こころのひかり



:逃げ馬










 「ハイ・・・では、今日の講義はこれで終わります!」
 講義室にいる学生たちに向かってマイクで言うと、それまで静かだった講義室の学生たちがざわめきだす。学生たちは机の上の教科書を片付けたり、早速携帯電話でメールを打ったりしている。
 ここは、城南大学。日本でも有数のマンモス大学だ。
 そして僕は白鳥誠一郎、30歳。この城南大学理工学部で今年から講師を務めている。
 僕は、教壇の上の資料を片付けると、教壇を下りて講義室のドアを開けた。ドアを開けて廊下に出た途端、
 「お疲れさま!」
 振り向くと、水色のスーツを着たショートカットの髪の女性がこちらを見ながら微笑んでいる。
 「何だ・・・奈津か・・・」
 「なんだは、ないでしょう?」
 奈津は、頬を膨らませて僕を睨んでいる。
 「ごめん! そんなつもりじゃなかったんだ!!」
 僕は思わず笑い出してしまった。奈津も微笑みながら、
 「もう! 意地悪なんだから!」
 そう言うと、奈津は僕の出に右手を絡めてきた。僕は慌てて、
 「おいおい・・・生徒が・・・」
 「いいじゃないの・・・婚約をしているんだから!」
 奈津は言うなり僕の体にもたれかかってきた。廊下ですれ違う学生たちが、僕たち二人を見てクスクスと笑う。僕は苦笑いをしながら奈津の横顔を見つめていた。

 そう・・・彼女は野口奈津・・・26歳。この城南大学理工学部の大学院の修士課程を修了し、今は助手として大学に残っている。教授たちの信頼も厚く生徒の受けもよかった・・・それは、彼女が美人だからと言うこともあるのかもしれないが・・・。そして、彼女は僕の婚約者でもある。彼女が大学院生として僕のいた研究室に入ってきた時から、知らず知らずのうちに、僕は彼女と付き合うようになっていった。今では、両親や同僚たちも羨ましがるほどだ・・・。
 
 「ねえ・・・このあと何か予定はあるの?」
 奈津が微笑みながら、僕の顔を覗き込む。僕は、奈津のキラキラ光る綺麗な瞳を見つめながら、
 「いや・・・ないけど・・・?」
 その間にも、次々と生徒たちとすれ違う。僕は講師控え室の扉のノブに手をかけた。
 「じゃあ、食事にでも行かない?」
 僕はドアを開けながら奈津に視線を向けた。
 「うん・・・じゃあ、校門の前で待っていてくれるかな?」
 「うん・・・わかった・・・なるべく早く来てね!」
 奈津は、小さく手を振ると廊下を歩いて行く。僕は、しばらく奈津の後姿を見つめていたが、自然に微笑みが出てきた。
 「おほん!!」
 突然の咳払いに、僕は飛び上がらんばかりに驚いた。思わず振り返ると、部屋の中で厳しい顔をした先輩講師がこちらを睨んでいた。僕は、苦笑いをしながらドアを静かに閉めた・・・。



 「ごめん・・・お待たせ!!」
 「もう・・・遅いじゃない!!」
 奈津が、頬を膨らませながら僕を睨んでいる。
 「ごめんごめん・・・先輩に捕まっちゃってさ!」
 「もう・・・!」
 奈津は、プイッと横を向いてしまった。僕たちは、校門から駅に続く道を歩き出した。学生たちが、足早に僕たちを追い越して家路を急ぐ。奈津は、僕の左腕に腕を絡めてきた。悪戯っぽい笑顔で、僕の顔を覗き込んできた。
 「罰としてご馳走してもらうわよ! さあ、何を食べようかな〜」
 「おいおい・・・ほどほどにしておいてくれよ!」
 僕の困りきった顔を見て、奈津は「フフフフッ」と笑っていた。



 「ねえねえ・・・あのことだけど・・・」
 「エッ・・・? なんのこと?」
 「もう・・・とぼけちゃって!!」
 僕たちは、レストランで食事をしていた。奈津は、ワイングラス越しに僕の目を見つめている。ニッコリ微笑むと、
 「あと・・・3ヶ月か・・・楽しみだなあ・・・」
 「エッ? 何が?」
 僕もニッコリ笑うと、ステーキをナイフで切りながらおどけた口調でとぼけて見せた。
 「もう! 本当に意地悪ね!」
 奈津が頬を膨らませながら僕を睨みつける。僕は奈津の吐息が感じられるほど自分の顔を奈津の顔に近づけると、
 「・・・僕も楽しみ!」
 たちまち、奈津の顔に微笑が浮かんだ。顔が耳まで真っ赤になっていく。僕たちは、微笑みながらいつまでもお互いの顔を見詰め合っていた。



