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 いつもそばに・・・・



 作:逃げ馬







2002年 夏

 『ミーン・・・・ミン・ミン・・・ミ〜〜〜ン・・・・』
 頭上からは、まるで降り注ぐようなセミの声が聞こえてくる。アスファルトで舗装された道は、厳しい夏の日差しに焼かれて陽炎が立っている。その道を、ランニングシャツと短パンを身に着けた若い男たちが、汗をかきながら走って行く。男たちは、夏の日差しを浴びながら苦しそうに走り続ける。噴出した汗は、夏の日差しを浴びてたちまち蒸発して浅黒く焼けた皮膚の上で塩に変わってしまう。
 男たちは道路から門をくぐって大学のキャンパスの中を走って行く。校門には、”剛気体育大学”と書かれていた。男たちは、キャンパスの一角に作られたトラックに入ってきた。
 「よし! ラスト一周!!」
 トラックに立つ中年の男がメガホンで叫ぶ。その声は聞こえたのだろうか? 男たちは、半ば喘ぎながらトラックを走る。そして、男たちは次々とゴールラインに走りこんできた。誰もが、ゴールラインを超えると崩れるように倒れこむ。
 「よ〜し・・・まずまずのタイムだ・・・・」
 中年の男がストップウオッチを見つめながら、倒れたまま荒々しい呼吸をしている若い男たちに向かって言った。しかし、男たちは答えることも出来ない・・・・苦しそうに呼吸をしているだけだった。
 「よし・・・今日の練習はここまでだ・・・・」
 中年の男が言うと、若い男たちはなんとか足を踏ん張って立ちあがった。
 「「「「ありがとうございました!」」」』
 男たちが疲れきった声で挨拶をしながら一礼すると、中年の男も、
 「ご苦労さん!」
 若い男たちに向かって片手を上げると、校舎の方に向かって歩いて行く。その後姿を見送った後、男たちはトラックや芝生に座り込んでしまった。
 「ふ〜〜〜っ・・・・さすがにきついな・・・・」
 髪を短く刈りこんだ、まだ二十歳くらいに見える青年が呟いた。
 「園田・・・・大丈夫か?」
 顔の四角い・・・大学生なのだから、まだ20歳を少し出たくらいだろう・・・歳より少し老けて見える男が園田と呼んだ青年を立ったまま見下ろしている。しかし、疲れた顔にも後輩を労わる表情が浮かんでいる。
 「大丈夫ですよ・・・・北田さん。これくらいなんとも・・・」
 園田は立ち上がろうとしたが、足に力が入らないのか踏ん張りきれずに尻餅をついてしまった。苦笑いしている園田に向かって北田は、
 「まだまだだな・・・・園田!」
 両手を膝において上半身を支えながら、北田が悪戯っぽい顔で笑った。その時、突然、園田の頭にスポーツタオルが被せられた。驚いて振り返る園田。彼の後ろには、肩まで綺麗な髪を垂らした、Tシャツとジーンズ姿の女の子が微笑んでいた。
 「お疲れ様!」
 悪戯っぽい笑顔で微笑む女の子に向かって、園田は、
 「なんだ・・・・明子か!」
 「なんだは無いでしょう?!」
 明子が頬を膨らませる。
 彼女は佐藤明子・・・この剛気体育大学陸上部のマネージャーをしてくれている。いつも明るい笑顔で園田達を元気付けてくれている。その彼女が、半ば呆れた表情で座り込んでいる園田を見下ろしている。
 「明子ちゃんも大変だな・・・・こんな園田みたいな奴が相手じゃあな」
 北田が人懐っこい笑顔を明子に向けた。
 「・・・・大変だな(^^; 」
 北田が笑うと、つられて明子も笑い出した。座り込んでいる園田は、北田と明子の顔を交互に見つめながら、
 「北田さん! そんな言い方は無いでしょう?! 明子も、なに笑っているんだよ!」
 唇を尖らせながら二人を見つめる園田。北田が悪戯っぽい笑みを浮かべている。
 「まあ・・・おまえ達二人が付き合っていること自体が、“剛気体育大学の七不思議”なんだけどな!」
 大笑いする北田を、園田が恨めしそうに見つめている。その時、
 「お〜い!・・・北田さん、園田!!」
 突然聞こえた声に、3人が振り向いた。ランニングシャツを着た坊主頭の若い男が、こちらを見ている。
 「昼御飯を食べに行きましょう!」
 若い男が、北田に向かって叫ぶと、北田は頷いて腰を上げた。
 「おい・・・園田! あきちゃん・・・みんなと昼を食べに行こうぜ!」



