尖晶石
相変わらずの月が天空から下界を仄かに照らす夜。約束のない待ち合わせを数え切れない程してきた新一は、今夜も彼に逢う為に、真夜中のビルの屋上へと赴いた。
……今日の標的は何だっただろう。最近新一の周囲は目が回るほど忙しくて、管轄外の泥棒の情報を入手する暇がなかったと今更ながらに思う。
只、一方的に送られてくる場所と日時を記したカードだけを頼りに、今夜も新一はこの場所にやって来たのだ。
地上に比べ高い場所に位置する此処は、少し風が強い。
そろそろ秋も深まってきたと、日頃の多忙にかまけて季節感を捉え切れていなかった新一は、時間の流れの速さを改めて思い知らされた。
腕時計が小さな音を立てて、約束の時間を告げる。
すると、それを待っていたかのように新一の目の前に真っ白な影が姿を現した。相変わらず時間に正確。まるで月を従えるかのように、新一の前に立つ彼は、世間で名を広く知られている大泥棒。
怪盗KID。
新一にとって、そして恐らく相手にとっても、唯一無二の存在。
「こんばんは」
先に声を掛けたのはキッドの方だった。それはいつもの事。言葉も行動も、何時だってこの泥棒が先手を打つ。
それは新一も嫌な訳ではなかったから、素直にそれを受け入れていた。
だけど、何だろう。
……今夜のキッドはどことなく奇妙な空気を纏っている。
「こんばんは」と発した声がどことなく固かったからだろうか。それとも、洗練された動きに微妙なズレを感じたからだろうか。
はっきりとは分からない。漠然とした感覚でしか掴めない。
しかし短くもなく、そして浅くもない付き合いのある新一がそう感じたのだから、それは決して気のせいなどではないはずだ。
いつものようにゆっくりと近付いてくるキッドに、新一も自らの足で向かう。手を伸ばせば触れ合えるギリギリの所でキッドは立ち止まり、それにつられるように新一も歩みを止めた。
彼の右手が静かに動き、新一の左手に触れる。そっと持ち上げるように恭しく触れてくる指先に、ここで気障ったらしく手の甲に口唇でも寄せようモノなら、蹴り飛ばしてやる。と身構えたのも束の間、新一の身体は彼の手に引っ張られ、勢い良く胸の中に抱き込まれた。
「──!」
突然の行動に一瞬視界が揺らいだ。
些か乱暴だった。
普段のキッドなら、焦れったくなるくらい優しくゆっくりと、包み込むように触れてくるのに。
今夜の彼は、まるで苛立ちや焦りのような感情を新一に伝えてくるようで、やはり今夜のキッドは奇妙だと確信した。
「キッド……何かあったのか……?」
仕事、仕損じたのか?そう、有り得ない事を訊く新一だったが、キッドは応えない。
まるで言葉は必要ないと言わんばかりに、強く抱き込んでくる。その背中に感じる腕が熱くて、新一の胸の中が次第に熱を帯びた。
男同士で身長差もそれほどない二人だから、抱き合うと互いの身体が余すところなくぴったりと重なる。新一の肩口に顔を埋めるキッドは、まるで彼に表情を見られたくないと言っているようだった。
新一が身じろぎすると、許さないとばかりに更に強く締め付けてくる。相手の呼吸を奪おうとしているようなその強さに新一は眉間を寄せた。じっと動かず、何も言わない恋人。新一は次第に胸に異物感を覚え、小さく彼の背中を叩いた。
「……キッド、痛い」
胸の中に何か入れてるだろ。……そんなに強くされると痛い。
小さく文句を言うと、漸くキッドは彼を自由にした。そっと腕を離して離れていく恋人に、新一の顔が益々曇る。
「なんて表情(かお)してんだよ、キッド」
──らしくない。
いつもは呆れるくらい自分を作っている彼が。
恋人の前ですら、格好つけた態度を崩さない彼が、今夜に限ってはその仮面を完全に外し、情けないくらい暗い顔で新一の前に居た。
「……マジで、仕事しくじったのか?」
今夜の仕事はそんなに大がかりなものだったのかと、情報を一切入手していなかった新一は内心気を揉んだ。
しかし、目の前の恋人は小さく首を振って否定すると、大丈夫だと告げた。
くるりと新一に背を向けて、キッドは月を見上げた。まるで栄養補給でもするように両腕を広げ、月の光を浴びる。
