3.
優しく、居心地の良い感触。
髪を梳いて、まるで幼子をあやすかのように動く掌。
優しく、そして穏やかな愛撫に……無意識のうちに身をゆだねていた新一だったが、徐々に覚醒してくる意識に従うかのように、ゆっくりと瞼を押し開けた。
廻りは暗い。
次いで誰かの腕の中にいる事にはっきりと気付いた。
「目が覚めたか?」
キッドの声にまだ完全に覚醒しきれない新一の頭が小さく動いた。
「……新一」
罪悪感の欠片もなく真摯に気遣う口調に、新一は煩わしげに髪を揺らす。
「…………………うるさい」
気怠げな声でそれだけ言うと再び目を閉じる。
「寝るなよ」
頭の上から降ってくる声に、渋々と言った体で顔を上げる。
「大丈夫か?」
「てめぇの所為だろ!」
苛立ちを隠すことなく吐き捨てると、キッドを押し戻して彼から離れ、覚悟を決めてゆっくりと立ち上がる。
身体が軋むような痛みに顔をしかめた。
服は既に着込んでいる。情事の跡を残すのは、この身体の痛みだけだった。
ふと時間を知ろうとして見上げると、ステンドグラスからは月の光が差し込んでいた。
日は完全に暮れている。………しかし、それが宵の口なのか、夜更けなのか、見当もつかなかった。
一体、今は何時なのだろう。
そう思いめぐらしていると、白い影も立ち上がるのを感じた。
近付こうとするキッドを制して、新一はそれまで疑問に思っていた事を彼にぶつけた。
「何故……俺を呼びだした……?」
「…………」
「何故、俺の居所を知っていたんだ」
微かな苛立ちを見せて問う新一に、キッドは口の端を歪ませて笑みを形取った。
「……俺は『怪盗キッド』だぜ。お前が何処に居ようと、探し出せない訳はないだろう?」
新一の腕を引いてその胸に抱き込む。
「ばっ………!」
思わず退こうとする新一に、
「話がある、新一」
更に強い力で抱きしめると、重く呟く。
「話?」
「本題に入りたいんだが」
「本題だって!?」
キッドの言葉に新一は思わず大声を上げた。自分の声の響きに身体が小さく悲鳴を上げたが、そんな事は構っていられない。
一体、何が本題だと言うのか………!
「てめぇ、さっきまであんな事しておいて、よくもぬけぬけと……!」
声を張り上げる度に身体が痛みを伝えてくる。それでも、言わずにはいられなかった。
「あれは………お前がいけないんだ」
「何!?」
「オレの事、クズなんて言うから」
あんな事言われて黙っていられる訳ないだろう?とキッドは言う。
「てめぇが、オレが服部に慰みモノにされてたって言うから!」
「事実じゃないか」
さらりと言われて赤面する。
「────んなわけねぇだろ!」
用意周到な真似しやがって、と続けるが、キッドはその言葉を制すると、真摯な瞳で新一を見つめた。
それまでになく真剣な表情に、新一もそれ以上責める言葉は言えなかった。
一瞬起きた沈黙に、キッドは静かに口を開く。
「お前だって知りたいはずだ。────何故、お前に予告状を出したのか」
こんな小さな教会に、何故ビックジュエルが存在しているのか。
どうして、それを知っていたのか。
「今日は、新一に用があった」
だから、予告状を出した。新一に宛てて。
そう言うと、キッドはゆっくりと新一の身体を解放した。
彼の真意を読みとれない新一は、ただ、彼の動きを目で追う事しか出来なかった。
キッドは宝石を取り出すと、新一を見つめる。
「これは、サファイアなんかじゃない………分かっただろう?」
新一は頷く。
「これは『ブルーダイヤ』。しかし、俺の求めていた宝石は、これじゃない」
そうきっぱりと言い切るキッドに、新一は奇妙な表情で彼を見つめた。
「…………少し昔話になるが、……いいか?」
宝石見つめながら呟く言葉に、新一の了解など必要なさそうだった。
いつもと違う、少し不思議な表情。
喜びも悲しみも通り越して、……不遜な顔はない。
崇高な瞳に、先程の余韻はなく。
そんなキッドを前に、新一の心は渇く。
新たな興味が沸いた。
語り出したのは、この名もない小さな教会にまつわる話。
「20年ほど昔。この地に教会が建てられた」
建てられたと言っても、日本で建築されたものではない。欧州から建物ごと輸入された。
その当時、この教会には神父がいた。
彼は、この教会を愛し、日本を愛した。
昔も今も、この地には緑が溢れ、木々に囲まれ、ほとんど人の来ないひっそりとした教会だったが、それが神父の望んだ姿だった。
しかし、この教会には欠けているものがあった。
マリア像の胸にあった『マリアの涙』と呼ばれる宝石が、ある事情により行方不明になっていたのだ。
