TRANS DRY
作:逃げ馬
朝
昨夜も暑さで寝苦しい夜だった。
多田圭介は、頭を振りながら、ベッドから起き上がりテレビのスイッチを入れて、身支度を始める。
寝汗をたっぷり吸いこんだパジャマを洗濯機に放り込み、スイッチを入れる。
テレビでは、若い女性の気象予報士が、彼女の身長と同じくらいの大きさの温度計の模型の横で、天気予報をしている。
『昨夜も熱帯夜になりました。 今日の日中は、厳しい暑さになり、気温は35℃まで上がりそうです・・・・・熱中症にならないように、小まめな水分補給をして、エアコンなどで温度の調整を・・・・・』
多田は、小さくため息をつき、テレビのスイッチを切ると、ブリーフケースを手にして家を出た。
夏の朝は、日が昇るのが早い。
通勤や通学の時間帯には、既に日は高く登り、陽射しがじりじりとアスファルトを焼いている。
その中を、サラリーマンや学生が、ハンカチで汗を拭きながら、駅に向かっている。
多田も、その流れにのって駅に向かって歩いていく。
容赦なく照りつける陽射しにさらされて、多田の顔や腕には汗が噴き出している。
それをハンカチで拭くのだが、すぐに汗が出てきてしまう。
駅に入り、改札口を通りホームに向かう。
ホームには、既に乗客達が列を作って並んでいる。
多田も、汗で濡れたハンカチで首筋を拭きながら、その列に加わった。
やがてプラットホームにアナウンスが流れる。
『2番線に、中央特快・東京行きが入ります・・・・・』
駅に銀色の車体に、鮮やかなオレンジ色のラインが入った電車が滑り込んできた。
ドアが開くと、列を作って待っていた乗客達が、電車に乗り込んでいく。
多田も電車に乗ろうとしたのだが、既に車内はすし詰め状態だ。
体をねじ込むように電車に乗ると、ドアが閉まり、電車が動き出した。
多田は右手でドアの横にある手すりを掴んだ。
左手にはブリーフケースを持っている。
最近はややこしい事件が多い。この体制ならば、彼の『アリバイ』は成立するはずだ。
本当は新聞を読みたいところだが、この混雑では無理だと諦めた。
ふと、彼を見つめる視線に気がついた。
彼の左前に、高校生の女の子が乗っていた。
この辺りでは有名な、進学校の生徒のようだ。
彼女は多田の顔を見上げるように見ている。
なんだろう・・・・・多田は戸惑い、視線をそらすと、車内の吊り広告をしばらく見ていた。
やがてそれにも飽きて、窓の外を見ようと視線を向けると、彼女はまだ多田を見ている。
多田は、その視線に彼に対する嫌悪感が含まれているように思えた。
多田は彼女から視線を反らし、ポケットからハンカチを取り出して顔や首筋の汗を拭きながら、ハッとして彼女を見た。
彼女は、まだ多田を見ている。
多田は視線をそらすと、窓の外に視線を向けた。
新宿の高層ビル群の姿が、大きくなってきていた。
新宿を過ぎると、電車を降りる乗客も増えてくる。
大学が多いお茶の水で、たくさんの学生が降りて、電車は終着駅に近づいていた。
水色や緑色のラインが入った電車と一緒に、終着駅に到着して、ドアが開いた。
満員の乗客達が、ホームに降りると、先を争ってエスカレーターや階段に殺到して、乗り換える路線のホームや、改札口を目指す。
多田は電車を降りると、周りを見回した。
あの女子高校生は、エスカレーターを降りて行ったようだ。
多田は、自分の周りの人達が、自分を避けているように感じた・・・・・その原因は・・・・・?
手にした汗の染み込んだハンカチを見ながら、多田はため息をつき、エスカレーターに乗り、改札口に向かって歩き出した。
これだけ汗をかけば、臭いがするのではないか?
あの女の子は、それを感じて、あの視線を向けてきたのではないか?