暫くそうして、それから「よし」と小さく声を出して、再び新一に向き直った。
「キッド……?」
「ゴメン、ちょっと自分の事考えてて、感情が収まらなかった」
先程までとは遙かに落ち着いた調子で告げるキッド。しかし、新一の感じた奇妙な影は消えてはいないようだった。
「今夜は、上手く行ったのか?」
失敗していれば、今此処には居ないはずなのだが、敢えて問う新一に、キッドは力強く頷いた。
「当然。……オレがちょっとした事でヘマするようなヤツに見える?」
まるでそれまでの感情を吹き飛ばすかのように、砕けた口調で話すキッドだが、新一の心は晴れない。
彼の何でもない風を装う態度に新一は苛立ったのだ。……バカにされてる。
「お前が、些細な事でぐらついて捕まるような半端な人間じゃない事くらい、分かってる。……けど、何も無かったみたいな顔してオレに言うのなら、最初から隠しておけ」
誰だって、時に脆さを剥き出す事はある。
だけど、追求されたくないのなら、そんな表情(かお)で新一の前に立たないで欲しい。
新一だって人間だ。誰よりも大切な恋人が心に何かを抱えている事実を知って、深く事情を知りたいと思わないでいられるほど、出来た人間ではない。
笑って隠されるくらいなら、泣いて全てを吐き出して欲しいと思う。
……けれど、目の前の男はそれが出来ない事を、新一は理解り過ぎるほど知っていた。
新一の冷たい態度。
そんな彼に、キッドは苦笑で返すしか出来なかった。
本当は、恋人に逢う前に心を吹っ切っておこうと考えていたし、吹っ切ったつもりだったのだが……彼の姿を目にした瞬間、情けないくらい顔が歪んだ。ポーカーフェイスが保てないくらいに、酷く心がざわめいた。
哀しいとか辛いとか苦しいとか。そのどの感情なのかはキッド自身にも判別つかなかった。
只、目の前の恋人に縋るように抱き締め、離したくなかった。相手がどんな感情に覆われるのかも考えずに。
「……ゴメン」
「誰も謝ってくれなんて言ってない」
怒ったように呟いた新一だったが、その表情は寂しそうに揺らいでいた。
「今日は、珍しい石が標的だったんだ」
ぽつりと、キッドが呟いた。まるで独り言のようにその声は風に乗って新一の元に届く。
「……?」
「あまり知られていない石。『神獣の炎』って言うんだけど」
キッドは胸の内ポケットをまさぐって、そっと宝石を取り出した。
月明かりに乱反射する赤。
「何?……ルビー?」
新一は近寄ると、恋人の掌の中にあるビッグジュエルを見つめた。
彼の宝石知識は、キッドには遠く及ばない。手の中にある美しく燃える鮮赤の色石を見つめて、思わず最も相応しいであろう名を告げた。だけど、彼は珍しい石だと言う。
案の定、キッドは笑って首を横に振った。
「違う、これはスピネルだよ。……ほら、『黒太子のルビー』って言ったら判る?」
「──ああ、あれか」
新一は納得したように頷いた。
黒太子のルビー。
中世イギリスの皇太子がスペイン国王から贈られたルビーは、現在、英国王室が所有する戴冠式用王冠にはめ込まれている。その158カラットものルビーが、鑑定の結果、実はスピネルであったと言う話は有名だ。
当時は、ルビーとスピネルの判別がつかなかった。ルビーと同一の場所で産出されていたのというのも一因だが、そもそも「スピネル」という宝石の存在そのものが知られていなかったから、間違われたのも無理はない。
「オレ初めて見た。……日本じゃあまり見かけないよな?」
石の名前は聞いたことがあったが、実際どういった宝石なのかまでは把握していなかった。新一の知識なんて、所詮その程度のものだ。
そんな恋人にキッドは苦笑する。
スピネルもれっきとした宝石だ。ダイヤモンドと同じ結晶系を持つそれは、ルビー、サファイア等と比べても遜色ない光沢と輝きを持つ宝石の一つだった。
複合化合物でもあるそれは、全ての色を揃えていて、ルビーに引けを取らない硬度も持ち合わせている。
ただ、知名度が足らないだけ。
「通りは良くないかも知れないが、希少性から言えばルビーやサファイアの比じゃないかもな。そもそも、日本のショップではなかなか見かけない」