 陸上部員たちは、大学の近くの中華料理屋に集まっていた。
 「アア・・・・腹が減った・・・」
 「あんなにきつい練習をしたんだから、そりゃあ腹も空くよな!」
 今にもテーブルを齧り出しそうな陸上部員の前に、
 「ハイ・・・“冷やし中華”! おまちどうさま!」
 店のおばちゃんが、テーブルの上に冷やし中華を並べていく。男たちが、待ちきれないといわんばかりに、冷やし中華の皿を自分の前に引き寄せる。
 「さて・・・・いただきます!」
 割り箸を割ると、北田が美味そうに冷やし中華を食べ始めた。皆も齧り付くように、冷やし中華を食べ始めた。
 「そうだ・・・」
 北田が冷やし中華を口に頬張ったまま口を開いた。
 「そう言えば、さっき監督が今度のインカレのメンバー・・・・園田・・・・おまえも入れると言っていたぞ!」
 「エッ?!」
 冷やし中華を口に運ぼうとした箸を止め、驚いて北田を見つめる園田。明子をはじめ、陸上部のメンバーの視線も園田に集まる。
 「すげえぞ・・・・園田!」
 「1年でインカレ出場か?」
 園田は、呆然と北田を見つめていた。
 「北田さん・・・・本当ですか?」
 「ああ・・・監督も期待していたようだぞ!」
 北田がニヤリと笑う。その時、
 「ア〜ア・・・・才能のある奴はいいよな〜!」
 突然聞こえてきた声に、皆の視線が声の聞こえた方向に集まった。皆の視線の先には、テーブルに肘をつきながら、上目遣いに園田を睨むように見つめている茶髪の男がいた。
 「橋本・・・・おまえ・・・・」
 北田がたしなめようとした。しかし橋本は、そんなことはお構い無しに、
 「おまえは才能があるからいいよ・・・・しかし、俺にはそんな才能も無い・・・・」
 橋本は、嘯くように店の汚れた天井を睨みつけている。居合わせた陸上部員たちは、何も言えずに事の成り行きを見守っていた。
 「いいか、園田・・・人の人生なんてな・・・・割り当てられた“牌”は限られているんだよ・・・・良い“牌”が回ってきた奴は、素晴らしい人生が送れる・・・・しかし、ろくな“牌”が回ってこなかった奴は、それなりにしか・・・」
 「ちょっと! 橋本くん!!」
 明子が厳しい口調で橋本をさえぎった。
 「・・・佐藤・・・・なんだよ!」
 橋本が、まるで爬虫類の目のような視線を、明子に向ける。明子は、頬を膨らませながら
 「それじゃあまるで、園田くんが才能だけでメンバーに・・・」
 「・・・違うのか?!」
 「違うわよ!!」
 明子が厳しい口調で言った。部員たちは驚いた。ここまで厳しい明子の顔を誰も見たことはなかったのだ。
 「・・・園田くん・・・・頑張って練習しているわよ! あなたなんて・・・いつも口だけで他の人の練習タイムを批評しているだけじゃない! それなのに・・・」
 「明子・・・やめろ・・・もういいよ!」
 明子の肩に、誰かが手をかけた。明子が振り返ると、園田が苦笑いしながら明子に向かって首を振った。ため息をつく明子。橋本には、部員たちの冷たい視線が集まっていた。
 「・・・・フン!!」
 橋本は鼻を鳴らすと、不貞腐れたように天井に視線をやった・・・。



 「園田・・・・」
 店を出て歩いている園田に、北田が声をかけた。
 「さっきの橋本の言葉・・・気にするなよ!」
 肩をポンと叩くと、北田は笑って園田を追い越していった。園田は、北田に向かって頷いた・・・しかし、
 「ふう〜・・・」
 「・・・・なに、ため息をついているのよ!」
 「ア・・・・明子?!」
 いつの間に来たのか、明子が園田と並んで歩きながら、園田の顔を覗きこんでいた。
 「もう・・・・しっかりしてよ! インカレはもうすぐなんだから!」
 「ア・・・・ああ・・・・」
 園田は、作り笑顔を顔に浮かべて頷いた。しかし、明子はそんなことはお見通しだった。思わず足を止め、歩いて行く園田の背中を見ながら、ため息をついていた。



 目標だったインカレ・・・10000mに出場した園田は、いつもの彼ではなかった。その走りは精彩を欠き、平凡な成績に終わってしまった・・・。



 「おい! 園田!! その走りはなんだ?!」
 トラックの脇から監督がトラックを喘ぐように走る園田にメガホンを向けて怒鳴っている。その横で明子は、痛々しそうにトラックを走る園田を見つめていた。

 「ご苦労様!!」
 走り終わって荒い息をしている園田の頭にスポーツタオルが被せられた。明子がスポーツドリンクを園田に向かって差し出した。黙ってボトルを受け取ると、園田はドリンクを口に含んだ。突然咳き込んでドリンクを吐き出す園田。
 「大丈夫?!」
 明子が心配そうに園田の顔を覗きこんだ。園田は、スポーツドリンクが気管に入ったのか、しばらく咳き込んでいたが、
 「アア・・・・・大丈夫・・・・」
 力なく笑った園田が、スポーツタオルを地面に叩きつけた。
 「園田君?!」
 「・・・情けないよな・・・・」
 驚いて園田を見つめる明子の視線の先で、園田は視線をトラックを走る選手に向けたまま、苦しそうに笑っていた。
 「・・・大学に入って半年・・・・高校時代から陸上をしてきて思い上がっていたわけじゃない・・・・でも・・・」
 園田の声が、しだいに涙声になってきた。明子は何も言えずに園田の横顔を見つめている。
 「・・・・走れないんだ・・・・走ろうと思っても、なぜか体が・・・・」
 園田が明子に向かって顔を向けた。園田は、涙で濡れた顔に苦しそうな笑いを浮かべていた。
 「園田君・・・・」
 明子は言葉が出ない。園田は、スポーツタオルを披露と、乱暴に顔を拭った。そしてトラックを横切って歩き出した。
 「どこに行くの?!」
 慌てて明子は立ちあがると、園田に向かって叫んだ。
 「・・・・」
 園田は、振り返りもせずに校舎に向かって走って行った・・・。