 それからしばらく経った。その夜、奈津は上機嫌で僕を喫茶店に呼び出した。
 「ごめんね!」
 テーブルを挟んで僕の前に座る奈津は、ニコニコ笑いながら僕を見つめている。
 「どうしたの?」
 「うん・・・」
 僕の問いかけに、奈津は頬を赤く染めて俯いた。僕は、顔を覗き込むように・・・、
 「本当にどうしたの?」
 「うん・・・」
 奈津は顔を上げると、ニッコリと微笑んで、
 「今日・・・ウエディングドレスの試着に行ってきたの・・・」
 「エッ・・・?」
 僕は、咄嗟に言葉が出なかった・・・じっと、奈津の顔を見つめていた。ようやく、口をついて出たのが、
 「そうなんだ・・・」
 「うん・・・もうすぐだね・・・」
 奈津が微笑んだ。綺麗な笑顔だ。澄んだ綺麗な・・・まるで吸い込まれそうな大きな瞳で僕を見つめている。
 「奈津のウエディングドレス姿・・・綺麗だろうな・・・」
 そんな言葉が、自然に出ていた。
 「ありがとう・・・」
 奈津が、また、顔を赤く染めて下を向いてしまった。僕はそんな奈津がとても愛しく思えた。
 「新居の準備も終わったし・・・いよいよだな」
 これから、奈津と一緒に始める生活を想像すると、僕の顔も、自然に笑顔になる。
 空には、綺麗な星空が広がっている・・・それはまるで、僕たち二人を祝福しているかのようだった。



 ある日の深夜・・・。僕は、電話のコール音に眠りを破られた。寝ぼけた眼を擦りながら、枕もとのコードレスフォンを手にとった。
 「う・・・もしもし・・・?」
 電話の向こうから聞こえてきたのは、奈津の父親の慌てた声だった。奈津の父の話を聞いているうちに、僕の体は震えだしていた。落ち着きを無くさないようにと、大きく深呼吸をしたが頭の中は真っ白だった。ようやく、
 「わかりました・・・すぐに伺います!」
 そう言って電話を切った。しばらく、僕は呆然としていた。手には、コードレスフォンが握られたままだ。受話器を握った指は、力いっぱい握っていたためか、真っ白になっている。大急ぎで服を脱いで着替えると、マンションを飛び出して駐車場に停めてあるカローラに飛び乗った。エンジンをかけると、夜中にもかかわらず、タイヤを鳴かせながら駐車場から道路に出て病院に向かった・・・。

 「お父さん?!」
 「おお・・・誠一郎君!! 来てくれたのか?」
 彫りの深い顔の壮年の男が、僕を見て声をかけてきた。その男の横では、品のよさそうな婦人が、疲れきった顔でお辞儀をしている。彼女は、奈津の母親だ。
 深夜の病院の廊下でベンチに座って、僕は、奈津の両親と話をしていた。
 「いったい・・・どうしたのですか・・・奈津は、いったい・・・?」
 僕は、奈津の両親を見つめていた。奈津の両親は、お互いの顔を見ながら俯いてしまっている。
 「奈津は・・・どうなっているのですか? お願いです・・・教えてください!」
 「奈津は・・・」
 父親が、ようやく口を開いた。
 「・・・急性白血病になってしまったんだ・・・」
 あまりのことに、僕は咄嗟に言葉が出なかった。呆然としている僕に向かって、奈津の母親は、
 「申し訳ありません! わたしたちが付いていながら、こんな大事な時期に・・・」
 「いえ・・・そんなことは・・・」
 僕は慌てて母親を遮った。そして父親に向き直ると、
 「それより・・・奈津の命は・・・?」
 その時、病室のドアが開いて、中から白衣を着た医師たちが出てきた。僕たちを見ると、一礼した。奈津の両親がベンチから立ち上がった。僕も立ち上がると、奈津の両親と一緒に、医師たちのところに歩いて行く。
 「先生! 奈津はいったい?」
 医師は、苦虫を噛み潰したような表情で、僕たちを見ている。目をそらすと、
 「手は・・・尽くしましたが・・・・」
 僕は、最後まで聞いていなかった。医師たちを廊下に残して僕は病室に飛び込んだ。
 「奈津!!」
 ベッドの上には、奈津が寝かされていた。僕の声が聞こえたのか、奈津は首を動かしてこちらを見ようとしている。
 「・・・来てくれたんだ・・・・」
 布団の下から、左手を僕に向かって差し出した。僕は、その手を両手でしっかり握った。冷え切った冷たい手だった。僕の見ている奈津の肌は、今まで以上に白い・・・それは、病魔が奈津を侵しているためかもしれなかった・・・。
 「ごめんね・・・こんなことになっちゃって・・・」
 「いや・・・良いんだ・・・それよりも、早く病気を直してくれよ・・・」
 僕は無理に笑って、奈津を見つめていた。奈津は小さく笑うと、
 「ありがとう・・・わたしは・・・・こうなって初めてわかったことがあるの・・・」
 「なにが?」
 奈津は、いつもの悪戯っぽい笑顔で僕を見つめている。
 「わたしは・・・あなたが好きだっていうこと・・・」
 奈津は優しく微笑むと、
 「いつまでも・・・あなたと一緒にいるからね・・・」
 ニッコリ笑った。僕も頷くと、
 「ああ・・・いつまでも一緒だ・・・・」
 僕も笑った。奈津は微笑みながら安心をしたように目を閉じた・・・しかし、
 「奈津・・・・おい! 奈津!!」
 奈津の腕から力が抜けていく。僕は、咄嗟に大きな声で奈津に呼びかけていた。廊下から、医師たちが走ってきた。奈津の様子を見ると、
 「カウンターショックの用意! 急いで!!」
 看護婦が部屋を出て行く。医師は奈津の脈を見ると、心臓マッサージを始めた。もう一人の医師が、奈津の口に、酸素マスクをつけた。
 「奈津・・・おい! 奈津!!」
 僕は必死に叫んでいた。しかし奈津は、もうあの悪戯っぽい笑顔を僕に向けてはくれなかった。
 奈津は・・・その夜、静かに息を引き取ってしまった・・・僕には、どうすることも出来なかった・・・。



