熱帯夜

 

 

 

 

 気が付けば、いつも人の輪の中心にいるヤツだった。
 誰が声を掛けても素直に応じる。実務的なことは何をやらせても不器用なくせに、人をまとめる才能は天性のもので結局人の輪はアイツを中心に広がっていた。興味の無いことはアッサリ断るが、松山が少しでも未知であることに興味を示さなかったことはない。
 オレといえば、自分からその輪に入ることはできずだがヤツから広がる輪は人を選ぶことなくオレさえも呑み込んだ。
 クラブが招かれた市の創立イベントを抜け出し、ホームの階段をスーツで駆け下りてくる松山は、どちらかというと制服の高校生のようだった。

「抜け出せた!」
 そう言ってまだ凍っているジョッキをグッと呷ると、『でもすげー走った』と笑っている。オフシーズンに入り、たまたま海外組も重なって帰国することになった週末、ほとんどすべてのクラブに繋を付けている反町が手早く居酒屋の大部屋を借り切った。反町は、どんな職業でもやっていけるのではないかというくらいこうした段取りがよく、松山とはまた違い、言葉が巧みで到着地点を予測して会話を運ぶ。ブリーフィングや机上でのシミュレーションの際いつも感じさせられるが、反町はとぼけたフリして恐ろしく頭の回転が速かった。
「また何か妄想してる」
 こめかみにゴツ、と冷えたジョッキが当たり、氷の欠片がパラパラと肩に落ちる。酔っていなくても礼に欠けるのは、若島津なりの友情表現だ。
「松山来たね。駅で会ったんだって? アンタ達の組み合わせでよくココまでこれましたね」
 ココとは、二次会の会場となった駅裏の小路奥の居酒屋だ。スナックが並ぶ繁華街で、狭い階段を上がった二階がカウンター、三階が貸し切りを兼ねた和室になっている。反町が贔屓にしているにはちょっと意外な趣でもある。
「反町以外ともたまに来んだよ。飯旨いからな」
 アンタ達、というのは、あまり飲む店にこだわらないオレと、繁華街には明るくない松山を差している。
「たまたま会ったの?」
「いや、ケータイにオマエも行くのかってメールがあって。二次会から行くっつったらオレも行くから駅で待ってろとよ」
 返信はしなかったが、松山は一方的に知らせてきた時間ちょうどに階段を駆け下りてきた。暑いとか何とか言いながらオレに道案内をさせ、当の松山は店に着くと他の連中の卓に行っちまった。
 上着を脱ぎ、ネクタイを緩めた首元からのぞく鎖骨が、汗で張り付いたシャツのラインにそのまま繋がっている。浅くしか日焼けしない松山の、ワイシャツを脱げばユニフォームの形がわかるくらい日に焼けていない部分が瑞々しくすべらかなことに、前々回の合宿で気が付いた。ココ、ガキの頃鉄線くぐり抜けようとして引っ掛けちまった傷、と笑って指差す肩甲骨の、赤い傷跡をやけに鮮やかに感じた。
 普段は格子の衝立が座席を隔てているのだが、今日はとっぱらいの大部屋になっていてどこのサポーターでも歓喜するくらいサッカー選手で溢れていた。しかし座布団の数より多いんじゃないかという人数が、すぐ隣の卓の会話も聞き取れないほどワアワア騒いでいて、遅れて参加したオレは間違ってどこかの大学サークルの飲み会に居合わせちまったかと一瞬ドキリとしたくらいだ。
「日向さん飯食ってきたんですかー」
 オレの好物ばかりを、ウェイターのように器用に片手で三皿持ち、反対の手にジョッキを持った反町が来る。二人に甘えてばかりいないで、少しは社会性とやらを身に付けるかとオレは若島津と反町と同じ卓に腰を据えた。