 その夜
 顔を真っ赤に染めたTシャツとジーンズ姿の園田が、フラフラと夜の街を歩いている。大きく上体を揺らしながら歩いていた園田が、街路樹に持たれかかると、突然咳き込み出した。
 「・・・・飲み慣れない物・・・・飲むもんじゃないな・・・・」
 苦しそうな顔で園田が笑う・・・・しかし、その表情には、言い知れない寂しさが浮かんでいる。
 園田は、街路樹にもたれながら、繁華街の歩道を歩く人々に目をやった。幸せそうに歩くアベック。忙しそうに行き交うビジネスマン。そして、楽しそうな家族連れ・・・・。
 「僕は・・・・僕は・・・・」
 園田が再び覚束ない足取りで歩き出した。
 「走ることしか出来ない僕が・・・走ることが出来なくなってしまったら・・・・いったい何が残るんだよ・・・・」
 フラフラと歩く園田に向かって、
 「これこれ・・・・そこのお兄さんや・・・・」
 園田の耳に、しゃがれた声が聞こえてきた。ふと見ると、顎に真っ白な髭を蓄えた和服姿の老人が、“易”と書いた布を被せた机を前においてちょこんと座っている。
 「僕のことかな?」
 「アア・・・・・そうじゃ・・・」
 老人がニッコリ笑った。
 「ちょっと見てやるから・・・・そこに座りなさい・・・」
 園田は、その場に立ち尽くしていた・・・・じっとその老人を見つめていると、なぜだろう・・・・心が休まってくる。いつのまにか園田は、老人に言われるままに、その老人の前に腰を下ろしていた。
 「どれどれ見てやろう・・・・右手を見せてみなさい・・・・」
 虫眼鏡を片手に、老人が微笑む。園田は、右手を老人に差し出した。老人は、園田の掌に虫眼鏡をかざしながら、頷いたり、メモを取ったり、首を傾げたりしている。
 「フム・・・・」
 老人は園田を見つめながら、
 「あんた・・・・最近行き詰まっとるの」
 「エッ?」
 園田は、ちょっと驚いたが、今の自分の状態を思い出した。
 『そりゃあ、これだけ酔っ払っていればな・・・・』
 誰にでも分かる・・・・・園田はそう思ったが、
 「あんたは、何かを頑張っていた・・・・それが全てと言うほどにな・・・・・しかし、仲間と思っていた人からの心無い一言で、それに打ちこめなくなってしまった・・・・」
 園田は、何も言えずに老人を見つめていた。
 『この爺さん・・・・・当たってるじゃないか・・・・』
 「あんたはすっかり積み上げたものが崩れてしまっている・・・・いわば、“壁”にぶつかっている・・・・」
 「それは分かっているよ!」
 園田は思わず、見ず知らずの占い師の老人に向かって声を荒げた。
 「・・・・“壁”を乗り越えようと・・・・練習しても、練習してもどうにもならないから・・・・」
 「“壁”が崩れる時なんて、あっけないものじゃよ・・・・」
 老人が笑った。その笑いを園田は少し馬鹿にされたように感じた。
 「爺さん、どう言う意味だよ!」
 「あんたは、今練習をしていると言っとったな・・・・それは、もちろん大切なことじゃよ・・・・」
 老人は、微笑みながら頷いている。
 「あんたのように、頑張っていれば、ちょっとしたきっかけで“壁”は独りでに崩れていくもんじゃ・・・・」
 「でも・・・・」
 園田は、膝の上に置いた両手の拳を硬く握っていた・・・・腕が小刻みに震え出す。
 「いくら練習しても・・・僕は・・・・勝つことが出来ないんだ・・・・自分の走りが出来ないんだ!」
 園田は思わず机に拳を叩きつけた。溢れる涙を押さえることが出来ない。占い師の老人は、そんな園田を微笑みながら見つめていた。
 「勝ちたい・・・・そのためなら、他の何もいらない!」
 絞り出すような声で園田が言った。それは、園田の心の叫び・・・・悲鳴だったのかもしれない。
 「それほど勝ちたいか・・・・」
 老人が園田の目をしっかりと見つめている。園田は、顔を上げて言った。
 「当たり前だよ・・・・陸上競技をする人間が、勝ちたいと思わないはずはないだろう!」
 「・・・・勝つと言うことは、他人を押しのけていくこと・・・・それを続けているうちに・・・・大事なものを失うかもしれないと思うがね・・・・」
 「そんなの・・・・勝つと言うことに比べれば、たいした事はないよ・・・・」
 「そうか・・・・」
 老人は、ごそごそと布を被せた机の下で、何かを探していたようだ・・・・やがて、
 「これを持っていなさい・・・・」
 老人が園田に手渡したのは、小さな御守り袋だった。
 「これは・・・?」
 「その御守りはな・・・あんたの願望を叶えてくれる・・・しかしな・・・」
 老人は、厳しい表情で園田を見つめると、
 「・・・・願いが叶った結果・・・・あんたにとってはかけがえのない物を失うかもしれないがな・・・」
 園田は、掌の上の小さな御守り袋を見つめていた。
 「それで勝てるのなら、失うものなんて何もないよ・・・・」
 園田は、見料を机の上に置くと、椅子から立ちあがった。
 「・・・良いか・・・・・人に勝つと言うことは、大切な物を失いかねない・・・・・気をつけるのじゃぞ!」
 歩いて行く園田の背中に向かって、老人が言った。園田は、振り返りもせずに歩いて行く。老人は、小さくため息をつきながら、園田の背中を見送った・・・・。



