証
夜風を包む空気は、何処か重く湿っていた。僅かな不快感に新一は眉を顰める。
雨が降るのかもしれない。そう思うと益々苛々が広がっていく。
晴れ渡った夜が好きな訳でも風が強い夜が好きでもない。自然はありのままに巡って行けば良いと思う。
人が望んで変えられるとは思ってはいない。
だけど……。
早く帰ろう。新一は家路に向かう歩調を少し速めた。外灯が少ないこの道は少し物騒だ。女子供のように襲われることはなくても、用心するに越したことはない。空は厚い雲に覆われて、一筋の光も通さない。
どことなく、物騒な夜だと思った。
確かに、この世の中は物騒だ。そう新一は思った。現に、ほんのついさっきまで殺人事件の捜査に関わっていた。民間人が、堂々と現場に赴いて、得意げに推理ショーをぶちかます。
……誰か止めて欲しいと思う。新一がそこに居ることの不自然さを誰かに指摘して欲しかった。この驕った行為に批判の眼を向けて欲しかった。
だって、自分じゃ……止められない。
謎が好きで、事件と聞くと居ても立っても居られなくて、条件反射のように身体が勝手に動いてしまう。そんな新一に絶大な信頼を寄せている警視庁の人達をもちろん新一も信頼していた。
彼等の側に立って証拠を見付け出し、時に突飛もなく脱線する彼等の間違いを正し、あくまで協力者である立場を崩す事なく、彼等を持ち上げる。
無理はしていない。少しばかり背伸びしている感はあるが、だからといって倒れる程でもない。彼等の自尊心と新一の自尊心。両方をバランス良く保つからこそ、こんな関係が今まで続けられたのだ。
だけど……だからといって、本当は彼等に信頼されるような真っ当な人間なんかじゃない事を新一は知っている。
全くの逆だ。
何故なら新一は……。
周りに誰も居ない事を良いことに、新一は殊更大きく溜息を吐いた。だけど、鬱な気持ちに拍車がかかっただけだった。
両肩が妙に重い。疲れている証拠だ。
歩調は変える事なく、俯き加減で通りを曲がった時、風が吹いたのか、ざわざわと塀の向こうの樹木の葉が鳴った。
その葉のざわめきに引き寄せられるように新一は顔を上げて、暗がりの木の方に視線を泳がせる。
その瞬間。
真っ先に瞳に飛び込んできたのは、眩しいくらいの光沢だった。
夜目に慣れていた新一は、突然の光に一瞬眼を細めた。
外灯のような、周囲を照らすような灯りではなかった。光源は決して強くない。それに、別に発光体ではない、彼は。
だけど、どうしてコイツはこんなにも輝いて見えるのだろう。
正体を視覚ではなく感覚で察知した新一は、ぼんやりとそんな事を思った。
「こんばんは」
と、光沢の主が声を掛けてきた。まるで道端ですれ違った隣人のごとく気安さで。
だから新一も素知らぬ振りして小さく頭を下げた。
「こんばんは」
と、関わる事を避けるかのような心のこもらない口調で。
立ち止まっていたのはほんの一瞬で、新一は彼にそう一言だけ告げると歩き出した。
まとわりつく空気が湿りを帯びて気持ち悪い。吹く風は生暖かい。大気は、もう充分露を含んでいた。濡れる前に帰ろうと、先程考えていた事をもう一度思った。
さっきの邂逅などなかったかのように歩き出す新一に、真っ白で艶やかな光沢を放つ衣装を身に纏った不審者は、小さく首を傾げた。
それから、少しも取り合ってくれない雰囲気と明らかに邪険に無視されている事実にムッとした。
塀の上に佇んでいた彼は、ひらりと身を躍らせて地上に着地すると、当たり前のように彼の後ろについていく。
夜も遅く人気もないとはいえ、堂々と公道を歩いている指名手配犯なんてそうそうお目にかかれない。しかも、異常に目立つ格好で闊歩する様は、頭のネジが2桁分ばかり抜けているのではないかと危惧されそうだが、当人はまるで気にしなかった。
一定の距離を保ちながら、同じ速さで歩み続ける二人。
前を歩く方は、背後の存在に気付いているのかいないのか。背中は何も語らなかった。
角を2つ曲がって暫く歩くと、薄闇の中から見慣れた屋敷がのっそりと姿を現した。それは、さながら幽霊屋敷のようだった。事実、近所でそう噂されている事を知っている。……別に構わないが。
新一は、門に手を掛けて鍵を開けた。軋んだ音が闇の中に響き渡る。何だか本当に幽霊屋敷のようで、思わず苦笑いを浮かべた。
「何笑ってるんだ?」
突然、背後から投げかけられた声に、新一は驚かなかった。まるでうんざりしたように肩を揺らし、ゆっくりと振り返る。
