センター・コート

(第3話)

:逃げ馬

 




 明日香は、前から走ってくるたくさんの男女を見つめていた。その大きな瞳は、殺気立った記者やレポーター達を見て怯えきっている。
 たちまちのうちに殺気立ったレポータ−や、記者、カメラマン達が明日香達3人を取り囲んだ。次々に浴びせられるカメラのフラッシュの光が、明日香達を青白く照らしている。
 「ちょっと・・・いったい何が・・・?」
 明日香がようやく言った。レポーター達が、明日香の顔の前に、たくさんのマイクを突きつける。
 「“ファインダー”に掲載された記事は本当ですか?!」
 「え・・・?」
 訳がわからないという顔をする明日香。しかし、追い討ちをかけるように一人の女性レポーターが、
 「あなたが、本当は男だというのは事実なのですか?」
 その瞬間、明日香は自分の目の前が真っ暗になった気がした。手が、ブルブルと震えだす。額には、冷や汗が浮かんでいる。
 「あなた達・・・いったい何を言っているの?!」
 洋子が、記者たちに食って掛かる。島田は、記者と明日香の顔を見比べている。
 「・・・高原さん・・・」
 不安気な目を明日香に向けて、呟くように島田が言った。答えることの出来ない明日香。
 「あんたには、用がないんだよ・・・」
 一人の中年男が、洋子を睨みつけながら言った。
 「俺が用があるのは、この偽美少女だ・・・」
 そう言うと、男は明日香に向き直った。周りのレポーター達も、マイクを向けたまま成り行きを見守る。
 「俺のスクープ写真に、“違う”とは言えないだろう・・・?」
 そう言うと、竹村は“ファインダー”を明日香に渡した。本を開いた明日香は、カルテの写真を見た瞬間、体が震えるのを抑えることが出来なかった。明日香の唇は、硬く噛締められ、額に汗がにじむ。
 「どうだい? 俺のスクープ記事・・・あんたの化けの皮が剥がれた訳だ。質問に答えろよ。男じゃ駄目だから、自分が一流選手と呼ばれたかったから女になったんだろう?」
 「・・・違う・・・違います!!」
 明日香は、竹村の目を見てきっぱりと言った。その鋭い眼差しに、一瞬ひるむ竹村。
 「何言っているのよ!!」
 洋子が叫ぶ。
 「あんたなんかに、明日香の苦しみがわかるものですか?」
 「ああ・・・わからないね!」
 竹村が、ニヤリと笑って洋子を見た。
 「自分から、男から女になってしまうような奴の気持ちなんて、誰も、わかるはずがないだろう! とにかく、こいつが男だってことは、俺のスクープ記事で明らかだ・・・何しろカルテが証拠だからな」
 うつむいて両手の拳を握り締める明日香。歯を食いしばって竹村を睨みつけている洋子。
 「最低・・・あなたは最低よ!!」
 洋子が叫ぶ。
 「勘違いしてもらっては困るね・・・俺は、たくさんの人の“知りたい”という気持ちに応えるのが仕事なんでね」
 そう言うと、竹村は大笑いをした。
 「何だ! 君達! 校門の前で何を騒いでいるんだ!」
 滝沢先生と、柴田先生が走ってきた。
 「あ・・・先生!」
 島田が、明るい表情になった。
 「なにをって・・・俺達は取材をしているだけだよ。それに、ここはあんたが前に言った“校内”じゃないぞ!」
 竹村が食って掛かる。
 「もう、始業時間だ! 取材は、またにしてもらおう!」
 滝沢先生が、竹村の前に立ちふさがった。その間に、柴田先生が、明日香達3人を校門の方に押しやろうとした。
 「ちょっと待ってください!」
 レポーター達が追いすがる。
 「もう授業ですから・・・」
 そう言うと、柴田先生が、レポーター達を押し返した。明日香達は、ようやく教室に向かった。


 教室に入った明日香は、いつもと雰囲気が全く違うのに気がついた。
 教室にいるクラスメイトの視線が冷たい。いつもは、明日香達と一緒に冗談を言って笑い転げている女の子達も、何人か集まって明日香を指差しながらひそひそ話をしている。
 「明日香・・・」
 洋子が心配をして声をかけた。
 「・・・大丈夫!」
 明日香は、無理をして作り笑いをした。
 柴田先生が来て、いつものように授業が始まる。しかし、教室の空気は、明らかにいつもと違った。柴田先生は、大きなため息をつくと、黒板から、生徒達の方に向き直った。
 「みんな・・・授業に集中できないようね。」
 「先生、高原さんは・・・」
 男子生徒の一人が声をあげた。
 「高原さん・・・つらいだろうけど、みんなに説明してあげる? その方が、あなたのためにも良いかも知れないよ」
 「先生! それでは明日香が・・・」
 洋子が抗議しようとした時、明日香は椅子から立ち上がった。教室にいるクラスメイト達の視線が、明日香に集中する。
 「明日香・・・」
 明日香を見つめている洋子の目が潤む。
 西田は、明日香の顔をまともに見ることが出来なかった。自分が好きになった女の子が、実は男だったかも知れないという事実に、西田の心は混乱していた。
 「今日発売になった雑誌で、僕のことが報道されています・・・」
 明日香は、クラスメイト達の顔を見つめながら話し始めた。西田は俯いたままだ・・・・それが明日香には悲しかった。
 「僕は・・・去年の春までは、報道されている通り・・・男でした・・・」
 クラスメイト達が、お互い顔を見合わせてひそひそと話し始めた。明日香は、静かに話しつづける。
 「しかし、報道されているように、自分から女性になったわけではありません」
 明日香は、静かに話しつづけた。航空機事故に遭ったこと。その結果、重傷を負ったこと。そして、遺伝子治療を受けた結果、女性になったこと・・・。
 「僕は、自分から女性になったわけではありません・・・今まで、女性になってしまって戸惑ったこともありました。その時に助けてくれたのは、ここにいるみんなです。お礼を言います、ありがとうございました」
 明日香が席に座った。前の席では、島田がくすくすと鼻を鳴らしている。洋子がこちらを見ている。潤んだ瞳をこちらに向けて頷いている。
 しかし、大部分のクラスメイト達は、ひそひそと話をしている。西田は、相変わらず俯いたままだ・・・。
 「みんな・・・どうなの? 高原さんは、こう言っているけど・・・」
 柴田先生は、生徒達に問い掛けた。しかし、生徒達は答えない。
 「でも、雑誌にはなあ・・・」
 「帰ってテレビを見てみないと分からないわよねぇ・・・」
 明日香は、唇を噛締めながら席に座っていた・・・。


 校門の前には、まだ、たくさんのレポーターや、記者たちがたむろしていた。
 彼らは、話を聞ける人間を探して辺りを歩いていた。一人のレポーターがパン屋に入っていった。
 「おはようございます」
 「いらっしゃいませ!」
 おばさんが、店に現れた。自分の目の前に、テレビカメラを持ったカメラマンや、照明を持った男、そしてマイクを持ったスーツ姿の若い男を見ると目を丸くして驚いた。
 「あらら・・・どうしてこの店に・・・」
 「すいません、ちょっと話を聞かせていただけないでしょうか?」
 スーツ姿の男が、ニコニコ笑いながらおばさんに言った。
 「何の話を?」
 「この娘の事なんですが・・・」
 男は、明日香の写真をおばさんに見せた。
 「ああ・・・この娘? よく友達と一緒にこの店に来るわよ」
 男は、ニヤリと笑うと、
 「奥さん・・・この娘・・・本当は男なんですよ・・・」
 「え・・・そうなの?」
 驚くおばさん。
 「やっぱりねぇ・・・ちょっとおかしいと思ってたのよぉ・・・可愛いのに“僕”なんて言ってたしねぇ・・・」
 「詳しく聞かせてもらえるかな?」
 「え・・・あたしがテレビに出るの?」
 「もちろん! 綺麗に撮らせてもらいますよ」
 若い男は、照明とカメラを見ながら作り笑いをした。
 「ちょっと着替えてくるわね」
 おばさんは、いそいそと頭にかぶっていた帽子を取ると、奥に着替えに行こうとした。
 「何の騒ぎだ」
 おじさんが、パンを作る工房から出てきた。店にいる男達を訝しげに見ている。
 「あんた、あんた。よくうちに来てたテニスをしている女の子。実は男だったんだって! あたしもおかしいと思っていたのよ。それで、あの人たちがあたしの話を聞きたいんだって・・・あたしがテレビに出ちゃうんだよ!」
 おばさんは嬉しそうに、はしゃいでいる。おじさんは苦々しげに、はしゃいでいるおばさんを見つめていた。
 「おまえな・・・人のプライバシーに立ち入るもんじゃないぞ! しかも、よくうちに来てくれているお客さんの・・・」
 「いいじゃないの! あたしはテレビに出れるんだし、私の話が聞きたいって言うから、話してあげるだけでしょう。別に悪いことじゃないじゃない!」
 おばさんは、嬉しそうに着替えに行った。おじさんは、舌打ちをしながらそれを見送った。


 東京のTS出版にある“スポルト・ジャパン”の編集部では、高村が編集長に搾られていた。
 「まったく・・・おまえは今までどこに目をつけて取材をしていたんだ!!」
 精悍な顔をした、いかにもやり手といった雰囲気の編集長が高村を睨みつけている。高村は、黙って編集長の顔を見つめている。周りの編集部員達は遠巻きに事の成り行きを見守っていた。
 「一年半もくっついて取材をしていたんだろう! それなのに、他誌にスクープを許すなんて・・・おまえは、それでも記者か?!」
 編集長は、手に持っていた“ファインダー”を机の上にたたきつけた。大きな音が部屋に響く。編集部員達は、ビクッとしながら二人を見ている。
 高村は、編集部に置かれているテレビに目を移した。テレビでは、レポーターが城南大学付属高校の前でレポートをしている。その内容は、明日香が自分から望んで女性になり、女子テニスプレーヤーのトップになろうとしているのではないかという、想像と憶測のレポートで“ファインダー”の記事の後追いをしていた。高村は、テレビを見ていてイライラしてきていた。
 「こら!! 高村! 聞いているのか?!」
 編集長の怒鳴り声が部屋に響いた。みんなが驚いて二人を見る。高村は、ゆっくりと編集長に向き直った。
 『おや?』
 編集長は驚いた。怒鳴りつけると萎縮するだろうと思った高村が、冷静な表情で彼の方に向き直ったのだ。
 『こいつは・・・?』
 「分かったのか? 高村! 分かったらさっさと取材に行け!」
 「編集長、それでいいのですか?」
 高村が、静かに言った。
 「どういうことだ・・・」
 「編集長、“スポルト・ジャパン”は、今まで硬派の総合スポーツ誌として編集していました」
 「そんなことは、おまえに言われなくても・・・」
 「しかし・・・」
 高村は、落ち着こうとして深呼吸すると、
 「今、“ファインダー”の後追いをするということは、覗き見趣味的な記事を載せることになります・・・」
 高村は、テレビに目を移した。テレビでは、大学近くのパン屋のおばさんが喋っている。
 「そういったことは、他の雑誌やテレビに任せておけば良いのではないですか? “スポルト・ジャパン”は、あくまでスポーツの目から、この事件を冷静に見るべきだと思います」
 編集長は、思わず息を飲んだ・・・彼も、自分の編集する雑誌の方針を忘れていたわけではない。しかし、過熱する報道合戦を見ているうちに、いつしか体に染み込んだ記者としての血が騒ぎ、知らず知らずのうちに巻き込まれていったのだ。
 編集長は、ニヤリと笑うと高村の顔を睨んだ。
 「成長したな・・・高村!」
 高村もニッコリ笑った。
 「ありがとうございます」
 「おまえの言うとおり、この手の報道は、他の媒体に任せておこう」
 編集長は、机の上の“ファインダー”を手でポンポンと叩いた。
 「よし!! うちは、あくまでうちの目で事の成り行きを報道する・・・高村! すぐに大阪に行け。事の成り行きをしっかり記事にしろ! わかったな!!」
 「はい!」
 高村は、一礼して席に戻ると、かばんを掴んで、編集部を出て行く。
 「高村君・・・頑張ってね!」
 編集部員の中島が可愛らしい笑顔を向けて言った。親指を立ててニッコリ笑う高村。
 高村が、部屋を出て行くと、編集長はタバコを取り出して火をつけた。美味そうにタバコをふかすと呟くように言った。
 「しかし・・・この一件は、長引くだろうなあ・・・」
 編集長は、テレビに目を移した。テレビでは、レポーターがヒステリックに叫んでいた。


 城南大学付属病院では、中尾教授と白井が、学長と病院長に呼び出されていた。
 「まずいことになったな・・・」
 学長が二人を見つめながら言った。
 「カルテを見ていただけば分かりますが、あの場合に彼の命を救うには、あの治療法しかありませんでした・・・」
 中尾教授が、静かに言った。
 「先生は、ぎりぎりまで遺伝子治療を躊躇っておられました。それに、カルテを見られたのは僕の責任です。責任は・・・」
 白井の言葉を中尾がさえぎった。
 「責任は、私にある・・・私のクランケ(患者)だからね・・・しかし・・・」
 中尾は、学長と病院長に向き直った。
 「この件は、以前に制定された特別法に従って適正に処理されました。個人のプライバシーを守るために戸籍も変更されています。遺伝的には、彼女は完全な女性です。今の報道には問題があると思います」
 「・・・私もそう思う」
 病院長が頷いた。
 「学長・・・この件については、病院、いや・・・大学としての方針をきっちりするべきだと思いますが」
 病院長が学長の方に向き直って言うと、
 「そうだな・・・よし、すぐに記者会見をするぞ。記者を集めてくれたまえ」
 学長が二人を見ながら言った。