 秋

 「それじゃあ、今度の競技会のメンバーを発表する!」
 剛気体育大学のグランド・・・トラックの中央に部員たちを集めて、監督が手に持ったメモに視線を落とした。
 「朝田・・・・倉橋・・・・」
 監督が、参加メンバーを読み上げていく。園田は、地面に座り込んだまま、俯いて指先で芝生を触っていた。
 「園田」
 「・・・・」
 「園田!!」
 横に座っていた部員が、肘で園田をつついた。ハッとする園田。
 「ハ・・・・ハイ!」
 「・・・・ボーッとするな!」
 「ハイ!」
 また、監督がメンバーを読み上げていく。園田は、訳が分からないと言う表情で、
 「僕が、メンバーに・・・?」
 驚いている園田の耳元で、
 「頑張ってね!」
 明子が優しく微笑んでいる。園田は、こくりと頷くと、唇をかみ締め左手の掌に右手の拳を力強くぶつけた。



 競技会当日

 トラックを園田が走っていた。それは、それまでの精彩のない走りではなかった。力強く、リズミカルに足がトラックを蹴って体を前に走らせる。何よりも、園田は今トップを走っていたのだ。
 「体が軽い・・・・今日はいける!」
 園田が呟く。
 『カンカンカンカン!!』
 係員が、力強くラスト一周を知らせる鐘を鳴らした。
 「園田君、ラスト!!」
 ストップウオッチを握った明子がスタンドから叫ぶ。その声が聞こえたのか、園田のピッチが上がり後続との差を広げていく。
 「あいつ・・・・何があったんだ?」
 明子の横で北田が苦笑いした。
 「あきちゃん・・・・何かあったのか?」
 「練習・・・頑張ってましたからね・・・」
 「ああ・・・・」
 北田が腕組みをしてトラックに視線を戻した。園田が第4コーナーを回ってホームストレートに入ってきた。
 「ほら! 園田! ラスト100!!」
 北田がメガホンを口にあてて叫ぶ。ホームストレートを園田が駈け抜ける。ゴールテープを切った園田が、右手の拳を高く突き上げた。
 「やったー!」
 スタンドで見守っていた北田と明子が握手を交わした。
 「あれ?」
 驚く北田・・・・明子の瞳が涙で潤んでいる。
 「あき・・・・ちゃん・・・・?」
 明子は慌ててハンカチで涙をふいた。
 「エヘヘ・・・・・目に・・・ごみが入っちゃった・・・」
 
 スタンドの下の通路に、頭からスポーツタオルを被った園田が引き上げてきた。
 陸上部員たちから歓声が上がる。
 「この野郎・・・・心配させやがって!」
 北田が園田の方を右手で小突いた。もちろん、その顔は笑っていたが・・・。
 「あんな走りが出来るんじゃないか!」
 周りから笑いが起きる。園田の視線が一人の部員で止まった。
 「明子・・・・」
 「優勝・・・おめでとう!」
 園田は、明子を見つめながら頷くと、右手を差し出した。明子も右手を差し出して握手をする。園田は、たくさんの人に祝福されながら、ロッカールームに引き上げていく。そんな園田を、明子は幸せそうに見つめていた・・・。


 
 それから園田は、出場する大会では連戦連勝を重ねていった。最初は、そんな園田を温かく見守っていた明子だったが・・・・。



 園田がトラックを走る。気持ち良さそうに先頭を走り続ける。その後ろを、園田よりは年上に見える鍛え上げられた男や、外国人が懸命に追う。やがて、園田は先頭のままゴールテープを切った。スタンドに詰め掛けた観客に向けてガッツポーズをした。
 「日本選手権、10000メートルは、剛気体育大学の園田道隆君の優勝です!」
 場内アナウンスが流れると同時に、
 「キャ〜〜〜〜! 園田さーん!!」
 「こっち向いて〜〜!」
 若い女の子達の黄色い声がスタンドに響く。園田はニコニコ笑いながら、その歓声に応えていた。今や園田は、日本陸上界のエースに育っていたのだ。自然に、その周りにはファンが集まるようになっていた。
 「あきちゃん・・・」
 スタンドで園田を見守る明子の後ろから、誰かが声をかけた。振り向くと、
 「・・・北田さん・・・・・」
 「これから・・・園田のところに行ってやるのかい?」
 北田は、グランドからファンの歓声に応えている園田を見つめながら言った。明子も、園田に視線を向けたまま、
 「・・・・園田君・・・・いつもファンに囲まれていますからね・・・」
 明子の顔に、複雑な笑みが浮かんだ。
 「・・・・今では、大学でも、顔も見たことがない他の学科の学生までが彼を見に来てちょっとでも話をしようと・・・」
 小さくため息をつくと、
 「・・・夏までの園田くんの方が良かったなあ・・・・」
 「エッ?」
 聞き咎めた北田が、明子に視線を移した。明子は、園田を見つめたまま、
 「今では、なんだか遠くに行ってしまったようで・・・・」
 明子も、北田に視線を移すと、寂しそうに笑った。
 「・・・・あきちゃん・・・・」
 北田は、明子の寂しそうな表情を見て、咄嗟に言葉が出なかった。明子は、作り笑いを浮かべると、
 「・・・・それじゃあ、わたしは監督と大学に戻りますから・・・・」
 北田に一礼すると、明子はスタンドの階段を降りて行く。北田は小さくため息をつくと、視線をグランドに戻した。グランドでは、園田が嬉しそうにファンの女の子から花束を受け取っていた。北田はため息をつくと、一人呟いていた。
 「・・・園田の奴・・・・」



