる。
 「しまった!」
 クルーズの打ったボールは、ネットの上に引っかかって音を立てている。ボールは、ネットの上で弾んでいた。明日香がネットに向かって走る。明日香の中に、パシフィック・カップでの嫌な記憶が甦る。
 「どちらに落ちる?!」
 明日香の目に、クルーズのコートに落ちていくボールが映った。観客がどよめき、やがて大歓声が広がっていく。
 

 「来たぞ! チャンスが!」
 高村が叫ぶ。
 「さあ・・・チャンスだぞ! 高原君!」
 黒田が呟く。
 「クルーズを、ここまで苦しめた選手はいない・・・」
 バークは、優しい視線をクルーズに注いでいた。
 「ここまで強い相手と試合をして、楽しいだろう・・・キャス!」
 バークが微笑む。


 「さあ、この試合ではじめて日本の高原がマッチポイントを握りました! どうでしょう竹内さん!」
 アナウンサーが叫んでいる。
 「そうですね。このまま一気に押し切って欲しいですね!」
 竹内が答える。しかし、竹内の中には、引っかかるものがあった。
 『一気に押し切れ! 高原君!』


 「先生! 明日香がクルーズから、マッチポイントを!」
 洋子がはしゃいでいる。柴田先生は、にっこりと微笑んで頷くと、穏やかな眼差しで明日香を見守る。
 「しかし・・・」
 竹内も、柴田先生もわかっていた。このマッチポイントが、明日香にとってこの試合での最初で最後のチャンスになる事を・・・。クルーズほどの実力者を相手に戦うと、このマッチポイントを逃すと試合の流れが変わってしまう。チャンスを逃せば、今度は明日香が一気に押し切られてしまうだろう。
 「頑張って・・・高原さん!」
 柴田先生が、祈るように見守る。


 「さあ、マッチポイントだぞ!」
 滝沢先生がテレビを見つめながら言った。部員達も、にこにこしながらテレビを見ている。西田は、みんなの近くに立ったまま、テレビの画面に映る明日香を見守っている。
 「お兄ちゃん! ビール!」
 中年の男が西田に言った。しかし、西田の視線はテレビに向けられたままだ。
 「お兄ちゃん!!」
 中年男が、呂律のまわらない口調で西田に叫ぶ。
 「ちょっと待ってよ!」
 店長が、厨房から声をかけた。店長もテレビ画面を見つめている。
 「全く・・・何だってんだ!」
 中年男がフラフラと上半身を揺らしながら言った。
 西田の意識は、センター・コートに立つ明日香の傍に飛んで行っていた。自分が好きな女の子が、世界のトップ選手を相手にマッチポイントを握っている。西田の拳は硬く握られていた。
 「決めろ! 明日香!!」


 クルーズは、落ち着いていた。たくさんの試合をしてきた経験から、ここをのり切れば一気に試合の流れが変わる事を知っていたのだ。
 クルーズは、その場で何回かジャンプすると、ラケットを構えた。
 「さあ、来なさい! アスカ!!」
 クルーズが呟く。


 明日香も落ち着いていた。いつものように、ボールをコートで3回バウンドさせると、右の手首につけている白いリストバンドを見つめている。
 「島田さん・・・」
 明日香は、右の腰に手をあてた。そこには、西田から貰った御守り袋が縫い付けられていた。
 「西田君・・・」
 明日香の白く長い綺麗な指からボールが離れる。ボールが青い空に吸い込まれるように浮き上がる。
 「力を貸して!」
 明日香がジャンプする。
 『ポーン!!』
 軽快な音がコートに響く。速いボールがクルーズのコートに飛んで行く。


 「速い!」
 記者席で高村が叫ぶ。黒田のカメラから、モータードライブがフィルムを巻き上げる、乾いた音が響く。


 クルーズは、明日香のジャンプサーブのボールをラケットで捕らえた。いつもより球速が速くボールも重い。
 「しまった!」
 クルーズの打ち返したボールは浮いてしまった。勢いのないボールが明日香のコートに飛んで行く。
 「?!」
 明日香が、ネットに向かって走っている。クルーズも、ダッシュをしてネットに走る。