 記者会見が始まった。もともと、明日香を取材するために大阪に集まっていた記者たちは、病院で記者会見があると聞いてすぐに移動してきた。
 「それでは、只今より城南大学付属病院から、記者発表を行います」
 病院長や中尾教授、白井が正面の席に座り、記者発表が始まった。照明やストロボの青白い光が3人を照らしている。
 「まず、今回の一連の報道に対して、城南大学付属病院としては、非常に遺憾に思っております」
 病院長が、怒りを抑えながら話し始めた。
 「病院としては、患者のプライバシーは守られるべきものだと考えております。
 今回、患者のカルテを雑誌に掲載されたことに対して、病院としては出版社に厳重に抗議し、法的手段も辞さない覚悟であります」
 竹村は、震え上がった・・・法的手段を取ると言われ、彼の立場がまずくなるのではないかと考えたのだ。
 『しかし・・・個人を訴えたりはしないだろう・・・いざとなれば、会社が守ってくれるはずだ・・・』
 竹村は、そう考えた。
 「患者は、ここに運ばれた時にはすでに瀕死の状態であり、遺伝子治療以外には助かる見込みはありませんでした。その結果として女性になったのであり、患者が望んだものではありません。彼女は、それに適応しようと懸命な努力を続けています。また、遺伝的には完全に女性であって、仮にスポーツをしたとしても、元男であるアドバンテージは一切ありません。これは、医療関係者としてはっきり申し上げておきます」
 中尾教授が言うと、記者たちから質問の声があがった。
 「それでは、なぜ今まで発表されなかったのですか?」
 中尾は苦笑した。
 「それは、こういうことになるとわかっていたからです。患者のプライバシーを守るために、特別法に則った戸籍の変更をし、また、病院側も発表を控えました。これは、適切に処理されており、何も問題はありません」
 中尾がきっぱり言うと、記者は椅子に腰をおろした。
 「本当にそうなのか?」
 竹村が声をあげた。
 「何か?」
 中尾教授が竹村を睨みつけた。
 「いや・・・病院は、高原に協力をするために真相を隠そうとしているんじゃないのですか?」
 「どういう意味だ!」
 若い白井は、思わず椅子から腰をあげた。
 「あいつが、女になって、テニスのトッププロになろうとしているのに、あんた達が協力しているという意味だよ」
 竹村が笑いながら言った。
 「あなたですね・・・カルテを写真に撮ったのは」
 白井が言うと、
 「そうさ、あれは俺のスクープだよ」
 「それなら、あのカルテをどこかの病院で見てもらった方がいいですね。それを見た医者がなんて言うか、きちんと雑誌に載せてもらいたいですね」
 中尾が、竹村に向かって笑いかけた。
 「その必要はない・・・真実は一つだからな」
 竹村が胸を張って叫んでいる。その顔は、青白い。
 「とにかく、病院側としては、皆さんに良識ある報道をお願いいたします」
 病院長が締めくくった。3人は、お互い顔を見合わせていた。これから彼らがどう報道するのか・・・3人はお互いに無力感を感じていた。


 黒田は、事務所を兼ねているマンションの一室でテレビをつけていた。テレビでは、レポーターが、明日香は自分から女性になり、トッププレーヤーを目指したと報道していた。
 「何を馬鹿なことを・・・今更・・・」
 黒田は、手に持っていた“ファインダー”を古雑誌を置いている箱に投げ込んだ。テーブルに置いてあったマイルドセブンの箱から一本取り出すと、火をつけた。しかし、少し喫ったただけで、灰皿で揉み消してしまった。
 「あの娘・・・自棄を起こさなければいいがな・・・」
 黒田は窓の外に目を移した。辺りは暗くなり始めていた。


 明日香は、その日は練習にも参加せず、一人で学校から帰っていった。
 町を歩いていても、周りの人は冷たい視線で明日香を見ていた。
 「あの娘よ・・・自分から女の子になったんだって・・・」
 「まあ・・あんなに可愛いのに、人は見かけによらないわよねぇ・・・」
 明日香は、たまらなくなって走り出した。大きな瞳から涙が流れている。
 「なぜ・・・いったい僕が何をしたって・・・」
 明日香は、走りながら涙を流しつづけていた。


 翌日、明日香は洋子と一緒に学校に行った。
 登校途中の道でも、明日香には周りから冷たい視線が浴びせられている。明日香は、いつもと違って一言も口を開こうとはしない。洋子には、明日香のそんな様子が痛々しくて見ていられなかった。
 「明日香・・・」
 「なに?」
 「学校・・・休んでもいいんだよ・・・」
 明日香は、寂しそうに笑った。
 「ありがとう・・・でも、僕は現実から逃げたくないんだ・・・」
 「そう・・・」
 洋子も笑った。二人は、校門をくぐって学校に入っていった。
 教室に入った二人は、クラスメイト達が昨日と同じ雰囲気なのに気がついた。誰も・・・西田でさえも、明日香と目をあわそうとはしなかった。明日香は、たまらない淋しさを感じていた。
 机にかばんを置いて椅子に座ると、
 「高原さん」
 明日香が振り返ると、島田が微笑みながら立っていた。
 「・・・キャプテン・・・」
 いつもと変わらない、島田の笑顔を見た明日香は、涙が出そうになっていた。
 「高原さん、今日は練習に出るんでしょう?」
 「え・・・?」
 「嫌なことがあるときには、思いっきりテニスをしようよ。私も、高原さんがいないとね・・・」
 そう言うと、島田は微笑んだ。明日香には、島田の肌がいつも以上に白く見えた。
 「キャプテン・・・体は大丈夫?」
 「大丈夫よ。じゃあ放課後、待っているわよ」
 そう言うと、島田は席に戻って行った。
 「キャプテン・・・」
 明日香は、島田の暖かい気持ちが嬉しかった。大きな瞳からは涙があふれてきた。明日香は嬉しさに肩を振るわせながら涙を流していた・・・。


 放課後、明日香は洋子と一緒にクラブの練習に参加するため部室に向かった。
 「ちょっと、そこに入らないでよ!」
 「え・・・?」
 女子部員の一人が声を上げた。更衣室のドアを開けようとした明日香の手が止まった。
 「ちょっと・・・どういう意味よ!」
 洋子が声を上げた女子部員に向かって尋ねた。
 「だって先輩、その人は男でしょう。だったら男子の更衣室に行ってもらわないと」
 「でも、自分から女になったんじゃあ、その体を男に見られるのは嫌かなあ・・・」
 そう言うと、笑い出した。
 「あなた達!」
 「やめろよ・・・洋子・・・」
 後輩を怒鳴りつけようとした洋子を、明日香が止めた。洋子は、周りを見回した。テニス部員みんなが、事の成り行きを見守っている。その中には、西田や新谷、山本といった、普段から明日香と親しくしている顔もあった。しかし、誰も止めようとはしない・・・。
 「どうしたの?!」
 更衣室から、島田が出てきた。周りの雰囲気がおかしいことに気づいてみんなに尋ねるが、誰も答えない。
 「みんな・・・今までありがとう・・・楽しかったよ・・・ロッカーの中にある僕の荷物、持って帰らせてもらえるかな・・・」
 明日香は、作り笑いをしながら言うと、更衣室の中に入っていった。しかし、誰も、何も言わない。
 「みんな・・・本当にそれでいいの?」
 洋子が、明日香と部員達を見比べながら尋ねた。しかし、誰も答えない。島田も、心配そうに成り行きを見守っている。自分が明日香を励ますためにした行為が、今、最悪の結果になりつつある。
 「最低・・・私、明日香と一緒にテニス部を辞める!」
 「そんな・・・中尾先輩まで辞めることないじゃないですか?!」
 「そうですよ・・・辞めるのは嘘をついていた高原さんだけで・・・」
 部員たちが声を上げる、洋子は部員達の方に振り返った。その瞳には、涙がたまっていた。唇は硬く噛締められている。
 「あなた達・・・今まで明日香のどこを見ていたのよ・・・いっしょに練習をしていた仲間を信じられない人なんかと、私はテニスを出来ないよ!」
 そう言うと、洋子も更衣室に姿を消した。
 「みんな! いったい、どうしちゃったのよ?! こんなことでいいの?!」
 島田が声をあげる。
 「でも、キャプテン。高原先輩は・・・」
 山本が言うと、
 「そうですよ、テレビなんかでも、自分から女になったって言っているし、“ファインダー”でも・・・」
 部員達が口々に言った。
 「みんな・・・頭や目をどこにつけているのよ! みんな、今までの高原さんを見ているんでしょう?! あんなにいっしょに練習をしていたじゃない。あんなに一緒に遊んでいたじゃない。それは何だったの?! どうなのよ?! 西田君!!」
 いつもは優しい島田が、厳しい表情で西田の目を見つめた。たまらず。西田は、視線をそらせてしまった。
 島田は、更衣室のドアを見た。明日香と洋子が、紙袋にロッカーの中の荷物を入れて出てきた。
 「みんな・・・ありがとう。それじゃあ・・・」
 ニッコリ笑うと、明日香と洋子が歩いていく。
 「高原さん!!」
 島田が叫んだ。振り返る明日香。明日香はニッコリ笑うと、みんなに手を振った。
 「ありがとう!」
 二人が歩いていくのを、島田はいつまでも見つめていた。
 「こんなことって・・・なぜこんなことに・・・」
 島田の目からは、熱い涙が流れていた。

 明日香と洋子は、職員室の柴田先生のところに来ていた。
 「テニス部を・・・退部するですって?!」
 柴田先生の机の上には、二人が出した退部届が置かれている。柴田先生は、二人を厳しい目で見ている。
 「僕がいると、クラブがまとまりません、それに、マスコミが押しかけて迷惑がかかります・・・」
 明日香は俯きながら言った。
 「こちらを見なさい!」
 柴田先生の厳しい声が職員室に響いた。辺りにいる先生達が、驚いた目で二人を見ている。
 「テニス部のみんなは、テレビなどの報道することだけを信じています。これではみんなと一緒にテニスなんて出来ません!」
 洋子が興奮気味に言った。柴田先生は、優しい目になって二人を見つめていた。
 「今はみんなが興奮しているからね。しばらくお休みすればいいんじゃないかな・・・」
 「とにかく、僕は・・・」
 そう言うと、明日香は柴田先生のほうに退部届を押しやった。
 「私も、明日香を追い出してしまうようなクラブには、いたくありません!」
 洋子が吐き捨てるように言った。
 「・・・わかったわ、これは預かっておく・・・でも、受理したわけじゃないわよ。あなた達は、これからもテニス部員だからね」
 「そうだ・・・」
 二人の後ろから、滝沢先生の声がした。
 「俺達は、おまえ達を放り出すような真似はしないよ」
 そう言うと滝沢先生は、二人の肩を叩いて職員室を出て行った。明日香と洋子は、複雑な表情でお互いの顔を見合わせていた。


 翌日の放課後、明日香と洋子は、授業が終わるとすぐに教室を出て行った。
 「あの二人・・・本当にクラブを辞めちゃったんだ・・・」
 島田は、言いようのない寂しさを感じていた。
 島田は、かばんに教科書やノートを入れると、重い足取りでクラブに向かった。コートに行くと、
 「よぉ・・・新キャプテン!」
 ダウンジャケットを羽織った黒田と、スーツの上にコートを着た高村がコートの脇に立っていた。
 島田は、なぜか二人を見ると怒りが湧いてきた。
 「なにか?」
 いつもとは違う島田の態度に、高村と黒田は顔を見合わせた。
 「いや・・・高原さんの取材に来たんだけどね。今日はいないようだね」
 高村の言葉に、島田の怒りが爆発した。
 「もう来ないですよ・・・」
 「え・・・?」
 「だから、高原さんは、もうクラブには来ないんです!!」
 島田の瞳からは涙が流れ出した。
 「高村さん! マスコミは、いったい何の権利があって高原さんのことをあんなに悪く言うのですか? それを見たみんなが、高原さんを悪く思うのを全く考えてないんじゃないですか? このあと、あれは嘘だと言っても、みんなが一度、高原さんに持ったイメージは、なかなか晴れないですよ!! 高原さんには・・・言い返す力なんて無いのに! これじゃあ、ただの弱いものいじめじゃないですか?!」
 島田が、泣きながら一気にまくし立てた。高村は、島田を呆然と見つめていた。黒田も黙ったまま島田を見つめている。
 「マスコミの人たちが言いたい放題言うから・・・テニス部は、バラバラになってしまいました。みんなは、高原さんが悪いと言って追い出しちゃうし、私は・・・キャプテンとしてそれを止める事が出来なかった・・・」
 島田の瞳からは涙が流れ続けている。高村は、声をかけることが出来なかった。その時、
 「ほお・・・これはいい事を聞いたなあ・・・『偽りの女子テニスプレーヤー、部員達に追われてテニス部を退部』か・・・いいネタを貰ったぞ」
 島田の後ろに、竹村がカメラマンを連れて立っていた。
 「竹村・・・おまえ」
 黒田が苦々しげに言った。
 「もっと聞かせてくれないか? みんなはどうやって追い出したんだ」
 「誰があなたなんかに・・・あなたがあんなことを書くから高原さんは・・・」
 島田が竹村を睨みつけている。テニス部員達は、いったい何が起きたのかと成り行きを見守っている。
 「いいじゃないか・・・偽美少女が罰を受けていると知ったら読者が喜ぶから。なあ、教えてくれよ」
 竹村が島田に迫る。
 「おい・・・何を言っているんだ。“罰”だなんて・・・あなたが決めることじゃないだろう!」
 高村が思わず声を荒げた。
 「若造が何を言っているんだ。嘘をついていたからこうなったんだ。“罰”を与えるのは当然だろう。俺達もそれに協力しているわけだ!」
 「それは、この娘達が決めることだ。僕達のする事じゃあない!」
 「何言ってんだか・・・」
 そう言うと、竹村は島田に向き直った。
 「さあ・・・事情を話してくれ」
 「やめて下さい!」
 島田は、竹村が差し出すテープレコーダーを手で払おうとした。
 「いいから話せ!」
 竹村と島田が揉み合いになった。
 「やめないか!」
 黒田と高村が竹村を止めようとした。その時、
 「あっ?!」
 島田が転倒した。砂利を敷いた地面に転倒して起き上がろうとしたとき、島田の視界が真っ暗になった。そのまま、島田の意識は遠のいていった。
 「おい・・・キャプテン、しっかりしろ!」
 黒田が叫んだ。咄嗟に島田を抱き起こした。
 「キャプテン! しっかりしろ!・・・おまえ!!」
 高村が島田の小さな肩を揺すりながら、竹村を睨みつけた。
 「きょ・・・今日の取材は終わりだ。・・・おい! 帰るぞ!」
 竹村は騒ぎに背を向けて、大急ぎで立ち去っていく。
 「キャプテン! しっかりして!」
 「おい! 誰か! 先生を呼んで来い!」
 竹村の背後から、テニス部員達の声がしている。走り去る竹村の顔は真っ青になり、唇は興奮からカサカサに渇いていた。