 その日の夜

 明子は、寮の前で壁にもたれながら一人で立っていた。掌を返して、右手にはめた時計を見た。時間はもう夜の11時を過ぎていた。小さくため息をついたその時、遠くから声が聞こえてきた。聞きなれた声・・・。
 「帰ってきた!」
 嬉しそうに走り出した明子の目に飛び込んできたのは・・・・。
 「・・・・」
 「よう、明子!」
 嬉しそうに手を上げる園田。その周りには、4・5人の可愛らしい女の子達がいた。
 「園田さん・・・・あの人・・・・誰なの?」
 「ああ・・・・うちの陸上部のマネージャーだよ・・・」
 「なーんだ・・・・園田さんの彼女かと思っちゃった!」
 別の女の子が言うと、
 「そんなわけないだろう!」
 園田の笑い声が、夜の道に響く。明子は、俯いてしまっていた・・・・。
 「・・・・明子・・・・どうしたんだ?」
 顔を覗きこむように園田が尋ねた。顔を上げた明子の瞳は、涙で潤んでいた。
 「楽しそうね・・・心配だったけど・・・・もう、大丈夫ね・・・・」
 明子が、大きな瞳から涙を流しながら微笑んだ。
 「明子・・・おまえ何を・・・・」
 「・・・・それじゃあ・・・・さようなら!」
 靴音を響かせながら、明子が走り出した。
 「明子! おい?!」
 咄嗟に呼びとめようとする園田に、
 「園田さん・・・ほっときなさいよ!」
 「もっと遊ぼう!」
 女の子達が追いかけようとする園田の手を引っ張る。
 園田と、女の子の声を背中で聞きながら、明子は溢れる涙を拭おうともせずに、夜の街を走って行った・・・・。



 翌日

 「あきちゃん・・・・なぜ・・・?」
 北田が信じられないと言う表情で、前に立つ明子を見つめている。監督は、机の上に置かれた退部届と、明子の顔を交互に見ながら、
 「・・・・佐藤・・・・・どう言うことだ・・・・」
 抑えた声で言いながら、明子の顔をしっかり見つめていた。
 「いろいろありますから・・・・陸上部を退部したいのです・・・・」
 「いろいろ・・・・か・・・・」
 北田が俯きながら呟くと、
 「いろいろ・・・・お世話になりました・・・」
 明子は、監督と北田に向かって一礼すると、陸上部の部室を出ていった。監督も北田も、何も言えずに明子の背中を見送っていた。

 グランドでは・・・。
 「聞いたか・・・・あきちゃんが陸上部をやめるんだってさ・・・・」
 「エッ?!」
 「なぜ?!」
 「あいつのせいだろう・・・・・」
 その部員が指差した先には・・・・。
 「園田さーん!」
 「キャーッ!」
 「こっちを向いて!!」
 女の子達の黄色い声援が飛び交う中を、園田が軽快にトラックを走って行く。
 「さっき・・・あいつに・・・・あきちゃんの事を言ったんだ・・・」
 その男が、舌打ちをしながらトラックを走る園田を睨むと、
 「・・・あいつ・・・・俺には関係はないって言いやがった!」
 冷たい視線が園田に突き刺さる。走り終えた園田は、スポーツタオルで汗を拭きながら、女の子達と楽しそうに話をしていた。



 それからも、園田の快進撃は続いた。園田は出場する大会で、ライバル達を寄せ付けずに快走を見せていた。しかし、それとは裏腹に、陸上部員が見る園田の表情は、なぜか晴れなかった・・・。
 

 
 練習を終えた園田の前に、スポーツドリンクのボトルが差し出された。ハッとして後ろを振り返る園田。北田が優しい眼差しで園田を見つめている。
 「北田さん・・・・」
 「ほら・・・・飲めよ!」
 北田が差し出すボトルを、園田は受け取って口に含んだ。
 「ありがとうございます・・・・」
 どこか精彩のない表情に作り笑いを浮かべて、園田は北田に礼を言うと、スポーツタオルを首にかけて歩きだした。
 「おい・・・・園田!」
 「ハイ・・・?」
 「何かあったのか?」
 北田が園田の目をしっかりと見つめている。園田は、複雑な笑みを浮かべて俯いてしまった。
 「・・・・この前の、島根での大学駅伝では・・・おまえが区間賞を取ったおかげで、うちの大学は優勝した・・・・」
 北田も、ボトルからスポーツドリンクを飲むと、
 「・・・今度は、12月の福岡マラソンに出るんだろう? 大学生なのに優勝候補にあげられているおまえが・・・・どうしちゃったんだよ・・・・」
 北田に尋ねられた園田は、曖昧に笑った・・・どことなく寂しさを感じさせる笑みだった。
 「なんだか・・・近頃は、走っていても・・・・なんだかちょっと・・・」
 「なんだかちょっと・・・?」
 園田は、少し首を傾げながら、
 「どう言えば良いのかな・・・・いつも誰かの視線を探してしまうんですよ・・・・」
 園田が思わず苦笑いしている。
 「情けない話ですけどね・・・それで、なかなか練習に身が入らなくて・・・」
 「おまえを見ている視線なら、あそこにたくさんあるぞ!」
 北田が笑いながらトラックをはさんだ反対側を指差した。園田が顔を上げると、女の子達が一斉に園田に向かって手を振っている。思わず微笑む園田。しかし、それは・・・・。
 「どうしたんだ・・・・あまり嬉しそうじゃないな・・・・」
 北田が園田に向かって言うと、園田は曖昧に笑った。
 「今日は、これで上がらせてもらいます・・・・」
 園田は、北田に向かって礼をすると、部室に向かって歩いて行った。女の子達が園田を追いかける。たちまち園田は女の子達に囲まれてしまった。北田は、その様子をしばらく見ていたが、小さくため息をつくと練習に戻っていった・・・。



