Infinity 4





突然襲った胸の奥にねじ込まれた苦しみの理由に、新一は気付かない。





「ここはね、青子の幼なじみが教えてくれたお店なの」
青子は新一と連れだって、友人との待ち合わせしている喫茶店に来ていた。
友人と会うのは、これからまだ1時間はある。その間を一人で過ごすのは寂しすぎるから、と彼女は新一を誘ったのだ。
人見知りしない性格なのか、彼女は屈託ない笑みを見せて新一の向かい側に座っている。

半ば強引に付き合わされている新一の方も……不思議な事に不快ではなかった。
彼女がどことなく自分の幼なじみに似ているから、なのだろうか。それとも、彼女の醸し出す雰囲気が新一の心を和ませるから?
理由は判らないが、嬉しそうに微笑んでいる彼女を見ていると、理由なんて別にどうでも良くなった。
それは、一種彼女の魅力だろう。新一にはないものだ。

「ここのね、チョコパフェがとっても美味しいって、大絶賛してたの」
だから青子も食べて見たくなったのだと言う。
しかし、ここに来て彼女が注文したのは、新一と同じコーヒーで。
「頼まないの?」
と新一が訊ねると、青子は友人が来たら一緒に食べるの、と言って笑った。

「あ、でも工藤さんが食べたいって言うのなら、青子もお付き合いしちゃう」
甘いの大好きだから、何回でも頼んじゃう。とそう言う彼女に新一は苦笑する。
「ボクは、甘いの苦手だから」
「……あ、そうだよね。普通、男の人って甘いの苦手だよね。……ダメだなぁ、快斗が超甘いモノ好きだから、ついつい他の男の人も食べるもんだって思っちゃう」
舌を出して、軽く自分の頭を叩く仕種をする。ふと、彼女は自分の失言に気付いたように新一を見た。

「あのね、「快斗」っていうのはね、青子の幼なじみなの」
何時も青子をからかってばかりで、やんちゃでスケベでエッチだけど、手品だけはスゴク上手くて…。
「口は悪いしすぐ手が出るけど、ちょっぴり優しくて、頼りになる所もあって………」
ホントは、自慢の幼なじみなの。と、はにかんだ笑顔で言った。

「でね、その快斗は何故か甘いモノが大好きで、特にアイスに目がないの。しょっちゅう、甘いモノ食べ歩きなんかしてて。ホント男のくせに青子よりもその手の情報にはスゴク詳しくて」
男らしくないでしょう?と聞いてくる青子の表情は、そんな彼を嫌がってはいなかった。

その後彼女は一方的にしゃべり続けた。
幼なじみの事、学校の事、家庭の事。
何度か顔を合わせたことのある父親の中森警部とは全くに似ている所がないように思ったが、新一を前にして延々と話し続ける様は、警部のこうと決めたら一直線な性格に似ていなくもない。

こんな風に新一に口を挟ませる余地もなく長話に耳を傾けさせるなんて事は、あまり体験した事はなかった。
たまに幼なじみとこうしてお茶する事はあっても、大抵新一が一方的に話したりするだけで、相手はそんな彼の話を聞いてくれる事の方が多かった。
全く好きでもなきゃ楽しくない新一の趣味の話を嫌な顔せずに聞いてくれる彼女も、こんな気持ちでいたのだろうかと、新一は考えた。

「ね、工藤さんは探偵なんでしょう?白馬君と一緒に探偵したりするの?」
自分のことを粗方話し終えた彼女が興味津々に訊ねてくる。
「いや、ボクは何時も一人でやってる。……白馬はどちらかというと、2課の……中森警部と一緒に居る事が多いけど、ボクは1課中心だから」
「そっか……そうなんだ。白馬君も超大物探偵なんて言われてるけど、お父さんはあまりそんな風に思っていないみたいなの。彼が居るからこそ、いままでKIDの事件を未然に防げたって事に気付いていないのよ」
でも、白馬君がいなくなっちゃったらどうするんだろ……。もし、次にKIDが現れた時、宝石を盗まれたりしたら、非難囂々かも。
少し心配げに声を落とす。新一は突然彼女の口から漏れた「KID」の言葉に心臓が高鳴ったが、ほんの一瞬の事だった。

「工藤さんは、お父さんと一緒にKIDを捕まえてはくれないの?」
「いや……ボクは」
「だよね……。探偵に頼る警察っていうのも、考え物よね……」
KIDの予告が舞い込むと、途端に忙しくなる。家に帰ってこない日が続くと、こんな風に世間を騒がせているKIDが憎らしくなるのだと青子は言う。

「青子、お父さんと二人暮らしだから……帰ってこない日が続くと、ちょっぴり寂しいんだ」
声を落とし、飲み終えたコーヒーカップを弄ぶ。

「愚痴ったって仕方ないよね。早くKIDが捕まるのを期待するわ」
そう言って笑うと、視線を店の奥の壁に掲げられている時計に向ける。
時刻は、待ち合わせの時間を15分ほど過ぎていた。

「あれ…?時間なのに、恵子来ないなぁ」
首を傾げ、椅子に置いてあるバックを掴むを中身をかき回す。

「……あっ、ない」
「どうしたの……?」
「携帯電話……忘れちゃった」
待ち合わせに遅れている友人と連絡を取ろうとしたのだが、何時も持ち歩いている携帯電話をうっかり充電器にセットしたまま、カバンに入れるのを忘れていた事に気付き、目を潤ませる。

「どうしよう……青子、恵子の携帯の番号なんて覚えていない」
困り果てた青子に新一は局番案内で自宅の電話番号を聞いてみてはと提案したのだが、青子は首を力無く左右に振った。

「ダメ……恵子の家、共働きだもの。今日も年末の追い込みで誰も居ないって言ってたし……」
「でも、もしかしたら何らかの事情で家から出られないかも知れない」
新一にそう言われて、青子は立ち上がった。
「そうだよね、それもあるよね。ちょっと恵子の家に電話してみる」
そう言って、今では滅多に使われないだろう公衆電話へ向かうべく青子は席を離れた。

新一は一人残されて、椅子に背を預けた。
決して疲れている訳でないが、何故こんな所に今日始めて出逢った女の子と一緒いるのだろうと、今更ながらに考える。

彼女と居ることは苦痛ではないのだが、決して自然なものでもなかった。
彼女から帰ってきたら、先に帰らせてもらおうと決心した時だった。

「恵子、やっぱり家にいない。誰も出ないもん」
パタパタと駆けるように戻ってきて、元居た席につく。
「あ、じゃあ、ボクはそろそろ……」

「決めた。もう、先にパフェ食べちゃう!」
青子はそう宣言すると、手を挙げてウェイトレスを呼びつけ、自分はチョコレートパフェを、新一にコーヒーを頼んだ。

「コーヒーは、青子と付き合ってくれるお礼に奢っちゃう」
朗らかな笑顔で告げられて、新一は内心肩を落とす。
何となく、目の前の彼女に翻弄されている様な気がして、小さな吐息が零れた。

暫くすると二人の席に注文したものが並んだ。
数種類のアイスの重なった上にホイップクリームとチョコクリームがたっぷり掛かって、更にその上に果物がいくつも飾られた、いかにも女の子が好きそうな食べ物。
新一の方にも新しくコーヒーが運ばれ、何もする事もないので取り敢えずカップを取り上げた。

青子はその姿を見ただけで嬉しそうに顔をほころばせていたが、徐に口に運ぶと更に幸せそうな表情をして微笑んだ。
「ん〜♪美味しいっ」
見ているこちらが幸せになれるような屈託ない微笑みに、新一は女の子だなぁと思った。
そう言えば、幼なじみも甘いのが好きだった。男と女では味覚が違うのか、新一にはその嗜好品の甘さにはついてはいけないのだが、そんな彼女達の表情は総じて至福に包まれているような気がする。

新一はそんな事を考えながらぼんやりと青子を見つめていた。するとそれに気付いた青子は、嬉々としてパフェのグラスの中を引っかき回し大きく掬って新一の前に差し出した。
「はい♪」
にこにことご機嫌な表情で迫る青子に新一は一瞬面食らう。

「え!?」
まじまじとその掬われたアイスを見つめる新一に、青子は次第に怪訝そうに顔をしかめ……それから、はっとしてスプーンを引っ込めた。
「あっ!ご、ごめんなさいっ。……青子、つい」
新一の前にあったアイスは、少し慌てた風の青子の口の中へと消えていった。

「やだ、青子間違えちゃったよ。……だって、何か快斗が前に居るみたいなんだもん」
言い訳がましく呟く青子に、新一は首を傾げる。
「……快斗?」
……って、彼女の幼なじみだという?

「ごめんなさい。工藤さんと快斗なんて月とスッポン!……でも、ちょっと顔立ちとか似ているかなぁ……って」
かなり慌てた風に両手をぶんぶん振って言い訳する彼女が何だかとても愛らしくて、思わず口元がほころんだ。
その時だった。




「なーに、ラブラブな事してんだよ」


新一の背後から聞こえてきた声に、青子は思わず笑顔を引っ込める。
向かい側に座って居た青子は、新一の背後に立つ人物を見て、ぽかんと口を開けた。

「快斗、何でこんな所に居るの!?」
素っ頓狂な声を上げる青子。しかし、当の相手は呆れた口調で言い放った。
「……ったく。おめー、ケイタイ忘れただろ。恵子のヤツがおめーと連絡付かないって泣きついてきたんだよ!」
急用が入って、青子との待ち合わせ場所に行けなくなったので連絡を入れようとしたが、なかなか出ない。店に電話して取り次いで貰おうと電話帳を調べたが見つからない。考えた挙げ句、恵子は青子の幼なじみに連絡を入れて、何とか代わりに行って貰おうと説得したのだと言う。
「折角の冬休みだ、つーのになんでわざわざこんな所に来なきゃなんねーんだよ、え?あほ子」
「あ、青子はあほ子じゃないもん!」
「しかも、当の本人は、オトコとお気楽にお茶してるし」
と、脇に回って覗き込んでくるその視線が新一とぶつかった。



(え────?)


新一は彼の姿を瞳に映し……その瞬間、体中の血液が一気に逆流するかのような強く熱い感覚に見舞われた。


何だろう。どうなっているのだろう。彼を見た瞬間、胸の奥が強く押し付けられたような圧迫感と、苦しいほどの動悸が一気に襲いかかってきた。
新一の瞳は相手を映したまま、身体がぴくりとも動かない。

一体、どうなっているんだ!?

