甘い懐柔
コンビニで「新商品」と書かれているポップが目を引いた。
新一はそこ立ち止まり、暫し考える。
考え込んだのはほんの数分。新一は小さく頷くと、それを数箱手に取った。
「これで宥められれば良いんだけど」
この程度では、ちょっと甘すぎるかな。とも思ったが、新一は敢えてそんな気持ちを無視してレジに向かった。
実はこの日新一は、恋人には内緒で外出していた。
別に、良くある事だ。相手が居ない部屋で待ち続ける程、新一は愁傷な人間ではなかったし、それに一緒に居る時は、なかなか外に出れない。
まるで共に過ごすのが自然な行為であるかのように彼は新一の隣に居たから、相手に強い束縛感を感じた事はない。
しかし、だからと言って、自分のやりたい事が出来なくなるのは困る。
事件で呼び出される時でさえ、彼はあまり良い顔をしなかった。表向きは理解のある態度を装ってはいるが、その実、かなり不満な表情を裏に隠している事を新一は知っている。流石に一緒に着いてくるとは言わないが、何時言い出してもおかしくないだろうと、新一は思っている。警察に行きたがる泥棒など……考えただけでも新一の寿命が縮みそうだ。
新一の外出を渋る恋人だが、彼自身が一人で出掛けなければならない時なども、こちらが呆れる程大仰に渋る。はた迷惑な事に、新一を一緒に連れていこうとする事もしばしばある。愛はあるが、そこまでは付き合いきれない新一は、そんな彼のどうしようもない子供じみた誘いを頑なに拒み続けてはいるが。……何時まで拒み続けていられるかは、正直分からない。
それでもまだ今の所は、恋人を宥めすかして追い出す事に成功している。
今日も彼は仕事の件で、午後から家を空けていた。
幸か不幸か、新一の元に事件が舞い込む気配はない。
ならば、と、この日新一は用も兼ねて、久方ぶりに帰省したのであった。
新一は、かのマンションへは、着の身着のままで半ば連れ浚われたかのように引っ越していた。よって、この家から持ち出した物と言えば、借りたままになっていた事件資料と文庫本が数冊。
生活必需品は引っ越し先に全て揃っていた。衣服など、着替えには全く困らないほどの量が用意されていた。
正直、喜んで良いのか呆れるべきなのか判らない程に。
恋人が用意したマンションは、新一にとって居心地の良い場所だった。ほんの数日間過ごしただけで、既に其処が帰るべき処となる程で、新一はいたく満足した。
その要因は、きっと恋人が居る所為なのだろうけど。
新一の嗜好を熟知していた恋人は、彼の好むであろう分野の書籍を山のように用意してくれていたし、その所為で寝室よりもかなり広い部屋なのに、周囲を書棚にで埋め尽くされ、こぢんまりとした空間になっていたにもかかわらず、居心地はすこぶる良かった。恋人が留守の時は、大抵新一はそこで過ごす。
その日も新一はいつものごとく書斎で過ごそうと思っていたのだが、兼ねてからもう一度目を通したいと思っていた事件資料の事を思い出し、自宅に帰ってきたのだった。
過去の事件は全てデータ化してディスクにまとめてあるので、持ち出すのは容易だ。マンションと自宅は往復で1時間程度。用だけ済ます事を考えれば、恋人が帰宅する迄に充分帰ってくる事が出来る。
新一はあっさり予定を変更して出掛けたのだ。
家に帰る前に、新一は一軒の小さな店に寄った。
米花町にある、地元の人ですらあまり知られていない小さな洋菓子店。
元々、住宅だったそこは、そこの住人の趣味のケーキ作りが高じて開いた店舗だった。洋菓子店と言っても看板はなく、一部ガラス張りになっているだけで、知らない人はまず気付かない。
それでも、近所ではこの店のケーキは絶品だと評判で、特に生クリームたっぷりの苺のショートケーキなどは、店に並ぶ先から売れていく。
個人でしかも趣味で開いている店だから、店に出す数も少なく、新一が通りかかっても大抵売り切れで閉まっている事がほとんどだった。
その中でも、毎日限定12個の『木苺のスペシャル生ケーキ』は絶品らしい。
新一は食べた事がないが、同居中の恋人が絶賛していた。
彼はまるで甘い物レーダーでもあるのか、と思わされる程、この手の嗜好品に関する情報は網羅している。新一自身、この町にこんな店がある事を彼から聞いたのだ。……でなければ、きっと一生知らないままだっただろう。
そんな彼でも、この店の限定ケーキを食べた事は未だ一度きりでしかないらしく、たまに米花町を話題にすると、必ずと言って良いほど、この店のケーキの事が飛び出す有様だった。
甘い物に興味のない新一だが、ここまで絶賛されると多少は気になる。……そんなに言うのなら、恋人の為に買っていってあげようと思う程度には、新一も恋人の事を想っている。