 奈津が亡くなって半年が過ぎた。
 「白鳥先生?」
 僕を呼ぶ声に振り返ると、二人の女子学生がこちらに歩いて来た。
 「先生・・・今日提出のレポートですが・・・」
 学生がレポートを僕に向かって差し出した。
 「うん・・・」
 僕は、そのレポートを受け取ると、女子学生の方を振り返りもせずに歩いて行く。どうやら二人は、僕の後ろでひそひそと話をしているようだ。しかし、今の僕には、そんなことはどうでもよかった。僕は、廊下を自分の研究室に向って歩いて行く。すれ違う学生たちが、僕に向かって冷たい視線を向けている。突然、
 「白鳥君!」
 教授が僕を呼び止めた。振り返ると僕を厳しい表情で見つめていた。
 「ちょっと来たまえ!」
 そして僕は、教授の部屋で話をしていた。
 「大変・・・だったな・・・」
 教授が、コーヒーをテーブルの上に置くとニッコリ笑った。
 「ハア・・・いろいろご迷惑を・・・」
 「いや・・・そんなことはいいんだがね・・・」
 教授は小さくため息をつくと、
 「最近の君は・・・いったいどうしてしまったんだ・・・?」
 僕は、何も言えずに俯いていた。
 「あれだけ素晴らしい研究成果を上げて、学生たちの指導にも溢れるほどの熱意を見せていた君が・・・」
 教授は悲しげな視線を窓の方に向けた。初夏の新緑・・・若々しい息吹が溢れる木々が目に飛び込んでくる。
 「君には・・・本当に期待をしているんだ・・・・確かに・・・彼女のことは、辛かっただろう・・・」
 教授はさっきまでとはうって変わって、厳しい目で僕を見つめている。
 「しかし、君にはそれを乗り越えて立派な研究者になってもらわなければならない。このままでは、彼女も悲しむぞ!」
 「ハア・・・」
 僕は、頭を掻きながら立ち上がった。
 「コーヒー・・・ご馳走様でした・・・」
 ドアのノブに手をかけると、教授を振り返った。
 「・・・では、失礼します・・・」
 一礼すると、教授の部屋を後にした。
 
 僕の出て行った後の教授室、教授は大きくため息をつくと、厳しい表情で天井を睨みつけている。
 「奈津くん・・・すまん・・・・どうやら、わしでは・・・あいつの力には、なれんようだ・・・・」