 明日香は、洋子と一緒に家に帰っていた。報道があった後、明日香は、いつしか人目に付くのを避けるようになっていた。
 『ピンポ〜ン』
 玄関のチャイムが鳴った。
 「もう・・・またマスコミかな?!」
 洋子が頬を膨らませて玄関に歩いていった。明日香は、読んでいた雑誌に目を戻した。
 「柴田先生! どうしたんですか?」
 玄関から、洋子の驚きの声が上がった。
 「高原さんは、いるの?」
 柴田先生の声を聞いて、トレーナーとジーンズ姿の明日香が、玄関にやってきた。
 「高原さん、中尾さん、私と一緒に病院へ行ってくれない?」
 「なぜ・・・?」
 「島田さんが・・・倒れたの! 二人の名前をうわ言のように言っているわ。急いで!!」
 柴田先生は、二人を自分のヴィッツに乗せると、急いで車を走らせた。
 「島田キャプテン・・・いったいどうしたんですか?」
 後部座席から、明日香が先生に尋ねた。
 「島田さんはね・・・急性白血病だったの」
 「え・・・?」
 明日香も洋子も、あまりのことに咄嗟に言葉が出ない。
 「島田さんはね・・・あなたが男の子だったって、ここに転入してきた時に気が付いていたわよ。以前に男の子に言い寄られて困ったことがあったんですって? その時に気が付いたみたいね。私に聞いてきたから、見守ってあげて欲しいと言っておいたのよ」
 明日香は、言葉が出なかった。やがて、柴田先生の車は、城南大学付属病院に着いた。
 明日香達は、病棟の中を歩いていく。洋子は、島田の病室から出てくる中尾教授と白井を見つけた。
 「お父さん!」
 「おお・・・来たのか・・・」
 「キャプテンは?」
 明日香も尋ねた。中尾教授は、苦しそうな表情をしていたが、小さく首を振った。
 「意識は戻ったがな・・・もう私には打つ手が・・・」
 「そんな・・・」
 洋子が呟いた。
 「先生、僕に使った治療法をキャプテンに使ってください! そうすれば・・・」
 明日香は、中尾教授にすがりついた。咄嗟に白井が止めに入った。
 「落ち着いてください! いいですか、あの治療法は、細胞を活性化させる治療法です。今、島田さんに使うと、病気まで活性化させてしまうので使えないんですよ・・・」
 明日香は、うなだれてしまった。柴田先生は、明日香の小さな肩に手を置いて言った。
 「さあ、行きましょう」
 明日香達は、病室のドアをノックした。
 「どうぞ!」
 中から、島田の声が聞こえてきた。明日香は胸が熱くなった。ドアを開けると、島田がベッドに横たわっていた。ベッドの横では、島田の母親が3人に会釈をしている。明日香達も母親に会釈をした。
 「あ・・・来てくれたんだ・・・ありがとう・・・」
 島田は、嬉しそうに言った。明日香の見ている島田の肌は、いつも以上に白く見えた。
 「ごめんね・・・心配をかけて・・・」
 島田が言うと、
 「僕の方こそ・・・ごめんね・・・」
 明日香の瞳から大粒の涙がこぼれた。
 「ううん・・・謝る事ないよ・・・私は、今まで高原さんから一杯元気を貰っていたんだよ」
 「僕から?」
 「うん・・・高原さんが、女の子になってしまっても頑張っているのを見て、私も病気と戦おうと・・・」
 島田が笑った。
 「嫌だね・・・人の一面だけを見て悪口を言うのは・・・私、今日は“ファインダー”の竹村って人とけんかしちゃった・・・」
 「真美が?」
 驚く洋子。
 「そうだよ・・・私だって、やる時はやるんだから!」
 みんなの笑い声が病室に響いた。

 病室の外には、西田と新谷が見舞いに来ていた。ドアを開けようとした西田は、明日香達の笑い声を聞いて、思わず手を止めた。
 「どうしたんだ?」
 新谷が怪訝な顔をした。
 「今日は帰ろう」
 そう言うと、西田はさっさと廊下を歩いていった。
 「おい!・・・西田、待てよ!」
 西田を追いかけていく新谷。

 「高原さんが、プロデビューをした時は、私も嬉しかった・・・」
 島田は、ニッコリ笑うと、
 「私も、自分に実力があれば頑張ってみたかったけど・・・」
 島田は、明日香の大きな瞳を見つめた。
 「お願い・・・テニス部を辞めるなんて言わないで・・・これからもみんなと一緒に頑張って・・・」
 「でも・・・みんなが許してくれるかどうか・・・」
 「・・・今は、みんな頭に血が上っているけど・・・高原さんが頑張っているのを見ればわかってくれるわよ・・・高原さん・・・あなたは本当に女の子なんだよ・・・」
 そう言うと、島田は母親の方に向き直った。
 「お母さん、あれを取って」
 母親は、島田に何か小さなものを手渡した。
 「高原さん、これをあげる・・・」
 島田は、明日香の手のひらにあるものを置いた。手のひらを見る明日香。それは白いリストバンドだった。
 「これは・・・?」
 「高原さんは、これから“パシフィック・カップ”に出て世界選手権に出るんでしょう? 私も一緒に連れて行って・・・世界選手権の・・・あのセンター・コートでテニスをする高原さんを私も見たいの・・・」
 島田の大きな瞳から涙が流れている。明日香は、何も言えなかった。ただ、黙って島田を見つめたまま涙を流していた。
 「お願い・・・」
 島田が呟くように言うと、明日香は黙って頷いていた。

 3人が病室から外に出た。見送りに来た島田の母親に挨拶をすると、3人は黙ったまま廊下を歩いていく。たまらず、明日香が泣き崩れた。
 「明日香・・・」
 洋子が明日香の肩に手をかけた。しかし、その洋子の瞳からも涙が流れている。柴田先生は、涙をこらえようとしていた。しかし、その瞳は真っ赤になっている。
 「さあ、二人とも! 泣いてばかりいるとキャプテンに怒られるわよ! さあ、帰りましょう」
 3人は、柴田先生の車で家に帰っていった。

 島田が静かに息を引き取ったのは、その夜のことだった・・・。


 葬儀の日、空は島田の死を悲しむかのように、今にも雨が降り出しそうな曇り空だった。
 明日香はクラスメイト達と一緒に、制服を着て葬儀に参列した。
 相変わらず、周りからは好奇な目で見られている。しかし、明日香は親友との最後の別れのために参列をしていた。
 「高原さん・・・」
 明日香が振り返ると、喪服姿の高村と黒田が立っていた。
 「高村さん・・・黒田さんも来てくれたのですか?」
 「やあ・・・大変だったね・・・」
 黒田が優しい眼差しを明日香に向けた。いつもは濃い色のサングラスをかけている黒田が、この日は何もかけてはいなかった。
 『黒田さん・・・本当はこんなに優しい目をしているんだ・・・』
 明日香は改めて思った。
 「僕達も・・・島田さんにお別れをしたくてね・・・」
 高村が、寂しそうに笑った。
 突然、
 「何ですか? あなた達は?!」
 受付の人が声をあげた。
 「取材だよ! 取材!!」
 “ファインダー”の記者、竹村がカメラマンを連れてこちらに歩いてくる。
 「いた、いた・・・おい! 写せ!!」
 竹村がカメラマンに向かって言った。カメラマンが明日香に向かってカメラを構える。
 「ちょっと待て!」
 黒田が二人の前に立ちふさがった。
 「何をするんだ!」
 竹村が怒鳴る。
 「あなたは、ここがどういう所なのか、わかっているのですか?」
 黒田が静かに言うと、
 「ああ・・・わかっているよ、ちゃんと大学の前のパン屋のおばさんから聞いているよ! 偽女の子の親友が死んだってね!」
 明日香はたまらなくなって下を向いてしまった。洋子は、明日香の肩を優しく抱きながら、竹村を睨みつけている。
 「読者の溜飲も下がるだろうな。嘘をついてきた罰を受けているわけだからな。おい! 早く撮れ!!」
 「待て!」
 高村が、カメラのレンズを抑えた。
 「何を・・・!」
 「ここでは、今から亡くなった人を弔うんだ。取材者にも仁義というものがあるだろう。ここは、おとなしく帰ってくれませんか?」
 竹村は、周りを見回した。冷たい視線が彼らに集まっていた。
 「くそ! おい、ここは一先ず帰るぞ!!」
 竹村は苦々しげな顔を明日香に向けて、カメラマンを連れて帰って行った。 

 葬儀は、厳粛なものだった。明日香達は、棺の中に眠るように横たわっている島田に菊の花を供えていった。
 「島田さん・・・本当にごめんね・・・そしてありがとう・・・」
 明日香は、棺の中に花を供えながら呟いていた。大粒の涙が棺の中に落ちた。
 「明日香・・・大丈夫?」
 洋子が心配そうに、明日香の顔を覗き込んでいる。
 「・・・大丈夫・・・」
 明日香は笑ったが、洋子には明日香が、とても疲れているように見えた。
 島田の棺が、車に乗せられた。明日香達は、整列して島田を見送った。明日香はあふれる涙をぬぐおうともせずに島田を見送っている。
「さようなら・・・島田さん。私の親友・・・」

 帰り道、明日香は洋子と一緒に家に帰ろうとしていた。二人はずっと黙ったままだ。突然、
 「洋子・・・先に帰っていてくれないか?」
 「どうしたの?」
 「うん・・・ちょっと・・・」
 「大丈夫なの?」
 「うん・・・心配しなくて良いから・・・」
 そう言うと、明日香は制服を着たまま、どこかへ歩いていった。

 明日香は、放課後の学校に来ていた。もう、クラブ活動も終わって、校内には誰もいない。
 明日香は、制服姿のままラケットを持って、壁うち用のコートに立っていた。
 あれから明日香は、島田との思い出が頭の中をよぎっている。
 『ポーン・・・』
 明日香は、思いっきりボールを打った。壁に跳ね返ったボールが帰ってくる。
 『ポーン』
 『ポーン』
 明日香は、一心不乱にボールを打ちつづけている。
 明日香の心の中では島田との思い出が、まるで砂浜に押し寄せる波のように思い出されていた。
 登校初日に初めて出会った島田。一緒にテニスをしている島田。みんなと一緒に、美味しそうにクレープを頬張っている島田。
 『ポーン・・・ポーン・・・』
 いつしか雨が降り出した。それでも、明日香はラケットを振ってボールを打ちつづけている。
 みんなで海に行ったときの島田。明日香がプロの大会で活躍するのを喜んでくれている島田。そして、病院で入院している時の島田との会話が頭によみがえった。
 『お願い・・・テニス部を辞めるなんて言わないで・・・これからもみんなと一緒に頑張って・・・』
 明日香は、ラケットを振りつづける。雨は激しくなってきていた。明日香の長い髪は、雨に濡れて顔にまとわりついてきていた。
 『・・・高原さん・・・あなたは本当に女の子なんだよ・・・』
 「でも・・・でも、僕は・・・」
 呟きながら、明日香はラケットを振る。ボールがラケットに当たる度に水飛沫が飛び散っている。

 少し離れた場所から、喪服姿の高村と黒田が、傘をさして明日香を見つめている。がむしゃらな明日香の姿を見て、二人は声をかけることが出来ないでいた。
 「相当こたえたようだな・・・島田君が亡くなったのは・・・」
 黒田が呟いた。
 「ああ・・・こんな時に身近にいる親しい人がいなくなるなんて・・・」
 高村も視線を明日香に向けたまま言った。

 明日香は、ラケットを振りつづけていた。思い出が脳裏に甦って来る。
 『・・・高原さんは、これから“パシフィック・カップ”に出て世界選手権に出るんでしょう? 私も一緒に連れて行って・・・世界選手権の・・・あのセンター・コートでテニスをする高原さんを私も見たいの・・・お願い・・・』
 「でも・・・でも、僕は!!」
 明日香は思いっきりラケットを振った。跳ね返ったボールが、明日香のラケットをすり抜けた。
 『バシャッ』
 激しい雨が降るコートに明日香が座り込んだ。驚いた高村が明日香に駆け寄ろうとすると、黒田が高村の肩に手をかけた・・・そっとしておけ・・・そう言うように、黒田は小さく首を振った。二人が明日香を見つめている・・・。
 明日香は雨にうたれながら小さく肩を震わせていた。もう制服は、雨でずぶ濡れになっている。顔は雨と涙で濡れていた。明日香は、島田の願いに答えることの出来ない自分が情けなかった。自分の力ではどうにもならない状況が悔しかった。
 「ごめん・・・島田さん・・・・僕は・・・ごめんよ・・・」
 明日香は雨の中で座り込んだまま、いつまでも涙を流し続けていた。黒田と高村は声もかけることが出来ない。その後ろから、西田が明日香を見つめていた事に、3人は気づかなかった・・・。冷たい冬の雨が明日香を濡らし続けていた・・・。