しかし、この暑さでは、汗をかくのは避けられない・・・・・汗が出なくなれば、熱中症で即、病院送りだ・・・・・。
改札口の読み取り装置にIC定期券をタッチして改札口を出てコンコースを歩く。
会社や学校に向かうサラリーマンや学生、OL達が行き交っている。
多田は、憂鬱な気持ちで駅の外に出た。
多田圭介が働く会社は、東京駅から程近いオフィス街にある。
お正月には毎年、この辺りを発着点として、大学生の駅伝が行われている。
しかし、真夏の厳しい暑さの中では、同じ景色を見ていても、その様子を想像するのは難しい。
歩いていると、夏の陽射しがビルの窓ガラスに反射をした照り返しが、容赦なく彼の肌を焼く。
女性は朝から日傘をさしているが、アスファルトからの照り返しで暑そうだ。
多田圭介は、汗を拭きながらビルに入った。
「おはようございます」
オフィスに入ると、スタッフたちの元気な挨拶の声が聞こえてくる。
「おはよう」
多田も挨拶を返しながら、自分の席に座り、ハンカチで汗を拭いた。
多田は、この『トランス貿易株式会社』の、アジア貿易部で係長を務めている。
「おはようございます・・・・・今日も暑くなりそうですね・・・・・」
そういいながら、冷たい麦茶を多田の前に置いてくれたのは、多田の部下・・・・・貿易部のスタッフの堀井あかりだ。
「参ったね・・・・・この暑さには・・・・・」
多田はコップを手に取ると、麦茶を一気に飲み干した。
多田は大きく息をつくと、
「今朝はね・・・・・」
彼は堀井に、今朝の電車の中で彼が感じた事を話した。
24歳の知的な美人OLは、頷きながら彼の話を聞いている。
「確かに、女性は周りの臭いは気になりますね・・・・・」
堀井は、小首を傾げながら、
「自分の臭いは、なかなか気がつかないそうですし・・・・・」
「やっぱり・・・・・」
そう言うと多田は、がっくりとうなだれた。
堀井は、でも・・・・・と、
「汗対策なら、今は良いインナーがありますから、インターネットで探してみると良いと思いますよ」
大丈夫ですよ・・・・・魅力的な笑顔で微笑む部下に、彼は、
「ありがとう」
と言うと早速、今日の仕事にとりかかった。
夜
まるで体にまとわりつくような蒸し暑い空気の中を、多田圭介は、自宅に帰宅した。
今日も、強烈な暑さの一日だった。
多田は、フラフラになりながら玄関の鍵を閉めると、靴を脱ぎ、そのまま浴室に向かった。
脱衣室で服を脱ぎ、よくしでシャワーを浴びた。
汗をたっぷりかいた体を念入りに洗う。
視線を落とすと、ここ数年は『メタボのウェスト基準』をめぐって激しい戦いを繰り広げている、彼のお腹が見える。
多田は、お腹の肉を摘まみながら、大きなため息をついた。
なんとかしないと・・・・・これも汗をかく原因のひとつなのでは・・・・・彼は思った。
バスタオルで体についた水を拭き取り、清潔な下着を着ると、彼はホッとした。
やはり、自分では気がつかないうちに、実は臭っていたのではないか・・・・・彼は、自室に向かい、机の上のパソコンを立ち上げた。
パソコンが立ち上がるまでの間に多田は、コンビニで買って帰ったざるそばの包装を剥がした。
そばつゆと薬味を用意したころに、パソコンの起動が終わった。
割り箸を割って、そばを口に運んだ。
これだけ暑い日が続くと、食欲がなくなる。
いつもなら、蕎麦だけの夕食なんて、夜中に空腹になって眠れなくなるだろう・・・・・近頃は、蒸し暑くて眠れないが・・・・・。
蕎麦を食べ終わると、多田はインターネットのショッピングサイトをチェックし始めた。
堀井あかりが言っていたように、様々な種類・・・・・そして、機能を持つ商品が掲載されていて、目移りしてしまう。
いや、理解出来ないと言った方が正確かもしれない。
マウスを動かしていた手が止まった。
画面には『帝栄寿堂』と言うショッピングサイトが表示されている。
多田の視線は、『TRANS DRY』という商品に釘付けになった。
心地よい肌触りで、お仕事をするあなたをサポート! 速乾・防臭、汗の嫌な臭いを防いで花の香りに・・・・・そして、あなたを理想的な体型にします・・・・・。
「ふむ・・・・・」
体を引き締める効果もあるのかな・・・・・そして、多田にとって魅力的なのは、防臭効果だ。
これを着ていれば、周りの人に不快な思いをさせることもないのではないか?