 明日香がボールのコースに走る。勢いのないボールがこちらに飛んでくる。ラケットを構えると、スコートが捲くれるほどのダイナミックなスイングで打ち返す。ボールは、まるで生き物のようにクルーズの差し出すラケットをすり抜けて、コートの芝生の上で弾んでいた。地鳴りのような大歓声が、コートに響いていた。
 「勝った〜!!」
 明日香が空を仰ぎながら両手を青空に突き上げた。観客の歓声と拍手がコートに響く。明日香は笑顔を振り撒きながら、観客に手を振って答えた。
 「アスカ!!」
 クルーズがこちらに歩いてきた。
 「最高よ! 楽しかったわ!」
 「クルーズさん!!」
 明日香の大きな瞳が潤む。二人は、しっかりと握手をすると、クルーズが明日香を強く抱きしめた。大歓声が起きる。


 「明日香!!」
 洋子は、叫ぶと同時に、その瞳からあふれる涙を押さえる事ができなかった。
 柴田先生は、洋子の肩を優しく抱いてあげていた。
 「よかったね・・・」
 柴田先生も、そう言うのが精一杯だった。柴田先生と洋子は、コートから観客に手を振る明日香の姿を見つめていた。
 「よかったね・・・明日香。最高よ!!」
 洋子は、にっこり笑うと、大きく明日香に手を振った。


 「やった!」
 記者席で、高村と黒田が握手を交わす。
 「しっかり撮ったぜ・・・最高のカットをな!」
 黒田が微笑む。高村も頷く。その目は涙で潤んでいる。
 「おめでとう・・・高原君・・・」
 二人は、コートで優勝カップを高く掲げる明日香の姿を眩しそうに見つめていた。


 「「「やった〜!!」」」
 居酒屋の店内には、大歓声が響いていた。テニス部員達は、お互いに抱き合ったり、肩を叩き合ったりして喜び合っている。
 中年男3人組みは、不思議そうにその光景を見つめていた。
 「おい・・・何なんだよ!」
 「いやね・・・」
 店長が、にこにこしながら厨房から声をかける。
 「ここにいるのは、ほとんどが高原選手のファンでね。そこに写真があるでしょう?」
 店長が、壁を指差した。そこには、壮行会の時にみんなで撮った写真がかけられている。
 「それに・・・」
 店長が笑う。
 「この人達は、高原選手の高校のテニス部員なんですよ!」
 そう言うと、店長が店内にいる客たちに声をかける。
 「さあ、ここからは、料金は頂きません、高原選手の優勝記念に、無料でサービスしますよ!!」
 「「「やった〜!!」」」
 客達が喜ぶ。しかし、中年男三人組みは周りを見回して立ち上がると、
 「お勘定!」
 支払いを済ませると、こそこそと店を出ていく。みんなの笑い声が起こる。
 「西田!」
 新谷が、西田の肩を叩いた。
 「よかったな!」
 二人ががっちりと握手を交わす。西田の目は涙で潤んでいた。
 「ああ・・・最高さ!」
 「よし・・・みんな! 高原選手の優勝を祝して・・・」
 新谷が声をかける。
 「バンザ〜イ! バンザ〜イ!! バンザ〜イ!!!」
 みんなが叫ぶ。西田は、テレビ画面に視線を戻した。明日香が、優勝カップを高々と掲げている。
 「やったな・・・明日香!」
 西田が、明日香の姿を眩しそうに見つめていた。


 パン屋のおじさんが、テレビを見ながら肩を震わせている。
 「ウッ・・・ウウッ・・・ウッ・・・」
 おじさんの目から、大粒の涙が畳に落ちる。ちゃぶ台を挟んだ反対側から、おばさんが不思議そうに見つめていた。
 「明日香ちゃん・・・おめでとう!!」
 おじさんは、涙で潤んだ目で、テレビに映る明日香を見つめていた。


