日向に旅館を予約してあると言われた時、松山は至極驚いた。日向は人ごみを嫌ったし、帰国した時は松山のマンションでだらだらと過ごすのが定番になっていた。しかも毎回スケジュールの間を縫った急な帰国で、よくそんな手配をする余裕があったものだと二重の意味で驚いた。
 しかしいまはオフシーズンで、そういう意味では予約は簡単だったかもしれない。松山は車を持っていなかったので近くでレンタカーを借り、「ああ、右ハンドルか」とつい呟いてしまった日向から何とか運転席を奪おうとしたのだが、結局は日向にハンドルを取られてしまった。
 サングラスで視線がわからない為、久し振りに至近距離で見る日向に見蕩れてしまいそうになる度松山は助手席の窓に視線を移した。景色もクソもない方向を見ている自分に、日向がクスリと笑ったことに松山は気付いていなかった。




 そこは海岸沿いの温泉旅館で、決して安宿ではないのだがこの日の宿泊客は二人だけだった。車は旅館の者が駐車場へ回し、二人はすぐに部屋へ案内された。
「うわ!!スゲエ波の音が聞こえる!!」
 松山は本間にカバンを投げると次の間に駆け込み、窓を大きく開け放った。
「日向、ほら、見えるだけじゃねえぜ。音が聞こえる!!」
 窓から落ちそうな大きな図体ではしゃぐ松山に、仲居もクスリと微笑むとお茶を淹れ、大浴場が24時間利用出来ることを告げると下がっていった。
「風呂だな!まず!露天風呂とかあるのかなあ」
「そこから見えるだろ。あの海岸沿いの小屋がそうらしいぜ」
 日向が指差した先には小さな脱衣所のような建物があった。
「ウソ!マジあれ?!岩場が露天風呂になってるのか」
 松山の満面の笑みに、日向は早々に降参したような気持ちになった。「その前に」
 そう言って、日向は松山の肩を抱き寄せた。ゆっくりと唇を重ねながら少しずつ舌を絡ませる。松山のマンションに寄って真っ直ぐにここへ来たので、今回の帰国でこれが久し振りのキスだった。
「ちょ・・・っ、こんな真っ昼間にかよっ」
 松山が、軽く日向を押し遣る。抵抗というよりは、間近で日向の顔を見た照れのようなものであった。
「しねえよ」
 日向が松山の鼻の頭をピンと弾いてから荷物に手を伸ばした。
「お楽しみは取って置かないとな。とゆーわけで露天風呂も後でな」
「何で露天風呂も後なんだよ!!」
「人がうろうろ歩いてんじゃねえか。ここの旅館だけの露天風呂じゃねえらしいんだよ。それとも混浴だから狙っていくか?」
 松山が弾かれた鼻をさすりながら首を傾げる。
「狙う?何を?」
「女が入ってんの」
 松山の顔が一気に首まで赤くなる。いい歳になっても、まだ不意打ちの話題には弱い。松山は卓の上のおしぼりを掴むと投げ付け、タオルを持つと先に立ち上がった。無言で旅館の大浴場に向かってしまう。
 日向は松山が部屋を出て行っても、なおも笑っていた。畳みにごろりと転がりながら、自分が久し振りに笑っているような気がした。天井に、磨かれた卓に反射した窓からの光が白く耀いている。
 ひとっ風呂浴びたらその辺の海岸沿いでも散歩することにして、日向は松山のいる大浴場に向かった。




 大浴場でも松山は口を曲げたまま日向の問い掛けに返事もしなかったが、広い浴槽に浸かりこの温泉旅館がいま自分達だけのものだと感じ出すと結局は弾む心を抑え切れなくなった。日向のこの後海岸を散歩するという提案もなかなか魅力的だった。
 洗い立ての髪を海風に攫われるのは、松山にとって経験したことの無い快感だった。はためくTシャツも心地よい。また風呂に入ればいいからと言って、松山は日向が止めるのも聞かずスニーカーを脱いで岩場で波に素足を晒した。不安定な足場でわあわあ騒いでいるうちに日向のサングラスが波に飲まれてしまう。それさえも笑って止まない松山に、日向はどさくさで掠めるようにキスをした。


 部屋で取る夕食は松山を更に上機嫌にさせ、冷酒に頬や胸を薄く桜色に染めさせた。松山は骨付きの焼き魚を食べるのは苦手のようでぼろぼろとこぼしていたが、それでも相変わらず満面の笑みで格闘していた。TVもつけていないのに、笑い声がずっと絶えない。
 日向は、松山のこの笑い声が何よりも好きだと思った。
 食事を終え、次の間の藤の椅子で松山がうとうとしていると仲居が布団を敷きに伺ってきた。気が付くと、もう23時を過ぎていた。
「ついでだから露天風呂に行くか?」
 松山は待っていましたと言わんばかり再び元気になった。仲居に部屋を預け、二人は海岸の露天風呂に向かった。


「スゲエな。夜に露天風呂に入るってだけでも気持ちいいのにサ、それが海にあるんだもんな」
 着替えの浴衣とタオルを片手に抱え、先を行く松山が器用に後ろを向きながら歩く。
「前向いて歩け。酔っ払ってんのか」
「どこにいても波の音聞こえんのな」
 松山に日向の声は届いていないようであった。街灯に照らし出されるアスファルトに、長い影が伸びる。
 フと、松山は日向の横に戻ってくると触れるくらいに指を絡めた。波間を眺める振りをして、視線は合わせてこない。
 日向は、松山の手は握らずに、そのまま触れたり離れたりの感触を楽しんだ。




「気持ちいい・・・」
 松山がウットリとこぼす。
「体は熱いのにさあ、顔は涼しいのって何でこんなに気持ちいいんだろう」
「オマエ、今日はよく喋るな」
 少し呆れた日向が松山に一瞥をくれると、松山はぷうっと頬を膨らませ沖合いを向いてしまった。脱衣所から漏れる明かりと、わずかな月明かり。松山のユニフォームで日焼けしていない肩甲骨が白く浮き上がり、誘われるように日向は背中に唇を落とした。
「ちょ・・・・・!!何考えてんだよ日向!!」
 焦った松山が慌てて振り向く。日向が口付けようとしているとも知らずに・・・






 

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