多田はマウスをクリックして、『TRANS DRY』を注文した。
数日後
「こんばんは! くろいぬ急便です!」
はんこを持って玄関に出ると、宅配便の男性が、小振りな箱を手にして立っていた。
多田が伝票にはんこを押すと、
「ありがとうございました」
男は帽子をとって一礼すると、車に乗って次の配達先に向かった。
多田は、走り去る車を見送ると、家に入った。
箱に貼ってある伝票に書かれた差出人は、『帝栄寿堂』。
中の品物は『衣類』と書かれている。
どうやら、数日前に注文をした品物が届いたようだ。
多田は、自室に戻ると、箱を開けた。
中には注文通りに、『TRANS DRY』とロゴが入った袋に入った白い肌着が、3つ入っていた。
明日からは、ワイシャツの下に、これを着て会社に行こう・・・・・多田は空箱を片付けると、いつものようにテレビを見ながら缶ビールを飲んだ。
使用一日目
「昨夜も気温は、25℃を越える熱帯夜になりました。 今日の日中も、気温は35℃を越える酷暑に・・・・・」
テレビから聞こえる気象予報士の女性の声を聞きながら、多田圭介は、『TRANS DRY』を包んでいた袋を破った。
肌着に手を触れると、指に滑らかな感覚が伝わってくる。
肌着を拡げてみた。
サイトに掲載されていた画像では、ランニングシャツのように見えたのだが、今、彼の目の前にある肌着は、どちらかというと、女性が着るキャミソールに近いデザインだ。
失敗したかな?・・・・・そんな思いがよぎったが、せっかく買った物だからと思い直して、多田は『TRANS DRY』を身につけた。
彼の上半身を、滑らかな肌触りの肌着が包んだ。
体にフィットするデザインになっているせいか、お腹がぽっこりと出ているのが目立つ。
思わず苦笑いしてしまうが、仕方がないと思い直して、ワイシャツを着て、ズボンを穿き、身支度を整えた。
玄関のドアを開けると、強烈な夏の陽射しに、思わず目が眩む。
今日も一日が始まる・・・・・多田は、気合いを入れると、会社に向かった。
会社に出社すると、
「おはようございます!」
と、スタッフ達の元気な声が聞こえてくる。
多田も自然に笑顔になり、
「おはよう」
と、挨拶を返す。
「係長、おはようございます」
堀井あかりが、微笑みながら、冷たい麦茶を多田の前に置いた。
「やあ、おはよう」
いつも、ありがとう・・・・・多田は、冷えた麦茶を飲むと、堀井に礼を言った。
堀井は、にこやかに一礼した。
多田は仕事を始めようと、コンピューターの端末のスイッチを入れた。
その時、
「係長、花の香りがしませんか・・・・・?」
堀井が、首をかしげながら尋ねた。
「臭いのかい?」
「いえ、いい匂いなのですが、この部屋には花はないはずなので、気になって・・・・・」
変な質問をしてしまったと思ったのだろう。堀井は、
「失礼しました」
と一礼すると、足早に給湯室へ戻って行った。
多田は、その後ろ姿を、笑みを浮かべながら見送った。
夜
会社から帰宅した多田圭介は、いつものようにシャワーを浴びるために浴室に向かった。
着ていたシャツを脱ぎ、下に着ていた『TRANS DRY』を脱ごうとして手を触れた。
サラサラの感覚が、指に伝わってくる。
多田は、全てを脱ぐと、浴室に入った。
あの下着の効果は大きい・・・・・多田は、シャワーを浴びながら、通勤電車や会社での周りの様子を思い出していた。
朝の通勤電車で、多田がいつもの場所に乗っていると、あの女子高生が乗って来た。
彼女は最初、多田に対して嫌悪感に満ちた視線を向けていたが、しばらくすると、彼を不思議そうに見ていた。
会社でも、あの頭脳明晰な堀井あかり嬢でさえ、変化には気がついたものの、その原因にまでは気がつかなかった。
多田は、シャワーを止めると、体をタオルでゴシゴシと擦った。
下着一つで、周りの反応はこんなに変わるものなのか・・・・・と、いうことは、今までまわりには汗の臭いで不快な思いをさせていたんだな・・・・・多田は、周りの人達に申し訳ない思いを感じていた。
でも、今年の夏は、あの下着がある・・・・・この夏、僕は変わる・・・・・。
シャワーを終え、自室に戻る。
気分良く一日を過ごした多田圭介は、布団に入ると、たちまち眠りに落ちていった。
使用二日目
『おはようございます! 昨夜も連続の熱帯夜になりました。 今日の日中の気温は、37℃になると予想されています。 熱中症には十分に注意をして・・・・・』