「『マリアの涙』……?」
新一の瞳が不思議そうに光る。
やはり、キッドの掌の中にあるものは『マリアの涙』ではないのか。
そんな新一の表情に、キッドは小さく微笑む。
「ぽっかりあいたマリアの胸に宝石を差し出したのは『怪盗キッド』。彼は神父とは10年来の知り合いだった」
「『怪盗キッド』って……」
それは……。
尋ねようとする新一の言葉をキッドの左手が制す。
「まあ、黙って聞け。────神父は彼に宝石の行方を捜して欲しいと頼んだんだが、結局見付からず、代わりにこの宝石を代用として貸したんだ」
『マリアの涙』と同じ大きさのブルーダイヤ。
そう。────これは只の代用品。本物の『マリアの涙』ではない。
しかし、いつか必ず見つけ出すからと、そう約束して……。
「残念な事に、神父はそれから五年後に他界した。…………しかし、だからといって約束を違えることは出来なかった」
それからも『マリアの涙』の行方をずっと追っていた。
そして。
長い年月追い求めて、ようやくその手がかりが見付かった。
「欧州で行われた地下オークションで、それらしきものが競り落とされた情報が入ったんだ」
それを出品した人物も、競り落とした人間の名を公表する事も、主催者側の信用に関わる。
地下オークションと言えば、普通、表の人間に参加出来るものではない。
表でさばけない、主に盗品を扱った絵画や宝石を闇で売買する為に開かれている競売だ。
だから、普段以上にその情報を入手する事は困難だった。
しかし、蛇の道は蛇。かなりの時間を要したが、何とか競り落とした人物は突き止めた。
それが─────。
「工藤優作。……お前の親父だよ」
「父さんが……?」
「『マリアの涙』としては出品されていなかったが、あの大きさのサファイアだ。間違いない」
キッドは断言する。
深い青を讃えたビックジュエル。
それは、マリアが流した涙。
「…………で?俺にどうしろと?」
どうしても手に入れたい『マリアの涙』。
「もし出来れば…………このダイヤと交換して欲しい」
相手が工藤家でなければ、いつものように盗んでいたかも知れない。
だが………。
何故だかは分からない。
自ら取引しようなんて、そんなやり方は、少なくとも、『怪盗キッド』のやることではない。
分かっている。
分かっているのに………。
「でもその宝石は父さんのものであって、俺のものじゃない」
新一の言葉。
あくまで所有者は、工藤優作だ。
親子だからって、新一の思い通りに事が運ぶとは思えない。
そんな表情の彼を見て、キッドは笑う。
最初から承知していたかのように。
「俺が直接お前の親父さんに交渉したって良かったんだ。……でもそれじゃあ、お前が拗ねるんじゃないかと思って、気を回したつもりだったんだけど」
その言葉に、新一は僅かに眉をひそめた。
何処かで、キッドは優作と何かを取り交わしたのではないだろうか。
そんな思いが新一の脳裏をかすめたが、しかし敢えて口には出さなかった。
目の前のキッドもそんな素振りは見せてはいなかった。
なら、新一も素知らぬ振りをするまで。
「しかし、その『マリアの涙』はサファイアなんだろう?」
もちろん高価な宝石であることには変わりない。
しかし、キッドの持っている『ブルーダイヤ』の方が価値は数段上だ。希少性はダイヤの方が格段に高い。
「世間的にはそうかも知れないが、俺からみれば、お前の親父さんの持つ本物の『マリアの涙』の方が価値は上」
物の価値は値段ではない。
その人間がどれだけそのものに惹かれているか、必要としているか。
金額なんて、そんなものは関係ない。
「言っておくが、この『ブルーダイヤ』は正真正銘、俺の持ち物。────盗んだ物じゃないからな」
そう言うとその宝石を新一に持たせる。もちろん、細工は取り除いてある。
しかし……。
「………肝心の宝石はここにはないぞ」
「いや、お前が持っている」
そう言い切るキッドに、新一は確信した。
「『マリアの涙』は工藤邸に保管されているはずだ」
工藤優作は、はっきりそう言った。
工藤優作が認めているのなら、新一が今更どうこう出来るものではない。
それでも、新一は即答を避けた。
「持っていってくれ、構わないから」
キッドの言葉に暫くの間は無言でそれを見つめていた新一だったが、覚悟を決めたようにその宝石を握り締めた。
その態度を見てキッドは微笑むと、ゆっくりと背を向けた。
新一は、その姿を黙って見送る。
掌の中にある宝石の重みを感じながら………。