 翌朝、
 「明日香? 起きてる?」
 洋子が、明日香の部屋のドアをノックした。しかし、中から返事がない。
 「明日香、開けるよ?」
 洋子は、ゆっくりとドアを開けた。部屋の中を覗き込んだ洋子の目に、ずぶ濡れの制服を着たままうずくまっている明日香の姿が飛び込んできた。
 「明日香・・・」
 その姿を見た洋子は、かける言葉が見つからなかった。
 「・・・洋子・・・おはよう・・・」
 「大丈夫?」
 「うん・・・」
 明日香がゆっくり立ち上がった。疲れきった明日香の姿を見た洋子は、胸が熱くなった。
 「明日香・・・今日は、学校を・・・」
 「大丈夫だよ・・・でも・・・」
 明日香は、自分の体を見下ろした。制服はずぶ濡れになっている。このままでは学校にはいけない。
 「洋子・・・先に行っててくれないか? 僕も、着替えてすぐに行くから・・・」
 「うん・・・じゃあ、先に行ってるね」
 洋子は、部屋のドアを閉めて学校に出かけていった。明日香は、部屋を出てバスルームに向かった。ずぶ濡れの制服を脱ぐと、バスルームに入って暖かいシャワーを浴びた。冷えきった体にかかる、温かいお湯が気持ちよかった。

 洋子は、一人で学校に向かって歩いていた。いつも一緒にいる明日香がいないので、登校中の町の風景がいつもと違って見えた。
 「いつもは、おしゃべりをしているからなあ・・・朝の町って、こんな感じなんだ・・・」
 ふと、洋子が横を見た。そこは、工場を囲む塀だった。塀に裂け目が出来ていて、人がすり抜けられるほどの隙間がある。それを見た、洋子の顔に笑みが浮かんだ。
 「子供の頃、正紀君と、ここから中に入ってよく怒られたなあ・・・この中には・・・」
 洋子は、隙間から中を覗き込んだ。
 「あっ・・・これは?」

 明日香は、シャワーを終えると、体にバスタオルを巻いて、髪をドライヤーで乾かしていく。新しい下着を身に着けて、予備の制服を着て、髪を整えていく。
 「さあ・・・行こうかな?」
 明日香が家を出て学校に向かった。しばらく歩くと、突然、後ろからクラクションを鳴らされた。
 「黒田さん?!」
 黒田の運転する、白いファンカーゴが明日香の横に停まった。
 「学校まで送っていくよ」
 黒田の目が、黒いサングラスの下で笑っている。
 「でも・・・」
 「大丈夫さ・・・取材じゃないよ」
 黒田が笑って助手席のドアを開けた。
 明日香が車に乗ろうとすると、
 「おはよう!」
 後部座席に高村が乗っていた。慌てて明日香が車を降りようとした。
 「あ・・・大丈夫だよ! 僕も取材で来た訳じゃないから!」
 明日香は、疑わしげな目で二人を見ている。高村と黒田は、明日香のそんな様子を見ていて悲しくなってきた。あれほど明るく元気だった明日香が、見る影もないほど心が傷ついている。それは、自分達マスコミが傷つけたのだと思うと、高村は心が痛んだ。
 「大丈夫だよ。さあ、乗って」
 明日香が助手席に乗り、ドアを閉めると黒田は車を発進させた。
 「全豪オープンで、今年もクルーズが優勝したな」
 黒田が明日香に話し掛ける。
 「えっ・・・そうなんですか?」
 「そうだよ。昨日の決勝戦で、同じウイリアムズコーチの指導を受けている中国系アメリカ人のステラ・チャンをストレートで破ったそうだ」
 高村が後部座席から話し掛けた。
 「クルーズ・・・よくやっているよね。24歳でグランドスラム(全豪・全仏・ウインブルドン・全米)完全制覇だよ」
 黒田は、前方を見つめたまま微笑んでいる。
 明日香は黙り込んだままだ。
 「クルーズは、何回か写真を撮る機会があったけどね・・・」
 黒田は、運転しながら話し出した。
 「彼女は、いろいろな意味でプロだな・・・いや・・・ある意味では、一番プロらしくはないかもしれないけどね」
 「どういう・・・意味なんですか?」
 明日香が首を傾げながら尋ねた。
 「プロテニス選手にも、いろいろなタイプがいてね・・・」
 黒田は、滑るように車を走らせながら、明日香に話している。
 「目立つのが好きでタレントみたいになっている奴もいれば、自分の国のトップになっただけで満足する奴もいる。でもね・・・あの、クルーズは、あれだけの成績をあげても、まだ強くなりたい、上手くなりたいと思っているんだよ。そして、そのための努力を実行している・・・」
 明日香にも、思い当たることがあった。ウインブルドンで勝った後にもかかわらず、クルーズは、早朝から練習をしていた。その積み重ねが、グランドスラム制覇につながったのだ。
 「それにね・・・あまり知られていないけど、彼女は代理人を立てないで自分でマネージメントまでしているんだよ・・・だから参加をする大会の数は少ないけど、それだけに出場した大会では、素晴らしい成績を上げている・・・代理人を立てると、参加大会を増やそうとするからね・・・その方が、代理人も儲かるし!」
 黒田が笑った。明日香は、考え込んでいる。
 「俺達カメラマンもそうだけどね・・・」
 黒田は少し真剣な顔で話し出した。
 「会社に雇われていても、フリーでもプロのカメラマンは、プロのカメラマンなんだよ。でもね、会社に雇われていると、自分の気に入らないものでも、撮れと言われれば、撮らないわけにはいかない・・・その代わり、お金は確実に入るけどね」
 明日香は、黒田の横顔を見つめている。
 『いったい、黒田さんは、何を言いたいのだろう?』そう思っていた。
 「フリーだと、自分の気に入ったものを納得するまで撮ることができる・・・その代わり、自分で結果を出さないと、仕事は来ないけどね! 俺だって、ご飯も食べることが出来ない時期があったよ!」
 黒田は、大笑いをしている。
 「君も、そうなんじゃないかな。今の君には、守ってくれる人はいない・・・しかし、君はプロテニス選手だ。どんな状況でも結果をきちんと出せば、周りの君を見る目が変わってくると思うよ」
 明日香は、真剣な目で黒田を見つめている。後部座席に座っている高村は、言葉を飲み込んでいた。
 「でも・・・僕は・・・」
 「状況がどんなに悪くても、プロはプロだ。いざチャンスが来た時に、『準備が足りないから結果が出せません』ではプロと言えないぞ」
 黒田が、厳しい目で明日香を見た。考え込む明日香。
 「そう言えば、おまえ、大学時代に貧乏していても、カメラだけは良い物を持っていたなあ・・・」
 高村が後部座席で笑っている。
 「フフフッ・・・道具は良い物を持っていないとな。いざという時に、ろくに使えないような物では・・・」
 黒田も笑っていた。
 車が、校門の前に着いた。車を停めた黒田は、助手席に座る明日香の大きな目をしっかりと見て言った。
 「辛いだろうけど・・・今の君は、プロテニス選手だ。絶対に諦めるな。島田君のためにもな・・・」
 黒田の言葉に、明日香は力強く頷くと、ドアを開けて車を降りた。
 「頑張れ!」
 高村も、後部座席の窓を開けて、明日香に声をかける。
 「ありがとうございます!」
 明日香は、手を振って校門に走って行く。
 「・・・本当に・・・頑張れよ・・・」
 高村が、明日香の後姿を見送りながら呟いた。
 「あの娘なら…大丈夫さ・・・きっと・・・」
 黒田も、微笑みながら言った。

 その日も、相変わらず周りから冷たい視線を浴びせられたが、明日香の心は前日までに比べると少し楽だった。
 黒田と、高村の励ましは、明日香の心に立ち込めた暗雲から差し込む光になっていた。授業が終わると、
 「明日香」
 洋子が声をかけてきた。
 「どうしたの?」
 「この後・・・何か予定でもある?」
 「もう、クラブも辞めちゃったし・・・何もないよ」
 「帰りに・・・ちょっと付き合ってくれないかな?」
 洋子が、意味ありげに笑っている。
 「どこに行くの?」
 「面白いところよ」
 洋子は、ニコニコ笑いながら言った。明日香が、洋子のこんなに楽しそうな笑顔を見るのは、騒ぎが起こってから初めてだった。
 「さあ、行こう!!」
 洋子は、明日香の机の上に置いてある教科書やノートをかばんにしまっていく。
 「さあ!」
 「うん!」
 明日香も、なんだか楽しくなってきていた。洋子と一緒に教室を出て行く。クラスメイトたちは、明日香の背中に冷たい視線を投げかけている。その中で、西田は複雑な気持ちで、教室を出て行く明日香の背中を見つめていた。

 その頃、柴田先生は、全豪オープンに出場している高校時代の同級生、竹内俊介に電話をかけていた。
 「大変な事になっているようだな・・・」
 電話の向こう側で、竹内が笑いながら言った。柴田先生には、電話の向こうで苦笑いしている竹内の顔が目に浮かんでいた。
 「うん・・・参っちゃった・・・部員たちは、バラバラになっちゃうし、高原さん自身も・・・」
 柴田先生も、寂しそうに笑った。
 「彼女が・・・どうかしたのか?」
 柴田先生は、順を追って説明していった。雑誌で明日香が、かつて男だったと暴露されて学校に沢山のマスコミが押しかけたこと。明日香がみんなから白い目で見られて、柴田が、本人の口から事情を説明させたが、誰もそれを信じなかったこと。そして、クラブの部員たちからも、かつて男だったことを理由に仲間外れにされ、明日香たちはクラブを退部してしまったこと。
 「おまえ・・・まさか退部届を・・・」
 電話の向こうで、竹内が慌てている。
 「受理するわけ無いでしょう! それで、相談したくて電話をしているのよ。彼女の親しかった女子のキャプテンも、亡くなっちゃったから・・・彼女も、ショックを受けていると思うのよ」
 「そうか・・・」
 竹内が、電話の向こうでため息をついた。一瞬、沈黙してしまう二人。
 「彼女を・・・これからもテニス部員として・・・」
 竹内が尋ねると、
 「もちろんよ。春の“パシフィック・カップ”に出場させて、“世界選手権”の代表になってもらいたいのよ・・・」
 柴田先生が、かぶせるように言った。
 「世界選手権か・・・」
 竹内がつぶやいた。
 「ここにも来ている、西山君がいるからな・・・形振りかまわず高原君を・・・“パシフィック・カップ”にも出れるかどうか・・・」
 「だから・・・どうにかならないかな?」
 柴田先生が言った。知らず知らずのうちに、涙声になってきていた。
 「圭子・・・おまえ・・・?」
 竹内が、心配そうに言った。
 「ごめん・・・大丈夫よ!」
 柴田先生は、無理をして笑っている。
 「・・・わかった・・・俺も、考えてみるよ」
 「ありがとう・・・ごめんね、突然に、こんな事を言って」
 「いいさ! それより、俺たちのことだけど・・・」
 柴田先生は、にっこり笑った。
 「うん・・・夢がかなったらね・・・」
 「夢・・・?」
 「そう・・・私の後輩が、世界選手権のセンター・コートに立つこと・・・」
 「その夢を・・・高原君に・・・?」
 電話の向こうで、竹内が静かに言った。
 「・・・」
 柴田先生は、答えない。二人が耳に当てている受話器からは、空電の音が聞こえていた。
 「わかった・・・」
 竹内が明るく言った。
 「俺も、考えてみる。大変だろうけど、がんばれよ」
 「俊介君も、この後は、全仏に出るんでしょう? がんばってね!」
 そう言うと、柴田先生は、電話を切った。
 「何とかしないと・・・」
 柴田先生は、職員室の窓の外に眼をやった。夕日が、景色を赤く染め始めていた。


 空港のゲートに、報道陣が詰め掛けている。その中の一人に、スーツ姿の高村がいた。彼は、オーストラリアから戻ってくる、西山紀子を待っていた。
 空港のゲートから、ブランド物の服に身を包んだ西山が現れると、カメラマンたちが、いっせいにフラッシュを焚いて、西山を青白く照らしている。
 「全豪オープン、初戦敗退は、残念でしたね。どこか調子が・・・?」
 竹村が、作り笑顔で近寄って取材をはじめた。
 「ちょっと、肘に違和感があったので・・・それが無ければ、決勝まで行けるくらいには、仕上がっていました」
 竹村の方を見もせずに、歩きながら西山が答えている。竹村は、西山の後をついていきながらメモをとる。
 「日本では、高原が男だったことが発覚しましたが・・・?」
 竹村の質問に、
 「そうでしょうね。男じゃないと、私に勝てるわけ無いでしょう?」
 西山が笑った。記者に囲まれたまま、ターミナルの出口前に止められた車に、竹村と一緒に乗り込もうとしたとき、
 「“スポルト・ジャパン”の高村です」
 後部座席に座って、長身の高村を見上げる西山。
 「高原選手ですが、この後、春に行われる“パシフィック・カップ”に出場登録しているようですが?」
 「それは、無理でしょうね!」
 西山が高村を見上げて笑いながら言った。
 「あの大会では、世界選手権の“女子”の代表を決めるのよ。男が出てどうするの? 大体、プロテニス協会が出場させないでしょうね」
 ちょっと首を傾げると、にっこり笑って、
 「そもそも、高原選手自身、出場すべきじゃないと思いますけどね」
 微笑みながら静かに言った。明日香を敵視したあまりの言い方に高村は、少し腹が立ってきた。
 「それでは高原選手は、“パシフィック・カップ”に出場できないと?」
 「こら! 当たり前の質問をするな!!」
 竹村が、奥から声を荒げる。
 「フフフッ・・・」
 西山は、笑って車のドアを閉めた。車が走り去っていく。
 「まずいな・・・」
 高村は、急いで駐車場に走ると、停めてある白いカローラに飛び乗って、エンジンをかけた。
 「早く編集部に戻って、協会を取材しないと・・・あの娘は、出場できなくなってしまう・・・」
 高村のカローラは、駐車場を出ると、タイヤを鳴かせながら走り去った。