 何度か隣や前が入れ替わり、気が付くと松山が隣で飲んでいた。しかし飲んでいるというよりは食べている、で、振り向かず聞き耳を立てていると炒飯もうひとつ頼んでもいい?そんでひとりで食っていい?などと反町に聞いている。
「飯食ってこなかったのかよ」
「食う暇無かったんだよ。立食の途中で席外したいって監督に頼んだら、ノルマの色紙山のように渡されて」
「あのサインか」
「うるせえ!!」
 松山は、サインをするのが恥ずかしいらしく、書き初めのように『署名』する。オレもサインは普通に漢字で書くが、松山のサインは丁寧に書いて小学生の書き初めレベルということで、ある意味有名だった。
「簡単な名前なのにな」
「オマエに言われたくねえっての」
 松山は、グラスの梅割りを飲み干すと同じ物をもうひとつオーダーした。
「あーでも食ってねえから酔いが回る」
「よく言うぜ」
 松山が酔っているところなんて、見たことがねえ。リミッターが働くとバタリと寝てしまうようだが、いつだって最後まで笑って帰りには酔い潰れた連中をタクシーに押し込んでいた。
「マジ、なんか今日暑いし」
 暑いのは関係あるのかと言い掛けて、息を呑む。
 松山が、胡座を崩しオレの左腕に背を預けてきた。
「背中凄い熱いぞ」
 何をありのまま喋ってんだと自分に突っ込みつつ、返事を待ったがヤツは何故か何も言わなかった。
 本当に酔ったのか?と思い顔をのぞきこもうとした時、不意に松山が起き上がり席を立とうとする。
「トイレ」
 卓の下で、その腕を掴み立ち上がろうとする松山をもう一度座らせる。
「三次会出たら帰れなくなるぜ」
 松山は、掴まれた腕を見ようとしない。
「オレまだ終電あるから帰るけど」
 どうして、オレはそんなことを言っちまったのか。
 行動するつもりなんて自分には無いのだと、その時まで確信していたのに。