さっき、塀の上で声掛けて来た時と寸分違わぬ格好のままで、彼は新一の真後ろに居た。思ったよりも近い位置に佇んでいるのに内心驚いたが、表情には出さなかった。
何の用だとか、何しに来たとか、帰れとか、……心の内はどうであれ、そんな言葉は一言も発さずに相手を見つめ。
そして一言「おやすみ」と呟くと屋敷の中に入った。
門から玄関へと続くアプローチをゆっくりと進んでポーチに到着すると、扉の鍵を開ける。
しかし、次の動作は他人に浚われた。
取っ手に手を掛ける前に、背後からすっと白い腕が伸びて、ドアを引かれる。
「どうぞ」
と、当然のように傅かれ、室内へと促される。大仰で繊細な所作に新一はまた溜息をついた。
ああもう。
どうして、どうして、自分は。
こんなにも、こんなにも、コイツの事が好きなんだろう。
感情の赴くまま抱きつきたくなるほどに、飢えた心が悲鳴を上げた。存在を感じれば感じるほど、熱情が渦巻いて、全てを滅茶苦茶に壊しそうなほど、愛しくて、愛しくて、愛しくて。
何の用だとか、何しに来たとか、帰れとか、……本当の心の内には縋る言葉しか持っていないのに、向ける視線はすこぶる冷静で、そんな自分がカッコイイやら情けないやら。
ポーチに立ち尽くしたまま一向に動かない新一を怪訝に感じたのか、彼はモノクルの飾りを小さく揺らせて覗き込んだ。
深い、夜の空色をした瞳が見つめてくる。新一の最も好きなものの一つ。
「新一……?」
その艶やかな声を聞いて、限界を感じた。抑えきれなくなって、目の前の不審者に抱きついた。
ムードもへったくれもなく、ただがむしゃらにしがみついて離さない。
扉は開けっ放しで、湿った空気が家の中に流れてくる。誰かに見られるかも知れないという、可能性の低い危惧が頭の隅に漂ってはいたけれど、次の瞬間それも綺麗に吹き飛んだ。
夜目に鮮やかな衣装が僅かに動いて新一の背中を優しく包み込んでくれたから。
「……何だか、とてもお疲れのようですね」
彼はそう言って、まるで幼子をあやすように背中をぽんぽんと叩いた。
何時もなら、そんな行為など屈辱だとしか感じられないのに、今夜の新一には深い安心感でいっぱいになった。
さっきまでの不快感が払拭されていく感じ。……もちろん、それは只の錯覚に過ぎないのだけれど。
自分を上手く表現出来なくて、不貞くされた子供が、捨てられたくない、嫌われたくないとばかりに必死になって感情的に訴えているような新一の態度にも、キッドは優しい。
扉を閉めて鍵を掛けて、ずるずると引きずってリビングまで連れて行き、ソファに座らせようとしたけれど、それでも彼はキッドにしがみついて離れようとはしない。ぎゅっと胸に顔を埋めて、その表情も窺えない。
呆れとか諦めとか、そう言ったどうしようもない感情を察知すると、只でさえ扱いにくい彼が益々不機嫌になっていくのは目に見えているから、キッドは溜息つかずに小さく笑った。
彼を座らせる代わりに自分が座って膝の上に抱き上げてやろうとしたのだが、やはり彼はしがみついたまま、ずるずると両足を床に投げ出した。何かもう、下半身に神経が通っていないみたいだ。しどけなく伸びた長い足にちらりと視線を向けてそう思った。
「お願い、捨てないで」
何となくそんなシチュエーションっぽくてキッドが言うと、しがみついていた彼の頭がぴくりと動いた。
顔を上げるかと思ったが、最初の反応を示したきり動かない。
「……つまらない。茶化すんじゃねぇ、って言われるかと思ったのに」
キッドが首を竦めてそう呟くと、「ふざけてんじゃねーよ」とくぐもった声がした。
「そんな風にからかう暇があるんなら、さっさと抱きやがれ」と、言葉を続けてくる。
「おや?……まさか、この態度が熱烈な求愛行動だとは気付かなかったな」
からかいを含んだ響きでそう言うと、キッドは彼の美しいラインを描いた頤に指を滑らせて、些か強引に顔を上げさせた。
「今のお前には不安と苦痛しか読めないのに、どうしてそんな事を言う。……一体、何を恐れているんだよ」
全くの他人なのに、キッドは新一の心を察するのが上手かった。
心配しているというより、物問いたげな表情で見下ろすキッドに新一は躊躇いがちに視線を外す。
「お前は……どうして、泥棒なんだろう」
「泥棒、ねぇ。せめて怪盗と言ってくれ」
キッドが言うと、どっちも一緒だと、少し怒った声で新一が呟いた。
「泥棒だろうと怪盗だろうと、所詮お前は犯罪者じゃねーか」
「何を今更……」
「今更だろうが何だろうが、犯罪者は犯罪者だ」