テレビの天気予報を観ながら、多田圭介は、『TRANS DRY』を身につけた。
サラサラの肌触りが、多田の上半身を心地よく覆っている。
その上からワイシャツを着て、ネクタイを締める。
身支度を終えた多田は、今日も夏の陽射しが降り注ぐ中を会社に向かった。
駅に着くと、いつものようにプラットホームですでに並んでいる人達の列に加わった。
『二番線に、中央特快・東京行きが入ります・・・・・』
アナウンスが流れると、銀色の車体にオレンジ色のラインが入った電車が、夏の陽光を反射させながら、駅に滑り込んできた。
ドアが開くと、ホームで待っていた人達が、電車に乗り込んで行く。
車内に入り、右手で吊革をつかみ、左手に持った新聞を見ようとした。
「・・・・・?」
誰かが視界の角を横切った。
あの女子高生だ。
彼女も多田の視線に気がついたようだが、あの嫌悪感に満ちた視線は向けてこない。
特に彼を意識するわけでもなく、スクールバッグから参考書を出して読み始めた。
多田は、ほっと胸を撫で下ろした。
どうやら、あの下着の効果は、本物のようだ。
電車は、満員の乗客を乗せて、滑るように走って行く。
苦痛なはずの満員電車の中で多田は、なぜか微笑みを浮かべていた。
夏の朝のオフィス街には、刺すような陽光が降り注いでいる。
その中をたくさんのビジネスマンやOLが、会社に出社するために歩いて行く。
お腹を揺すりながら歩く多田の横に、日傘をさした女性が歩いている。
暑さのためか、それとも日傘をさしても、夏の陽射しが眩しいのか、彼女は顔をしかめながら歩いている。
せっかく美人なのに、台無しだな・・・・・暑さで吹き出す汗を拭きながら、多田は思った。
会社に出社し、貿易部のオフィスに入ると、
「おはようございます!」
と、いつものようにスタッフ達の元気な声が聞こえた。
多田も挨拶を返しながら、自分の席に座った。
「おはようございます」
いつものように、堀井あかりが、多田の前に冷えた麦茶を置いた。
「おはよう」
いつもありがとう・・・・・と、言いながら、多田はコップを手にした。
「係長、あまり日焼けをしていませんが、何か日焼け対策をされているのですか?」
「・・・・・?」
堀井の質問は、完全に多田の意表をついていた。
「全然、日焼けされていませんし・・・・・」
「・・・・・そうかな?」
多田は、ぎこちない笑いで答えた。
「何か秘密があるのでしたら、教えて下さいね」
女子なら誰でも、日焼けはしたくないですから・・・・・堀井は、多田の耳元で囁くと、微笑みながら一礼して戻って行った。
トイレに行くために席を立った時、多田は鏡を見ながら、じっくりと自分を観察した。
堀井が指摘したように、肌が白い・・・・・今朝、出勤途中に見たOLや女子高校生よりも、白いのではないか?
どうしてなのかな・・・・・多田は思った。
あの炎天下の中を、通勤しているのに・・・・・?
考えても、すぐには答えは出そうにない。
多田は急いで手を洗うと、トイレを出て仕事に戻った。
夜
シャワーのお湯を止めると、多田は鏡の前に立ち、自分の体を改めて観察してみた。
会社で堀井が言った一言が、やはり気になるのだ。
肌は、昼間に会社で見たときよりも、白く感じた。
そして、脛毛が薄くなったように感じる・・・・・もっとも、今までに、そんなにじっくりと見たことは、ないのだが・・・・・。
なんだか、腹回りが引き締まったようだな・・・・・多田は横を向いて、お腹を撫でたり、腹の肉を摘まんだりしてみた。
良いことだ・・・・・多田は思った。
体調が悪い訳ではない・・・・・夏の暑さのせいかもしれないが、それでもメタボと厳しい戦いをしている多田にとっては、お腹の出っ張りが減るのは良いことだ。
多田は、体を洗った。
なんだか、肌の感覚が、いつもとは違う気がする。なんだか、滑らかなんだよな・・・・・。
髪を洗った時には、多田は腰を抜かさんばかりに驚いた。
排水口が詰まるのでは、と言うほど、抜け毛が多いのだ。
彼は思わず、鏡に自分の頭を映して確認をした。
大丈夫・・・・・丸坊主になったり、『ハゲ』が出来たわけではない。
安心した多田は、抜けた髪の毛の後始末をすると、浴室を出た。
彼は、抜けた髪の毛に気をとられ、自分の変化に気がつかなかった。