理解できない衝撃に新一は目眩を覚えた。
頭の中が激しく混乱して、収拾がつかない。しかし、胸の鼓動は時を追う毎に強く打ち続ける。

だが、相手はそれに気付かないように軽く会釈をすると、ガタガタと音を鳴らして空いている席に腰を落ち着けた。

新一は訳も分からなかった。
どうして、こんなに気持ちに襲われるのだろう。心臓が、激しく脈打ち過ぎて、痛みにすら感じた。

突然襲った衝撃。

しかし、その原因であろう相手とは初対面のはずで……全く会った事もない人物だ。
記憶のページを必死に捲ってみても、その姿も「快斗」という名も見付けることなど出来なかった。

しかしこれは、見た事も会った事もない人間から受けるような衝撃などではない。



「何よ!こんな所に来られるだけのヒマがあるんなら、どーして白馬君の見送りに行ってあげなかったのよ。彼、快斗に来て欲しかったんだよ……!」
「だー、めんどくせー」
「もう!快斗も工藤さんを見習いなさいよっ。彼はちゃんと白馬君のお見送りしたのよ?……なのに快斗ったら!」
「え……?」


快斗が、新一の方を見る。しかし、新一は彼と目を合わせる事が出来なかった。
視線を感じるだけで、……心臓が停止してしまうのではないかという程の息苦しさ。
それは決して不快からくるものではなかった。むしろ……。


テーブルを睨むように見つめたまま動かない新一に、快斗は眉を寄せた。
「おい……どうかし……」
新一のその態度に不自然さを感じた快斗がそっと手を伸ばす。しかし、彼の指先が届く前に新一はガタリと椅子を引いて立ち上がった。


「ゴメン、オレ……用を思い出したから、帰る」
呼吸も満足に出来ない程の息苦しさの中それだけ言うと、新一は脇に置かれていた伝票を掴むと逃げるように駆け出した。

「えっ、あ、工藤さん!?」
慌てて青子が立ち上がるが、新一にはその声は届かなかった。呆然とする二人を置いて新一は会計を速やかに済ませると、店を後にした。



理由は判らない。
でも、どうしてもこれ以上あの場所には留まる事が出来なかった。








この気持ちは、アイツを想う時と何処か似ている。





店を出ると冷たい風が肌を刺した。しかし新一はそんな事には気にも留めずに駆け出した。
何処へ行くのか、何処へ行きたいのかそんな事は考えられず、只、この場所から遠離りたかった。
あの場所にずっと居続けていたら、おかしくなってしまいそうだった。どうしてこんな風になってしまったのだろう。
新一には全く見当が付かない。だから、逃げた。

華やかに彩られた街並みは、この時期だけが奏でるメロディに乗せて、少し浮き足立っている。その人波の隙間を縫うように駆け抜けると、新一は息を切らして立ち止まる。

ふいに流した視線の先に、細い路地が見えた。薄暗く人気のないその場所は、まるでその部分だけ切り取られたかのようにひっそりと存在していた。
新一は、躊躇う事なくその路地に足を踏み入れた。その瞬間、周囲の雑音が消え去り、新一は一人になった。
建物と建物の間に生まれたその小さな空間は、光も音も消し去ってそこに佇んでいる。
新一は、安心したようにほっと息を吐くと、そのままずるずるとしゃがみ込んだ。

冷たい風が通り抜けるその場所で、しかし新一は気に留めることなく身体を丸める。
心が何故か苦しいと訴えている。
何故だかまるでコントロールの効かないこの感情に新一は戸惑いつつも内心首を傾げる。

あの場所で、彼女の幼なじみと目線が合った瞬間に起きたその原因が新一には掴めない。
理性も感情も、彼を知っているとは告げてこなかった。しかし、その存在が奇妙なほど強く訴えかけてくる。

………こういうのを、既視感、とでも言うのだろうか。

経験した事のない感覚では、これがそうだとは断言出来なかった。
結局何も判らない。
新一は小さく溜息を付くと、胸に手を押し当てた。
心臓の鼓動が、ゆっくりと規則正しく刻んでいるのを感じて、ようやく落ち着きを取り戻した事を確認する。
胸の奥に霞みがかった感覚は消えないけれど、彼を見た瞬間に襲った荒波のような苦痛からは解放されている。
新一は何度も深呼吸して、更に落ち着きを促した。

彼……確か「快斗」と彼女は言っていた。
青子の幼なじみ。白馬の友人。新一にとっては第三者を通してでしか知り得ない、赤の他人。
そこまで考えて益々頭を悩ませる。

……どうして、そんな接点が曖昧な人物に対して自分はこんな苦しい気持ちになるのだろう。
どう考えたって、こんなのおかしい。

静まり返った路地の一角で新一はゆっくりと思い返してみるが、こんな気持ちになるのはどうしても解せなかった。
細い路地に冷たい風が吹き抜ける。

「……さみぃ」
自らを抱きしめるように回した腕に力をこめる。
平静を取り戻すと途端に身体が寒さを訴えてくる。

そんな自分に小さく苦笑して、立ち上がろうと顔を上げた時だった。


「……こんなトコに居ると、カゼ引くぞ」
新一によく似た声が頭の上から降ってくる。

どくん、と心臓が跳ねたのは、突然声掛けられた所為だけではない。
声のした方へ思わず視線を上げた瞬間、先程受けた衝撃が再び新一を貫いた。

「────!」
喉の奥が乾ききってしまったように、声が出せない。
こんなの……どう考えたって気のせいなんかじゃない。

この目の前に佇む人物はそんな新一をどう見ているか。呆れたように息を吐き、新一に向かって手を伸ばす。
「ほら、立てよ」
親切で手を貸してくれる相手。だが、新一は思わず彼の手を振り払った。

相手に嫌悪を感じたのではない………触れられるのが怖かった。

それ以上に、新一は何故彼が此処に居るのか判らず戸惑う。
「……なんで」
喉の奥から絞り出した声に、彼は新一の訊きたい事を察してか、大仰に溜息をつく。

「あんな風に飛び出されて、気にならない訳ないだろう?……青子も心配してたし」
憮然とした口調が新一に投げかけられて、少し胸の奥が痛んだ。だけど、その声も姿も……彼の存在そのものが新一にとっては苦痛に似た痛みを伴って心を苛む。

相手が何をした訳でもないのに。
一方的に邪険にしている相手に対して申し訳ない気持ちにもなるのだが、どうしても側に……近くにいて欲しくないのも事実。
でないと、自分が自分でいられなくなる。保てなくなる様な気がした。

「……突然帰ろうとしたのは、悪かったと思う。……でも、心配されるような事じゃないし」
それに中森さんに対して不快になったという訳でもないから、彼女にも気にしないようにと伝えて欲しい。そう告げようとしたが、
「んな事言ってんじゃねーよ」
強引に新一の腕をを掴むとそのまま強い力で引き上げられた。
触れられた部分に強い熱を感じて、新一の動悸が一気に激しさを増した。
「……っ」
「何だよ、お前。こんなに冷たい手しやがって。こんな所に蹲って、これ以上冷えてカゼでも引いたらどうするんだ」
怒った口調で新一に叩き付けると、相手の反応を待たずに薄暗い路地から引っぱり出した。

「ちょ……!離……」
捕まれた腕を振り払おうとするが、相手はその姿に似合わず強い力で掴んだまま容易に離れない。
強引に引っ張られた格好で彼の後ろを着いて行かざるを得ない状況に、激しく戸惑った。

しかし為す術もなくずるずると引きずられると、近くの喫茶店に引っ張り込まれる。


ガラス張りの扉を引いて室内に足を踏み入れると、途端に暖かい空気が二人を包み込む。その暑すぎるとすら感じる暖かさを受けて、新一は如何に自分の身体が冷え込んでいたのかを知る。
快斗は、腕を掴んだままウェイトレスの案内を待たずに、空いている席へと向かう。一番奥のこぢんまりとした席を見付けると勝手にそこに新一を座らせた。
向かいに快斗が座り、片手を上げて人を呼ぶと、さっさとコーヒーを二つ注文した。

「さて、と」
快斗が視線を向ける。しかし新一はそれに呼応するかのように、ふいと視線を逸らした。
相手を視界に収めてしまうと、心臓が勝手に激しく暴れ回る。彼にそれを見破られるのを本能的に拒んだ結果がこうだった。
しかし、そんな新一の態度を快斗が受け入れるはずもない。
暫くの間じっと相手を見つめていたが、一向に視線を合わせようともしない新一に焦れて口を開く。

「なぁ……何でオレの方を見ないんだ?」
「……」
「……オレって、そんなに醜悪なカオしてる?」

自嘲気味に問いかけてくる快斗に、新一は思わず首を左右に振った。けれど、それで彼が満足するはずもなく。
だが、それ以上彼を問いつめる様な事はしなかった。

短い沈黙が二人の間を通り過ぎる。
ウェイトレスがコーヒーを運んできても、新一は動かなかった。

テーブルの上に小さく音を立てて置かれるそれらを快斗は見つめた。
黒い液体がほんの少し波立っていたが、暫くしない内にそれも収まる。快斗はカップの向こう側に置かれていたスティックシュガーを掴むと、先を切って中身をその液体の中に全て放り込む。脇に置かれていたミルクピッチャーを取り上げると、ふんだんに注ぎ込んだ。
スプーンでカップの中をかき回す。カチャカチャと立てる音が妙に大きく響いた。

「お前も冷めない内に飲めば?」
コーヒーカップを持ち上げつつ声を掛ける。新一は、おずおずと目の前に置かれたカップを見つめると、静かにそれを取ってゆっくりと口元へと運んだ。


「……お前さ、白馬と仲いいの?」
暫くの沈黙の後、快斗は今の二人には全く関係のない事を訊いた。話をするにも、二人に共通するものなんてほとんどない。彼なりの気遣いなのだろう。しかし、新一には白馬の存在すらあまり思い出したいものではなかった。
「見送りに行くくらいなんだから、さぞ仲が良いんだろうな。……あの気障野郎と」
「………」
「アイツの何処がそんなに良いんだか」
探偵っていうのは、そんなにお高くとまっていられるモンなのかね……。そう呟く快斗に、新一は白馬という存在を持ち出して探偵である自分を貶められているような錯覚に陥った。
何か言い返したかったが、言葉が出ない。
相手の真意を計りかねる。彼は自分に何をさせたいというのか。……さっき会ったばかりの初対面である新一に。
新一は相手に気付かれぬようにそっと息を吐いた。凍ったように冷えていた指は、店内の暖房とコーヒーの熱さで痺れるように急速に解れていく。人工的に加えられた熱の所為で頬がほんのり暖かくなってくるのを感じた。
寒さの所為で無意識に力んでいた身体が解けて、新一の両肩が僅かに下がる。