 その夜、僕は居酒屋で一人、酒を飲んでいた。
 コップに入った冷酒をまるであおるように飲み干していく。飲みなれない飲み方をしているせいか、思わず咽てしまう。ようやく咳が治まると僕は空のコップを手に持った。店員の男性に、
 「すいません、おかわり!」
 僕が、少し呂律の回らなくなった口調で声をかけると、その店員は小さくため息をついた。
 「お客さん・・・やめておいたほうがいいですよ・・・」
 「おまえ、誰に向かって言っているんだ!」
 僕は立ち上がろうとしたが、上半身がふらつき、よろめいた。テーブルにもたれかかるように、床に倒れこむ。テーブルの上に置かれていたコップや皿が、音を立てて床に滑り落ちた。
 「お客さん! 大丈夫ですか?」
 店員が慌てて声をかけた。周りの客たちの冷たい視線が僕に集中する。僕は、惨めになって床から立ち上がった。
 「大丈夫ですか・・・?」
 「ああ・・・・すいません、おあいそを・・・」
 僕は、支払いを済ませると、夜の街に出た。なぜか、涙が出てくる。左手の薬指に嵌めている婚約指輪が、街の明かりを反射してキラキラと光っていた。
 「奈津・・・!!」
 僕は呟くと、夜空を見上げた。
 夜空に輝く星の光が、涙で滲んでいった。



 ところはかわって、ここは天国・・・・。
 一人の女性が、泉の水面を見ながら、涙を流していた。
 長い顎髭を生やし、白い服を着た老人と、若い青年が訝しげに、その女性に近寄っていく。
 「どうしましたか・・・?」
 老人が、女性に優しい声で尋ねた。顔を上げて老人を見上げた女性は、奈津だった。
 奈津は、しばらく黙って老人を見つめていたが、やがて泉の水面に視線を戻した。そこには、夜の地上から空を見上げている誠一郎が映っていた。
 『奈津・・・!!』
 誠一郎の悲しみの叫び声が、奈津の耳に飛び込んでくる。優しい顔で見つめる老人の目の前で、奈津は黙って小さな肩を震わせていた。
 「フム・・・」
 老人が小首を傾げた。
 「彼は・・・確か、君のフィアンセだったはずじゃのう・・・」
 顎鬚を撫でながら老人が呟いた。脇に立つ青年が、分厚いファイルをめくる。
 「え〜・・・彼女は、先日こちらに来た、野口奈津さんです。死因は急性白血病です。まあ、結婚二ヶ月前というのは気の毒ですが・・・」
 その時、
 「誠一郎さん!!」
 奈津が、口に手をやりながら、泉の水面を見つめている。老人と青年も泉に駆け寄った。水面には、歩道で若者たちに殴られている誠一郎の様子が映っていた。
 「この酔っ払い! ぶつかっておいて、謝りもしないのかよ!!」
 4人の若者に、誠一郎は袋叩きにされている。街を行き交う人は、誰もそれを止めようとはしない。
 「やめて!!」
 聞こえないとわかっていても、奈津は思わず叫んでいた。それを見つめる、老人と青年。
 
 「気をつけろよ!!」
 電柱に寄りかかったまま倒れている僕に向かって、若者たちは吐き捨てるように言うと、歩き去っていった。街を行き交う人たちは、倒れている僕を、まるでゴミでも捨ててあるかのような眼差しでチラッと見ると、そのまま歩いて行く。
 「ウウッ・・・」
 うつ伏せに倒れていた僕は、なんとか体を起こそうとするが、なかなか起き上がれない。足から崩れるように、また仰向けに倒れてしまった。
 「ちくしょう・・・」
 僕は、星が瞬く夜空を見ながら倒れていた。殴られたため全身が痛む。
 「このまま・・・死ねば・・・また・・・奈津に会えるの・・・かな・・・」
 そのまま僕は、意識を失ってしまった。