暇さえあればこの店に出向き、その度に閉まっている店の前で項垂れ、それでも根気良く通い詰めた。
新一の身では、朝一で向かう事なんて絶対に出来るはずがなく、しかも既に町を離れた身では足繁く通う事もままならない。
半分諦め掛けていたのだが……しかし、思いは通じるものである。
その日も、『Closed』のプレートの掛かった出入り口の前でがっくり肩を落としていると、たまたま見かけたのか、それとも見かねたのか、店の主人がわざわざ声を掛けてくれたのだ。
店の主人は、店の前で佇んでいる新一をしばしば見かけていたらしかった。
余程哀れに思ったのか、それとも別の理由なのか。
店の主人は、午後にしか来られない新一の為に、連絡を貰えれば特別に作ってくれると請け合ってくれたのだ。
その有り難い申し出に新一は申し訳なさを感じながらも、素直に喜び、一度だけその好意に甘える事にしたのである。
前もって連絡しておいたお陰で、何時もは閉まっている店の扉は開いていて、新一はそれだけで嬉しくなった。
客として初めて店内に入り、そこで目当てのケーキを2個買った。
何度も礼を言って店を後にし、ほくほく顔で久しぶりに自宅に戻った。毎月1度のハウスクリーニングのお陰で室内はそれ程汚れてはいなかったが、微かに埃っぽさが漂っていた。新一は窓を開けて風通しを良くすると、ディスクを取りに自室へ向かった。
──工藤邸のチャイムが鳴らされるのは、その10分後である。
突然の珍客は、新一に楽しい一時を与えてくれた。と同時に、恋人の為に用意したお土産を綺麗に平らげてくれた。幸せそうに食べる客に、新一はあげて良かったと思ってる。……ほんの少しだけ残念な気持ちなのは否めないが。
可愛い『ニセモノキッド』とその飼い主が帰る頃になって、新一も予定外に長居し過ぎた事に気が付いた。
「……拙い、かも」
もう既に、辺りは薄暗い。きっと彼は帰宅している事だろうと、新一はディスクを掴むと慌てて屋敷を後にしたのだった。
帰りにコンビニに寄って、それからマンションに辿り着いた頃には、日はとっぷり暮れて街灯に明かりが灯っていた。
玄関の前に立って、……恋人が既に帰宅している事を知る。
新一は無意識に眉を寄せ、それから静かに鍵穴に鍵を差し込んだ。
「……おかえり」
彼は既に玄関まで出迎えに来ていた。……出迎えに来たと言うよりは、そこで待っていたという方が正しいかも知れない。
表面上は何時ものキッドだが……明らかに黙って家を空けていた新一に不快感を感じているようだった。
「た……だいま」
新一は何気ない風を装い家に上がる。キッドの視線をかわすようにして、リビングへと向かう。
「何処行ってたんだ?……事件?」
何気なく訊いてくる。新一は「いや」と軽く首を振ると、キッドの方に振り向いた。
「ちょっと欲しいモンがあったから、家に帰ってた」
「……ふーん」
「これ、土産。普通のお菓子だけど」
手にしていたコンビニの袋をそのまま差し出す新一に、キッドは取り敢えず受け取る。それから徐に袋の中を確認して、ほんの少し機嫌を回復させたようだった。
「ありがとう、新一。嬉しい」
甘い物好きなキッドは、きっと10円チョコレートでも喜ぶのだろう。ちょっと単純な恋人に、新一は思わず笑ってしまった。
「メシ食った?」
「いや?」
パッケージを開けながら応えてくるキッドに、新一は呆れる。
この男には「ご飯の前はお菓子を食べてはいけないんだよ」という基本的概念が欠落しているようだ。
「食べる?」
コーヒーの風味のブラックチョコレートでコーティングされたスティックタイプのそれを嬉しそうに差し出す。新一がこの手の嗜好品は口にしない事をキッドは知っている。にも関わらず勧めてくるのは、純粋に好意なのか。
断る新一にさして不快を感じる事無くキッドは笑い、そのまま彼を引き寄せる。
「美味しいモノを食べ逃すと、人生損するよ?」
何が楽しいのか、にこにこ微笑いながら、キッドは新一と口唇を重ねた。
突然の行為にほんの少しだけ驚いた表情を見せた新一だったが、すぐに重ねた口唇を薄く開いて彼を誘う。
それを当然のように受け止めたキッドは目を細め、口唇よりもずっと熱をもった舌を口内に滑り込ませ、柔らかく絡ませた。新一もそれに応えるように愛撫を返せば、口づけは更に深くなる。濃厚に互いの舌を絡め合わせて、暫く間キスに没頭した。
互いが満足して、口唇が離れる。新一の息は上がっていた。
「……ふわふわの、あまあま」
余韻に浸りながら目を伏せていた新一は、ふいに発した恋人の言葉に顔を上げた。
「……何?」