 練習を終えた園田が、街を歩いている。その表情には、精彩がなかった。
 いつしか、園田の足は、繁華街に向かっていた。華やかな街に、家族連れやアベックが幸せそうに歩いている。園田には、その人たちが、まるで遠い世界の住人のように思えた。そして、園田は見た・・・・”易”と書かれた布を被せた台を前に座っている顎鬚をたくわえた老人・・・・。
 「よう・・・久しぶりじゃな・・・・」
 占い師の老人が、園田の顔を見て微笑んだ。園田はじっと老人を見つめていたが、小さくため息をつくと、
 「ちょっと見てもらえますか・・・・?」
 「ああ・・・・座りなさい・・・・」
 老人は、台の前に置かれた椅子に座る園田を、優しい眼差しで見つめていたが、
 「どうじゃ・・・・大切な物を失ったようじゃの・・・・」
 老人が厳しい表情で、椅子に座った園田を見つめている。園田は首を振った。
 「・・・分からないんです・・・・」
 「分からないじゃと・・・?」
 「ええ・・・・」
 園田が複雑な表情で笑う・・・・どこか寂しそうな笑いだ。
 「僕は・・・・何も失っていないつもりでした・・・・でも・・・・」
 大きくため息をつきながら、園田は老人の顔を正面から見つめていた。
 「最近は、試合に出ても勝てるようになりました・・・・今度は、12月に福岡でフルマラソンを走ります・・・・世界のトップ選手が出場するマラソンです・・・・でも・・・・」
 園田の声が、少しづつ震え出していた。
 「・・・なぜでしょうか・・・・勝っても、何か虚しいんです・・・」
 「それは・・・・あんたが大切な物をなくしたからじゃよ・・・・」
 老人が、厳しい表情で園田に向かってピシャリと言った。
 「エッ?! でも・・・・」
 「あんたは、それを無くしても、まだ気がついていない・・・・わしが、あんたが無くしたものを教えるのは簡単じゃ・・・・しかし、それではあんたにとっては、全く意味が無いじゃろう・・・・」
 老人は厳しい表情を収めて園田に向かって優しい眼差しを向けている。園田は、身じろぎもせずに老人を見つめていた。
 「今度あんたが走る福岡のマラソン・・・・必ず勝ちなさい・・・・その時、あんたが失ったものが分かるじゃろう・・・・」
 老人は、大きく息をついた。
 「それから・・・どうするかは、あんたしだいじゃ・・・」
 「・・・・」
 老人は園田の眼をしっかりと見つめている。園田は、息をつめて老人の顔をただ見つめるだけだった・・・。




 福岡・・・・九州最大の都市であると同時に、スポーツも大変盛んな街である。
 サッカーにプロ野球・・・そして、この街は、日本でも伝統のある男子マラソンのレースが行われる街でもある。
 過去にはオリンピックのメダリストや、日本の有力ランナー達が、必ずと言って良いほど出場している。このレースを走れば、今の自分の力が世界でどのあたりかが分かると言われているほどだった。

 そしてレース当日。
 園田は、フィールドで黙々とウオーミングアップを始めていた。
 「園田さーん!」
 「こっちを向いてー!!」
 相変わらず黄色い声援がスタンドから飛んでくる。今日のレース・・・・日本選手で優勝候補に上げられている園田は、周りからの注目度が一段と高かった。しかし、今日の園田は、いつもとは違っていた。『今度あんたが走る福岡のマラソン・・・・必ず勝ちなさい・・・・その時、あんたが失ったものが分かるじゃろう・・・・』あの日、占い師の老人が言った言葉が、園田の耳に甦ってきた。 『それから・・・どうするかは、あんたしだいじゃ・・・』 ウインドブレーカーを来た園田が、トラックを走る。
 「・・・・必ず・・・・それが何かを見つけて・・・・」
 思わず呟く園田の耳に、
 「集合!!」
 スターターの声が聞こえてきた。
 「園田!」
 トラックの脇からウインドブレーカーを羽織った北田が声をかけてきた。園田は頷くとウインドブレーカーを脱いで北田に渡した。その二人の脇を、アフリカから出場する選手・・・ボンギラがスタート地点に向かって駆け抜けていく。彼は、この大会の優勝候補の筆頭・・・・オリンピックの銀メダリストだった。園田は、無言で走り去るボンギラを見つめていた。褐色の肌・・・・・鍛え上げられた筋肉が躍動している。
 「園田・・・・」
 北田が、睨むようにボンギラを見つめている園田の肩をポンと叩いた。ハッとして北田に向き直る園田。
 「思いっきり、おまえの走りをしろ!」
 園田は無言で頷くと、スタート地点に向かって走って行く。
 「園田さーん!!」
 「頑張って!!」
 園田の背中に、スタンドから黄色い声援が飛ぶ。しかし、園田は振り返りもせずにスタート地点に向かって走って行く。北田は、黙って厳しい表情で園田の後姿を見つめていた。