 「誠一郎さん・・・」
 奈津は泣いていた。大粒の涙が大きな瞳から落ちて、泉の水面に波紋を作る。
 それを黙って見つめていた老人は、優しく奈津の肩に手を置いた。奈津が老人を涙で潤んだ瞳で見上げる。奈津は、老人の白い服に縋り付いた。青年が慌てて駆け寄る。
 「お願いです。わたしを・・・わたしをもう一度、誠一郎さんのところに・・・!!」
 それは、奈津の心からの叫びだった。老人は、慈愛に満ちた眼差しで奈津を見下ろしている。
 「奈津さん、それは出来ません! あなたはもう下界では死んだ人間なのですよ!」
 青年が後ろから奈津を抱きかかえるように、奈津の体を老人から離そうとしている。
 「でも・・・でも、このままでは、誠一郎さんの心は、闇に包まれたままです。わたしは・・・わたしは、そんな事は耐えられない・・・!!」
 奈津は、顔を覆って泣き出した。青年は、呆然と泣きつづける奈津を見下ろしている。老人は、頷きながら奈津に優しく声をかけた。
 「きみは・・・そんなに彼のことを・・・・」
 奈津は、瞳を涙で潤ませながら頷いた。老人は、再び泉の水面を見つめた。水面には、起き上がった誠一郎が、よろめきながら家に向かって歩いている様子が映っていた。
 「もうすぐ・・・お盆だ。きみたちは、下界に戻ることが出来る・・・」
 老人は、奈津に向き直った。
 「しかし彼には、霊体になったきみを見ることも、きみの声を聞くことも出来ない・・・」
 「そんな・・・」
 奈津が悲しげな表情を老人に向ける。
 「それじゃあ、わたしは誠一郎さんの悲しみを癒すことが出来ない・・・」
 「無茶を言わないで下さい。立ち直るのは、彼しだいでしょう!」
 青年が奈津に向かって厳しい口調で言った。
 「これこれ・・・立ち直るきっかけを作るのは、わたしたちの仕事だろう・・・」
 老人が微笑みながら言った。
 「しかし、神様!!」
 青年が遮ろうとするのにかまわず、
 「わたしに考えがある・・・」
 そう言うと、老人はニッコリ微笑んだ。
 「ちょっと下界に行って来るよ・・・」
 そう言うと、老人の体を青白い光が包んでいく。
 「神様! それは・・・!!」
 青年が大きな声で叫んだが、老人の姿は光の中に消えていった。
 「ハア〜・・・また下界に行かれたか・・・」
 青年は大きなため息をつくと奈津の方を向いた。
 「・・・いったいどうなることか・・・」
 奈津に向かって肩をすくめて見せる青年。
 奈津は、呆然と白い服に身を包んだ青年を見つめていた・・・。



 翌日
 「もしもし・・・そこのお方・・・」
 大学からの帰り道、僕は街角で声をかけられた。振り返ると、立派な顎鬚を蓄えた和服姿の老人が、”易”と書かれた布を被せた台を前に置いて座っていた。
 「占ってあげましょう・・・こちらにいらっしゃい」
 「いや・・・結構です!」
 僕は、無視をして歩き去ろうとした。すると、
 「今のあんたの心は、真っ暗じゃな・・・」
 僕は、驚いてその老人を振り返った。
 「・・・今のあんたの心には、光が全く見えない・・・」
 僕は、呆然とその老人を見つめていた。
 「なぜ・・・そんなことが・・・」
 「そんなこと・・・ものが見えていればわかるよ・・・」
 老人が小さく笑った。
 「今の・・・光を失っているあんたには、わからないかもしれないがのお・・・」
 老人が僕に向かって微笑みかける。僕は、その微笑に引き寄せられるように、台の前に置かれた椅子に座った。
 「おじいさん、あなたはいったい・・・?」
 「ハハハッ・・・」
 老人は、僕に向かって笑いかけると、僕の右手を持って掌を上に向けさせた。
 「さあ、ちょっと見てやろうかのう・・・」
 老人は、大きな虫眼鏡を通して僕の掌を覗き始めた。メモ用紙に鉛筆で何かを書いたり、時々大きなため息をついたり、首を傾げたりしている。
 「あんた・・・最近、大きな悲しみ事があったの・・・」
 老人は、顔を上げもせずに言った。視線は、虫眼鏡に向けられたままだ。
 「・・・失ったのは、かけがえのない人・・・」
 老人は、顔を上げると、
 「・・・違うかな・・・?」
 僕は、言葉を失ったまま、呆然と老人の顔を見つめていた。老人は、悪戯っぽい笑みを浮かべると、
 「さあ・・・それじゃあ、あんたに“光”をあげようかのお・・・」
 「光?」
 「ああ・・・“光”だよ・・・」
 老人は、じっと僕の目を見つめると、
 「あんたの心に差し込む・・・心の光をのう・・・」
 老人は、虫眼鏡をかざして僕の目を見つめている。僕が虫眼鏡を通して見る老人の目は、虫眼鏡のレンズを通して大きく見えた。
 「あんた・・・8月の半ばに、亡くなった人との思い出の場所に行きなさい・・・」
 「思い出の場所?」
 「ああ・・・思い出の場所・・・」
 老人が小さく笑った。
 「そんなことを言われても・・・」
 僕は、老人の言葉を聞いて苦笑いした。僕は、老人に向き直った。
 『この老人・・・まるで今までの僕の生活を見てきたようなことを言うけど・・・いったい何者なんだ・・・』
 「フム・・・」
 老人は、また虫眼鏡をかざすと、
 「・・・山が見えるなあ・・・」
 「山?」
 「ああ・・・深い山・・・その中に、綺麗な水に満たされた深い井戸のような物が見える・・・」
 老人は、虫眼鏡を台の上に置くと、僕の顔をしっかり見つめて、
 「このままでは、あんたの心は闇に包まれたままだぞ! 自分の力で光を・・・」
 「もう・・・僕には、そんなものはないよ・・・」
 僕は笑いながら立ち上がった。
 「奈津が死んでしまった時、僕の未来は・・・なくなったんだ・・・」
 僕は、見料を台の上に置くと、家に向かって歩き始めた。
 「それでいいのか? あんたがそう考えている限り、本当にあんたを心配している人が悲しむことを忘れるんじゃないぞ!!」
 老人の声を背中で聞きながら、僕は街を歩いて行った。