集めた髪の毛の中に、体を洗った時に抜けた、脛毛が大量に混じっていたこと・・・・・鏡に頭を映して髪を確認していたとき、手に触れた髪の毛が、細くしなやかな若々しい黒髪だったこと・・・・・。
多田圭介は、変化しつつあった・・・・・。
使用三日目
窓の外から、蝉の鳴き声が聞こえてくる。
これだけ暑い日が続くと、さすがに蝉も暑さでバテてしまうのではないか・・・・・多田圭介は、顔を洗いながら、ふと、そんなことを思ったが、自分のあまりにも馬鹿馬鹿しい想像に、思わず苦笑してしまった。
昨夜、着て眠った『TRANS DRY』は、蒸し暑い夜にかいた寝汗を吸いとり、微かな花の香りに変えてしまった。
多田は、昨夜着ていたものを、洗濯機に入れて、新しいものを着て、着替えを始めた。
身支度を終えると、今日も満員電車で通勤だ・・・・・。
彼がいつも乗る快速電車は、今日も満員の乗客を乗せて走っていた。
多田は、いつものように、右手で吊革をつかみ、左手には経済紙を持って、電車に乗っていた。
電車が揺れて、乗客たちに押される。
吊革を掴んだ右手で、体を懸命に支える。
右手の指に痛みを感じた。
いつもなら、これくらい平気なのに・・・・・。
相変わらず容赦なく降り注ぐ、夏の陽射しを浴びながら、オフィスに入った。
挨拶を交わしながら、スタッフ達の様子をチェックする・・・・・大丈夫、今日もみんな元気だ。
多田が、自分の席に座ると、いつものように、堀井あかりが、冷えた麦茶を机の上に置いた。
「おはようございます」
「おはよう・・・・・いつもありがとう」
麦茶の入った、冷えたコップが、夏の暑さで熱くなった体に心地よい。
「係長は・・・・・ダイエットをされているのですか?」
「・・・・・どうして?」
多田は、堀井の質問の意味が理解できずに、戸惑っている。
「いえ・・・・・ちょっとスリムになられたと思ったので・・・・・」
失礼しました・・・・・と、堀井は、自分の席に戻って仕事を始めた。
スリムになった?・・・・・女子社員に、体のことで誉められるなんてな・・・・・多田は、ささやかな喜びを感じながら、仕事を始めた。
多田が、コンピューターのディスプレイを見ながら、キーボードを叩いている。
机の上に置いていたマグカップのコーヒーを飲み、視線をキーボードに落として、彼は驚いた。
白い指と細い手首が、彼の目に飛び込んできたからだ。
確かにスリムになったな・・・・・でも、なぜかな・・・・・多田は、ディスプレイに視線を戻すと、再び仕事を始めた。
昼休みは、サラリーマンにとっては、貴重な時間だ。
特に昼食は、サラリーマンの午後の仕事のエネルギーを補給する、大切な『業務』だ。
今日は牛丼の気分だ・・・・・多田は牛丼屋に入り、カウンター席に座ると、
「牛丼特盛と玉子」を注文した。
しばらくすると多田の前に、牛丼の入った大きなどんぶりと、生卵が置かれた。
そう、これが多田の仕事のパワーの源だ・・・・・たとえ、メタボとの戦いには大きな不利であったとしても・・・・・。
多田は、満足そうに微笑むと、割りばしを割って、牛丼を食べ始めた。
美味い・・・・・やっぱり、早くて、安くて、食べた満足感もある・・・・・牛丼は、サラリーマンの味方だ!・・・・・多田は、牛丼を食べながら、満足感を味わっていたのだが・・・・・。
「・・・・・?」
多田は箸を置き、お茶を飲んだ。
どんぶりの中は、三分の一程しか減っていない。
しかし既に多田は、満腹になってしまったのだ。
「参ったな・・・・・」
夏の暑さで、食欲が落ちてしまったのだろうか?
オフィスに戻って、再び仕事をこなす。
気分転換にコーヒーを飲んだが、いつも好んで飲むのはブラックだが、今日は苦さばかりで美味しく感じない。結局、クリームとシロップを入れたアイスコーヒーを傍らに置いて、午後の仕事をこなした。
夜
帰宅した多田は、自室の机の上にブリーフケースを置くと、浴室に向かった。
ワイシャツとズボンを脱ぎ、下着を脱いで、洗濯機に入れた。
浴室のドアを開けて中に入った瞬間、多田の視線は、彼の正面にある鏡に釘付けになった。
鏡に映っているのは、当然ながら、多田の姿のはずだ。
しかし、その姿は随分と印象が異なるものだった。
まず、会社で堀井あかりが彼に言ったように、『スリム』になった。
彼を特徴付けていた、お腹の出っ張りが、無くなり、白く滑らかなお腹になった。
しかし・・・・・?