しかし、快斗の視線が途切れることなく新一に注がれているのをひしひしと感じる所為で、心が平静になることはなかった。

心臓がトクトクと鳴っている。軽い緊張と興奮は、治まる事はない。きっと、彼が側にいる限りそれは続くのだろう。そう思うと余計に胸が苦しくなった。

もう、その原因をあれこれ考える事すら辛い。

「……中森さん、放といてもいいのかよ」
だから、自分の前から居なくなって欲しくて、絞り出すようにそう言った。その言葉に快斗は軽く眉を上げる。
「アイツが心配したんだよ。お前のこと」

途中で快斗が割り込んで来ちゃったから、工藤さん気分悪くしちゃったんだよっ。

頬を膨らませて言い寄る青子に応えるようにして、新一の後を追った。
それほど彼の退場は唐突で不自然だったのだ。

「あんな風に勝手に居なくなられたら、誰だって心配するだろ」
それが例え初対面の相手だとしても。
そう言われて、新一も返す言葉もなく項垂れた。……だけど。

どうしようもないこの動悸から逃れるためには、そうするしかなかった。
自分の心を保つ為には、それしか方法がなかった。

今だって、相手に視線を合わせようとするだけで、心臓が新一の意志を離れて勝手に激しく波打つ。
相手を意識する前に、身体が過剰に反応する。こんな身をどうすれば良いのか。
出来ることなら、相手に当たりたいくらいだ。

どうして、自分をこんな気分にさせるのか、応えられないだろうに答えを求めてしまいそうになる。
この男が新一の心をどうこうする権利なんて砂粒ほどもありはしないのに!

動悸と息苦しさと苛立ちと。胸の奥がごちゃごちゃに混じり合って、余計に新一を心の深淵へと誘っていく。

適度に賑わった店内で、二人の居る空間だけがどこか異質だった。だが、そう思っているのは新一だけだろう。
「……ったく、そんなにオレが邪魔だったワケ?」
「……?」
「青子も、ちょっとばかりガキっポイ所があるけど、まぁ可愛いし、悪くはないよな。……アイツもかなりはしゃいでたし」
「……んなんじゃ」
「オレの幼なじみなんだ。こーんなちっこい頃から知ってんの。オレから見れば、もう妹みたいな……家族みたいなモンかな。だから、オレのコトは気にせずにアイツとよろしくやってくれ」
「違う、そんなんじゃないっ!」
叩くようにテーブルを押し当て思わず叫んだ新一に、快斗は目を見開いた。しかし、叫んだ新一自身もその声に驚いていた。
大声で否定するほどの事ではなかったのに、相手の言葉が妙に癇に障った。
勢い余って立ち上がった新一は、思わず快斗に睨むように視線を合わせた。

深い海の青を湛えたその瞳に思わず吸い込まれそうになる。大きく心臓が波打って、頬が紅潮していくのが判った。
それは怒りとはもっと別の……何と言い表せば良いのだろう。しいて言えば……この気持ちは……。

「────!」

その時唐突に、思い出した。新一は、この気持ちによく似た感情を経験した事がある。
苦しくて、切なくて、なのに何故かそれが幸福に感じる事がある。言葉に言い表せないこの曖昧な、心が浮遊してしまうような感覚。


────でも、どうして。


新一は突然思い至ったこの感情に愕然とした。そんな事あるはずない、ある訳がない。
だって新一が好きなのは────!


立ち上がったまま身動きひとつしない新一に、怪訝な顔をする快斗が声を掛けようとしたその瞬間、新一は無言でその場から駆け出した。
「えっ───おいっ!?」

再び突然快斗の前からまるで逃げるように駆けていった新一の後を快斗は追おうと立ち上がり、……しかし直ぐに座り直した。
追いかけても、また逃げられるような気がする。

快斗は席について落ち着くと、手元の空になったコーヒーカップを見つめた。それから、ふと向かいに置かれているカップに目をやると……一瞬躊躇した後、それを手元に引き寄せた。
ほとんど飲まれていないそれ。快斗は、そのカップを取り上げると一口飲んだ。



「………にが」








本当は直ぐにでも、彼の後を追いかけたかった。





新一と会えなくなって、途端に世界は色褪せた。
何時も通う学校への行き帰りの道。風景も人も友人も幼なじみすらも、全てがくすんで見えた。

快斗は、そんな日常になり果てた今を心寂しい思いで送った。

たった一人。たった一人の存在で、どうしてこうも大きく世界は変わるのだろう。こんなにも快斗にとって新一は大きくて大切な存在だったのか。
────それが例え「KID」としての姿でしか逢うことはなくとも。

結局、独りよがりの恋でしかなかったのだろうか。いや、恋なんて形にもならなかった。
そうしなかったのは、自分。そして、新一。

それで良いと思った。それが正しいと思った。そんな風に互いの関係を保つことは、二人の異なったこれからの未来を歩む上で最も重要な事だった。
その気持ちは今も変わらない。
だけど、心が寒い。

辛く苦しい気持ちになるのは最初から判っていたし覚悟もしていた。……だけど、こんなにも哀しいとは思わなかった。



どれだけ考えてみても、新一が決めた事に間違いはなかったと思う。あんな馴れ合いは探偵と怪盗には不必要なものだった。だから忘れなければ……忘れたい。





想いを振り払うかのように、快斗は久しく停止していた怪盗家業を再開した。
予告状は何時になく凝ったモノに仕上げて、標的の持ち主と警視庁に送り付ける。仕事には何時だって絶対の自信があった。自惚れではない、経験からくる絶対的な自信。
クラスメイトに、「KID」にとってすこぶるやりにくい相手もいたりもするのだが、最後に勝つのは何時もKID。多少は障害でもないと張り合いがないなどという驕った思いも、やはり経験から来るモノ。
所詮、相手はライバルにもなりはしない。
しかし、からかいが過ぎて思いがけないミスを冒す事もないとは言えない。何時だって気を引き締めて事に当たるのは当然だった。

────だけど……あれは一体何なんだ。

あの夜。予告状通りに宝石を頂いて、だけど、とんだアクシデントで降り立ったとあるビルの屋上で、KIDに対して見せつけるように引き寄せられた奴の腕。

思いがけない場所で、思いがけない人に逢って、心が瞬時に高鳴って、彼以外何も映し出せなくなって、触れたくて、抱きしめたくて、自分だけのものにしたくて。
なのに、そうする前に、とんだ奴が彼を引き寄せた。

新一が、何の躊躇いもなく、白馬の腕の中に収まっている。
瞳は変わらず自分を映してはいたけれど、身体は奴が支配していて。

どうして、そんなに簡単に相手を許している?
それほどまでに、二人は近しい間柄だというのか。
何より、白馬の新一を見る瞳が、KIDを更に不快にさせた。

まるで同じ探偵であるのが特権であるがごとく振る舞う白馬に憎しみすら感じた。

あまりにも違いすぎる立場は、こんな風に分け隔たれてしまうのだろうか。
共に同じ世界に立つ二人と、この場を立ち去らなければならなかった自分。

探偵と泥棒の違いをこんなにも激しく自覚させられることが哀しかった。



白馬は、KID…すなわち快斗と同じ高校に通うクラスメイトだった。元々鼻持ちならない奴ではあったけれど、決して嫌ってはいなかった。
だけど、あの夜から快斗の白馬に対する態度は冷淡を極めた。
それが只の八つ当たりであることは、快斗自身が充分承知している。
でも自覚していても止められないのが感情で、そんな快斗の態度に白馬は何も口にする事はなかったが、時折寂しそうな表情を見せる事があった。
そんな顔を見ると、快斗は益々自己嫌悪に陥る。
だけど、どうしても許せなかったのだ。
新一の近くに居られる白馬が、側に居させる新一が、そんな白馬に嫉妬している快斗自身が。

新一の想いはどうかなんて、考えたくもなかった。
唯一の救いはその相手が暫く日本を離れるという事で。白馬は快斗に見送りに来て欲しいと丁寧に頼んできたが、すげなく断った。
そんな快斗の態度に幼なじみは頬を膨らませて怒っていたけど、いくら彼女の言葉でも従う事は出来なかった。

快斗が行かないなら、私が行くもん!

怒りに顔をほんのり朱に染めながらそう言う青子に、快斗はどうでも良いように顔を背ける。
彼女は直前まで快斗を空港まで引っ張って行こうと躍起になっていたが、相手の過剰なまでの抵抗に諦めて、一人で見送りに行った。
快斗だって悪人ではない。彼女の一生懸命な姿に心を動かされなかった訳ではないが、だけどとても白馬の見送りに行く気にはなれなかった。

逆恨みの嫉妬を、相手に見破られたくなかったから。


用もなく、一人家でヒマを持て余す。何か夢中になれるものを捜して、本棚の中を物色していた時だった。
一本の電話が快斗をあの店に誘った。

同じクラスメイトで青子の親友でもある恵子からの電話に、幼なじみの大ボケさに舌打ちする。
以前彼女に教えてあげた知る人ぞ知るのパフェの美味しい喫茶店。
ひっそりとした佇まいのそこは、知っている人だけが赴く事の出来る店。
電話帳にもその店は記されていないと、親しくなった店長から聞いていた。

あれだけ他人の為に頑張っていた幼なじみに罪滅ぼしを兼ねて、快斗はその店へと向かった。

店内に入ると、マスターがいらっしゃいと声掛けて、相手を知ると微笑ってくれた。
「おや、やっぱりいらっしゃいましたね」
そう言われ、快斗は怪訝に彼を見る。
「待ち合わせですか?」
「……いや、そーじゃねーけど……ここに居るはずなんだけど」
「あそこの席の方でしょう?」
知った顔で指さす先に青子の姿があった。
「そうそう、アイツ。……でも、なんで」
ここに青子を連れてきた事はないはずだと思い出して問いかける快斗に、マスターは笑う。
「お身内の方でしょう?……良く似ていらっしゃる」
身内?青子とはもう家族みたいなものだけど、身内じゃねーぞ。そう思いつつ、彼女の席の方に歩み寄る。
楽しそうに笑う青子を見て、向かい側に誰が他の奴が居ることに気付いた。
男……?快斗に背を向けて座っている人間の顔は見えないが、その後ろ姿が誰かを彷彿させた。