 それからしばらく経った。
 その日、大学での講義を終えた僕は講師の控え室に戻ってきた。
 「ア・・・白鳥先生、お疲れ様です!」
 秘書の女の子が、僕に声をかけてきた。
 「ああ・・・やっと終わったよ・・・」
 僕は、自分の机に教科書や教材を置くと、彼女の操作しているコンピューターのディスプレイに視線がいった。
 「・・・?」
 僕は、思わず立ち上がった。足早に歩いて彼女の横に立つと、
 「ニュートリノ研究所・・・これは、長野県にあるうちの大学の・・・?」
 「そうです・・・」
 彼女は、怪訝な表情で僕を見つめていた。
 「研究施設の予約を頼まれたもので・・・」
 僕には、彼女の言葉は耳には入らなかった。頭の中では、奈津との思い出がフラッシュバックしていた。
 『ニュートリノ研究所は・・・僕が最初に奈津と出会った場所・・・』
 そして、僕の頭の中には、あの老人の声が響いていた。
 『あんた・・・8月の半ばに、亡くなった人との思い出の場所に行きなさい・・・』
 僕は、コンピューターのディスプレイに視線を戻した。
 「8月の半ば・・・ニュートリノ研究所は使えるかな?」
 「8月半ば・・・ですか?」
 「うん・・・」
 「そうですねえ・・・」
 彼女の白く細い指が、マウスを操作していく。
 「この時期・・・あそこはゼミでよく使われているようですから・・・・」
 彼女が、画面をスクロールさせると、
 「アッ・・・この日なら空いていますよ・・・8月16日です」
 「よし・・・それなら、その日を予約しておいてくれるかな?」
 「ハイ!」
 彼女は、キーボードを操作しながら、
 「でも、どうしたのですか? 白鳥先生」
 「ん?」
 「だって、突然、ニュートリノ研究所の施設を使われるなんて・・・」
 「ア・・・アア・・・・ちょっと確かめたいことがあってね・・・」
 僕は、曖昧に笑うと、自分の席に戻っていく。彼女は、そんな僕を見ながら首をかしげていた。



 そして8月・・・。
 
 山道をタクシーが走って行く。ここは長野県、南アルプスの山々に囲まれた人里離れた場所だ。タクシーのエンジンの唸り声だけが山に響いている。
 「お客さん・・・ここですか?」
 運転手の声が聞こえて、僕は顔を上げた。山の中に似合わない。近代的な建物が視界に飛び込んできた。
 「そうです・・・」
 返事をすると、建物の入り口でタクシーが止まった。ドアが開き、暑い夏の空気がタクシーの中に入ってくる。トランクから大きなバッグを下ろした。タクシーが走り去ると、あたりにはセミの声しか聞こえない。
 僕は、研究所のドアを開けた。
 「やあ・・・白鳥君、お久しぶり!」
 受付に行くと、この研究所の所長が声ををかけてきた。
 「お久しぶりです!」
 「奈津くんのこと・・・大変だったね・・・」
 所長が書類を差し出しながら言った。
 僕は、小さく頷きながら書類にサインをした。
 「今日は何を・・・?」
 「ちょっと・・・確かめたいことがあるんです・・・1日ですが、お世話になります!」
 僕は一礼すると、バッグを持ってその日、自分が泊る部屋に向かった。