『夏やせ』で、すっかり細くなった手を、胸にあててみた。
全体的に細くなった体だが、胸には少し脂肪が『残って』いるようだ。
乳首と乳輪の辺りは、色が変わり、鮮やかなピンク色になっている。
そして多田は、自分のお尻を見た。
手を胸からお尻に、移動させる。
彼の掌からは、柔らかい感覚が伝わってくる。
なんだか、尻が大きくなったのではないか?・・・・・鏡の前で、体を横向きに映しながら、多田は思った。
ちょっと運動不足かな・・・・・腕や太股の筋肉が落ちたようだ。
太股には、筋肉が落ちた代わりに、脂肪がついて、触った感覚は、柔らかい。
多田には、一つ気になる事があった。
股間にある彼の『分身』が、すっかり元気を無くして、小さくなったようなのだ。
「夏バテ・・・・・か・・・・・?」
多田は、苦笑しながら髪を洗い、体を洗った。
今日は、昼だけではなく、夕食もいつもの半分以下しか、食べることができなかった。
やはり、この酷暑のせいで、疲れているのかな?
シャワーを浴びて、浴室を出ると、下着とパジャマを身につけた。
多田は、コンビニで買ったビールと唐揚げで、晩酌をしながらテレビで、プロ野球のナイター中継を見始めた。
しかし、やはり体調が悪いのか、すぐに酔いがまわり、多田はテレビを消して、ベッドに入った。
使用4日目
多田圭介は、ベッドの中で軽く伸びをすると起き上がった。
冷蔵庫に向かい、中からミネラルウォーターのボトルを取り出し、コップに注ぐと、一気に飲み干した。
リモコンのボタンを操作して、テレビをつけると、夏らしい装いの女性気象予報士が、天気予報をしている。
『昨夜も熱帯夜になりました。 今日の天気は全国的に晴れ。気温は35℃を越えて、暑さの厳しい一日に・・・・・』
多田は、テレビを見ながら朝食を食べると、身支度を始めた。
パジャマを脱ぐと、甘い香りが辺りに漂った。
『TRANS DRY』が汗を吸い取り、その臭いを変えてしまったのだ・・・・・多田は満足そうに微笑むと、白く細い指で代わりの『TRANS DRY』を取り出して、頭から被り、細くしなやかな黒髪を掻き上げた。
ワイシャツに袖を遠し、ズボンを穿くと、出勤準備は完了だ。
多田は、自分の肩を見た。
ワイシャツの肩の辺りに、随分と余裕がある。
まるで、体が縮んでしまったかのようだ。
そういえば・・・・・多田は、腹のあたりに視線を落とした。
彼の視線先には、ズボンのベルトがある。
そして、多田は気がついた。
今、彼はベルトの穴が3つも締めた位置で、ベルトを締めていた。
多田は自然に笑顔になった。
ついに、『メタボとの戦い』に勝利したのだ・・・・・きっかけはおそらく『夏バテ』だが、それでも彼にとっては、勝利であることには変わりはない。
多田は、朝から気分良く、家を出て会社に向かった。
相変わらず、夏の太陽が容赦なく照りつけている。
肌には汗が滲んでくるが、今の多田には、さほど気にはならない。
駅に着くと、改札口を通り、ホームに向かう。
ホームには、電車を待つ人達が、既に列を作って並んでいる。
多田も『いつもの場所』で列に加わった。
『二番線に、中央特快・東京行きが入ります・・・・・』
アナウンスが流れると、オレンジ色のストライプの入った電車が滑り込んできた。
ドアが開くと、ホームに並んでいた人達が、電車に乗り込んでいく。
多田も電車に乗った。
多田の横には、いつものように?女子高校生が乗ってきた。
彼女は、多田と目が合うと、微笑みながら会釈をした。
多田は少し戸惑った。
今まで、嫌悪感に満ちた視線を向けられていた女性から、にこやかに会釈をされている・・・・・ 多田も戸惑いながら、会釈を返した。
彼女は、照れくさそうに微笑みながら視線を反らすと、スクールバッグの中から文庫本を取り出して、読み始めた。
多田も、左手に持った新聞を読み始める。
ウクライナ、イラク情勢。アフリカでのエボラ出血熱の流行。原油価格の動向など、貿易を仕事にしている多田には、小さな情報も見逃すことは出来ない。
多田は、微かに体を動かした。
今日はなんだか、体全体がムズムズする・・・・・。
気がつくと、あの女子高校生が、多田を見つめている。その視線は、さっきとは違い、好奇心に満ちていた。
どうしたのだろう?・・・・・多田は、そう思いながら彼女を見つめたのだが、同時に不思議な感覚を感じた。
しばらく考えて、ようやく、その訳に気がついた。
彼女の顔が近いのだ・・・・・いつもは、上から見下ろしていたのに、今は彼女の顔は、彼の顔のほとんど真横なのだ。
なぜだ・・・・・理解出来ない状況に、多田の頭は混乱した。