 車の中では、
 「うまくやってくれたわね」
 西山が竹村に笑いかけた。
 「私にかかれば、あんなものです」
 竹村もニヤリと笑っている。
 「ところで、高原は・・・本当に出場できないのですか?」
 竹村が尋ねた。
 「これから、出場できなくなるのよ」
 西山が、肩を震わせて笑っている。
 「車を、協会にやってくれる?」
 西山が運転手に言った。

 西山と、竹村を乗せた車が日本プロテニス協会についた。
 「協会幹部と会いたいんだけど・・・」
 車を降りるなり、西山が言った。竹村が受付に走って手配をする。
 西山は、応接室に通された。応接室には、協会の会長をはじめ、幹部たちが揃っていた。
 「全豪オープン、お疲れ様だったね」
 白髪頭の初老の紳士が立ち上がって、西山に握手を求めた。協会の会長だった。
 「どうも・・・」
 西山も、にっこり笑いながら握手をすると、ソファーに腰を下ろした。
 「今日、伺ったのは、今問題になっている高原選手のことでです・・・」
 西山は。秘書が出してくれたコーヒーを少し飲んだ。幹部たちは、お互い顔を見合わせている。竹村は、ドアの外から中の様子を知るために聞き耳を立てていた。
 「日本に帰ってきて・・・驚きました。あの高原選手が男だったなんて・・・」
 西山は、驚きと悲しみの入り混じった表情を作りながら話し始めた。
 「高原選手と対戦したときから、注目もし、今後の活躍にも期待していましたが、まさか、男だったなんて・・・」
 西山が、肩を震わせている。幹部の一人が、ハンカチを差し出した。
 「でも・・・みんなを騙してトップ選手になるなんて許すことができません・・・」
 西山は、顔を上げると、
 「高原選手は、“パシフィック・カップ”に出場登録をしています。みんなを騙すような選手を、出場させてはいけないと思います」
 西山は、ハンカチで涙をふきながら訴えた。
 「しかし・・・病院側は、何も問題が無いと言っているしなあ・・・」
 幹部の一人が呟いた。
 「協力しているのでしょうね・・・きっと・・・」
 西山は涙を拭くと、
 「そんなフェアじゃない人は、スポーツをする資格はありません・・・大会に出してはいけないと思います!」
 幹部たちは、お互いの顔を見合わせていた・・・。
 西山が、応接室から出てきた。竹村とすれ違うときに、
 「頼んだわよ」
 にっこり笑って囁くと、廊下を歩いていった。
 幹部たちが、ヒソヒソと話しながら、応接室から出てきた。
 「ちょっと・・・お話を伺えますか?」
 竹村が、会長の前に立ちふさがった。
 「何だね! 君は?!」
 幹部の一人が声を荒げる。
 「高原選手のことですが・・・“パシフィック・カップ”に登録されていますよね。
 出場させるのですか?」
 「そんなこと・・・」
 会長が困ったような顔をしている。
 「まだ何も決まっていない! これから検討するんだ!」
 幹部の一人が、そう言うと、竹村を立ち退かせようとした。その様子を、少し離れたところから“スポルト・ジャパン”の編集部員、中島が見守っている。
 「検討ということは、出場できないことも考えられるわけですね」
 「それを、今から検討するんだ! いいかね!」
 会長は、憮然として歩いていく。竹村は、ニヤリと笑うと玄関に向かって小走りに走った・・・。
 「大変だ!!」
 中島は、竹村が走り去るのを見届けると、公衆電話に走った。

 高村が編集部に戻ってきた。
 「只今戻りました! 西山選手を取材してきましたが、彼女、高原選手が“パシフィック・カップ”に出場出来ないだろうと・・・」
 高村が最後まで言い終わらないうちに、編集長が、
 「今、協会に取材に行っている中島君から電話があった。西山選手と、“ファインダー”の竹村を見かけたそうだ」
 「くそ! 協会に工作するつもりか?!」
 「この一件・・・テニス以外のところでの動きが激しいな・・・」
 編集長は、煙草に火をつけながら呟いた。
 「編集長! 次号の“編集室コラム”のコーナー・・・僕に書かせてくれませんか?」
 「おまえが?」
 「はい・・・今の報道も、協会の動きも、スポーツとは無縁のところで動いていると思います。そこに、一石を投じてみたいのです!」
 編集長は、高村の顔をじっと見ている。
 「わかった・・・中島君に話しておけ。それと、彼女が帰ってきたら、協会の動きも聞いておけ!」
 「はい!! ありがとうございます!」
 高村は、長身の体を折り曲げて、編集長に頭を下げた。


 明日香と、洋子は学校からの帰り道を歩いていた。
 「この途中にね。面白いところを見つけたんだよ」
 洋子がいたずらっぽく笑っている。
 「どんなところ?」
 「うーん・・・きっと喜んでもらえると思うよ」
 洋子が先に立って、古い塀に沿って歩いていく。
 「ここは・・・工場じゃあ」
 明日香も、塀のほうを見ている。
 「思い出した?」
 洋子が笑う。洋子は、塀の裂け目から細い体を塀の内側に入れた。明日香も、かばんを裂け目から内側に入れると、体を潜らせた。
 「あっ・・・ここは?!」
 「どう? 使えるでしょう?」
 洋子が、明日香の顔を見つめている。
 二人の前には、古ぼけたテニスコートがあった。雑草などは生えているが、まだ、充分に使えるものだった。
 「子供の頃に、よくここに来て怒られていたよね。この工場は、不景気だから、去年閉鎖されたの・・・すっかり忘れていたわ」
 「まだ、ネットとかもあるじゃないか・・・草さえ抜いてしまえば使えるよ」
 明日香は、周りを見まわしながら言った。
 「ここなら、マスコミにも、他の人にも見つからないでテニスを出来るでしょう。真美との約束を果たすためにもがんばらなくっちゃ! 私が、練習相手になってあげる!」
 洋子は、明日香の目をしっかり見つめながら言った。明日香は胸がいっぱいになってきた。マスコミの取材や、ここ数日の出来事で、人が信じられなくなってきていた明日香に、洋子の気持ちは嬉しかった。
 やがて明日香もうなずいた。
 「ありがとう・・・洋子!」
 「さあ・・・草を抜いちゃおう!」
 二人は、コートに生い茂った草を抜き始めた。
 「結構生えているね」
 「今日中には、抜いちゃおう。早く使えるようにしないと、練習が出来ないからね」
 二人は、おしゃべりをしながら草を抜いている。そのとき、塀の外をパン屋のおじさんが、スクーターに乗って通っていた。彼は、大学の売店にパンを届けた帰りだった。塀の中から聞こえる話し声に、スクーターを止めた。
 「なんだ・・・? ここは、閉鎖されて・・・」
 塀の裂け目から中を覗いた。中では、明日香と洋子が、制服姿で雑草を抜いている。
 「あの娘達・・・」
 おじさんは、しばらく明日香達二人を見つめていた・・・明日香たちは、何も知らずに一生懸命、コートに生えた雑草を抜いていた。


 翌日、明日香達は学校の授業が終わると、
 「明日香、早く行こう!」
 洋子が、肩からかばんを下げて、明日香の席にやってきた。
 「うん・・・」
 明日香は、机の上の教科書やノートをかばんの中にしまっていく。
 西田も、かばんの中に教科書をしまいながら、横目で明日香を見つめていた。
 「おい・・・西田!」
 「えっ?!」
 「おまえ・・・なにボーッとしているんだよ?」
 新谷が、脇に立って呆れたような表情で、椅子に座っている西田を見下ろしている。
 「別に・・・」
 西田は、憮然とした表情でかばんを閉じた。横目で明日香を見る。明日香は、洋子と一緒に教室を出ていった。クラスの女の子達は、相変わらずヒソヒソ話をしている。西田は、小さくため息をつくと席を立った。
 「クラブ・・・行くんだろう?」
 「ああ・・・」
 西田は、新谷と一緒に教室を出ると、廊下を歩いていく。二人が校舎の出口に来た時、西田の前に校門を出て行く明日香と洋子の後姿が見えた。
 「あいつら・・・本当にテニスを・・・」
 西田が、寂しそうに明日香の後姿を見つめていると、
 「なんだよ、西田・・・あいつが気になるのか?」
 「いや・・・」
 「あんな奴・・・ほっとけよ」
 「あ・・・ああ・・・」
 西田と新谷は、テニスコートに向かって歩いて行く。コートからは、いつもと同じように、掛け声が響いていた。

 その頃、オーストラリアでは、竹内が帰国の準備をしていた。
 ホテルのチェックアウトを済ませると、空港に行くまでの時間を、ロビーでコーヒーを飲みながらつぶしていた。
 「フウ〜ッ・・・」
 思わず竹内は、大きなため息をついた。彼は、圭子との電話の後、明日香の一件が頭から離れなかった。
 「なんとかしてやりたいけど・・・」
 竹内も、明日香のテニスを見ている。それは、決してトップになりたいから女の子になったのではないことも想像はついた。第一、男だった正紀自身が、抜群のセンスを持っていたのだ。男のままでも、充分にトップレベルの選手になれたはずだった。
 「少し考えれば・・・わかることなのに・・・」
 竹内は、また、ため息をついた。
 「どうしたの? タケウチ?」
 かわいらしい声に、竹内が振り返ると、彼の後ろにはクルーズと、彼女のコーチ、パトリック・ウイリアムズが立っていた。
 「よお? これから帰るのか?」
 「うん・・・どうしたの? 浮かない顔をして・・・」
 クルーズと、ウイリアムズコーチが竹内の前に座った。ウエイターが歩いてくると、彼女たちもコーヒーをオーダーした。
 「ああ・・・今、日本で僕の友人が指導している女子選手が、ちょっとまずいことに巻き込まれていてね・・・」
 「まさか・・・タカハラの事?」
 クルーズが慌てて尋ねた。
 「なんだ・・・知っていたのか・・・」
 竹内は苦笑いしている。
 「詳しく教えて! 彼女、いったいどうなっているの?」
 竹内は、クルーズの様子に少し驚いたが、順を追って説明していった。明日香が、マスコミにトップを狙いたいために女性になって、そのことを隠していたと言われていると話したときに、クルーズは、
 「なに言っているのかしら・・・いまさら・・・」
 「えっ・・・どういう事?」
 竹内と、ウイリアムズコーチが怪訝な顔をしている。
 「ちょっと考えれば、わかることですけどね・・・」
 クルーズが遠くを見るような目で呟いた。
 「高原君は・・・もう、プロの大会に出れないかもしれないんだ・・・」
 「どういう事?!」
 クルーズは、大きな瞳を更に大きくして驚いている。
 「さっき記者から聞いた話では、プロテニス協会が、高原君を“パシフィック・カップ”に出場させるか再検討すると、それに・・・」
 「・・・まだ・・・なにか・・・」
 「彼女・・・部員たちに追われるような形で・・・クラブを退部させられたようなんだ・・・」
 「なんですって?!」
 「それで僕に、何か良い解決方法はないかといわれたけれど・・・」
 竹内は、頭をポリポリと掻きながら、
 「しかし・・・マスコミや、部員たちの誤解を解くとなると・・・」
 大きなため息をつく竹内。時計を見ると、慌ててコーヒーを飲み干した。
 「ごめん時間だ、空港に行かなきゃ。悪かったね、つまらない話を聞かせちゃって。それじゃあ!」
 竹内は、トランクとバッグを抱えると、タクシー乗り場に走っていった。
 クルーズは、竹内の後姿を見送ると、小さくため息をついた。
 「どうしたのですか?」
 端整な顔立ちの老紳士がクルーズに声をかけた。
 「あ・・・バークさん・・・」
 二人に声をかけたのは、アメリカの一流新聞、“ユナイテッド・タイムズ”のスポーツ担当デスクを務める、レイモンド・バークという男だった。
 「どうしたのですか?」
 バークは、ソファーに腰を下ろすと、やさしい声で尋ねた。
 「日本で・・・私の友人が、大変な事に・・・何とか助けたいのですが・・・」
 「それは・・・」
 バークは、パイプを取り出すと火をつけながら、
 「タカハラの事ですか?」
 クルーズは黙って頷いた。バークは、パイプをふかしながら、
 「あなたなら・・・助ける事が出来るでしょうね・・・」
 「どうすれば・・・?」
 クルーズは、バークの目を見つめている。バークは、目を細めながら小さく笑った。目尻の細かい皺が深くなった。
 「あなたがハッキリと言えば良いのですよ・・・『タカハラを出せ』・・・とね」
 「・・・?」
 「日本人は、権威に弱いですからね、外国からのガイアツという奴にも・・・」
 バークは小さく笑った。また、パイプを口にくわえると、美味そうにパイプをふかしている。クルーズは、黙ってバークの細い目を見つめている。
 バークは、長年スポーツを見続けてきたことで、物事を見る確かな目を養っていた。そして、清廉な人柄と、しっかりした考え方とその発言は、アメリカ、いや、世界の一流選手から、一目置かれる存在だった。
 「あなたは、注目される事を好まないし、“女王”とか、“一流選手”と言われるのを嫌がる・・・普通でありたいという気持ちはわかります。しかし、タカハラを助けたいのなら、あえて“テニス界の女王”を演じてみれば良いのです」
 バークは、目を細めて笑った。クルーズは、考え込んでいる。
 「では、私はこれで。また、全仏でお会いしましょう」
 バークは立ち上がると、杖をつきながら歩いて行く。記者の一人が、脇から体を支えていた。
 「キャス、私たちも行こう」
 ウイリアムズコーチが、肩にバッグを担ぎながら声をかけた。クルーズも、ソファーから腰をあげた。
 「コーチ・・・」
 「なんだ?」
 「私・・・これから日本に行ってくる」
 「なにを言い出すんだ? この後、全仏に向けて・・・」
 「出場予定も変えたいの・・・“パシフィック・カップ”から、全仏に出て、世界選手権に・・・」
 「おい! キャス!」
 コーチが、困りきった顔でクルーズの肩に手を置いた。
 「キャス・・・今年の君の目標は、世界選手権制覇だろう。今、君の言ったスケジュールでは・・・」
 「コンディション管理は、きちんとします・・・お願い、コーチ・・・」
 クルーズが、じっとコーチの目を見つめている。やがて、コーチは根負けしたように、
 「わかったよ、キャス・・・僕も、ベストを尽くそう。しかし、いったいどうやってタカハラを?」
 「いろいろ考えてみたけど・・・」
 そう言うと、クルーズは公衆電話に歩いて行った。