ほんの少し掠れた声。
「パティスリー・フレイズの木苺生クリームケーキだ。……うん、間違いない」
キッドは一人で納得し、新一にもう一度キスをした。
何を言われたのか咄嗟に理解出来ず、何度も目を瞬かせながらも応える口づけは次第にまた深くなる。
「……やっぱりそうだ。オレの舌は誤魔化されない。新一、オレに隠れて自分だけ食べただろ」
名残惜し気に口唇離しつつもきっぱり断言すると、キッドは新一を抱き寄せたまま問いつめる。
詰め寄られた新一の方は、内心慌てた。
確かに新一は、キッド一押しの生クリームケーキを買った。それは間違いない。
しかし、食べたのは自分ではなかった。
2個しか買わなかったケーキの1個は可愛いニセモノキッドへ。もう1個は美貌の飼い主へ。
新一はそんな二人の傍でコーヒーを飲んでいただけなのだ。
だから、こんな風に責められる謂われはないはず……。
「……あ」
その時の事を回想していた新一は、ふと思い出した。
ニセモノキッドがさも美味しそうに食べるのは当然の事として、その飼い主までもがそのケーキの味を絶賛し、新一に一口分けてくれたのだ。
食べてみて損はないから、と。遠慮する新一にわざわざ新しいフォークを取り出して分けてくれた。
たった一口とはいえ、その味はすこぶる極上の、まさに『ふわふわのあまあま』だった。
「新一、よもや言い逃れするつもりじゃないよな?」
さっきまでご機嫌な顔して新一の買ってきたお菓子を振り回していたキッドは、その事など忘れたような顔して新一に詰め寄る。
確かに、一口でも食べたのは事実だ。
しかし。
実は「貴方の為に買ったのだけど、突然の来客でその方々に差し上げてしまいました」なんて、言った所でどうだというのだろう。
しかも相手はキッドが毛嫌いしている「快斗」だ。……あまり深く考えたくない。
「新一!」
食べ物の恨みは怖いぞ。と言わんばかりの声の響きに、新一は内心ドッキリしながらも、しかしその表情は嫣然と微笑ってみせた。
こういう場合、怯んだら負けである。多分。
それまで行き場が無く彷徨っていた新一の両腕が、しなやかにキッドの首に巻き付いた。ただてさえ密着している身体を更にすり寄せるようにして身を預ける新一の態度に、キッドは片眉を僅かに顰める。
「お前……常々、オレより甘いモノはないと言い放っていたけど……それは嘘だったのか?」
「それとこれとは全く別問題」
「ふーん。じゃあお前はその『ふわふわのあまあま』なケーキを取るんだ。……オレよりも」
「だ、だから、それとこれとは」
ほんの少し慌てた風に視線を逸らすキッドとのタイミングを計って、新一はそれまですり寄っていた身体をあっさり離した。
「良いんだよ、別に気を遣わなくたって。……オレも睦言を本気にしてたのがバカだったんだから」
オレの価値なんて、お前の好きな甘いモノに遠く及ばないって事は、最初から理解っていたんだよ。
大袈裟に溜息吐いて、これまた大きく肩を落とす。……その全てが芝居かがっていたのはわざとだ。
「新一……狡いぞ」
堂々と問題点をすり替えた新一の態度に、キッドは憮然とした表情を崩さなかった。しかし、そんなキッドの態度などモノともせずに彼の手からコンビニ袋を奪い取り、封が切られたお菓子を一本、手にとって差し出す。
「いらないの?オレがわざわざお前の為だけに選んで買ってきたんだけど」
キッドの目の前で左右に振って翳すそのスティックを、キッドは恨みがまし気に見つめていたが、いきなり新一の手首を掴んだ。
そのまま強引に引き寄せて、彼の手からその菓子を咥える。
パキン、と小さな音と共にそれは途中から折れたが、キッドは新一を離さなかった。
チョコレートがたっぷり掛かったそれを相変わらず憮然とした顔で咀嚼すると、まだ半分残っている新一の手元に視線を移し、それも頂く。
「美味しい?」
「……」
「美味しくない?」
「……新一には、遠く及ばないよ」
諦めたように呟くキッドに、しかし新一は満足気に笑ってみせた。
「じゃあ、食後のデザートはお前の好きな『アイスクリーム』にしよう」
意味深な微笑を浮かべつつ、そう言ってとぼける新一。
するとキッドは少し考え込む素振りをみせた。そして、すぐに彼の胸の内を正確に読み取る。
「冷たくて甘い……?」
「そう」
キッドの問いに新一は笑って応える。
冷たくて甘い、アイスクリームのような恋人。
「じゃ、それはゆっくり……ベッドの上で戴きましょう」
滅多にない恋人からのお誘いだから、取り敢えず今回はこれで満足しておこう。
渋々と言った態度で軽く肩を竦めながらも、キッドの顔が喜色満面なのは、言うまでもなかった。