彼女が不思議そうに、多田の胸の辺りを見ている。
多田が自分の胸を見ると、ワイシャツの胸の部分が、わずかに膨らんでいる。
多田の顔は、たちまち青白くなっていった。
電車のスピードが落ちていく。まもなく終着駅だ。
やがて、電車が止まり、ドアが開くと、多田は大急ぎで電車を降りて、会社に向かって駆け出した。
多田は、改札口を出ると、駅のコンコースを走った。
その間にも、多田の胸は、わずかずつだが『成長』していく。
その一方で、ベルトで締め付けていたはずのズボンが、ずり落ちそうになり、慌てて右手で押さえた。
ウエストが細くなった?・・・・・だが反対に、お尻がムクリ・・・・・ムクリ・・・・・と膨らんでいく。
いつしか多田は、内股で走っていた・・・・・だが、混乱している彼は、そのことに気がついてはいない。
多田は、夢中で走っていた・・・・・早く会社に行って、自分の体を確かめなければ・・・・・その思いが、運動不足のビジネスマンを走らせていた。
しかし、多田の体の変化は、容赦なく続いている。
胸は少しずつ大きくなり、走っていると揺れるようになった。
髪が少しずつ伸びていき、気がつくと艶やかな、ボブカットの黒髪が、走るのに合わせるかのように、リズミカルに揺れている。
変化は遂に、多田の視覚の中でも起き始めた。
穿いているスラックスの裾が、少しずつ短くなっていく・・・・・その長さが、まるで半ズボンのように・・・・・膝の上までになると、左右両方の足を包みこんで、いわゆるねずみ色だったスラックスは、濃紺のタイトスカートに変わってしまった。
そこから延びる細く、白い足が、一生懸命走っている・・・・・その足が履いている革靴が、いつの間にか、踵の高いパンプスに変わって、慣れない多田は、走りにくい。
「なんだ・・・・・?!」
揺れていた胸を、何かに掴まれた? いや、この感覚は・・・・・まさか、女性の下着か・・・・・?
大きく成長した、多田のDカップの胸をブラジャーが包みこんで、その重さを肩紐に分散させてサポートする。
いつしか、着ているワイシャツのボタンは、左右逆になり、その生地は、まるで今の多田の肌に合わせるかのように柔らかくなり、清潔な白いブラウスに変わってしまった。
必死に走る多田は、持っていたブリーフケースが邪魔になり、肩からかけた・・・・・そう、ブリーフケースがトートバッグに変わってしまったからだ・・・・・ネックストラップにつけられた身分証明書が、膨らんだ胸元で揺れている。
多田が、歯を噛み締めた。
股間にある、彼の分身の感覚が小さくなっていく・・・・・やがて、その感覚がなくなり、新たなものが生まれる感覚が、彼の脳細胞に伝わってくる。
多田は、会社に駆け込んだ。
自動ドアのガラスに映っているのは・・・・・?
「?!」
大きな瞳を見開いて、多田を見つめる若く美しい女性・・・・・それは、まぎれもなく、多田圭介の今の姿だった。
「どうして・・・・・?」
自分のものとは思えない、可愛らしい声で呟いても、答えは見つからない。
顔を左右に動かせば、ガラスに映る彼女も、まったく同じ動きをする。
それは、当たり前の事なのだが、多田にとっては、認めたくない事実を突き付けられることになるのだ。
視線を落とせば、純白のブラウスの胸の辺りを2つの大きな膨らみが押し上げ、さらに視線を下に向けると、濃紺のタイトスカートを穿いている・・・・・そして、白く美しい足・・・・・多田は、自分の美しい手をスカートの上から股間にあてた・・・・・やはり、有るべき物の感覚は、なかった。
絶望感に打ちのめされる多田だが、
「どうかされましたか?」
聞きなれた声が聞こえて振り向くと、そこには・・・・・。
「堀井くん!」
多田は駆け寄って、その肩を掴んだ。
「ど・・・・・どなた・・・・・ですか?」
薄気味悪そうな目で、堀井あかりは、多田を見つめている。
「僕だよ・・・・・君のセクションの係長、多田圭介だよ!」
「多田さんは、男の人よ・・・・・?」
貴女は、何を言っているの?・・・・・堀井が多田に、厳しい視線を向けている。
このままだと、怪しい人間と思われて警察を呼ばれたり、場合によっては救急車を呼ばれかねない。
「僕は、本当に多田圭介だよ・・・・・この前は、電車の中での出来事を話したし、昨日君は僕に、ダイエットをしているかと尋ねただろう?」
堀井あかりは、驚いたようだ・・・・・それはそうだろう。
会ったこともない若い女性に、上司との会話内容をスラスラと言われて堀井は、
「本当に・・・・・係長なの・・・・・?」
「そうだよ! 信じてくれよ!」
必死に訴える女性になった多田が首から下げているIDカードに堀井は目に止めた。