 クルーズが、通路をロッカーに向かって引き上げてきた。たくさんの記者が、コメントを取ろうとクルーズに殺到する。
 「クルーズ選手!」
 竹村が、記者たちを掻き分けて前に出てきた。ニヤッと笑うと、
 「クルーズ選手! 当然、プロテニス協会に、今日の試合の結果について異議を申し立てられますよね!!」
 「えっ?」
 怪訝な顔をするクルーズ。
 「だって、あいつが男だから負けたんでしょう? 当然異議を申し立てれば、あなたが優勝・・・」
 クルーズは、哀れむような眼差しで竹村を見ていた。
 「私は、異議など申し立てません。むしろ、明日香に、すばらしい試合をしてくれてありがとうと言いたいくらいです」
 クルーズは、ため息をつくと、
 「あなたも、自分の国の代表が勝ったのに、なぜ喜んであげないのですか? 異議の申し立てなんて・・・この試合を貶めるような真似をする人は、わたしは許しません!」
 クルーズが、ぴしゃりと言った。竹村は、呆然とクルーズを見つめている。
 『たとえ負けても、やはりクルーズは女王だな・・・』
 高村は、クルーズを見つめながら思った。クルーズがこちらに歩いてくる。高村を見つけるとにっこり笑った。
 「楽しかったわ! 今度は、いつ、明日香と試合ができるのかしら・・・楽しみだわ!」
 クルーズは、微笑んだ。
 「この試合を、あなたがどう書くのか・・・楽しみにしているわ!」
 クルーズは、高村といっしょに立っていたレイモンド・バークの姿を見つけた。
 「残念だったね。キャス!」
 バークが微笑む。
 「しかし、すばらしい試合だったよ。ありがとう!」
 バークの言葉に、クルーズが頷く。
 「今度は、わたしが挑戦者ですね。また、がんばります!」
 クルーズは、さばさばした表情で笑った。
 『さすがだな・・・これから、彼女はいっそう強くなるに違いない・・・』
 高村は、歩き去るクルーズの後姿を見ながら思った。
 クルーズは、静かにロッカールームに姿を消した。
 

 明日香がロッカールームに引き上げてきた。
 「明日香!!」
 洋子が明日香に抱きついてきた。大きな瞳からは、大粒の涙を流していた。
 「おめでとう・・・明日香! 本当におめでとう・・・」
 二人は抱き合って涙を流しつづけている。青白いフラッシュの光が二人を照らす。
 「わたしこそ・・・今まで本当にありがとう! わたしは、洋子がいたからここまで来れたんだよ。ありがとう、洋子!」
 明日香は、横に立っている柴田先生を見つめた。
 「すばらしい試合だったわ! 高原さん!」
 「ありがとうございます!」
 明日香は、にっこり微笑んで頭を下げた。


 大阪の城南大学付属病院。病棟の廊下の窓から、朝日が差し込み始めていた。手術室の前のベンチには、中年の女性が座っていた。
 やがて、“手術中”のランプが消えると、ドアが開き寝台車に乗せられた患者が病室に運ばれていく。中年の女性が、寝台車に飛びつく。その後ろから白衣姿の4人の男が出てきた。
 「さすがは、中尾先生ですね。間に合わなかったらどうしようかと心配でした。本当に助かりました。ありがとうございます!」
 大島医師が、中尾に言った。
 「いや、それほどでも・・・」
 中尾が笑う。松坂と久保を見つめると、
 「説明・・・大丈夫だね」
 「「はい!」」
 二人が、寝台車と一緒に歩いている女性に駆け寄っていく。大島医師も一緒に歩いていった。
 中尾は、それを見届けるとベンチに腰を下ろした。白衣のポケットを探すが、やがて彼は自分が禁煙していたことを思い出して苦笑いした。その彼の目の前にマイルドセブンの箱が差し出された。中尾が顔を上げると前に白井が立っている。中尾は箱から一本取り出した。白井がジッポライターで火を点ける。中尾は美味そうに口から煙を吐き出した。
 「明日香は・・・どうなった?」
 中尾が呟くように尋ねた。
 「優勝ですよ・・・」
 白井が天井を見上げる。
 「さっき、高原君から電話がありました。優勝の報告と・・・」
 白井が言葉を詰まらせる。
 「先生と僕に・・・『あの時に、助けてくれてありがとう』・・・と・・・」
 「そうか・・・」
 天井を見上げる白井の目から、涙がこぼれる。ベンチに座っている中尾は、俯いて小刻みに肩を震わせている。中尾の目から床に涙が落ちて染みを作っている。
 そう・・・二人の医師の努力は、2年の時間を経てようやく報われたのだった・・・。