 その日の夜、
 山奥の夜空には、都会より空気が綺麗なこともあるのだろう・・・まるで降るような星空が広がっている。
 「・・・奈津と・・・よく見ていたなあ・・・」
 僕は呟くと、窓辺を離れてニュートリノ発生器のコントロールルームに戻った。
 このコントロールルームから見下ろせる場所には、超純水を貯めた巨大な深いプールがある。このプールの壁面にはセンサーが取り付けられ、ニュートリノの発生や通過をモニターすることが出来る。この研究所は、この国のニュートリノ研究では、最高の設備が整っていた。
 僕が大学院の学生だったころ、同じ研究室に入ってきた奈津と初めて出会ったのが、この研究所だった。
 「しかし・・・ここに来ていったい何が・・・」
 僕は、アタッシュケースを開くと、1枚のディスクを取り出してコンピューターにセットした。
 「ここを借りて、何もしないわけにもいかないしな・・・」
 僕はキーボードを叩いて指示を入力していく。
 『出力・・・ミドル・・・・ニュートリノ発生システム・・・スタート・・・』
 コントロールルームに、『ブ〜ン』と聞き取り難い低い音が聞こえてきた。僕は、コンピューターのディスプレイに表示されるグラフを見つめていた。その時・・・。
 「あれは・・・?」
 プールの中に、青白い光点が現れた。
 「始まったか・・・」
 僕はディスプレイに目をやった・・・しかし・・・、
 「なぜだ?」
 コンピューターには、ニュートリノの反応は検出されていなかった。慌てて僕は、コンピューターに指示を打ち込んだ。
 『システムエラーチェック・・・・』
 『ニュートリノ検知システム・・・オール・グリーン』
 僕は、プールに視線を戻した。プールに現れた青白い光の粒は増えていく。
 「どういうことだ・・・」
 ディスプレイに表示されるグラフには、全く反応がない。
 「あれは・・・チェレンコフ光じゃないのか・・・?」
 プールに現れる光の粒はどんどん増えていく。僕は、知らず知らずのうちに体が震えだしていた。ディスプレイに視線を戻した。やはり反応はない。
 「・・・そんな馬鹿な?!」
 僕はコントロールルームを飛び出してプールに向かって走った。プールの手摺を掴んで中を覗き込む。プールに満たされた水は、青白く光輝いている。次の瞬間、
 「ウワッ?!」
 プールの中から青白い閃光が放たれた。目が眩み、思わず床に倒れこんだ。
 「なにが・・・」
 ようやく目を開けた僕の目には、信じられない物が見えた。青白い光に照らされ、プールの水面に立っている白いワンピース姿のショートカットの髪の女性・・・。彼女は・・・?
 「な・・・つ・・・・? ・・・・・奈津!!」
 思わず叫んだ僕に向かって、水面に立っている奈津が微笑んだ。まるで水面を歩くように、こちらにやってくる。僕は信じられない光景を目にして体が震えていた。僕の前に立った奈津がいつものように微笑んだ・・・ホッと癒される笑顔だった。
 「お久しぶり・・・・」
 奈津の明るい笑顔を見ても、僕は何も言えずにそこに立ち尽くしていた。
 「どうしたの?」
 奈津が首を傾げながら微笑む。僕は、奈津の柔らかい体を思いっきり抱きしめていた。僕の頬を熱い涙が流れ落ちていく。
 「どうして・・・もう、この世にはいないはずの君が・・・なぜ、僕のところに・・・」 
 「心配で、戻ってきたの・・・」
 「エッ?」
 「だって・・・」
 奈津が僕の顔を見ながら微笑む、
 「上から見ていると、心配だったわよ・・・誠一郎さんが、どうなってしまうのか・・・」
 「・・・・・」
 僕は、何も言えずに、ただ、奈津の顔を見つめているだけだった。奈津の大きな瞳が潤んでいく、
 「わたしのことを想ってくれているのは、本当に嬉しい・・・でも、それには縛られないで・・・」
 「しかし、僕には奈津しか・・・」
 奈津は、小さく首を振った。
 「今の誠一郎さんは・・・わたしの知っている誠一郎さんじゃない・・・」
 奈津が寂しそうな笑みを僕に向ける。
 「今の誠一郎さんの心は、闇に包まれている・・・」
 「でも・・・でも、君がいてくれれば!」
 奈津は大きく首を振った。
 「本当の誠一郎さんは、明るくて情熱に溢れた人・・・心が光に満たされて、周りの人たちにもその光を与えていた・・・そんな誠一郎さんが、わたしは好きだった・・・」
 奈津が僕に抱きついてきた。僕も奈津の柔らかい体をしっかり抱きしめた。
 「ごめんなさい・・・誠一郎さんを苦しめてしまって・・・」
 「いや・・・いいんだ・・・」
 僕は、無理に笑った。
 「こうして・・・奈津が帰ってきてくれたんだから・・・」
 奈津は、少し悲しそうな顔をした。僕は、それが気になった。
 「どうした?」
 「なんでもない・・・」
 奈津は、微笑みながら、
 「今夜は、ゆっくり話しましょう・・・」