「これって・・・・・」
堀井は、IDカードに書かれている内容と、目の前の若い女性を見比べている。
堀井の表情が、いつもの知的な美しい女性に戻り、好奇心と悪戯心が彼女の中にわいてきた。
突然、堀井は多田の、昨日まで男だったとは思えないほど細くなった、白い手首を掴むと、廊下を駆け出した。
「堀井くん?!」
どうしたんだ?・・・・・驚く多田には御構い無く、堀井は多田の手を引いて、廊下を走る。
「ちょっと、堀井くん! そこは・・・・・?!」
堀井はドアのノブに手をかけると、躊躇いなく開き、多田の手を引いて中に入った。
部屋の中には、金属製のロッカーが整然と並んでいる。
そう、ここは女子更衣室・・・・・幸い今は、人がいないようだ・・・・・。
「堀井くん! 僕は、ここにいては・・・・・」
戸惑う多田(女性)の手を引いて、堀井は部屋の中を一回りした。
突然、堀井が立ち止まる。
その知的な顔には、自分の仮説があたっていた事に対する満足感があふれていた。
「堀井くん! 手を離してくれないか?!」
僕は、この部屋に入ってはいけないんだ・・・・・多田が必死に訴える。
堀井が多田を振り返る。
「どうして、入ってはいけないのですか・・・・・係長?」
「それは・・・・・私が男だから・・・・・」
堀井が多田のすぐ前に立った。
その知的な美しい顔が、多田を見つめる。
多田の心臓の鼓動が、一瞬高鳴った。
堀井は多田が首から下げているIDカードを手に取り、多田に示した。
「これなら、ここにいてもよろしいのでは・・・・・」
IDカードを見た多田が、その瞳を大きく見開いた。
『多田加奈子 23歳 トランス貿易株式会社 アジア貿易部 係長』
いったい、どうなっているんだ・・・・・戸惑う多田を、誰かが後ろから抱きしめた。
「おわかりになりましたか・・・・・係長は、もう女性なのですよ。ですから、ここにいても、全くおかしくないのですよ・・・・・」
彼女は微笑みながら、
「そこのロッカーの名前・・・・・誰の名前ですか?」
言われた多田は、目の前のロッカーを見た。
『多田加奈子』
堀井がロッカーを開けると、そこには女子社員が着る制服が入っている。
「今の係長は、23歳の女性・・・・・多田加奈子ちゃんになったわけです・・・・・」
わたしより若い『係長』ですね・・・・・堀井がからかうように言うと、多田は、ガックリと項垂れていた。
「そんなに落ち込まないで下さい・・・・・」
堀井に言われて、多田が顔を上げた。
彼(今は彼女?)を見つめる堀井の顔には、悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
思わず、後退りしようとした多田の体を、堀井が捕まえた。
「さあ係長、制服に着替えましょうね・・・・・♪」
「ちょっと・・・・・堀井くん?!」
抵抗しようとする多田にかまわす、堀井は多田の着ているブラウスのボタンを外していく。
ブラウスの下から現れた物を見て、多田は驚いた。
朝、彼が着た『TRANS DRY』は、女性が着るキャミソールのようになっていた。
そして、その下には女性が持つ二つの膨らみをサポートする下着が・・・・・。
「係長の胸・・・・・わたしより大きいですね・・・・・」
堀井が多田の胸を、ムニムニと揉んでいる。
今まで感じたことのない感覚に、多田は声を出すことも出来ない。
「係長・・・・・心配しなくていいですよ・・・・・」
「な・・・・・なにを・・・・・?」
「わたしたちが、教えてあげます・・・・・女性のすべてを・・・・・」
だから、大丈夫ですよ・・・・・明るく笑いながら、服を脱がせて、多田を制服に着替えさせる堀井あかりを、女子社員・・・・・多田加奈子になってしまった多田圭介は、途方にくれながら見つめていた。
TRANS DRY
(おわり)
作者の逃げ馬です。
今年も暑い夏になっていますね(^^;
おかげでパソコンのハードディスクが、2年で吹っ飛ぶというトラブルに見舞われてしまったわけですが・・・・。
そんな中、テレビのCMが目に留まり、人間ウオッチングをしながら作った作品が、このSSです。
逃げ馬の書くものとしては、変化の過程をちょっと長めに書いてみました。
今回も、最後までお付き合いいただきありがとうございました。
また、次回作でお会いしましょう。
なお、この作品に登場する団体・個人は、実在のものとは全く関係はありません。
2014年8月13日 逃げ馬
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