 レースがスタートした。白バイに先導された男たちが、黙々と福岡の町を走って行く。歩道では、たくさんの市民が新聞社から配られた小旗を振って声援を送っている。
 園田は、10人あまりの先頭集団の中を走っていた。スタートをして10kmあまり・・・集団の先頭は、やはりアフリカのボンギラが引っ張っていた。軽快に走る園田の脳裏からは、あの占い師の言葉が離れなかった。
 『いったい・・・・僕の無くしたものは・・・なんだ・・・・』
 コートを着た係員が、中間点を示す表示を持って立っている。先頭を走るボンギラが駆け抜ける・・・その後ろを園田がぴったり付いて行く。チラッと手首につけた時計を見て園田は自分の目を疑った。
 「そんな・・・・」
 思わず呟いた。中間地点のラップタイムは、世界記録を上回るハイペースだった。園田は周りを見まわした。しかし、そこに見えるのは小旗を振って応援する市民と白バイ・・・・報道関係の車だけだった。
 『クソ・・・・もう誰もいないじゃないか!!』
 心の中で毒づきながら、前を走るボンギラに視線を戻した。太陽の光に照らされて汗の光る褐色の肌・・・・逞しい足と腕の筋肉が、まるでアフリカの草原を走るようにリズミカルに躍動している。
 『こいつ・・・・強い!!』
 前を走るボンギラが、チラッと後ろを見た。園田は、ボンギラが笑って白い歯を見せたように見えた。次の瞬間、ボンギラがペースを上げた・・・1m・・・・2m・・・少しづつ差が開いていく。
 「クソッ!!」
 園田もピッチを上げてボンギラの後を追う。

 彼の前に、35kmの標識が見えてきた。ここから先が、マラソンの山場と言われている。練習では、園田は40km以上の走り込みを何本もこなしている。しかし、それはあくまでも大学の陸上部員との”練習”だった・・・・ボンギラのような世界のトップ選手を相手にした”実戦”とは全く意味が違う。園田の視界は、少しずつ霞み始めていた。前を走るボンギラの姿がぼやけていく。
 『クソッ・・・これじゃあ、あの爺さんが言っていたのに・・・・勝てないじゃないか・・・・・僕の無くしたものが何か・・・・分からないじゃ・・・・』
 体内の酸素が減ってきたのだろうか・・・朦朧とし始めた頭で考えていたその時、
 「園田君、頑張れ!!」
 園田の耳に女性の声援が聞こえてきた・・・・懐かしい・・・・それでいて聞きなれた声・・・・。
 「あ・・き・・・こ・・・?」
 朦朧とした意識の中で思わず呟く園田。
 『そうだ・・・・僕のそばには・・・・・・いつも明子がいた。いつもにこにこしながら、僕が走るのを見守っていた・・・・いつも馬鹿な話をする仲間たちと笑い転げていた・・・・そう、本当に僕のことを心配して見守ってくれていたのは、彼女だったんだ・・・・それなのに・・・!』
 園田は気力を振り絞ってもう一度ボンギラに食らい付いていく。
 『・・・・やっと分かった・・・僕の無くしたものが・・・・』
 朦朧とした園田の頭の中に、あの老人の言葉が、また、聞こえてきた。
 『それから・・・どうするかは、あんたしだいじゃ・・・』
 『そうだ・・・・僕は・・・このレースに勝って・・・もう一度・・・・』
 園田は、歯を食いしばってボンギラに追いすがる・・・・・周りの歓声が耳に飛び込んでくるが、あの声は聞こえない・・・。
 『・・・もう一度・・・・明子と・・・・』
 園田がボンギラに並びかける。チラッとボンギラが園田を見たが、すぐ前に視線を戻した。ボンギラの呼吸が園田の耳に聞こえてきた。荒々しい喘ぐような呼吸音・・・。
 『・・・苦しいのは・・・相手も同じだ・・・・』
 園田も視線を前に戻した。観衆の歓声の中を、二人の男が並んで走って行く。やがて・・・・二人の前に、平和台陸上競技場が見えてきた。園田が仕掛ける・・・・少しボンギラと差がついたが、すぐにボンギラも追いついてきた。
 『さすが・・・』
 痺れたような頭で考える園田だったが、
 「?!」
 今度はボンギラが仕掛けた・・・・大きなストライド・・・まるでアフリカの原住民が、獲物を追うように躍動感溢れるフォームで差を広げる。
 『クソ・・・ここで負けるわけにはいかないんだよ!!』
 園田も懸命に追いすがる。二人は競り合うように競技場へのゲートをくぐって行った。

 大歓声が二人の選手を包んでいく。スタンドでは、たくさんの小旗が二人の選手に向かって振られていた。ボンギラが先頭を・・・そして、ほとんど差がなく園田がその後ろを走る。
 「園田!!」
 北田がスタンドの下から口にメガホンをあてて叫ぶ。
 『クソッ!!』
 心の中で、園田は毒づいていた。また、園田の意識は朦朧とし始めていた。始めてのフルマラソン。そして、いきなり世界のトップ選手と超ハイペースのレースを戦って、園田の体はボロボロになっていた。周りの歓声が、まるで共鳴するように頭に響いている。その時、
 「園田君! ラスト400!!」
 ハッとして我に帰る園田。今度ははっきり聞こえた・・・。
 「明子・・・」
 視線をしっかり前に向ける園田。前を走るボンギラにピッタリつく。懸命に後ろから追いすがる園田を振りきろうとするボンギラ。歯を食いしばって園田は後ろについて離れない。
 「・・・明子のためにも・・・・おまえに勝つ!!」
 ホームストレートに入ると、園田はラストスパートをかけた。歯を食いしばってボンギラを抜き去った。ボンギラも息を切らせながら大きなストライドで追いすがる。二人は縺れるようにゴールに飛び込んだ。大歓声が二人を包んでいった・・・。