まさか、ね。

快斗はあっさりと脳裏に浮かんだ人物を振り払うと、人の気も知らずに脳天気に話す青子に声かけた。
「なーに、ラブラブな事してんだよ」

恵子が心配して、わざわざ快斗に頼み込んで来たのに、とうの本人は男引っかけてよろしく楽しんでいる。
そんな事するような幼なじみではないばすだが、目の前で繰り広げられている「デート」に快斗は内心舌打ちしつつからかった。

そして何気なく……だけど興味津々で覗き込んだその顔に、────思わず息が止まった。


見間違い?……いや、そんなんじゃない。幻覚、白昼夢。そんな言葉が一瞬脳裏を駆け巡ったが、直ぐにに否定した。

工藤新一だ。……工藤新一が、目の前にいる。


混乱しつつも、相手に気取らぬ様に軽く会釈すると、直ぐに視線を外した。
そうだ。相手は、「黒羽快斗」を知らない。二人は赤の他人で……初対面なのだ。
例え快斗が新一を知っていたとしても、それはメディアの中だけの「工藤新一」で、「怪盗KID」として繰り返した逢瀬の中の新一ではない。

だけど、何故?どうして、青子と新一が一緒に居るんだ!?
その答えは、直ぐに青子の口からもたらされた。

「もう!快斗も工藤さんを見習いなさいよっ。彼はちゃんと白馬君のお見送りしたのよ?」
「え……?」

ああ、そうか。
そういう事か。

つまり、新一は、とても親しい白馬探偵との最後の逢瀬にわざわざ空港まで足を運んだ訳だ。
それを知って、快斗の心は急激に冷える。
……そんなに、新一とって白馬はそんなに大きな存在なんだ。
あの夜の事が再び思い出されて、快斗は軽く口唇を噛んだ。

親しそうだった。……ああそうだ。どう見たって、白馬の新一に対する態度は友人以上に見えた。
そして、それを許していた新一も────。

胸が痛い。

思いがけない所で、しかも「快斗」として新一と出会えた喜びよりも、その事が快斗の心を大きく支配した。
ちらりと新一を見遣ると、彼はテーブルに視線を向けたままじっと一点を見つめていた。


(つまり……オレは眼中にないってコト?)


そんな風に訊いてみたくなる。眼中にないのは同然の事だ。突然割り込んできた自分に良い気はしないだろう。
快斗は軽く肩をすくめ、青子を下賤にからかった。
青子はそんな快斗に本気になって怒ってくる。単純というか純粋というか、そんな彼女がとても彼女らしい。
快斗は彼女と話していても、新一に視線を走らせる事を止めなかった。
相変わらず、黙ったまま俯いている。
それは、快斗達に遠慮して会話に参加してこない、というには些か不自然過ぎた。

どこか、様子がおかしい。
快斗はようやくそれに気付くと、そっと声掛けた。

「おい……どうかし……」
黒羽快斗として、話かける。思わず差し出した指は、今なら彼に触れることを許されるのではないかと脳が勝手に判断した結果だった。
しかし、そんなずるいとも取れる快斗の行為を否定するように、彼の指先が届く前に新一は突然立ち上がった。

「ゴメン、オレ……用を思い出したから、帰る」
それだけ小さく呟くように告げると、彼は伝票を掴んで身を翻した。

「えっ、あ、工藤さん!?」
慌てて青子が立ち上がるが、快斗は何が起こったのか瞬時に認識出来なかった。
新一がこの場を去ったと気付いた時には、ふくれっ面の青子が快斗を睨んでいた。


「快斗の所為だよっ!」
そう言って青子は快斗を責める。
「突然現れて、工藤さんの気分悪くしちゃったじゃない!しかも、青子がコーヒー驕るって言ったのに、伝票持ってっちゃうし」
「んな事言うんなら、お前が追いかけりゃよかっただろ!?」
「だって、突然だったんだもん!」
咄嗟に追いかけられるわけないでしょう!?と、逆に責められる。

だから渋々、といった体で立ち上がったのは、青子の手前。
本当は青子なんて放り出して、後を追いかけたかったのだ。
「ちゃんと、謝るのよっ!」
片手にスプーンを振り回して言う彼女に……実の所、本当に新一の事を気に掛けているのだろうかという思いが脳裏を過ぎったが、敢えて気にしないことにした。








消したくない、消えたくない。





店を出て、辺りを見回しても、彼らしい姿は見えなかった。だけどこのまま諦めるつもりはない。
「用があるから帰る」なんて、そんなのはその場を立ち去る言い訳に過ぎない事は、考えなくても理解る事だった。
快斗は通りを駆け出した。季節柄かいつもよりは多い通行人に舌打ちする。だが、捜し人は人混みに埋没してしまうような人物ではない。それに快斗が彼を見落とすなんて、そんな事あるはずもない。

快斗は走るのを止め、一度立ち止まってから、ゆっくりと歩き出した。
まだそれほど遠くには行っていないはずだ。もちろん、彼に近付いていると言う確信はない。もしかしたら、快斗が追いかけてきたのとは逆の方向へ向かったかも知れない。ゆっくりと廻りを見回しながら、歩く。

ふいに、何かに呼び止められたような気がして、快斗は立ち止まった。
風が、小さく冷えた風が頬を撫でる。快斗はその風の吹いてきた方へと視線を向けた。
視線の先には、ぽっかりと開いた小さな路地。通りの華やかな雰囲気から取り残されたように存在しているその場所に、快斗は何故か引き寄せられた。
その静寂を壊さぬように、ゆっくりと足を踏み入れる。

入り込んだ瞬間、通りの音はかき消された。もちろん、ざわめきは聞こえているのだけれども、脳がその雑音をシャットアウトしているかのように、快斗の周囲は静寂に包まれていた。
そして、その中に蹲った新一を見付ける。

駆け寄りたいのを堪え、音を立てぬように静かに近付く。相手は彼に気付いたら、また逃げてしまうかも知れない。そんな危惧を抱きつつ、彼の直ぐ側に。

新一は、寒そうに身を丸めそこにいた。

どうして、こんな所に居るのだろうという疑問は沸かなかった。
只、新一の側に居る自分が信じられなくて、嬉しくて……快斗の心臓がドクドクと大きく脈打つ。

黒羽快斗。白馬のクラスメイトで、青子の幼なじみで……新一とは、赤の他人。
快斗はそんな彼との関係を胸の痛みと共に刻みつけて、声を掛けた。


「……こんなトコに居ると、カゼ引くぞ」


びくりと、肩が震え、新一が顔を上げた。その無防備な表情に快斗の心臓が更に跳ね上がる。
もし……もしも、今から「黒羽快斗」として新一との関係を始める事が出来るのなら、どうしよう。
もし、新一が快斗を好きになってくれたら。もちろん、友達だって構わない。少なくとも、陽の下で堂々と会える関係になれたら……!

一瞬、夢のような可能性が快斗の心を支配した。その想像は、考えただけで快斗の心を幸福にする。
しかし、そんな彼の想像とは裏腹に、新一の態度は容赦がなかった。
差し出した快斗の腕を邪険に振り払われる。その態度にどれだけの焦燥が生まれたか。しかし、相手には到底計り知れない事だろう。
ふい、と顔を背ける新一に、快斗の心は泣きたくなる。

蹲ったまま動こうとはしない新一に快斗の全てを否定されているような気がして、口唇を噛む。
どうしようもなくて、とにかく強引に腕を掴んで立ち上がらせると、驚愕に満ちた新一の顔を間近に見た。

こんなにも近くにいるのに、相手は自分を知らない。
彼の表情を見て、快斗はそんな当たり前の事実を思い知る。
そういう出逢いをしたのは、快斗だ。だから、相手に「KID」が「快斗」であると解って欲しいなんてそんな都合の良いこと……否、そんな危険な考え、思う事すら許されない。

布越しからでも良く分かる、冷えた彼の身体。許されるのなら抱きしめて暖めてあげたい。
しかし、そんな事出来るはずもなく、でも暖めてあげたくて、快斗は新一を強引に引っ張って路地を出て喫茶店を見付けると、躊躇うことなく彼を連れていった。
強引に主導権を握った快斗は、新一の些細な抵抗をモノともせずに店に入り、一番奥まった場所へと連れていった。
新一を椅子に座らせ、その向かいに自分も座る。


遅れてやって来たウェイトレスにコーヒーを二つ頼む。彼女が席を離れたのを見て、快斗は口を開いた。

「さて、と」
快斗が視線を向ける。しかし彼はそれに呼応するかのように、ふいと視線を逸らされた。
まるで、視界に入れたくないと言わんばかりのその態度に、快斗の胸が小さく痛んだ。

そんな風に顔を逸らされるほど……嫌われた?

確かに強引に登場した快斗に、好感は持たれなかったかも知れない。だけど、邪険にされるほど嫌われなければならないのだろうか。

せめて、こちらを見て欲しい。

「なぁ……何でオレの方を見ないんだ?」
震えそうになる声を必死に隠して快斗は訊ねる。もし、キツイ言葉から彼の口から発せられたら、と思うと訊かなきゃ良かったとすら思うが、そんな快斗の気持ちに新一は答えようとはしなかった。
無言のままの新一に、まるで無視されているかのような錯覚に陥る。

「……オレって、そんなに醜悪なカオしてる?」
自棄気味に呟く快斗に、新一はようやく首を左右に振って答えた。けれど、それ以上の事は何もなく、沈黙だけが二人の上にのし掛かる。
ウェイトレスがコーヒーを運んできても、新一は動く事はなかった。


「お前も冷めない内に飲めば?」
沈黙に耐えられなくなって、声掛ける。その言葉は新一の耳にも届いたようだ。目の前に置かれたカップを見つめると、彼の細く繊細な白い指先が、静かにカップを取り上げて、優美な仕種でゆっくりと口元へと運ばれる。
あくまでも自然に流れるような仕種で行われたその動きに、快斗は視線を奪われる。

その仕種は、何処か白馬と似ていた。

だからだろう。
「……お前さ、白馬と仲いいの?」
唐突にそう訊いたのは。だけど、そう訊ねてしまったことを直ぐに後悔した。
アイツとの事、新一の口からは聞きたくない。仲は良いに決まってる。だって、空港にまで見送りに行くくらいだ。それを望んだのが例え白馬の方であったとしても、新一がその望みに応えて赴いたのは事実だ。
いや、彼の事、きっと奴が望まなくても見送りくらいは行っただろう。二人とは探偵で、同じフィールドに立つ者同士。
快斗とは、全く違う。

「見送りに行くくらいなんだから、さぞ仲が良いんだろうな。……あんな気障野郎と」
侮蔑めいた口調は、思わず吐き出してしまったものだ。
「アイツの何処がそんなに良いんだか」
だけど、奴と新一が親しいなんて、そんな事認めたくなかった。それが醜い嫉妬だとしても。