 その夜、明日香は大会委員会が主催するパーティーに出席していた。たくさんの人達が、明日香の優勝を祝ってくれた。しかし、明日香の心は、しだいに暗くなってきていた。
 「どうしたんだろう・・・」
 明日香は、自分で自分の心がわからなくなってきていた。
 明日香が、会場の扉に向かって歩いていく。洋子がそれに気がついた。
 「明日香、どこに行くの?」
 「うん・・・ちょっとトイレに・・・」
 明日香が廊下に出て行く。クルーズは、それに気づいて後についていった。


 ドレス姿の明日香が、月明かりに照らされた夜のセンター・コートに立っていた。
 昼間の試合の喧騒がうそのように、夜のセンター・コートは静まり返っていた。
 「・・・わたしは、本当にここで勝ったんだ・・・」
 明日香が呟く。そして、何とも言いようのない喪失感が明日香を襲っていた。
 「終わっちゃったんだ・・・世界選手権が・・・」
 「でも、あなたのテニスが終わったわけではないわよ!」
 突然、誰もいないはずのコートに声が響く。振り返ると、ドレス姿のクルーズがこちらに歩いてくる。
 「クルーズさん・・・」
 明日香が驚いて呟いた。
 「この世界選手権は終わっても、あなたのプロとしてのテニスは、これから始まるのよ!」
 そう言うと、クルーズが優しく微笑んだ。
 「また、会いましょう! 今度は、ウインブルドンで!」
 明日香もにっこり笑って頷いた。二人は月明かりに照らされたコートを見つめている。
 昼間の試合の大歓声が嘘のように、コートは束の間の眠りについていた・・・。


 センター・コート (おわり)



 こんにちは! 逃げ馬です。
 逃げ馬初の?スポーツTSF・・・「センター・コート」をお送りしました。
 明日香は、男の子だったころからの夢、“世界選手権”に優勝しましたね。マスコミに過去を暴露されて、風当たりが強くても、周りの人たちに支えられながら諦めずに歩きつづけた明日香。明日香が、そういう選手だと見抜いていたから、クルーズも日本まで来て手を差し出せたわけですが(^^;;;
 他のサイトで、この作品が掲載されたときに、「明日香は、クルーズを超えたのですか?」と尋ねられました。その答えは、NOです。最後のシーンでもおわかりいただけると思いますが、まだ、この時点では超えていないですね。ひょっとしたら最後まで超えることが出来ないかもしれない。でも、明日香はこれからも、クルーズを追い越そうと走りつづけるでしょう。
 この作品では、主人公と一緒にサブキャラも成長させました(^^)。“スポルト・ジャパン”の高村記者です。
 高村記者も、明日香を通してスポーツを見ているうちに、スポーツ記者として大きく成長していきました。最後には、クルーズにも認められていましたね。

 本当に長い作品になってしまいましたが、最後までお付き合いいただいて、どうもありがとうございました。

 なお、この作品に登場した人物・団体・大会名は、実在の人物・団体・大会名とは、一切関係のないことをお断りしておきます。

 2001年 逃げ馬




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