 何度も合宿で相部屋になったのに、松山をアパートへ呼ぶのは初めてだった。少しでもトレーニングの時間を増やす為、所属クラブの近くへアパートを借りたのはオレの初めての一人暮らしだった。家族離れできないオレだが、優先順位くらいはわかっているつもりだ。
「なんだよ」
「いや、想像通りだなーと思って」
 幾分否定的な視線で松山が部屋を一瞥する。
「オマエんち、片付いてると思った」
 やっかみかよとヤツの背中を肘でド突きながら追い越し先に部屋へ入る。片付けたがるオレと、片付けられない松山は合宿で相部屋になる度くだらないケンカをした。駅から暑い暑いと連発していた松山のワイシャツが、実際汗でぐっしょり濡れていたので窓を開けず冷房を入れる。振り向くと、松山はスーツなのにたたみもせず上着を床に投げ捨て、ネクタイを外しそれも床に落としながらコンビニの袋からビールを取り出す。コイツが片付けられない男だということを、改めて目の当たりにする。喉の鳴る音がするくらい、乾いた体にビールを流し込みそれでも暑いと言って靴下を脱いだ。もういいやなどと言いながら、結局松山はトラウザーズも脱ぎどっかりとベッドに寄り掛かった。
 オレ達は、呼び止める暇も次の打ち合わせをする暇すらも与えずじゃあ終電無くなっちまうからと席を立った。立ち上がる際、呼び止められぬよう割り勘には僅かに多い札を置き、反町にだけ出口から別れを告げると店を後にした。松山はともかく、オレを呼び止めるヤツはいなかった。
 電車は意外にも空いていたが、松山は入口の横に立ち飽きもせず車窓の景色を眺めていた。晴れなのか曇りなのかもわからぬ真っ黒な夜空に、半月より少し痩せた月だけが光っていた。車窓の景色がビルから住宅街へと移った頃、オレは自分がまだまだ眠るつもりのないことに気付き少し驚いた。
 しかし降りる駅だとかスタジアムの方向とか、取り留めのない会話を途中途中しているうちに、オレ達はあっと言う間に最寄り駅へ着いてしまった。
「おじゃましまーす」
 寝静まったアパートで、小さな声でふざけた松山が革靴を脱いだのがほんの十数分前。松山は、シャツの前をほとんどはだけ、ボクサーショーツ姿で胡座を崩し座っていた。ベトベトすると言いながら、残りのビールを呷った。
「あーでも週刊誌の記事みたいなこと言ってるヤツいて驚いた」
 松山は冷蔵庫に入れもしなかった二本目のプルタブを引くと、新聞を裏返しTV欄をちょっと見て結局放った。
「大袈裟に言ってみただけだろ」
 松山は清廉潔癖というか、色事は苦手そうなイメージがあるがそれも親しくなるまでで、同性の友人が多い松山は年相応にくだけた話題を口にした。ロビーのグラビアで盛り上がったり、ふざけてみたり。
 だけど話が本題に入ると、僅かに答えが喉につかえるのを周りは見逃さなかった。結局、ヤツは奥手なのだ。
 松山達の卓はプロになって得した話といって、とっかえひっかえヤっているというヤツの話題になっていた。当の本人がいないので、もはや話の真偽は話題ではなく、本当にそんなにヤっているヤツはこの場に居るのかという話だ。
「経験ナシでもおかしかねえだろ。したことねえヤツのほうが本当は多いんじゃねえの?」
 話が深くなると松山は警戒するので、オレはいつもどうでもいいという方向へ話を振る。だが今夜は、引き返してしまった。
「っつか、オマエもっとそーゆー話避けるかと思ったぜ」
 挑発するように、ニヤリと笑ってみせる。
「どういう意味だよ」
「松山は、潔癖かと思っていた」
 言いながら自分に勢いをつけるようにビールを呷った。オカシイのは、暑さの所為だろうか。
「子供だってバカにしてんだろ」
「してねえよ。っつーか、どうなの? 松山はしたことあんの?」
 ふざけるフリをして、どんどん後戻りできないところまで行く。
「そんなのっ…オマエに教えねえ!」
 他のヤツらといる時のような余裕を、あっと言う間に失い松山が噛み付いてくる。それが嬉しくてついつい怒らせてしまうのは、少ない自覚の一つだ。
「っつーか、オマエはどうなんだよ!」
 話が深くなると、いつもはそれとなく本題から離れようとするのに、松山がオレの目をジッと見る。目元だけではなく、胸元までほんのり赤くなっているのは、もしかしたら本当に酔っているのか暑いのか。
 もしも酔っているならば、冷たいシャワーでオレだけ酔いと火照りを覚まさなくてはならない。
「したといえばした」
 一言一言が、まるで告白という名の賭けに思える。
「高等部ん時の数学の先生」
「ええ?!」
 松山の驚愕が軽蔑なのか好奇心なのか、オレはうまく話し続け探らなくてはならなかった。
「副担。呼び出されて、放課後準備室で」
「学校で?!」
 とりあえず、余計な誤解で後悔することのないよう、言葉を選びながらオレは反町の真似をして着地地点を狙った。
「ヤばくねえの? オマエなら、記事として売れるんじゃねえ?」
 松山は意外にも眉を寄せたが、相変わらずそれが軽蔑なのか友人として心配しているのかオレには計り兼ねた。
「そんな人じゃねえよ」
 一瞬、明らかに松山がムッとする。
「議員サンと結婚して退職したから。当時の年齢的にも、記事ンなって困るの向こう」
 松山の表情が嫉妬でなければ、この賭けはオレの負けだ。
「いい人とかいう意味じゃなくて。遊びだったんだよ、あの人は」
 好きな人とじゃなければ、意味が無いということは教わった。
 だけどそうは言えなかった。
「オレは好奇心」
 松山は、それきり黙ってしまった。
 結局ふざけたフリして自分で着地地点を外したことに、意気地なしの罵声を浴びせながらオレは残りのビールを呷った。
 サッカーでも何でも、オレはしたいようにしてきたのに、自分がどうしたいのかさえわからないのは松山と居る時だけだった。松山は黙ってまた新聞を手繰り寄せ、リモコンを手に取ると深夜放送のチャンネルをカチカチと何周か回し最後にスポーツニュースで止めた。
「羨ましかった?」
「バーカ」
 オレ達は三本目を空けることを止め、オレはまた元の位置に戻れた安心感と一歩も前に進めなかった敗北感を受け止め今日に区切りを付けることにした。
「シャワー浴びるだろ」
「あー」
 着替えてまたこのシャツ着ると、余計暑くなりそうと松山はそれでも乾きかけていたワイシャツを掴み扇ぐしぐさをした。
「貸してやるよ」
 昔着ていたストライプのパジャマを放り、パンツもねえとぐだぐだ言っている松山に、それでも二回くらいしか履いていないボクサーショーツを選び放った。松山は、一瞬考えているようだったが、じゃ、借りるわと言ってワイシャツをリビングに脱ぎ捨てながらユニットバスへ入っていった。
 松山がシャワーを浴びていることを意識している自分が嫌で、オレは明日のスケジュールを確認したり何時の間にか着信していたメールにいくつか返信した。松山はあっと言う間に雫をボタボタとこぼしながら出てきた。
 入れ替わり、シャワーを浴びたオレのソレはほぼ水だった。
 これほどの敗北感を感じているのに。何度も今日はコレで終わりと自分に告げたのに。
 オレはまだ今夜が終わっていないと思っている。
 手早く髪も洗いリビングに戻ると、松山はまたベッドに寄り掛かり今度は体育座りのような格好でサッカー雑誌を読んでいた。
 前髪が、まだ雫を含んでいる。
 ドクンと鼓動が体中に熱い血を巡らし始める。体内から冷まそうと、冷蔵庫のミネラルウォーターを一気に流し込んだ。
「客用の布団まだ買ってねえんだ。セミダブルだし、一緒でいいか?」
 止められないというか、自分が何を言っているか正直もうよくわからなかった。ドクドクと鼓動が全身に回している熱い血はアタマも巡り、目の前がチカチカしているのに耳に届く自分の声はやけに普通だった。
 日向がいいならいいぜと言った、松山の声が耳鳴りのような脈の向こうで聞こえた。

 

 

 

 

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