新一は、何も言わなかった。何一つとして、反論すら。

それが却って肯定を示しているように感じて、益々快斗の心は沈んでいく。
折角、新一と一緒にいるのに。ふたりきりでこんな風に、まるで友人のように一緒にお茶しているのに……どうしてこんなにも心が寒いんだ。

「黒羽快斗」では……新一は振り向いてくれないのだろうか。


「……中森さん、放といてもいいのかよ」
長すぎる沈黙の後、彼が発した言葉はこうだった。
目の前の快斗より、一人残されているはずの青子の事が気になる訳だ、と快斗は自嘲気味に思った。
「アイツが心配したんだよ。お前のこと」

所詮、自分の事など眼中にない、ということか。

「あんな風に勝手に居なくなられたら、誰だって心配するだろ」
そう言ってやると、新一は返す言葉もなく項垂れた。
別に困らせるつもりはない。だけど、自分以外にはこんなにも気に掛ける新一。……思われている青子にすら、嫉妬しそうだった。
どうしようもない、この想い。

「そんなにオレが邪魔だったワケ?」
もう、自棄だった。
「オレの幼なじみなんだ。こーんなちっこい頃から知ってんの。オレから見れば、もう妹みたいな……家族みたいなモンかな。だから、オレのコトは気にせずにアイツとよろしくやってくれ」
言葉は最後まで言えなかった。
「────違う、そんなんじゃないっ!」
叩くようにテーブルを押し当て叫んだ新一に、快斗は目を見開いた。

こんな風に感情を表す新一なんて、見たことなかった。
勢い余って立ち上がった新一は、快斗を睨み付ける。

いつも彼を見つめる時は、暗い夜の闇間で、その瞳は深い藍色をしていた。だけど、明るい昼間の彼の瞳は、蒼穹の青。宝玉の蒼。そんな透明な輝きを放つ瞳が快斗を見つめてくる。その奥に快斗の姿が映って、彼が自分を認識してくれている事に軽い感動を覚えた。
だけど、新一の瞳は怒りに満ちていて……。

怒っていたって構わなかった。その深く澄んだ瞳で射殺(いころ)してくれたって構わないとすら感じた。
このままずっと、彼に見つめられていたら……それが愛おしさ以外の感情からくるものであったとしても、快斗はそれを望んだ。

しかし、そんな時間は唐突に終わりを告げる。
新一は無言のまま視線を逸らすと、その場から駆け出した。
「えっ───おいっ!?」

咄嗟に立ち上がり追いかけようとした。追いかけて、捕まえて……でも。
快斗はのろのろと椅子に座り直すと、小さく吐息を吐いた。
黒羽快斗が彼を捕まえても、新一は自分を見てくれないだろう。冷静に考えれば、新一は快斗に好意の一欠片も持ち合わせてはいないから。
それが何故だかは判らない。だけど、好かれていないことくらいは理解る。
追いかけても、また逃げられる。

快斗は、手元の空になったコーヒーカップを見つめた。それから、ふと向かいに置かれているカップに視線を移す。
ほとんど飲まれていないそれ。快斗は一瞬躊躇した後、それを手元に引き寄せた。
カップの淵を愛おしげに指でなぞり、徐に取り上げると、一口口に含む。

「………にが」

苦いのは、それがブラックコーヒーの所為ばかりではないような気がした。

「しん……いち」
口の中で小さく呟く。呪文のように何度も、何度でも。

新一は……もう自分には振り向いてくれないのかも知れない。例え、白い衣装でこの身を固めたとしても……以前のような微笑みを投げかけてはくれないかも知れない。

何度も逡巡した想いが、また脳裏を渦巻く。

どれだけ諦めようとしても、それがお互いの為だと思ってみても……どうしてもどうしても、これだけは……!


快斗は泣きそうな顔で小さく笑った。そしてぽつりと独言する。
「いいかな……親父?」
パンドラを……見付けることは出来ないかも知れない。
仇の組織の事など……もうどうでも良くなってしまったのかも知れない。

あれだけ使命にも似た思いで、この身を罪の色に染め上げたというのに、全てを投げ出してしまいたくなる。

それほど……大切で、無くしたくないものなのだ。
工藤新一という存在は。

消したくない、消えたくない。この想いは、快斗からも、新一からも。

新一が快斗を認めなくても構わない。「KID」しか見なくたって耐えられる。彼が側に居てくれたら、それだけで────!

自分の都合で、あの姿を世間に晒すのはタブーだと思っていた。
パンドラとは関係ない。只一人の大切な人に逢う為だけに、この身を白く染める事。

だけど、一度だけ。一度だけでいいから……。

だから。
「我が侭言ってもいいかな……?」








逢えるのだろうか……彼に。





自分の気持ちが解らない。まるで、迷宮に入り込んでしまった様に心は戸惑う。
新一の戸惑いもやるせなさも、全てを包み込んで日々は過ぎる。
年末の忙しい時期に、新一の手を借りねばならない程の事件は起きてはいない。それは歓迎すべき事ではあるのだけれど、何もする事のない日常を送る今の自分にとっては苦痛でしかなかった。

夏の暑さも冬の寒さも、新一は極端に嫌った。肌に刺すようなぴりりとした冷たい風は、時に精神を研ぎ澄まされていくような感覚を覚える時もあるけれど、そう感じるのは一瞬だけで、やはり寒いものは寒い。
新一は、気遣うようにやって来た幼なじみの誘いを断って、今日も一日広い屋敷の中で一日を上の空で過ごす。
昨日もそうして過ごした。だから、今日もそうして過ごすのだろう。読みかけの本の続きを読んだり、既に読み終えた小説をもう一度開いてみたり……昨日と変わらない今日。

しん、と静まり返った室内で、ページを捲る音だけが響いた、そんな中。
ふいに耳に飛び込んで来た、外界のノイズ。

風がカタカタと窓を鳴らすのに混じって聞こえた原付の排気音。
……郵便?珍しい。

新一個人に届く郵便など、ほとんどないし、そもそもこの家に配達される郵便物は全て隣の家に転送手続きがされたままなのである。
新一は直ぐに忘れたかのように、再び活字へと視線を落としたが、暫くしないうちにその本をパタンと閉じる。何となく不思議な胸騒ぎを覚えて、新一は玄関へと向かった。

扉を開けると同時に冷たい北風が新一を襲う。それに身を竦ませてやり過ごすと、門扉に向かって一歩踏み出した。
その時、かさり、と新一の足が何かを踏み鳴らす。

「………?」

怪訝に見下ろした足元に見覚えのないものが引っかかっていた。新一はそれを取り上げ、首を傾げるが直ぐに何たるかを知る。



何も記されていない真っ白な封筒(それ)は、彼から新一への招待状だった。









室内は活気と熱気に満ち溢れていた。真冬なのに、周りからは熱が放出されているのではないかと疑うくらい、彼、中森銀三は燃えていた。
新一は内心苦笑しつつ、彼に軽く頭を下げる。彼が今日此処に来たのは、彼に呼ばれた為だった。
以前から民間人を巻き込む事に対して、酷く嫌悪を露わにしていた中森警部であったが、白馬探偵不在の今、彼にしか頼れる人材が居なかったらしい。
彼は新一を認めると、少し不機嫌な表情を浮かべつつ手招きした。

会議室には、数名の関係者が居た。警察の人間と、彼の標的となった関係者。
「昨日の夜、怪盗KIDから予告状が送り付けられた」
中森警部はそう話を切り出した。

標的は、『月の虹』。だが、これには一つ問題があった。

「えっ。……偽物?」
「いえ、そうではありません」
そう答えたのは、今回予告状を送られた米花ミュージアムの館長だった。
「月の虹は、そもそも宝石などではありません。────只のガラス玉なのです」

それは、ピンポン玉大の大きさの六色のガラス玉。色は、赤、橙、黄、緑、青、菫の6色。
「6色?虹と言うのなら本来7色が普通じゃないかね?」
納得いかないと言った体で訊ねてくる中森警部に館長は頷く。
「ええ。元来、日本で云われている虹の色は7色を示します。だけど、それは日本に限った事。英語圏に住む人々は藍色は数えません。ロシア地方に至っては、4〜7色と地域によってバラバラです。私どものミュージアムで展示されている物の多くは、英語圏の国から輸入されたものです。したがって、この『月の虹』も6色しかない訳です」

日本では常識のように云われている事が他の国では通じない。それはその象徴のようだ。

「只のガラス玉……失礼ですが、この玉はミュージアムでどのように使われているのですか?」
価値のない物を展示しているとは考えにくい。美術的価値はなくとも、大切な何かであるには違いない。
新一が疑問を口にする。

「これらは、それだけでは何の変哲もない只のガラス玉に過ぎません。ミュージアムに来ていただけると説明しやすいのですが、これはある装置の部品の一つなのです」
装置のポケットにそれぞれ一つずつ填め込み作動させると、ガラス玉に光が当てられる。その玉自体に刻み込まれた傷と光の屈折によって、六色のガラスから様々な色の光が乱反射する仕組みとなっているのだ。
「装置の中央にバスケットボールほどの大きさをした乳白色の球体が置かれていて、ガラス玉から生まれた光がその球体に照らされる訳です」
乳白色は月に見立てられ、その月に輝くいくつもの光がぶつかり、その光源が虹といわれている。
「うちは、どちらかというと博物館というよりは科学館の趣が強いミュージアムですので、展示物といえば、そう言った物が大半なのです」
だから、あの世紀の怪盗が盗みに来るという事すら、不自然なのだ。

「怪盗KIDは、今まで美術的価値の高い物しか盗まない事が多い。最近に至っては、ビックジュエルと呼ばれる大粒の宝石しか狙われていない。……我々も、この予告状が本当にKIDから届けられたものかどうか、実の所、判断しかねるのが現状なのだ」
中森警部はそう言うと新一を見た。

どうだろう……と、躊躇いがちに訊ねてくる中森警部に、新一はテーブルの上に置かれた予告状を見つめた。
「この予告状そのものには、不自然な所はない。そうですね?」
何時も使用されている上質紙。筆記に使われているインクも全く同じ。カードそのものからは、これがKID以外から送られた物とは判断出来なかった。
頷く中森警部。