 大阪、黒田のマンション、
 部屋で電話が鳴っている。黒田は、暗室の中でコードレスホンを手に取った。
 「もしもし・・・」
 黒田は、電話の相手に驚いた。
 「驚いたな・・・どうしたんだ? いったい・・・」
 黒田は、肩と頭の間に電話を挟みながら話を続けている。手は、現像液に浸した写真を手早く処理していた。
 「そんな事をして・・・君は良いのか?」
 黒田は思わず手を止めて、電話を持ち直す。
 「わかった・・・こちらは何とかするよ。それじゃあ、明後日・・・」
 『ピッ』
 黒田は、電話を切ると、改めて電話のボタンを手早く押していた。

 東京・TS出版・“スポルト・ジャパン”編集部、
 編集部は、相変わらず慌しい雰囲気だった。人が行き交い、あちこちの机の上で電話が鳴っている。
 高村は、パソコンに向かっている。“編集室コラム”のコーナーを書いていたのだ。この記事に、高村の今の気持ちをこめるつもりだった。机の上には、空になったコーヒーカップや、吸殻が一杯載った灰皿が置かれている。
 「高村君!」
 反対側の机に座っている中島が声をかけた。高村がパソコンから顔を上げると、
 「黒田さんから電話よ! 3番!」
 高村は、受話器を上げるとボタンを押した。
 「もしもし・・・」
 高村は、頭と肩の間に電話を挟んで、目はパソコンの画面に向けていた。
 「もしもし、高村か?」
 「ああ・・・どうしたんだ? 珍しいな、おまえから電話をしてくるなんて」
 「おまえに、面白い話を聞かせてやろうと思ってな」
 「なんだよ?」
 高村の目は、相変わらずパソコンの画面を見て、手の指は忙しくキーボードを叩いている。
 「明後日の午後、キャサリン・クルーズが大阪の城南大学付属高校に行くそうだ・・・高原に会いにな・・・」
 高村の手が止まった。
 「なんだって? 本当かそれは?!」
 高村のあげた大きな声に驚いて、編集部にいた人たちの視線が、高村に集中した。しかし、高村はそれには気が付かない。電話に集中していた。
 「ああ・・・本当だ。明後日の午後三時に大阪に行くそうだ」
 「わかった。俺も明後日は、取材に行くようにするよ」
 「それじゃあ・・・」
 電話が切れた。高村は、ようやく周りの視線に気がついた。バツが悪そうに編集長の机に歩いて行くと、
 「明後日、高原の学校にあのキャサリン・クルーズが、高原に会うために行くそうです」
 「なんだって?」
 「いったい何のために行くのかは、わかりませんが・・・」
 編集長も考え込んでいる。
 「とにかく、明後日は取材に行かせてください」
 「もちろんだ! しっかり見てこい!」
 編集長は、ニヤリと笑うと、高村の目を見ながら言った。



 明日香と洋子は、廃工場跡のテニスコートに来ていた。
 古びたロッカールームで、トレーニング・ウエアに着替えると、昨日、雑草を抜いてきれいにしたテニスコートに立った。
 二人は軽く体操をして体をほぐすと、コートに入っていった。
 「さあ、明日香。行くわよ!」
 洋子が、笑顔で声をかける。
 「OK!!」
 明日香も元気に答えた。
 洋子が、ボールを軽くトスをする。
 『ポーン』
 ラケットでボールを打つ軽快な音が、廃工場に響く。洋子は、勢いのあるボールを打った。
 『ポーン』
 明日香も、打ち返す。ボールが、洋子のコートに戻っていく。
 『ポーン・・・ポーン・・・ポーン・・・』
 軽快な音が工場に響いている。明日香と洋子は、今、心からテニスを楽しんでいた。追いつめられた状況で、テニスが出来る喜びを噛み締めていた。自然に笑顔になっていく、明日香と洋子。
 『ポーン・・・ポーン・・・ポーン・・・』
 工場の外を、パン屋のおじさんが乗ったスクーターが走っていた。工場の中から聞こえる音を聞いて、おじさんはスクーターを停めた。
 「あの音は・・・?」
 おじさんは、塀の裂け目から中を覗いて驚いた。
 「あの娘達・・・」
 おじさんは、しばらくその場を動けなかった。彼の見る明日香と洋子は、生き生きしていた。心からテニスを楽しんでいた。明日香たちを見つめるおじさんの胸は、なぜか熱くなっていた。
 いつしか、町には夕暮れが訪れていた・・・。

 その夜、テレビのニュース番組に、西山がゲスト出演していた。
 明日香と洋子、中尾教授は一緒にテレビを見ていた。キャスターが、西山の経歴や、勝った試合のVTRを紹介した後、本題に入っていった。
 「ところで・・・今、テニス界では、高原選手の性転換問題が話題になっていますが・・・」
 カメラが、着飾っている西山を映し出した。西山は、少し寂しそうな表情をしている。
 「私も、以前対戦したときから、高原選手の将来性には注目し期待もしていました。それが裏切られた気持ちです・・・」
 西山は、ハンカチを取り出し、目にあてている。カメラが、西山の顔をアップにする。
 「トップになるために、女になってしまうような人を、プロとして認めてはいけません・・・それに・・・高原選手は、良識があるのなら、“パシフィック・カップ”に出場するべきではないでしょう」
 「出場するべきではない?」
 「そうです。これだけ周りの方たちにも迷惑をかけたのです。良識があるのなら、出るべきではないでしょうね・・・」

 「なによ! まるで明日香が悪いみたいな言い方をして!!」
 明日香の横に座っている洋子がテレビを見ながら、顔を真っ赤にして怒っている。
 「物は言いようだな・・・」
 中尾教授も苦笑いをしている。
 「迷惑って・・・君がテニスをして“迷惑”を受けたのは、それまでトップだった人間だからな・・・君が出場できなくなると・・・」
 中尾教授は、視線をテレビに戻した。
 「まったく!!」
 洋子は、まだ怒っている。明日香は、不思議な事に腹が立たなかった。じっと画面に映る西山を見つめている。周りが、なんと言おうとも、今の明日香に出来る事は一つしかなかった。

 「やってくれるなあ・・・」
 マンションの一室で、黒田はテレビを見ながら笑っていた。
 「テニスより・・・こいつはタレントか政治家のほうが向いていそうだな・・・」
 苦笑いをしながら、缶ビールを飲み干した。
 「でも・・・明後日、あんたは驚くぜ!」
 黒田は、画面に映る西山に向かって言った。手に握られていた空き缶が、音をたてて握りつぶされていた。


 翌日は、日曜日だった。
 明日香と洋子は、朝から廃工場後に向かった。ウインドブレーカーを着て、肩からは、ラケットの入った大きなバッグを下げている。二人は、なるべく人目につかない道を選んで歩いていた。
 二人の後ろから、ダウンジャケットとジーンズというラフな格好で若い男が後をつけていた。
 明日香たちは、廃工場の塀に沿って歩いて行く。
 「いったい・・・どこに行くんだ?」
 高村は、見つからないように、慎重に後をつける。明日香たちが塀に沿って曲がっていった。高村は、身を隠しながら明日香たちの曲がった方向を覗きこんだ。
 「・・・?!」
 高村の視界から、明日香たちの姿が消えた。
 「いったい、どこへ?!」
 驚く高村の耳に、ボールの音が聞こえてきた。
 『ポーン・・・ポーン・・・ポーン・・・』
 高村は、塀に沿って歩いていった。やがて、塀の裂け目が見つかった。塀の内側を覗きこむと、
 「あれは・・・?」
 塀の中には、古ぼけたテニスコートがあった。明日香と洋子が、楽しそうにテニスをしている。
 「おまえ達マスコミが、彼女をここまで追いつめたんだぞ」
 後ろから声が聞こえた。振り返ると、サングラスをかけた黒田が立っている。
 「ただ、テニスをしたいだけなのに・・・スポーツと関係の無いところで叩かれてしまって・・・でも、あの娘達は、こうしてテニスを楽しもうとしているんだ・・・高村! おまえ、これからどうするんだ?!」
 高村は、なにも言えなかった。自分は直接関係して手を下したわけではない。しかし、自分達の関係者が、明日香達をここまで追いつめてしまった。高村は、黒田に、なにも言えなかった。
 「人を貶めるだけじゃない・・・マスコミには、人を導いていく力もあるはずだぞ。高村!」
 黒田は静かに言った。二人は、黙ったまま、テニスをしている明日香を見つめていた。

 西田は、バイトに行く途中のコンビニで、本の立ち読みをしていた。
 棚に並んだ雑誌は、相変わらず明日香の事を記事にしていた。“ファインダー”には、『プロテニス協会、高原の出場再検討へ?』と見出しをうっている。
 「フウ〜ッ・・・」
 ふと、ラックに並べられている“スポルト・ジャパン”が西田の目に入った。
 『全豪オープン総集編』と書かれた表紙が目に飛び込む。表紙の写真は、優勝カップを高く掲げるキャサリン・クルーズだ。パラパラとページをめくっていくと、
 「これは・・・?」
 西田の目が、“編集室コラム”の一文に引き付けられた。
 『・・・最近、スポーツ界では、女子テニスプレーヤーの性転換問題でもちきりだ。このコラムでは、紙面の都合で細かい経緯は避けるが、筆者が気になるのは、その報道姿勢だ。大半のメディアは、話題の選手が、自ら女性になってトッププロになりたかったのだと報じている。それに対して病院側は、彼女は、事故の治療の結果女性になったのであり、遺伝的にも女性になっており、男性から性転換したメリットは一切無いとコメントしている。筆者が調べた範囲では、男性だった頃の彼女は、将来を嘱望されたジュニア選手だった。そう考えてみると、彼女が望んで女子選手になる理由は無いことになる。また、スポーツの分野から見て、今、彼女を排除してしまう事にメリットがあるのだろうか? インターハイを圧倒的な強さで勝ち、ジャパン・カップでは、ウインブルドン準優勝選手のマルソーと互角の試合を見せた彼女を排除する事は、かえってスポーツの発展を遅らせてしまうのではないだろうか? むしろ、現実を受け入れ、ひたむきに生きている彼女を受け入れる事を選ぶほうが、さまざまな意味でメリットが大きいと考えているのは、筆者だけだろうか? 編集部 高村進一郎』
 「高村さん・・・」
 西田は、本を持つ手が震えていた。大半のメディアが、明日香を批判している時に、このコラムを書く高村の勇気に、西田は今までの自分が恥ずかしくなっていた。明日香の苦しみを見て見ぬふりをしている自分が、情けなかった・・・。
 「・・・クソッ!!」
 西田は、“スポルト・ジャパン”を持ってレジで支払いを済ませると、バイトをしている居酒屋に走っていった。

 夕方、明日香たちは、まだ、廃工場でテニスをしていた。
 『ポーン・・・ポーン・・・ポーン・・・』
 明日香の、強烈な両手打ちスイングで打ったボールが、洋子のコートに飛んでいく。洋子は、ボールに追いつけない。ラケットをすり抜けて、ボールはコートの後ろで弾んでいた。
 「やっぱり・・・明日香はすごいね!」
 洋子は、肩で息をしながら笑っている。
 「ちょっと休もう・・・」
 明日香と洋子は、古ぼけたベンチに腰を下ろした。
 『ギシッ』
 座ったとたんに、ベンチが軋む音が鳴った。
 「ここ何日か、ろくに練習しなかったから、さすがにきついな・・・」
 明日香も、スポーツタオルで汗を拭きながら苦笑いしている。
 「がんばっているな・・・」
 突然、男の声がして、二人はベンチから飛び上がらんばかりに驚いた。二人が振り返ると、紙袋を持ったパン屋のおじさんが立っていた。
 「・・・」
 明日香と洋子は、言葉が出ない。お互いに顔を見合わせていた。
 「そんなに驚かないでくれよ・・・はい! 差し入れだよ!」
 おじさんは、持っていた紙袋を明日香に手渡した。明日香が中を覗きこむと、メロンパンが2つと、紙パックのコーヒー牛乳が2つ出てきた。
 「おじさん・・・」
 明日香の瞳に、涙が浮かんできた。おじさんは、明日香の肩を優しく叩いた。
 「さあ・・・おじさんが焼いたパン・・・食べてくれよ」
 明日香と洋子は、おじさんの持ってきたパンを食べ始めた。おじさんは、目を細めて二人を見つめている。
 「おいしい・・・」
 明日香は、おじさんのほうを向いて笑った。明日香は、久しぶりに人のやさしさに触れたような気がしていた。
 「おじさんはね・・・こう見えても高校生の頃は、野球をやっていたんだよ・・・」
 おじさんは、コートを見つめながら話し始めた。明日香は黙って、おじさんの横顔を見つめていた。
 「一生懸命やっていたからね。2年生の頃には、レギュラーを取れるところまで行ったんだ・・・しかし、そんなときに親父が倒れてね・・・」
 おじさんは、うつむいてしまった。いろいろな事を思い出しているのだろうか・・・小さく肩を震わせている。
 「店を守らないといけないしね・・・俺は野球をやめてしまったんだ・・・」
 おじさんは、明日香の顔を見た。その目は涙で潤んでいる。
 「おじさんはね・・・後悔しているんだよ。あの時、野球をあきらめないで、何とかどちらも出来るようにする方法は無かったのか? なかったのかもしれない。しかし、それすら確かめないで諦めてしまった事が、本当に悔しかった」
 おじさんは、ため息をついた。深呼吸をしている。
 明日香は、おじさんの顔から目をそらせなかった。いつも明るく明日香達に接しているおじさんが、こんな過去を背負っていた・・・ショックを受けていた。
 「明日香ちゃん・・・諦めちゃダメだよ。周りがいろいろ言っても自分が納得できるところまで、しっかりがんばるんだよ」
 そう言うと、おじさんは立ちあがった。
 「そろそろ店に戻るよ。あいつがうるさいしね」
 おじさんが、歩き始めた。
 「おじさん!!」
 明日香が立ちあがった。おじさんが振り返る。
 「・・・ありがとう・・・」
 おじさんは、にっこり笑って頷いた。おじさんは歩いて行く。明日香と洋子は、その後姿を何も言わずに見つめていた。