強情に言い張る新一に、キッドは少し不機嫌な顔を見せた。
「……何?なら、新一はオレが国際的に超有名な指名手配犯だから、そんな顔している訳?」
あからさまな負の感情が、チクチクと新一の肌を刺す。
「今になって、オレを否定するのか?」
「そ、……いう訳じゃない」
「じゃあ、何だよ」
警察に出頭して欲しいとでも言うのか。
キッドは、新一の頼みなら何だって聞いてあげたいと思っている。けれど、流石にこれだけは出来かねる。罪を犯すのは、彼なりの事情があるからだ。もちろんそれは、認められるとか認められないとかの問題ではない。
新一だって、理解ってくれていた筈だ。キッドは彼と関係を持った時に、包み隠さずうち明けていた。それを知った上で、二人は今まで互いの立場を守りながらやって来たのだ。
キッドが物言わぬ新一の名前を呼ぶと、彼は少し躊躇したように頭を揺らし、KIDを見上げた。
「目暮警部や高木刑事達の……あの何の疑いのない真っ直ぐな信頼を寄せられると、正直辛い」
「何で?」
「だって。……オレは、決して善良な一般市民とは違う訳だし」
「え?違うの?」
「そりゃ、違うだろ。……やっぱり」
「そうか。新一。って、実は犯罪者だったんだ。知らなかったな」
興味津々といった表情で新一を覗き込んでくるキッドの瞳。何故だか、何処か楽しげで。
「で、何やったの?」
なんて訊いてくる。
コイツ、もしかしたら、大馬鹿野郎ではないかと、新一は思った。
「今日、中森警部に会った」
新一は突然そう切り出した。
「何でも、『怪盗KID』の予告状が警視庁に舞い込んだそうだ」
「それは、信憑性のある最新情報だな」
大仰に頷いてみせるキッドに、思わず新一は彼に平手打ちをくらわせた。
「中森警部にその事を聞いた時、オレはいっその事、KIDの正体をバラしてやろうかと思ったよ!」
吃驚して、新一を見つめるキッドに、新一は怒りのあまり声を震わせて怒鳴る。
「……何?本気でオレを売るつもりだったのか」
「んな訳ないだろっ!」
理解ってない。ちっとも、理解ってくれてない!
新一は、情けないやら悔しいやらで、泣きそうになった。泣きたくなくて、大声で叫んだ。
「お前が好きなんだ。好きなんだよっ!」
「新一……」
「今のオレの中で一番好きで、一番失いたくないのがお前なんだよ」
彼を守る為なら、どんな事でもするだろう。それが法に触れようがお構いなしに。
「お前は犯罪者で……しかも、国際指名手配犯なんてご大層な肩書き付きの大泥棒で、社会の悪で、野放しなんかにしておけない存在で。お前みたいなヤツを捕まえる為に、気の遠くなるような莫大な税金を費やして、国民に負担を掛けて。なのにお前は涼しい顔してオレの前に居て……」
だけど、好き。大好き。
「頭ではちゃんと判っているクセに、お前の事は絶対に誰にも言えなくて。……そして、善良で協力的な一般市民の顔をして警察の手助けなんてやってる。……オレは、偽善者だ」
虫酸が走るくらいに嫌なヤツだと、自分でも思う。
だけど、何も変えられない。
嫌なヤツで、弱いヤツだ。
新一のキッドへの気持ちに気が付いて、奇跡のような相思相愛になった時、新一はもう二度と怪盗KIDが関与する事件には関わらないと心に決めた。
彼を追い詰める事を何よりも優先させた時期もあった。けれど現在は、何よりも失いたくない大切な存在になったから。
こんな事したって、何の解決にならないことくらい理解している。只の自己満足に過ぎないことくらい判り過ぎるほど判っている。
だけど、そう思っていても、正せない。……正したくないのだ。
「大切な人達を騙して、オレは此処にいる。オレは、それを選んだ筈なのに、時々辛くなる」
警察なんかに関わらなければ、こんな気持ちに苛まれる事もそれほど多くはないのだろうと思う。
犯人隠匿罪の最高刑は懲役2年。これは、親しい人間を庇う隠す事を想定した法律だから、決して重罪ではない。
罪を犯していたとしても、大切な人を警察に差し出す事は心情的に難しい。だってそれは、人として許されるであろう感情だから。
だけど、こうして警察と関わっていると、その度に罪を背負っている自分を否応なしに気付かされる。特に2課が慌ただしく動いているのを知ると、胸が苦しくなる。
積極的に彼等に協力している一方で、大きな裏切りを働いている。割り切れる程度には強いはずの心が、今夜は何故か罪悪感に揺らいでる。
全てを知られて、どんなに厳しい批判の矢面に立たされたって後悔しない自信はあるのに……!