新一は、そのカードにそっと触れた。

「『聖夜が過ぎた0時。月の虹を頂きに参上する。───怪盗KID』……恐ろしく簡潔な予告状ですね」
ゆっくりと印字された文字をなぞりながら、新一は呟く。
「標的は美術品でもなければ宝飾品でもない。……だけど、彼がその『月の虹』に価値を見出したのなら……ヤツは予告状通りに現れるでしょう」
予告を違える事は、即ちKIDの敗北を意味する。自尊心の高い彼が、悪戯にこの様なカードを送りはしないだろう。

「するとやはり、KIDはこのガラス玉を盗みに来ると?」
「でしょうね」
あっさりと認める新一に、中森警部は表情を歪ませる。事も無げに言い放つ新一に、一種の敵愾心をちらつかせながら、その根拠を尋ねた。


「知っていますか?中森警部。……物の価値は、鑑定士が付けるだけがそうではないのですよ。価値は我々個人がそれぞれに付けるものです。他の人間には取るに足らないものでも、また別の人にとっては千金にも値する事もある。……そういう事です」
新一の言葉に中森警部はそれでも納得しかねるように唸ったが、一方の館長はにっこり笑って頷いた。

「これは、私どもにとっては大切な物です。……護ってくださいますか?」

「もちろん」
新一は力強く頷いた。





新一は幼なじみにイヴの夜は予定が入った事を電話で告げた。
園子の家でのクリスマスパーティには行くことは出来ない。
彼女は少し膨れた声で非難したが、電話越しに伝わってくる新一のどことなく機嫌の良い雰囲気に、こっそり笑みを浮かべていた。
もちろん、彼女は新一が来られない理由を知っている。あの泥棒が今年最後の盗みを働くと、メディアは盛んに告げていた。
畑違いの新一がかり出されなければならない程、警察は逼迫しているのか。それとも、今年最後の大捕物になりふり構っていられないのか。
所詮、彼女には関係無いことだったが、新一が少しでも元気そうにしていてくれれば、それが何の所為だろうが構わなかった。
彼女は只一言「無理しないで」とだけ告げた。


中森警部は、今回の件をKID捕獲の絶好の機会だと踏んだようだ。今年最後の大捕物。彼はKIDが此処に来ると信じて警備に余念がない。それまで疑っていた事を忘れたかのように……こうと決めたら、突っ走るのが彼らしかった。
新一も一応現場には赴いたが、彼に決められた仕事は用意されていなかった。恐らく、部外者であれば相手が誰であれ、そうなのだろう。

別に警察の指示に沿って動きたいとは思っていなかったから、これは好都合だった。
予告時間にはまだかなりの余裕があった。新一はゆっくりと館内を回った。

ミュージアムの館長が言っていたように、そこは科学館と呼ぶに相応しい場所だった。観覧者が自由に触れる事の出来る展示物や、凝った作りで動く装置など、好奇心をかき立てられるミュージアムだった。
新一が一人で館内の廊下を歩いていると、前方からこのミュージアムの館長が駆け寄ってきた。

「あ、工藤さん!捜しましたよ」
少し慌てた風にやって来た館長に、新一はにわかに緊張する。
「何かありましたか?」
「いえ、そうではないのですが……実は、お願いしたい事がありまして」
新一は首を傾げた。


館長は新一を館長室に案内すると、、応接セットに座るように勧める。
促されるままに腰を降ろすと、彼は新一の前に手頃な大きさのボックスを置いた。
「これは……?」
訊ねると、彼はその箱を開いてみせる。

そこには、例のガラス玉が6個。2列になって収まっていた。
只のガラス玉だが、色とりどりのそれは、一見綺麗な宝石の様に見える。
「実は、これを工藤さんに預かっていただきたいのです」
「……ボクに、ですか?」
戸惑いがちに聞き返す新一に、彼は頷いた。

「護ってくれると、そう言って頂けたのは工藤さんだけです。もちろん、警察の方々を信用していない訳ではありませんが。………どうもあの人達はこんなガラス玉より、泥棒本人を捕まえる事に執念を燃やしているように感じてしまって」
躊躇いがちに言う館長に、新一も内心同意した。
「しかし、ボク自身が狙われたら……」
「それなら、それで諦めます。少なくとも、中森警部に預けるよりは、大切に扱っていただけるでしょう」
あの人は、標的の事など眼中にないようですから。そう寂しそうに微笑う。

「わかりました。そうおっしゃるのなら、責任を持って預からせて頂きます」
新一が頷くと、相手はほっとした表情を向けた。

両手に収まる程度の箱を受け取ると、新一はそっと抱きしめた。



館内には、至る所に警察官が配置されている。それぞれが決められた役割を担っているその場所で、新一だけが館内を自由に動き回っていた。
工藤新一を知らぬ警察官は誰一人として居ない。大抵目が合うと畏まって敬礼されたりする。そんな彼等に新一も軽く会釈する。中森警部くらいだ。あんな横柄な態度で接するのは。……だけど、そんな彼が新一は嫌いではなかった。むしろ好ましい。
ふいに彼女の事を思い浮かべた。中森警部の娘だと言っていた彼女。あどけなく微笑う彼女の笑顔を思い出して、新一も小さく笑った。……でも、あんな風に別れてしまったから、もう二度と会う事なんてないだろうとも考える。
ポケットに仕舞うには大きすぎる箱を小脇に抱えながら、そんな事を思った。

事件に関係無いこと考えている。……そんな自分に苦笑する。


腕時計は、午後10時を回っていた。このミュージアムはさして広くはないが複数階に渡った建造物。低層ではあるけれど、きちんとエレベーターも付けられている。もちろん、その前にも複数の警官が配置され、その隣の階段にも人は居た。
新一はその脇を通り抜け、階段をゆっくりと昇る。踊り場の上方から差し込んでくる明かりに窓があることに気付く。
いつもなら閉館されている時刻。暗くひっそりとしているはずのその場所は、今日は華やかなほどのライトアップに彩られ輝いているのだろう。その光が此処にも射し零れていた。


世紀の怪盗を出迎えるに相応しい華やかさだった。

新一は踊り場の壁に凭れると、小さく息を吐いた。真っ白い息が吐き出され、館内の温度の低さに気付く。寒いのは好きではないが、彼には相応しいのかも知れない。真夏の暑さより、冬の白く冷えた空気の中に存在している方が彼の冷涼とした雰囲気に合っていると思う。

新一は箱を脇に抱えたまま、空いている片方の手を内ポケットへと滑らせた。取り出したのは、一枚のカード。
雪のように真っ白なカードには、銀糸の縁取りがなされている。清楚だが豪華なつくりのそれにたった一文、蒼いインクで記されている。

────7番目の虹の色。

丁寧な文字でそれだけが書かれているカードを、新一は愛おしむような瞳で見つめた。
差し出し人のないカード。……それが誰からのものであるか、新一には心当たりがあった。確証は何一つないが、根拠のない確信はある。

「……キッ…ド」

無意識に呟いた言葉が小さな響きとなって生まれて消えた。

最初このカードを見た時、何の事だかさっぱり解らなかった。今だって、何が言いたいのか理解出来ていない。だけど、彼が自分に何かを伝えたいのだと思うだけで、胸が熱くなった。
無言で交わしたあの逢瀬の時を一方的に終わらせたのは新一だった。彼に嫌われ、忘れ去られてしまっても、文句は言えなかい。
だけど……キッドの中にはまだ工藤新一という人間が存在している。それが判っただけで充分だった。

この想いを知られて、彼に嫌われたくない。だけど、逢えない時間が長くなればなるほど、この恋を諦める事は容易なものでなかったのだと実感させられる。

逢えるのだろうか……彼に。新一はそんな事ばかり考えていた。
キッドの目的も真意も新一には関係ない。

ただ、彼に逢いたかった。








欠けた虹の一片は……一体、何処にあるのだろう。





最上階は展望台になっていた。
広い展望台は窓にぐるりと囲まれて、更なる開放感を生み出している。
新一は、出入り口から正面に向かってゆっくりと進んだ。

少し離れた所に観覧車の明かりが見える。
「あんな所に遊園地なんてあったっけ……」
大きな遊園地にある観覧車よりもずっと小さなものだったが、季節柄なのかライトアップされたそれはとても美しかった。
新一は、何気なしにそちらに向かう。靴の音が乾いた響きとなって展望内に木霊した。

窓際まで近付くと、中央部に付けられた電光板の時計が読める。
もう少し経てば、今日も終わる事を知る。

そういえば、今日はクリスマス・イヴだった。幼なじみに誘われたパーティを断ったのは僅か数日前だったが、新一にとってクリスマスなど、さして重要なイベントではなかった。
この年になって、親からプレゼントを期待するわけでもなく、共に過ごせるような恋人もいない。
そんな自分にとって、今日はいつもと同じ一日に過ぎなくて……だけど、何処か心の奥が小さく痛んだ。

恋人なんていないけど……好きな人と一緒に過ごすことくらい望んでも良かったのだろうか。
ただ望むだけなら……誰にも迷惑は掛けないだろう。ほんの少しそんな事を考えて、そして直ぐに首を振って忘れた。

周囲はしんと静まり返って、新一の吐き出す吐息しか聞こえない。
静かすぎる静寂の中で、突然視界がキラキラと輝いた。
「?」
目の前の観覧車に取り付けられたいくつもの電球が極彩色の輝きを放ち、華やかに彩った。
新一はその輝きに一瞬目を奪われ……暫くして日付が変わったことに気付いた。

「0時……」

聖夜を過ぎたクリスマス。怪盗KIDが予告した時をあの光は刻んでいた。
此処に……彼は来るのだろうか。……それとも、もう既に階下では何か起こっているかも知れない。
相変わらずの静けさの中、新一はその場から動くことなくそう思い巡らした。
KIDが狙った物は、新一の手の中にある。本気でこれを欲するのなら、彼は新一の前に姿を現すだろう。

新一は彼に逢える事を強く望み、そして恐れた。

どんな風に対峙すれば良いだろう。
探偵として?彼の敵として?……だけど、新一は彼とは争えない。
あの廃ビルで逢った時のように振る舞える?……いや、そんな都合の良い態度なんて、とても取れない。


此処に存在するのが例え『探偵、工藤新一』だとしても、KIDの前でその立場を顕わにすることなんて出来なかった。
そんな事が出来るのなら、こんなにも彼に深く想いを寄せはしない。

新一は小さく笑った。
自分の都合の良いように一生懸命考えているのが情けなくなった。
どんなに考えたって、探偵でありながら泥棒と共に生きたいなんて望みは、叶えられはしないのだ。バカみたいに自分の都合の良い答えを捜し出そうとしている自分が滑稽だった。