 翌日の放課後、明日香と洋子は、いつものように下校準備をしていた。
 「明日香。準備は出来た?」
 「うん・・・」
 明日香は、かばんを持つと、椅子から腰をあげた。
 「今日からは、もっと実戦的な練習をしようね」
 「そうだね!」
 明日香たちが歩き出そうとしたとき、
 「高原!」
 明日香の腕を誰かが掴んだ。驚いて見ると、西田が明日香の左腕を、しっかり掴んでいた。
 「どうしたの・・・?」
 驚いて西田の顔を見つめていた。西田は、真剣な目で明日香の大きな瞳を見つめている。
 「ちょっと話せ・・・」
 西田が話そうとしたとき、突然、
 「ちょっと待ってよ!」
 洋子が、二人の間に割り込んできた。
 「何か用なの? 西田君!」
 洋子は、厳しい目で西田を睨みつけている。
 洋子にすれば、明日香が部員達と気まずくなった時に、当然、西田が男子のキャプテンとして、また、明日香を好きな男の子として、部員達を説き伏せて明日香を守ってくれるだろうと思っていたのだ。しかし、現実には、西田は周りの状況を黙って見ているだけで、明日香を守ろうとしたのは、女子のキャプテンであり、明日香の親友でもある島田だけだった・・・。
 「いや・・・ちょっと高原と二人だけで話を・・・」
 「いまさら何の話なの?! 明日香を追い出しておいて!!」
 洋子は、厳しい口調で西田に詰め寄る。西田は、何も言えなかった。明日香は、どうなる事かと心配そうに見守っている。
 「洋子・・・そんなに言わなくても・・・」
 ようやく、二人を止めに入った。
 「・・・行こう! 明日香!!」
 洋子が、明日香の手を引いて教室を出て行こうとしている。西田には、それを止める事は出来なかった。洋子の言ったことの正しさを、西田はわかっていたのだ。
 『あの時・・・俺は、高原に何もしてやれなかった・・・』
 西田は、歯を食いしばったまま、そこに立ち尽くしている。明日香は、チラチラと、西田を振り返りながら、廊下を歩いて行った。

 西田は、自分の机に戻ると、かばんを持って廊下を歩き出した。明日香と話をして、西田なりに励まそうと思っていただけに、その足取りは重かった。
 「西田・・・どうしたんだ?」
 心配して声をかける新谷の声も、耳に入らなかった。新谷は首を傾げて、西田と一緒に部室に向かって歩いて行く。二人が、テニスコートに脇にあるテニス部の部室に来た時、西田達の目に、たくさんのレポーターや、記者、カメラマンの姿が飛び込んできた。
 「いったい・・・なにがあったんだ・・・」
 驚く西田。
 「また・・・高原の取材か?」
 新谷は、顔をしかめている。
 西田たちは着替えると、練習をするためにコートに入った。
 西田たちが、コートに入って練習を始めたとき、校門の前に一台のタクシーが止まった。報道陣が、駆け寄った。中から、ブロンドの長く綺麗な髪を靡かせながら、長身の女性と、日本人の男性が降りてきた。
 「先輩・・・あれ・・・」
 山本が、校門の方を指差している。驚きで、声が出ないようだ。
 「なに言っているんだよ・・・?」
 新谷が、練習を止めて校門のほうを見た。
 「西田・・・あれは、キャサリン・クルーズと、竹内先輩じゃないのか?!」
 「なんだって?!」
 西田も、動きを止めて校門に目をやった。たくさんの記者やカメラマンに囲まれて、外国人女性と、日本人の男性がこちらに歩いてくる。
 「あれ・・・俊介君?」
 「竹内じゃないか・・・」
 柴田先生と、滝沢先生も騒ぎに気がついて二人に眼をやった。クルーズと、竹内は、コートのフェンス際まで歩いてきた。記者たちは、二人を取り囲んでいる。その輪の中に、高村と黒田の姿もあった。
 「突然押しかけてすいません。キャスが、どうしても連れて行ってくれと言うもので・・・」
 竹内は、滝沢先生に謝っている。周りを見まわすと、
 「まさか・・・記者に嗅ぎ付けられていると思わなかったので・・・」
 「仕方がないさ・・・まあ、こちらに来い!」
 滝沢先生は、竹内に笑いかけると、フェンスの扉をあけてやった。すかさず、竹村がコートの中に入って来ようとした。滝沢先生は、竹村の胸を押して押し戻す。
 「何をするんだ!!」
 「ダメです・・・ちゃんと取材許可を取っているんですか?!」
 「クソッ!!」
 騒ぎを横目に見ながら、クルーズと、竹内は、コートに入っていった。
 「俊介君・・・前もって連絡しておいてよね!」
 柴田先生は、頬を膨らませながら竹内に言った。
 「ごめんごめん・・・キャスが、驚かせたいと言ってさ!」
 「はじめまして、クルーズです。突然押しかけてすみません」
 クルーズが、流暢な日本語で挨拶をして、滝沢先生に握手を求めた。
 「滝沢です・・・はじめまして」
 滝沢先生も、緊張しながら握手をしている。精悍な顔に、汗がにじんでいる。
 「先生・・・緊張しているぜ!」
 新谷が、西田に囁きかけた。部員達は、誰も練習していない。突然現れた、世界のトップ・プレーヤーに目を奪われていた。
 「ところで・・・なぜクルーズがここに来たの?」
 山本が新谷に尋ねた。
 「それは・・・竹内先輩と一緒に・・・」
 「竹内先輩は、クルーズに連れて行けと言われたんだろう?」
 「そうだな・・・」
 西田たちは、首を傾げている。
 クルーズは、柴田先生の前に立った。
 「・・・お久しぶり!」
 「3年ぶりね! キャス!!」
 柴田先生と、クルーズは、軽く抱き合った。
 「膝は大丈夫なの?」
 「ありがとう・・・さすがに、もう、フルセットのテニスは出来ないけどね・・・大丈夫よ」
 部員達は、また、驚いている。
 「柴田先生とクルーズは知り合いか?」
 新谷は、呆然としながら、先生とクルーズを見ていた。
 「そうみたいだな・・・」
 西田は、ずっとクルーズを見ている。
 『クルーズは・・・柴田先生に会いに来たのか? それとも・・・』
 クルーズは、微笑みながら部員たちの方を見た。皆が緊張する。
 「この子達が、シバタが指導している部員達なの?」
 「そうよ!」
 「タカハラは来てる?」
 次の瞬間、部員達はお互いの顔を見合わせていた。
 「この学校のテニス部員と聞いていたわよ? いっしょにテニスをしようと思っていたんだけど?」
 柴田先生と、竹内は、顔を見合わせた。二人は、このときクルーズの意図を知った。
 フェンスの向こうでは,
 「高村」
 「なんだ?」
 「俺は、高原君をここに連れてくる」
 「おい!・・・こんなところに連れてきたら、おまえ」
 「連れて来ないといけないんだよ!」
 黒田は、サングラスの奥でにっこり笑うと、停めてあるファンカーゴに走っていった。
 「どこにいるの? それとも今日は休み?」
 クルーズは、笑顔で尋ねている。部員達は、次第に俯いていった。
 「あいつはやめたんだよ!! 部員達に追い出されてな!」
 フェンスの向こうで竹村が叫んだ。
 「そうなの・・・?」
 クルーズは、みんなを見まわしている。しかし、誰も答えない。
 「なぜ・・・追い出したの・・・?」
 「・・・だって、高原さんは、本当は男です! それを女の子だと嘘をついて・・・」
 女子部員の一人の言葉に、クルーズは、
 「でも、試合の時のセックスチェックでは女性だったわよ」
 クルーズが微笑む。
 「でも、以前は・・・」
 「誰が言ったの?」
 クルーズは、微笑みながら尋ねた。
 「雑誌でもテレビでも・・・」
 「雑誌やテレビ・・・じゃあ、あなた達はタカハラに、どうして女の子になったの確かめなかったの?」
 クルーズは、厳しい目をして、その部員を見つめた。
 「どうなの? 雑誌やテレビがタカハラは男と言ったから・・・ただそれだけでクラブを追い出したの? どうして、女の子になったのか、確かめもしないで・・・」
 部員達は、下を向いて答えない・・・西田は、体が震えていた。しっかりクルーズを見ていると、何かオーラのようなものが、クルーズの体から出ているように見えた。それは、トッププレーヤーの自信なのか・・・それとも・・・。
 「あいつは、かつて男だった! それは、俺のスクープで確かだ!」
 竹村が、フェンスの向こうで叫んでいる。
 高村は、クルーズから目が離せなくなっていた。高村も、今まで彼が人と会って体感した事のない、言いようのない緊張感をクルーズから感じていた。
 クルーズは、ちらりとフェンスの外にたむろしている記者たちに目をやった。
 その中に立っている竹村を睨み付けた。睨み付けられた竹村の背筋に、まるで刃物を目の前につきつけられたような、冷たいものが走った。彼にはわからなかったが、クルーズの体から発せられる気迫に押されていたのだ。
 「かつては男の子だったかもしれないけど・・・今は、あの娘は女の子よ・・・それを今からあなた達に見せてあげるわ!」
 クルーズは、テニス部員達に言うと、フェンスの外に目を移した。
 フェンスの外に、黒田のファンカーゴが近づいてきた。記者たちを掻き分けながらフェンスの脇まで近づいてくると、扉の前に止まった。後部座席のドアが開くと、明日香と洋子が降りてきた。周りの記者たちがざわつき、カメラマン達は一斉にシャッターを切り出した。
 明日香はコートの中を見て驚いた。そこに立っているのは・・・、
 「クルーズさん・・・?」
 「久しぶりね! 早くこっちに来て!」
 クルーズに言われて、コートを囲むフェンスの扉をくぐった。部員達の視線が集中する。冷たい視線が明日香には辛かった。
 「タカハラ・・・」
 クルーズが、明日香を抱きしめた。
 「大変だったわね・・・」
 クルーズは、瞳を潤ませながら明日香をしっかりと抱きしめている。高村は、その光景を見て胸が熱くなっていた。
 「どうしてここに?」
 明日香が尋ねると、
 「タカハラに会いたくてね。帰国の途中に遊びに来たのよ」
 クルーズは、笑いながら柴田先生に、
 「シバタ…ちょっとコートを借りてもいいかしら?」
 「もちろん!」
 クルーズは、明日香を促してコートに向かって歩いて行く。コートに入ると、
 「本気で行くわよ!」
 明日香に笑いかけた。
 『ポン・・・ポン・・・』
 ボールをコートでバウンドさせると、クルーズはボールを高くトスした。明日香もラケットをかまえる。
 『ポーン!!』
 コートに大きな音が響くと、凄まじい速さでボールが明日香のコートに飛んでくる。
 「速い!!」
 西田は思わず叫んでいた。とても女子のサーブとは思えないボールが明日香を襲う。
 『ポーン!!』
 明日香は、得意のダブルハンドのスイングで打ち返すと、ネットに向かって走っていく。
 クルーズも、ダイナミックなフォームでボールを打ち返す。しかし、その時には、明日香が俊足を活かしてネットについていた。
 「?!」
 驚くクルーズ。ボールは、明日香にボレーされてコートで弾んでいた。周りがどよめく。
 「すげえ・・・」
 新谷が、ため息混じりに呟いている。
 「あの・・・クルーズから・・・」
 フェンスの向こう側で、高村がメモにペンを走らせている。その横では、
 「あいつは、男だからな・・・クルーズでも・・・なにしろ、西山選手が歯が立たなかったんだからな」
 竹村が、周りの記者たちに話し掛けていた。しかし、誰も竹村の話は聞いていない。目の前で繰り広げられる、クルーズと明日香のテニスに魅了されていた。
 また、クルーズがサーブをする。ボールが、明日香に向かって唸りを上げて飛んでくる。明日香は、また、ダブルハンドのスイングで打ち返そうとした。
 ラケットにボールがあたった瞬間、
 「クッ・・・!!」
 思わず、明日香は声をあげていた。クルーズのサーブは、相変わらずボールが重い。それを、強引なスイングで打ち返した。
 「あっ?!」
 クルーズがネットについている。明日香の打ち返したボールをボレーしてきた。明日香の立っている反対方向にボールが飛んでいく。明日香も、すぐに反応して走って行くと、バックハンドのスイングで打ち返す。
 「高原先輩・・・すごい!」
 明日香がプロとするテニスを、実際に見るのがはじめてな山本は、口に手をあてながら驚いている。
 「“百聞は一見にしかず”か? キャス?」
 黒田は、微笑みながら、カメラのファインダーを覗いていた。
 「いちいち説教をするより、実際に見せたほうが良かったかな・・・?」
 柴田先生は、苦笑いをしながら二人を見つめている。
 「教えられたわ・・・キャス・・・」
 明日香は、心からテニスを楽しんでいた。周りの目は気にならない。ただ、強い相手に本気でぶつかっていくテニスを楽しんでいた。
 クルーズの強烈なスマッシュが明日香を襲う。ネットについていた明日香は、咄嗟にラケットを出していた。その下をボールがすり抜けていく。ボールは、コートに弾んで、後ろのフェンスに跳ね返って音をたてていた。
 「すごい・・・」
 明日香は、クルーズを見ながら呟いていた。しかし、その顔には笑みが浮かんでいる。『こんなに強い選手と試合が出来れば・・・』明日香の中に、闘志が沸いてきた。
 「ずいぶん上手くなったわね・・・」
 クルーズが、明日香の方に歩いてくると、
 「タカハラは、“パシフィック・カップ”に出場登録しているのでしょう?」
 「はい・・・でも、出場できるかどうかは・・・」
 「私も、出場登録をしたの」
 クルーズは、かぶせるように言うと、
 「あなたと、試合が出来るのを楽しみにしているわ!」
 にっこり笑うとクルーズは、明日香の肩をポンと叩いて、フェンスの外に歩いて行った。たちまち、記者たちに囲まれる。
 「どう言う事ですか?」
 「高原選手との試合を楽しみにしていると言う事は、あなたは、彼女の出場を認めると?」
 「ちょっと、これを見てください!」
 竹村はクルーズに駆け寄ると、手にしている“ファインダー”をクルーズに見せようとしている。
 「私のスクープ記事を見てくださいよ! あいつは、男なのですから、女子の試合に出るのは・・・」
 突然、クルーズは竹村の手から“ファインダー”を取り上げると、ポンと放り投げた。
 「そんな過去の事をいまさら言ってどうなるのですか? 彼女は、今もひたむきにテニスをしています。あなた方が言うようなプレーヤーではない事は、今のプレーでわかっていただけたと思いますが・・・」
 クルーズは、竹村の眼を睨み付けるように見つめながら話している。言葉は静かで丁寧だが、それだけに迫力があり、竹村はクルーズの気迫に負けて何も言えなくなってしまった。
 「クルーズさん・・・」
 明日香は、クルーズの後姿を見つめながら涙を浮かべていた。自分のために、わざわざ日本にまで来てくれたクルーズの心遣いが明日香には嬉しかった。
 「明日香・・・」
 洋子が、明日香の肩にそっと手を置いた。明日香は、洋子に向き直った。その瞳からは涙があふれている。
 「良かったね・・・」
 「うん・・・嬉しかった・・・」
 二人はにっこりと微笑んでいる。柴田先生と、竹内は、そんな二人をまぶしそうに見つめていた。
 「高原さん!」
 部員達が、明日香と洋子を取り囲むように集まってきた。
 「今までの事・・・ごめんなさい」
 「悪かったよ。許してくれ」
 みんなが、明日香に謝っている。
 「ううん・・・僕こそ、今まで黙っていて・・・」
 「高原さん、よかったら、これからも俺たちと一緒にテニスをしようよ」
 新谷が頭を掻きながら、明日香に向かって言った。
 「そうですよ・・・先輩・・・今まで・・・ごめんなさい!!」
 山本が、明日香に向かって頭を下げる。
 「ありがとう! こちらこそ、これからもよろしくね」
 明日香も、笑顔でみんなの顔を見つめながら言った。
 「フウ〜・・・」
 柴田先生は、大きなため息をつきながら部員達を見つめている。竹内は、柴田先生の肩に手を置くと、
 「上手く行ったな!」
 そう言って微笑みかける。柴田先生も、にっこり微笑みながら頷いた。
 「これで、クラブの方は上手くいくがな・・・」
 「どう言う事です?」
 「協会の方をどうするか・・・」
 滝沢先生が、竹内に向かって言った。
 「そうですね・・・」
 竹内も顔をしかめた。こればかりは、彼の力ではどうしようもない。後は、祈るしかなかった・・・。