ようやく、世界市場で注目されはじめてきた宝石だった。
キッドの講釈を聞きながらまじまじと見つめる彼の手にその宝石を持たせてやると、新一はキッドよろしく月に翳してみた。
「スピネルか……。オレは素人だから説得力はないけど、本当にルビーとそっくりだよな」
キッドが今宵奪ったスピネルは『黒太子のルビー』に遠く及ばない。しかし、それでもかなりの重さがあった。
「あまりにも似すぎているんだよ。……だから、イミテーションだと思われがちなんだ。特に宝石の合成化の進んだ最近じゃ、合成宝石とまで言われるし」
色の操作が容易であるというだけでだ。
飽きることなく真剣に魅入る新一にキッドは暗く問いかけた。
「その『神獣の炎』の神獣って何を指しているのか分かる?」
新一は暫く考え込むように首を傾げていたが、分からないと首を振った。
「キマイラって、知ってる?」
「……ギリシャ神話に出てくる想像上の生き物の事か?ライオンの頭にヤギの胴、ヘビの尾を持つ獣で……」
「そして、合成された生き物の代名詞としても使われてる……」
ふいに言葉を切ったキッドに新一は訝しむ。
合成された生物と、合成された宝石。
「……皮肉な名前付けるよな、人間って」
「キッド……?」
ふと、風が途切れた。
「……何かさ、似てない?」
「何に?」
小首を傾げる新一に、キッドはぽつりと呟いた。
「……オレに」
そう言って、さり気なく視線を逸らす恋人に、新一は少しだけ驚いて、次いで冷ややかな眼を向けた。
「……元々『怪盗KID』はオレじゃない。親父だった。オレはそんな泥棒が存在していた事すら知らずに、のうのうと日々を過ごしてきて、たまたま見付けた親父の形見とKIDという存在にそれほど深く考える事なく成り代わった」
まるで成り行きのように……理由は後からついてきた。
そんなキッドだが、彼は自分を『怪盗KID』の偽物であると思った事は一度もない。
KIDという存在を作り出したのは父親だけど、そして自分自身もKIDとして振る舞っているけれど……決して親をなぞっている訳ではなかった。
『怪盗KID』と最初から接している人間には、およそ20年前に現れたKIDと現在のKIDとは別人であると確信しているかも知れない。
ただ、確証が掴めないから誰もその事を言わないだけで……。
だから、例え真実が明るみに出たって、それはそれで構わないとキッドは思っている。
……否、そうじゃない。
──本当の自分はそれを望んでいるのかも知れないと、そう思っている。
「……一見、誰が見ても疑われない様に振る舞っている自信はある。だけど、どんなに頑張ったって、オレは親父じゃない」
「キッド」
「親父はさ、ルビーなんだよ。誰もが認める貴石でさ。そしてオレも人の目にはルビーに見えるんだ。だから、昔も今も『怪盗KID』に対する評価は変わっていない。……けど、オレはルビーじゃなくて、全く別の……見間違われるくらい似ているけれど本当はルビーなんていう有名な宝石じゃなくて、スピネルっていう、精々数百年前に名付けられた、あまり知られていない色石で……」
時折、強く自分を主張してみたくなるのだ。
自分は20年前に活躍した怪盗ではなく、全くの別人だと。
この石を標的に選んだ時、言いしれぬもどかしさが付きまとっていた。
宝石は宝石だ。他の貴石と遜色ない美しい色石。質も重さも申し分ないビックジュエル。
だけど、その存在にも名前にも、何処かしら紛い物であるという皮肉を加えられているようで、それが現在の自分の境遇と、強く重なって見えた。
目の前の恋人はキッドの正体を知っている。自分が何処の誰でどういった人間なのかを。
それだけでも、キッドにとってはとても危険な事で、そして堪らなく幸福な事だった。
無条件で、自分を晒す事が出来る彼の存在に感謝すらしている。……だけど。
新一は暫く手の中の宝石を弄んでいた。転がす度に艶やかな光沢を放つそれに視線を預けたまま動かない。
そんな新一の態度にキッドが焦れるように身じろぎした時、ふいに彼は視線を恋人へと向けた。