例え、自分の立場も気持ちも納得し得た所で……当の相手の気持ちは全く無視してる。
無駄な事ばかり考えて、項垂れた時だった。


誰も居ないはずの展望内に、微かな人の気配を感じた。
ゆっくりと顔を上げると、神経を研ぎ澄ます。気配は、新一の背後から感じる。

新一が口を開こうとしたその時だ。

「────現れませんね、彼」
穏やかな声が新一の聴覚を刺激した。


「……館長」
背後から姿を現したのは、このミュージアムの館長だった。彼は、振り向かない新一の隣にまでやって来ると立ち止まる。
「『月の虹』は無事ですか?」
「……ええ。今の所は」
「それは良かった」
彼はにっこり微笑むと、貴方に預けて良かった、と呟いた。

しかし、何故か新一の表情は硬いままだった。
「本当に……そう思われますか」
「え?」
「本当に、ボクに預けて良かったと?……あなたにとっては好都合だったかも知れませんが、彼にとってはどうでしょう」
「……彼、とは?」
己の方を見ることはなく、真っ直ぐに前に視線を向けたまま言う新一に、彼は軽く首を傾げる。


「それはもちろん─────本物の米花ミュージアム館長、ですよ」


新一がそう告げた瞬間、ふわりと風が舞い、空気が一変した。新一は、視線を動かす事なく、前方に光る観覧車だけを見つめていた。

それまで一定の方向に流れていた時が、微かに流れを変えて再び時を刻んでいく。






「─────何時から、気付いていた?」
先程までの穏やかな口調をがらりと変えて、訊ねてくる声。
「最初から」
別の存在と化した男に、新一は視線を合わせることなく答える。

「最初から知っていて……貴方は誰にもその事を教えなかった訳だ」
彼───怪盗KIDはそう呟くと新一の顔を覗き込んだ。

固く表情を消したままの新一が、KIDの視線などものせずに前を見つめ続ける。
「確証がなかった」
新一はそう言った。
「ここの館長が、『KID』の変装したした姿だと証明出来るものがなかった。……オレはただ、分かっただけだから」

立ち居振る舞い、雰囲気すら、彼は完璧に他人を演じ続けていた。誰が見ても、それがKIDであると気付くことはないだろう。だが、新一は分かったのだ。
自分自身も、理由を見付ける事は出来ない。だけど、感じる。相手の存在も空気も通り越した向こうに見える『何か』が新一の心を突き動かす。
個人の持つ魂とか核とか……そんな曖昧なモノではない何かが新一には視えた。

────これは一体何だろう。

例えるなら、例え彼が無機質なものになってしまったとしても。……それこそ、道ばたに転がる小石の一つになり果てたとしても、新一はそんなモノにすら心を熱くするのだろう。熱くさせられる『何か』。


「だから、オレは自分の心に忠実になってみようと思った」
……こんなにも、こんなにも心を揺さぶられるのは、たった一人しか居ないはずだ。

素直にそう考えたら、謎はあっさり解けた。


あの日。白馬を見送ったあの日に出逢った少年は……。その姿を目にした瞬間、訳も分からず心が鷲掴みにされた強い感情が沸き立ったのは、『彼』だからなのだと。
正体なんて知らない。知りたいとも思わなかった。ただ、キッドが居てくれれば、それで満足だった。
そう思っていた。本気で思っていた。

だけど新一は、自分が思っていたよりも、もっと深く強く彼を想っていた事に気付かされた。

容姿とか性格とか、そんなものだけに惹かれたんじゃない。キッドだとか快斗だとか、そういう個を好きになっただけじゃない。そんな俗物的なもの全て突き抜けて。

「────オレはお前が好きなんだ」

新一は、軽く瞬きするとキッドに向き直りそう言った。

曇りのない、済んだ藍の瞳がキッドを見つめる。

「常識とか世間体とか、相手の気持ちとか、そんなことを考えると、何も言う事が出来なかった。けど、そんな事で忘れてしまえる、諦められる程度の気持ちじゃなかった。……オレは、例えお前に嫌われたって────」
まくし立てるように一気に吐き出そうとする彼に、キッドの指先が新一の口元に触れた。思わず口を閉ざす新一に、キッドは微笑む。

「貴方はどうして……大切な事を、これほどまでにあっさりと告げてしまうのですか」
「……キッ…ド?」
「貴方の心に私の気持ちは必要ないのですか……?」
キッドは、儚く哀しげな表情で、だけど口元には優しげな笑みを浮かべて。

キッドは、一瞬新一に触れた。それだけで、手にしていた箱は彼に奪われる。
「貴方に見せたいものがあります」
彼はそう言うと、箱の中のガラス玉を全て取り出すと、新一の側から離れる。何をするのかと、首を軽く傾げる新一を余所に、キッドは広い展望室からテラスへと場所を移動し、外にあらかじめセッティングしておいた台に一つずつセットしていく。
6個の玉が大きな半円を描くような間隔でセットし終えると、キッドは新一の元へと戻ってくる。その一連の動作を新一はぼんやり眺めていた。
それからある事に気付いて、内ポケットからカードを取り出した。

────7番目の虹。



「キッド……これって…」
準備を終えて戻って来たキッドに新一が訊ねる。そんな彼にキッドは微苦笑を浮かべると「もう少し待って」と言った。
彼が動く度に、たっぷりとしたマントが優雅に舞った。その純白に目を奪われていると、直ぐに彼は戻ってくる。

「新一。そこの位置に立ってくれるか」
促され、言う通りに指示された場所に移動する。さっき居た所からそう離れていない。前方に見える観覧車の丁度真正面だ。
0時を過ぎた時の華やかな光は影を潜め、白っぽい光をぼんやりと放っているそれを見て、新一はキッドが何をしたいのか理解できずに首を捻る。
そう考えていると、彼は胸ポケットから何かを取り出す。
薄く小さなリモコンのようなモノ。怪訝に見る新一にキッドは微笑って応えると、スイッチを押した。

キラリ、と前が光った。丁度観覧車の中心、電光板が取り付けてある箇所が突然白く反射した。
……鏡?新一がそう思った時だった。
展望台の外側に光が走った。それは、赤や青、黄と様々で、それが一本の線となって、一点に向かう。
丁度前方の鏡となった電光板のある位置に集中すると、──── 一気に弾けた。

赤、橙、黄、緑、青、菫の6色がそれぞれ縦横無尽に走り抜け、光の軌跡を描く。
恐らく周囲にも鏡が取り付けてあるのだろう。反射した光は、また反射を繰り返し、いくつもの帯となって華やかに輝いた。
それは、現実には有り得ない……幻想の世界に迷い込んだような錯覚すら起こさせる美しさ。

新一は、その光の乱舞に視線を釘付けにされて、暫し魅入った。
光の帯は絶えることなく、華やかに走り続けたが、次第に光が違う動きを見せ始めた。
不規則に乱反射していたと思われた光が新一達のいる展望台の中に飛び込んできたのだ。
正確には、新一に向かって。

色彩の光が幾重にも重なって、新一に向かう。その現象を戸惑い気味に見ていた新一をそれらは貫くように光が集まる。

パン…と何かが弾けるような音がした。すると、新一の元に集まった光は、彼の目前で極彩色の輝きを放った。


キラキラと、光の粒が新一に降り注ぐ。街のイルミネーションとは全く赴きの異なった幻想的な光景に、新一はうっとりと見続けた。
手を翳しても掴むことは出来ない事が分かっていても、思わず両手で受け止めようとしてしまう。そんな自分の行為にちょっと笑ってしまった。

「綺麗……だろ?」
キッドが口を開く。
「………ああ、すごく」
うっとりと、夢見るような声で告げられて、キッドは満足気に微笑んだ。


「新一……オレがお前に送ったカード」
「ああ。……だけど、意味分かんなくて」
取り出したままのカードに書かれた一文に視線を走らせる。
「7番目の虹……って」
どういう意味だ?と、そう訊ねてくる新一にキッドは応える。

「この虹のガラス玉は六個しかないよな」
「ああ。西洋では虹は六色が常識だからだろう?」

「だけど……何か足りないと思わない?」
そう意味深に問いかけられて、新一は頷く。

「確かに、日本では「虹は七色」が常識だから……藍色が欠けている訳だけど」


「頭では理解出来ても、納得出来ない事ってあるよな」
「……納得出来ない?」
新一の問いにキッドは頷く。
「そう。……虹は七色って、その時のオレには常識だったんだ。現実にそれほど色の差なんて見分けられないのにさ」
今よりもっと小さい頃、母親に連れてこられたこのミュージアムで、快斗が目にしたたった六色の虹は、何だかとても不自然に見えた。
間違ってる、とまでは思わなかったが……どうしても、一つ欠けているという感覚を消し去る事は出来なかった。

何だかとても不完全な、虹。

小さなプレートに書かれた説明の内容を理解しながらも、納得出来なかった幼い日。
それは、今になっても変わらなかった。

欠けた虹の一片は……一体、何処にあるのだろう。

いつか、見付け出すことが出来るといい。そうすれば、全てが埋まるような気がして。
そんな事を思い続けている内に、何時しかそれは快斗の心の一部になった。

あるのかも知れない。それは人によって様々で、物だったり、人だったり、信念だったり。だから、最初から用意されている物ではないのかも知れない。
一色欠けた快斗の色は、快斗にしか見えない物で、容易には見付けられない物なのかも知れない。

だけど、……人は生きることによって色々な物を手にしていくと言うのなら、何時か巡り会うのかも知れない。

それが例え何であろうとも、快斗にとってそれが一番大切な物になるはずだ。

快斗の「藍」は、快斗だけの「藍」だから、最初から用意されていないのだと、そう思ったら納得出来たような気がして、そして何時か見付けようと心に誓い、見付けたような気がした。
最初「それ」は、「パンドラ」だと思った。快斗が探し求めて止まない宝石(いし)。それを見付け出せば全てが埋まるのではないかと思った。亡き父親の謎を解く為に、半ば漠然と継いだ『怪盗KID』は、全て命の石を手にする為に生まれたのだと。
恐らくそれは間違っていない。快斗が『KID』であることも、パンドラを求め続けることも、例えそれが罪を重ねる行為であっとしても、快斗にとって大切な事だった。

だけど……それでは快斗の心を埋めることは出来ないのだと、彼に出逢ってようやく気付いた。
がむしゃらに突っ走っていた自分の中に突然生まれた狂おしい程の愛しさこそが、快斗がずっと探し続けていた7番目の虹。