 クルーズは、タクシーの脇に立っているウイリアムズコーチに微笑みかけた。
 二人が、記者たちを掻き分けてタクシーに乗り込むと、タクシーは走り出した。
 「どうだった?」
 クルーズが、コーチに微笑みかける。
 「フフフッ・・・見事な演技だったよ!」
 ウイリアムズコーチが笑っている。
 「あれなら、記者たちもタカハラの出場を肯定する報道をしないわけにはいかないだろうな・・・」
 「・・・あれは、演技じゃないの・・・」
 「・・・?!」
 「さっき、記者たちを見ていると、タカハラが本当に気の毒になってしまって・・・なぜ、あんなにタカハラを排除したがるのかしら・・・」
 ウイリアムズコーチは、窓の外に目をやった。
 「・・・人と違う存在が・・・気に食わないのだろうな・・・」
 「・・・」
 クルーズも、窓の外の町並みに目をやった。日本的なものと、外国の文化が入り混じった街並みが広がっている。
 「・・・この街と同じように、みんながタカハラを受け入れてくれれば・・・」
 タクシーは、都心のホテルに向かって走って行った。


 翌日、新聞には・・・
 『クルーズ、高原に挑戦状!』
 『クルーズ、“高原!パシフィック・カップで待っている!”』
 大見出しに活字が踊っている。
 「どう言う事なのよ?!」
 西山が電話に向かって金切り声をあげている。
 「そんな事を言われましても・・・」
 電話の向こうで竹村が困惑している。
 「なぜ・・・なぜ、あのクルーズが、あの娘のところなんかに?!」
 「それは・・・わかりません・・・うちにも、突然匿名の電話があって、慌てて取材に行ったような状態で・・・・」
 「まあ・・・大丈夫でしょうけどね。あの娘は、かなり精神的なダメージを受けているはずだから・・・」
 西山は、「フフフッ」と声を出して笑っていた。


 大阪、都心の高級ホテル

 高村は、クルーズを取材するために、ホテルにやって来ていた。
 突然の来日と明日香への手助けは、いったい何のためなのか? なにが、クルーズにそうさせたのか? 高村は、それを確かめたかった。
 しかし昨日、編集部を通じてクルーズに取材を申し込んだが、『スケジュールの都合で応じられない』と断られてしまった。 黒田のマンションに泊まって、返事を待っていた高村は落胆してしまったが、それを見ていた黒田が、どこかにE−mailを送信すると、取材に応じると返信があった。高村は、理由を尋ねたが、黒田は笑って答えなかった。
 ロビーで待っていると、トレーナーとジーンズ姿のクルーズが現れた。
 「こんにちは!」
 クルーズがにっこり笑っている。
 「よお!」
 黒田がソファーに座ったまま右手を上げた。
 高村は、ソファーから腰をあげると、一礼した。
 「今日は、無理をお願いして申し訳ありません」
 「いいえ・・・こちらこそ、よろしく!」
 クルーズも、にっこり笑って頭を下げた。
 『こうして見ると、ごく普通の女の子なんだがな・・・』
 高村は、そう思いながらクルーズを見つめていた。その、ごく普通の女の子がコートに立つと、連勝記録を更新しつづける女子テニス最強の女王になるのだ・・・。
 「始めましょうか?」
 クルーズが、高村を促した。高村は、かばんの中からテープレコーダーを取り出すと、スイッチを入れた。
 「今日は、なぜ取材に応じてくれたのですか?」
 クルーズは、にっこり笑って“スポルト・ジャパン”を取り出した。
 「黒田さんに教えられて、この雑誌のコラムを読んでみたのです。こんな考え方をしておられる記者なら、インタビューに答えてもいいかなって・・・」
 高村は、驚いて横を見た。黒田が、ニヤッと笑っている。
 『こいつ・・・』
 高村は、思わず苦笑いをしてしまった。黒田の心遣いが、高村には嬉しかった。
 「まず・・・今回の来日の目的は・・・?」
 クルーズは、少し首を傾げると、
 「友人に会うためです」
 「友人?」
 「そう・・・友人です。大切な友人が、苦しんでいたので」
 クルーズは、悪戯っぽい目をして高村を見つめている。
 「今度は、こちらから聞かせてもらいますね・・・」
 クルーズが笑っている。高村は、ちょっと緊張した表情だ。
 「なぜ、日本のマスコミは、タカハラを排除しようとしたのですか?」
 高村は、少し考えると、
 「それは、彼女がかつては男・・・これは、否定仕様のない事実・・・だからでしょう」
 「でも彼女は、今は女性ですよ」
 「そう・・・それも確かです。しかし、プロの世界で性転換したプレーヤーは、今までいませんからね。それで、拒否反応をしているのだと思います」
 クルーズは、考え込んでしまった。
 「でも、彼女は、今は完全に女性なのに・・・」
 「そうですね・・・そして、彼女を助けるためにあなたは?」
 クルーズは頷いた。
 「せっかく才能があるプレーヤーがいるのに、理不尽な理由でその芽を摘んでしまうなんて私には理解できません!!」
 クルーズが、ゆっくりと話している。しかし、その口調は、興奮からか厳しいものになっている。
 「彼女は、『トップ選手になりたい』なんていう理由で女性になるような人ではありません。フェアで本当にテニスが好きな女の子なのですよ!」
 高村も、知らず知らずのうちに頷いていた。
 「わかります・・・」
 「それを・・・彼女の苦しみも知らないでパッシングをするなんて・・・」
 深呼吸をすると、また、普通の女の子の表情に戻った。顔に微笑を浮かべながら、
 「私は・・・タカハラと公式戦でテニスが出来るのが、本当に楽しみです・・・」
 窓の外に目をやりながら言った。高村は、テープレコーダーを止めると、
 「今日は、どうもありがとうございました」
 頭を下げて礼を言った。クルーズは、にっこり笑うと、
 「高村さんは、なぜ、タカハラに興味を持ったのですか?」
 「僕は、彼女がインターハイに出場するときに、初めてスポーツの取材をしてね。その時に、この後も追いかけてみようと思って・・・」
 高村は、笑いながら、
 「・・・いつか、彼女の軌跡を書いてみたいとも思っているのですよ」
 クルーズは、首を傾げている。少し、真剣な視線を高村に向けると、
 「それは、少し難しいかもしれませんね・・・」
 「どう言う事です?」
 「高村さんは、“ユナイテッド・タイムズ”のレイモンド・バークさんをご存知ですか?」
 「もちろん! この業界で知らない人は、まず、いないでしょう」
 「バークさんは、フリーのジャーナリストとして、いろいろな分野を取材されていました・・・若い頃には、いろいろ苦労をされて、食事もまともに出来ない時もあったようです」
 高村は、黙って聞いている。『彼女は、いったい何を言いたいんだ・・・』そう思っていた。
 「それは、今の私や、タカハラと同じなのです。自分の身は、自分で守らないといけないし、実績も自分で上げなければならない・・・私達の気持ちもわかるから、立派な記事が書けるのではないでしょうか?」
 「・・・」
 高村は、言葉が出なかった。
 「タカハラの事を報道しているメディアもそうですよね。大半は、会社に所属している人が記事を書いています。何かあっても、会社が守ってくれますからね。フリーだと、そうはいきませんから・・・自分で書いたことに、責任を持たなければいけないわけですからね・・・」
 クルーズは、高村の目を見つめている。
 「高村さんは、その中では、すばらしい記者だと思いますよ。ほとんどの記者が、自分の名前を書かない中で、きちんと署名記事を書いている・・・すばらしい事だと思います」
 にっこり笑うと、
 「いろいろ失礼な事を言ってしまいました。どうも失礼しました」
 「・・・いえいえ・・・こちらもいろいろ聞かせていただいて・・・」
 高村と、黒田がソファーから腰をあげた。黒田は、にっこり笑うと、
 「今日は、ありがとう! キャス!」
 「こちらこそ! いろいろありがとう!」
 二人の会話を聞いて、高村はこの一件のすべてを察した気がしていた。
 「では、失礼します」
 二人は、ホテルを出ると、駐車場に停めてある黒田の車に乗り込んだ。

 黒田の運転するファンカーゴが、町を走っていく。
 「黒田・・・」
 助手席で、高村が声をかけた。
 「なんだ?」
 「お前・・・この一件、一枚かんでいるな?!」
 「フフフッ・・・」
 黒田は、笑いながらハンドルを握っている、その視線は前を向けたままだ。
 「黒田」
 「なんだ?」
 「・・・」
 「おまえ・・・さっきの、キャスの一言が気になっているのか?」
 「・・・」
 「気にするな・・・とは言わないがな・・・」
 黒田は、ちょっと真剣な表情になっている。視線は、もちろんフロントガラスの向こうに向けたままだが・・・。
 「高村・・・俺は、写真を撮るときに、その被写体と真剣勝負をしているつもりなんだ」
 「・・・どう言う事だ?」
 「俺が写真を撮るとき、その瞬間をいわば切り取って、見る人間に知らせる。そして、写す俺の気持ちを見ている人にも感じて欲しいんだ。ボスニア紛争での、人々の苦しみや悲しみ、山の美しさや自然の厳しさ、そして、スポーツの感動・・・これを、その瞬間に起こる事実と同じように、いや、それ以上に伝える事が出来れば、俺の勝ちだ・・・」
 高村は、黙って前を見ている。しかし、このとき、高村の視界には何も入っていなかった。じっと、黒田の言葉を噛み締めている。
 「会社に入っていると、そこまでこだわらなくても、確実に収入が得られる・・・そうなると、取材や、書く記事も真剣味が無くなりかねない・・・そう、キャスは言いたかったんじゃないのかな?」
 黒田は、ちらりと高村を見ると、
 「悔しかったら、今度のパシフィック・カップで良い記事を書いて見返すんだな!」
 突然、高村の携帯電話から、着信音が聞こえてきた。
 「・・・会社からメールだ・・・」
 高村が、携帯電話を操作していく。
 「中島君からだ・・・『協会は、高原選手の出場見直し報道を完全否定』・・・だってさ!」
 「そうか・・・キャスの思惑通りだな・・・誰かさんとは、狙いがずいぶん違うがな」
 二人から笑いが起きた。
 黒田の運転するファンカーゴは、二人を乗せて夜の町を走って行った。


 センター・コート(第3話)おわり






 こんにちは!
 逃げ馬です。
 センター・コートの第3話をお届けしました。
 この作品を執筆していたとき、丁度この話を書いているときからキャラクターがひとりでに動き出しました。しかし、僕の書いたもので主人公をここまで突き落とした作品はありませんが(^^;;;
 さあ、第4話は最終回! クライマックスに向けて明日香は走りつづけます。また、お付き合いくださいね。
 

 尚、この作品に登場する大会名、人物、団体は実在の大会名、人物、団体などとは一切かかわりのないことをお断りしておきます。


 

 2001年11月 逃げ馬


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