 そして、クリスマス・・・。


 「それでは、園田君の福岡マラソン優勝を祝して・・・・」
 ビールを注いだコップを手に、北田が軽くコップを持ち上げた。
 「「「かんぱーい!!」」」
 陸上部員たちが園田に向かってコップを掲げた。園田も、微笑みを浮かべながらコップのビールを飲み干した。
 「「「そして、メリー・クリスマス!!」」」
 陸上部の部室にクラッカーの音が響く。監督も、北田も、はしゃぎまわる部員たちを微笑みながら見つめていた。北田は、コップを持って園田のところに歩いてきた。
 「園田・・・」
 優しい眼差しで北田が見つめている。
 「・・・全く・・・たいした奴だよ・・・・42km走って、50cm差で優勝か・・・」
 園田の肩を叩きながら、
 「・・・本当に、おめでとう!!」
 「・・・ありがとうございます!!」
 園田は微笑みながら、北田に向かって一礼した。
 「35kmでは・・・・もう駄目かと思ったがな・・・・」
 コップのビールをまるで煽るように飲んで、監督が笑った。園田の顔が、少し真剣になった。
 「・・・あの時・・・・声が聞こえたんです・・・・」
 「声が?」
 「ええ・・・・」
 園田の表情が、少し寂しそうになった。
 「・・・明子の声が・・・聞こえたんです・・・・『頑張れ!』って・・・」
 園田が複雑な笑みを浮かべている・・・少し目が潤んでいる。
 「・・・馬鹿ですよね・・・・今頃になって・・・・大事な人だったということに気がつくなんて・・・」
 「・・・あきちゃんの声が・・・ね・・・・」
 話を聞いていた北田も、複雑な笑みを浮かべた。その時、
 「園田!!」
 突然大きな声で呼ばれた園田が、声の聞こえた方を振り向いた瞬間、
 「?!!」
 『ベチャッ!!』
 園田の顔に、何か柔らかいものがあたった・・・・。
 「ウワッ・・・・これって・・・・」
 園田が顔にあたったものを両手で拭っている。彼の足元には、クリームをたっぷり塗った”パイ”が落ちていた。
 「・・・・これ・・・・生クリームじゃなくて、シェービングクリームじゃないか・・・・」
 部室の中に、みんなの笑い声が溢れている。
 「それくらいの”罰”があっても良いだろう!」
 監督が、大きな声で笑った。
 「園田!!」
 後ろから、北田が呼んだ。園田は振り返って後ろに立っている人を見た瞬間、思考が止まってしまった。
 「園田くん・・・・」
 「・・・・あ・・きこ・・・・」
 園田の後ろには、北田と一緒にコートを来た明子が立っていた。隣で北田がニヤニヤと笑っている。
 「・・・優勝・・・・おめでとう・・・」
 「・・・・うん・・・・」
 何も言えずに明子を見つめる園田・・・・その瞳は、少し赤くなっていた。
 「あの時は・・・・ごめん・・・・」
 「いいのよ・・・・」
 明るい声で答える明子の笑顔が、園田にはまぶしかった。
 「ほら・・・せっかくのクリスマスだ・・・・二人で出かけてこい!」
 北田が、二人を入口の方に押しやろうとしている。
 「そんな・・・北田さん・・・」
 途惑う園田に、
 「ほらほら・・・・さっさと行く!!」
 北田は、二人を部室の外に押し出すと後ろ手にドアを閉めてた。部員たちを見まわしてにやっと笑みを浮かべる北田。部員たちもクスクスと笑い出した。
 「・・・上手くいったな・・・・」
 北田の言葉に、監督も部員たちも頷いた。
 「さあ・・・・・それじゃあ飲み直すとしますか!」
 「「「オーッ!!」」」
 部員たちが再びグラスを手に持った。
 「「「かんぱーい!!」」」
 元気な声が、再び部室に響いた。


 「どうして・・・」
 「エッ?」
 並んで歩く明子の顔を見ながら、園田は呟くように言った。
 「福岡・・・・来てくれたんだろう・・・?」
 「・・・うん・・・・・」
 明子が小さな声で答えた。
 「なぜ・・・・?」
 「だって・・・・」
 明子は立ち止まって園田に向き直った。園田も足を止めて振りかえった。明子が可愛らしい微笑みを園田に向けていた。
 「園田くんが走るんだもの・・・・それに・・・」
 明子が悪戯っぽく笑った。
 「福岡だけじゃないわよ・・・園田くんが走る試合・・・どれも見に行っていたんだから!」
 明子はクスクス笑いながら、園田の左腕に手を回した。
 「お・・・おいおい・・・?!」
 「さあ・・・・せっかく北田さんが気を利かしてくれたんだから・・・・行きましょう!」
 途惑う園田を引っ張るように、明子が歩いて行く。そんな二人を占い師の老人が優しい眼差しで見つめている。
 「どうやら・・・・気がついてくれたようじゃの・・・・」
 笑いを含んだ声で呟いた。
 「神様!!」
 突然聞こえた声に、老人が振り向いた。淡い光の中に、白い服を着た青年が立っている。
 「そろそろお戻り頂きませんと・・・・」
 「ああ・・・・分かった・・・・」
 微笑みながら老人が頷くと、老人の体を光が包んでいく。
 やがて・・・・老人と青年は、青白い光の中にその姿を消していった・・・・。






 いつもそばに・・・・  (終わり)






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