「オレにとって、新一こそが7番目の虹。……欠けていた藍の色」


だから、諦められない。諦めてはならないのだと。快斗の心を埋めてくれるのは、もう新一しかいないのだから。

「本当は……そのカード、途中までしか書かれていないんだ」
「え…?」
「本当は『7番目の虹を頂きに参ります』って書きたかったんだ」
さらっていきたいほど、欲しかった。だけど、自分勝手な行為に躊躇いを払拭することが出来なかった。決心して、迷って。何度もそれを繰り返して、彼なしではもう生きては行けないとすら思っているのに、なのにどうしても最後の一文が書けなかった。

思っている以上に臆病な自分を自嘲って、彼に届けたカード。


あんなに迷って躊躇って。だけど、彼を目にすると、全てが吹っ飛ぶ。
まるで、抑制が利かない子供のように、只、彼を欲しがる。彼を目にすると、それまでの葛藤が全て彼方に消え去って、ただ欲しくて欲しくて、手に入れて取り込んでしまいたくなる。

だから、彼は目の前にいる今は、迷わない。

「オレの心は、新一にしか埋まらない。だから、例えお前が拒んだとしてもオレは────」
言い募るキッドに、今度は新一が人差し指を彼の口元に押し当てた。

「オレも貰ってもいいか?────オレの7番目の虹」
「しん……いち……?」
「オレの心に足りない物があるとするなら、それはお前の心。オレにとっての7番目の虹の色は、お前しか居ない」
藍は夜の帳を優しく包み込む色。何時だって、彼はその色に抱かれていた。
新一の心を捕らえた、愛しい色。


世間体とか常識とか。例え、社会が二人を認めなくても、そんなもの些細なことに過ぎない。
待ち受けるであろう荒波も試練も、二人が離ればなれに生きる事に比べたら、大した問題ではない。

悩んだり泣いたり苦しんだりするだろう、きっと。
どうしてこんな思いをしなくてはならないのかと、互いを責める日だって来るかも知れない。

だけど、そんな日々ですら、愛おしいとすら感じるのだろう。苦しみも悲しみも、きっと愛には勝てないのだ。



だから。



「ずっと、側に居てくれる……?」


互いがそう言って、二人で微笑み合った。








無限大に広がる想い。





今、互い置かれている立場なんて無視してしまおう。それより大切なものがあるから。
だけど、真冬の夜空は想像以上に冷たくて、新一は血が凍えてしまったかのような感覚に襲われた。

そんな彼とは裏腹に、キッドは飄々とした顔で窓に手を掛ける。
片手に新一を抱いて、彼もまたキッドにしがみついてしまうのは、この体勢が不安定な所為だ。

米花ミュージアムから新一の家まで、キッドは半ば強引に彼を抱いて、虚空へと身を投じた。普段飛び慣れているキッドはともかく、飛行初体験の新一にとって例えそれが信頼できる人間であっても、恐怖を感じない訳はない。

そんな彼の様子など気付かぬふりして、キッドは真っ直ぐ新一の屋敷へと向かい、鍵の掛かった格子窓を糸も容易く開け放ち、新一を室内へと放り込む。それから暫くして「入っていい?」なんて殊勝にも訊ねてくる。
そんなキッドに新一は固まったまま首だけを縦に動かすと、彼はさっさと室内に降り立った。

窓から上弦を少し過ぎた月が煌々と室内に射し込んでいる。
キッドはふわりと周囲を見回して目的の物を見付けると、それを取り上げスイッチを入れる。すると、室内に設置されていたエアコンが静かに稼動を始めた。

新一はベッドの端に腰掛けて固まったまま。
「寒い?」とキッドが訊ねてくる。当たり前だ、と言い返してやると少し困った顔をした。
突然、何の防寒対策もしないまま夜空へと連れ出されたのだ。只でさえ冷え込んでいるのに、グライダーに掴まった指先は凍えるし、痛いほどの風が新一に吹き付けてくるし、これで寒くないなどと、嘘でも言えなかった。
今だって、歯の根が噛み合っていない。自らを抱きしめるように縮こまる新一に、キッドは少しだけ考える振りをすると、すぐに彼に視線を合わせた。

「なら、暖めてあげよう」
「え……?」

つかつかと新一に歩み寄ると、ふわりと風が舞った。一瞬目の前が純白に覆われたかと思うと、暖かな感触に包まれる。

「暖かい?」
穏やかに問いかけるキッドに、真っ白いマントを肩に掛けられた新一は蹲る様に顔を伏せた。
さらりとした感触は、いつ触れても心地よいし、仄かに感じる温もりに、凍っていた身体急速に溶けていくのを感じた。
きっとそれは、物理的なモノだけではないはずだ。そう思うと、心なしか顔が熱くなってくる。


そんな新一を余所に、キッドは辺りをきょろきょろと見回している。

「……たく、何がそんなに珍しいんだ?」
物色……とまではいかないが、それでも熱心に見ているキッドに、新一はほんの少し呆れた声で言った。
そもそも、此処は新一が自室に使っている部屋で、大して面白みのない場所だった。くつろぐのなら、居間に行けば良いのに。ここでは、コーヒー一つ煎れるのだって不便だ。

だけどキッドは上機嫌で。
「だって、此処が一番新一に近い空間だろ?」
何処で何をしていても、一日の終わりには必ずこの部屋に帰ってくる。そう思うと、此処が一番大切な場所ではないか。
だからキッドも一番最初に此処に来たかったのだ。

「部屋の至る所に『新一』が在るから」
愛おしむように眺めるその瞳に、新一の胸は甘やかに痛む。

何だか恥ずかしくて、顔を上げていられない。肩に掛けられたままのマントの端を引き寄せて顔を隠すように被る新一を余所に、キッドは飽きることなく周囲を眺めている。

────と。

「あ……」
キッドが何かを見付けたような声をを上げて、何事かと顔を上げる。
ローボートに山積みされていた推理小説と壁の間に隠すように置かれていた、白く光沢を放つものを取り上げた。

「あっ、それは……」
思わず声を上げた新一は、立ち上がるとキッドの背後に歩み寄った。
彼が手にしていた物。それは、以前廃ビルの屋上で、新一の身体を暖めてくれたもの。
今、新一の肩にかかる物と同じ、キッドのマント。

「ちゃんと、大事にしてくれてたんだ……」
綺麗に折りたたまれたそれは、彼が手放した時と変わらぬ光沢を放っている。
少し感動したような声で呟くキッドに、新一は内心照れた。
「……だって、大事なものなんだろう?」
「ああ。親父の形見。……怪盗KIDが身につけているそのどれもが、親父の形見なんだよ」
「そ……か。そんな大事な物をオレに預けてくれてたんだ……」
新一は、それがどんなものかなんて考えずに、手元に置いておきたいと願って、彼はあっさりと許してくれた。大切な物であることは分からない事ではなかったが、その衣装に込められた想いがいかほどのものであったのかまで、新一は察することが出来なかった。
ほんの少し後悔の念が過ぎって、新一は項垂れた。
「ゴメン……返す、ソレ」
「え?……もう必要ない?」
「ああ、必要ない」
キッパリと言い放つ新一に、キッドは少し哀しそうな表情を見せるが、新一は穏やかに微笑った。

「だって……これからはお前がオレの傍に居てくれるんだろ?」
「新一……」
「オレにとってソレは、お前の身代わみたいなモンだよ」
それを見ていると、触れているとお前を思い出す。本当は、そんなものがなくたって、瞼の裏にははっきりとその姿が焼き付いているのだけれど、物質的な存在はそれを更に鮮明にさせた。

だけど、もうコレは必要ない。

キッドが傍に居てくれるのなら、彼を思い出す必要はない。ずっと居てくれるのなら、傍で彼が微笑っていてくれれば、それで心は満たされる。

溢れるくらいに、満たされるはずだ。


「新一」
キッドの指が、そっと新一の頬に触れる。ひんやりとした感触に、まだ身体が完全に暖まっていない事に気付いて抱き寄せたくなる。

一瞬躊躇して動きが止まって……その後、ふと苦笑した。


……ああ、そうだ。もう、『言い訳』なんて必要ないんだ。


触れたくて、抱きしめたくて、だけどもう躊躇うことなく彼を腕の中に抱き込んでも構わないのだ。
腕を伸ばして引き寄せて、新一もそれを嫌がらない。それどころか、ゆっくり力を抜いて、キッドの胸にもたれ掛かる。
その僅かな重みにすら、愛しさが零れてる。

「暖かいな……お前」
うっとりと……ぽつりと呟くその声は満足そうで、キッドを更に上機嫌にさせる。
背中に手を回して、しっかりと抱きしめると、互いが鳴らす心臓の鼓動が聞こえた。

穏やかに……そして、同じ速さで鳴り続ける心音。幸せや喜びと言った感情が沸き上がって、更に愛しさを増していく。

愛しいと想う気持ちには、果てがない。
一分一秒、時が駒を進める毎に益々募らせていく。
これはきっと、一生なくならないだろう。終わりがないこの気持ちは無限大に広がって、一生このままだ。

始めなければ終わらない恋は、甘やかで切なかった。
始めることに抵抗と恐怖を感じていたのは事実で、この恋は一生始まらないと思っていた。

だけど……始まったこの恋は、何処まで行く事が出来るだろう。
望むことなら、この恋が終わらない事を願う。
果てしなく続いてゴールは見えないような道を二人で歩き続けるように。メビウスのような輪の中で想いをたくさん増やしていけば、一生お互いだけを愛し続ける事が出来る気がした。

そんな幻想の様な幸福に浸り、今だけは互いに同じ夢を見る。
信じれば……叶うかもしれない。



だから……。



「……新一、誓っても良い?」
囁くような声に新一の頭が僅かに揺れる。

己は犯罪者で、世間には真に認められてはいない存在だけど────。

「共に生きる人生に、決して恥じる事はしない」
工藤新一に誓う。自分に恥じない人生を歩む事。
全てを正当化したい訳ではない。この身が罪で覆われている事は承知している。

だけど、それでも誓う。

彼に恥じることのない生き方をしよう。思い続けるだけでなく、堂々と彼の傍に居られる存在になりたいから。


キッドの言葉に新一は顔を上げると、ゆっくりと微笑んだ。
「オレもお前も……自分を否定しない生き方をしていけたら良いよな」
一番大切な人に一番の自分を与えられるように、それこそが最も大切な事のような気がした。

「だから、オレもお前に誓う」

不確かで曖昧な『愛』という感情を、永遠に抱いて生きていく。


二人で、共に生きる、人生を。







BACK NOVEL 

Open secret/written by emi

18 2001.12.14
19 2001.12.16
20 2001.12.19
21 2001.12.21
22 2001.12.23
23 2001.12.26
24 2001.12.29

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