「……全く、何悩んでるんだか」
「新一……?」
「少なくとも、自分を安っぽいイミテーションだって言わなかった分は誉めてやる。これに例えるくらいは自信あるんだろ?」
自分に。
新一は、無造作に宝石を彼へと放り投げた。慌てて受けるキッドに尚も言葉を続ける。
「なぁ、キッド。……『黒太子のルビー』っていわれている石は、本当はスピネルだけど、誰も『黒太子のスピネル』なんて言わないよな」
ルビーではないと判明した現在でも、『黒太子のルビー』は『黒太子のルビー』のまま、王冠を深紅に飾っている。
「うだうだとそんな事考えずに、自分は昔のKIDとは別人たと言いたけりゃそう言えばいいんだ。……けど、例え皆がそれを知っても、誰もお前を偽物だなんて言わない。きっとな」
およそ20年前に世界をにぎわせた世紀の大怪盗も、21世紀を騒がせる怪盗も、ギャラリーはきっと彼を『怪盗KID』と呼ぶだろう。
それ以外の名など彼には相応しくない。
「お前への評価は何も変わらないはずだぜ、キッド」
やっている事が良いか悪いかは取り敢えず脇に置いておくけど。と、新一はそう言って僅かに口角を持ち上げて笑みを作った。
キッドはそんな風に言ってのける新一を見つめ、そして、掌の中の石を見つめた。
その深紅の宝石は、彼の掌の中で他の貴石と比べても遜色なく燃えている。
「オレが保証してやる。……それとも、オレでは不満か?」
そう言って笑う新一の前髪がふわりと舞った。
一際強い風が吹いて、二人の間に漂っていた空気をまるで一掃するかのように吹き抜ける。
キッドは彼の言葉に穏やかに微笑うと、ゆっくりと頭を振った。何時もの調子を取り戻して。
「どうやら私は、この石の辿ってきた運命を己に重ね過ぎてしまったようです。……本当に情けない」
「重ねたって構わないさ。……確かに悲運の石かも知れない。ルビーの偽物といわれ、合成されてイミテーションとして様々な石の代用品にされたりしてるけど、天然石の実力は認められてきてるんだろ?」
……そう言えば、国際的に行われている有名オークションでも競売に掛けられていると言う話を以前母である有希子から聞いた事があった。……落とせなくて悔しかったとも。
世の女性を魅了する程の石なのだから、遠からずその存在は広く知られる事になるだろう。きっと。
怪盗KIDもいずれ真実の存在が明らかになるのかも知れない。それは同時に、確保へと繋がる危険を孕む事になるに違いない。
しかし、それはそれで構わないと新一は思った。
捕まろうが逃げようが、新一はキッドと離れるつもりはない。二人の関係が世間に知られても、自分自身に罪が降りかかってきたとしても、その全てを受け入れる覚悟はある。
……そもそも、その程度の事で別れられるような相手であれば、最初からこんな関係にはなりはしなかった。
彼がどんな選択をしても、新一は止める事も否定する事もしないだろう。
「そんな事より」
「……何でしょう?」
わざとらしく咳払いをしながら声をかける新一に、キッドはゆったりとした仕種で訊ねる。
「所でお前は……只でさえ滅多に逢えない恋人を前にして……このまま何もせずに帰るつもりなのか?」
常日頃は、決して自らかけない新一の誘い文句に、思わずキッドの双眸が見開いた。
「……寒いんだけど、オレ」
ぶっきらぼうに、だけど目元をほんのり淡く朱に染めてぽつりと呟く恋人に、キッドの胸の鼓動が大きく高鳴る。
二三度瞬きを繰り返すキッドとは対照的に、何とも言えぬ風情で視線を逸らす新一。
キッドはふわりと微笑んだ。
「それでは、ご要望にお応えして、暖めて差し上げましょう」
気障でいて戯けた口調。手にしていた宝石は無造作にポケットに突っ込んで、寒そうに立ち尽くす恋人の許へと向かった。
焦れったくなるくらい優しくゆっくりと、包み込むように抱き寄せる。
胸に熱を感じ、そして甘く疼く。
触れてくる指先の愛しさに新一も満足げに微笑んだ。
抱き締められる甘い感覚に目眩を覚えた意識の片隅で、冷えた口唇がそっと触れるのを感じる。
先程までと変わる事なく柔らかく光を注いでいる銀色の月が二人の刻を包んでいた。