「新一」
キッドが静かにその名を呼ぶ。
いつもはとても優しくて、大切な言葉のように愛おしげに囁くその声が、今は辛そうに震えているのを感じた。
新一は一瞬で後悔した。
「……ゴメン。今日のオレはどうかしてる。まるで気持ちが散乱していて……少し、八つ当たりしてた」
キッドを責めたいんじゃない。犯罪者でなければ良かったなんて思わない。
……新一が出逢ったのが、罪に手を染める前の彼ならば判らない。けど、新一が初めて彼と対峙したのは、一人の探偵と怪盗としてで。
彼の背負っている罪も業もひっくるめて、全てを愛してるのが、新一の真実でもあった。
そんな新一の気持ちは、自分には分不相応なものだとキッドは思っている。
立場が立場であるだけに、彼との道は一生交わる事はない。こんなにも間近にいるのに、互いが立っているフィールドは、それぞれ全く別の場所にある。
キッドが自分に負い目を感じる事は、愛する相手に失礼な事だから、そんな風には微塵も見せたことはなかった。
新一もキッドも、それぞれの生き方に誇りを持っている。それが正しいとは一概には言えないけれど、でも信じている。
人生なんて、後悔の連続だ。だけど、小さな後悔ばかり顧みて、一番大切なモノを見失う訳にはいかなかった。
「新一……。自分に耐えられなくなったなら、誰もが納得出来るように現場でオレを捕まえて警察に突き出せばいい」
これからは、お前宛にも予告状を送ると、そうKIDは言葉を続けた。
目的を達せずに捕らえられるなんてそんな情けない真似許せないけど。……でも、新一に捕まるのなら、大人しく檻に入ってやる。
キッドにとって一番大切なモノは、パンドラではなく、やはり新一なのだ。
もしそれで彼の中の罪悪感が少しでも払拭されるのなら、安いモノだとすら思った。
嘘のない、真剣な双眸が新一を射抜く。
そんなキッドに、新一は驚いたように瞳を見開いて……それからふと表情を崩した。
泣き出しそうに顔を歪めたのは一瞬で、その後双眸を軽く眇め、口元を意地悪く歪める。
「工藤新一が本気になったら、泥棒の一匹、とっ捕まえるのは造作もない事なんだぜ?」
殊更明るく、自信ありげに言い放つ新一に、キッドもつられるように笑った。
「なら、もし……万が一、貴方が私の舞台に現れて、『怪盗KID』を捕らえることが出来なければ、私は貴方への愛を疑いますよ?」
キッドは何者にも捕らえられない。そうして、生き続ける事が新一への証。
手錠を掛ける事は出来なくても、彼を確保する権利は新一にだけあると。これも一つの愛の証。
暗にそう告げてくるキッドに、新一は微笑う。
「ばーろ。……なめんなよ」
少し、拗ねたような顔で。
だから、何時かそうなってしまう前に、何処ぞの誰かに舞台から引き下ろされるような事には絶対になるな。
冗談めかした台詞。だけど、その瞳は真摯に見つめて言い放つ。
「私は、貴方以外の人間には、決して捕らえられません」
何時か貴方の手に掛かる事を望んで、これからを生きる。それも悪くない。むしろ素晴らしい。
いずれ罪を償う時はやって来る。……その時、己に引導を渡すのが最も愛しい人からならば、罪も極上の美酒に姿を変えるような気がした。
そう思うと、知らず知らずに笑みが漏れた。
「取り敢えず捕まった時は、神妙な表情(かお)してあげます」
そんなキッドに新一は穏やかに微笑うと、ぎゅっと強く抱き締めた。
窓の外に小さな気配を感じて、大気が静かに泣き始めたのに気付く。
新一は恋人の温もりに浸りながら、まるでそれに呼応するかのように、重々しい気持ちが流れていくのを静かに感じていた。
さっきまでの不快感が払拭されていく感じ。
……もちろん、今度は錯覚などではなかった。
NOVEL
2002.07.06
Open secret
/written by
emi