 それから僕たちは、プールの脇のコンクリートの床に座り込んで、一晩中話をしていた。
 奈津とここで出会ったこと・・・その後、大阪に帰ってからの初めてのデート・・・みんなに隠れて会っていたが、結局はバレてしまったこと・・・助手から講師になって、奈津にプロポーズをしたこと・・・奈津の家に、僕が挨拶に行って、奈津の父親と一晩飲み明かしたのを、奈津が呆れて見ていたこと・・・思い出は尽きない。

 いつしか、窓から見える山の稜線は青く・・・明るくなっていく・・・夜が明け始めていた。それを見て、奈津が立ち上がった・・・。
 「どうしたんだ?」
 「そろそろ・・・帰らないと・・・」
 「どこへ?!」
 「・・・・天国へ・・・」
 奈津の表情が曇る。 
 「なぜだ・・・せっかく帰ってきたのに?!」
 僕は思わず声を荒げていた。奈津をしっかり抱きしめた。
 「もう・・・どこにも行かせない・・・一緒にいてくれ! 奈津!!」
 奈津は、僕の腕を振り解いてプールの脇に立った。瞳を潤ませながら、顔には微笑を浮かべて僕を見つめている。
 「神様との約束なの・・・朝になったら・・・戻ってくるって・・・」
 「そんな・・・奈津?!」
 「お願い誠一郎さん・・・わたしに縛られないで・・・・誠一郎さんは、誠一郎さんらしく生きて・・・それで、誠一郎さんも、周りの人もみんなが幸せになれるのよ!」
 奈津は、顔を覆って泣き出した。僕は、何も言えずにそんな奈津を見つめていた。
 「わたしは・・・その方がいい・・・・誠一郎さんの思い出にいられるだけでいい・・・」
 奈津は、顔を上げた。しっかり僕を見つめると、
 「わたしは、これからは誠一郎さんの心の中で生きて行く・・・だから、誠一郎さんは、誠一郎さんらしく生きてね・・・」
 奈津が僕に向かって歩いて来た。僕の前に立つと瞳を閉じた。僕は奈津をしっかり抱きしめると、その柔らかい唇にキスをした。
 次の瞬間、白い光が奈津の体を包んでいく。奈津が僕から体を離した。
 「ありがとう・・・」
 「奈津?!」
 僕は思わず叫んでいた。奈津の姿が、光の中に消えていく。
 「お願い・・・心の光を・・・なくさないでね・・・」
 奈津を包んでいた光が次第に消えていく・・・そして、そこには、もう誰の姿もなかった。僕が、そこに呆然と立ち尽くしていると、
 「白鳥先生・・・おはようございます!」
 研究所の所長が声をかけてきた。
 「アア・・・おはようございます!」
 「どうか・・・・されましたか?」
 「いや・・・」
 僕は、頭を掻くと、
 「失礼・・・そろそろ実験を終わらせないと・・・」
 僕は、コントロールルームへの階段を上っていく。
 「ありがとう・・・奈津・・・僕は、頑張るよ・・・」
 僕は力強く、スチール製の階段を上っていく。
 「もう、おまえには、心配をかけないよ!!」
 『頑張ってね!』
 一瞬、奈津の声が聞こえたような気がして立ち止まってプールを振り返った。
 振り返ると、プールの中では、チェレンコフ光の青白い光が輝いている。僕はニッコリ笑うと、コントロールルームの扉を開けた・・・。





 こころのひかり
 (終わり)


 こんにちは、逃げ馬です。この作品は、Westさんのサイト”Sunset Illusion”の企画・・・”Nigo”に投稿させていただいた作品です。
 Nigoはお題を決めて、そのキーワードを織り込んで作品を書いていくのですが、この作品を書いたときのキーワードは“ナツ”と“ヒカリ”・・・少し、ストーリーを作りやすかったです(^^)
 逃げ馬としては、このキーワード・・・いろいろな意味で使ってみようと思って作ったストーリーが、この作品です。そしてもう一つ、僕は、いわゆるTSF作品を書く機会が多いので、そのイメージを一度払拭しようと思って書いてみた作品です。気に入っていただけるとありがたいのですが(^^;
 この後は・・・また長い物も書いてみたいですし、ガールズ・ファイターシリーズも待っています。どういう順番で登場するかは、作者にもわかりませんが(笑) また、次回作でお会いしましょう!

 尚、この作品に登場する団体・個人は、実在のものとは一切関係のないことをお断りしておきます。




2002年8月 逃げ馬






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