約束の場所





工藤新一が、かの泥棒の現場に赴くのは、決して正義感からではない。
彼の繰り出す予告の暗号文に惹かれた訳でもない。……確かに、多少の興味はあるが、それだけでこんな寂れたビルの屋上で、冷たい風と銀盤の月を友にして一人佇んでいる訳ではなかった。

理由は、言葉にならない。してはいけないような気がするし、出来る程にこの心がまとまってはいなかった。
何もないビルの屋上の、転落防止用に囲まれたフェンスが風を受けて軋んだ音を立てている。新一は首筋に感じた冷気に無意識の内に首を竦めた。

「そんな薄着でいるから寒いのですよ」
ふいに頭上から落ちてきた声に、新一は素早く顔を上げた。屋上よりもう一つ高い塔屋の上。白いマントが優雅に舞っていた。

「……KID」
彼だ。
逆光で、上手い具合に顔が隠れている。なのに、その口元だけが僅かにつり上がっているのが見て取れた。仄かな明かりに鈍く反射する片眼鏡、目深に被ったシルクハット。そして、いつもの白い服。全てが、彼が『怪盗KID』であると告げていた。

KIDは、新一の言葉を受けるかのように、ふわりと風を捉え、静かに屋上に着地した。新一のほんの数メートル先。
「相変わらずだな、KID」
彼は常にビッグジュエルと呼ばれる宝石を標的に、いくつもの犯罪を重ねている。今夜も例に漏れず、米花博物館に特別展示されていた巨大なエメラルドを盗み出そうとしていた。
その彼が、今新一の前に居ると言う事は、仕事が成功裏に終わったという事だろう。現場での指揮の杜撰さは新一も良く知っている。
警察も決して手を抜いている訳ではないのだ。しかし、相手が悪すぎる。コソ泥相手なら通用する戦術も、彼には効かない。

新一がそんな事をつらつらと頭に浮かべていた時だ。
「貴方は、一体何の為に此処に来るのですか?」
唐突にKIDが言葉を発した。疑問調でありながら、その表情は完全に消されている。
「何の為に……って」
「私を捕まえる為?──なら、貴方一人で来るのは不自然ですよね。昔の姿ならいざ知らず、今の貴方ならば、一声掛ければ何人でも応援を呼ぶことが出来る」
抑揚の無い声で、KIDは立ち尽くしたままの新一に一歩近付いた。

「それとも只の好奇心?……貴方にとって犯罪者が珍しい物とは思えませんが」
「……んなコト」
一際強い風が新一の言葉尻を浚った。突然起きたその風に新一の身体が僅かにバランスを崩す。

──その瞬間、目の前が純白に広がった。

「え……!?」
一瞬の事に、新一は何が起きたのか、状況を咄嗟に掴む事が出来なかった。気付いた時には背中に人の気配を感じ、と同時に身体は他人の手によって拘束されていた。
新一の眼前に居た筈の人物は、何時の間にか背後へと回り、そして真っ白な彼のマントが新一を包んでいる。
その状況に新一が対応出来なかったのは、己の両眼が閉ざされた所為だった。
KIDの掌が、彼の双眸を包むように塞いでいた。

「な、何を……!」
片方は新一の視力を奪い、もう片方は彼の腰に回され、それだけなのに、まるで羽交い締めにでもされたかのように新一の身体はビクともしない。

「貴方は、一体何の為に此処に来るのですか?」
「KID……?」
先程と同じ事を繰り返し訊かれ、……新一は返事に戸惑った。

彼を確保する為と、そう言えば収まるだろうに、何故かその言葉が出てこない。応援のいない、たった一人で赴いていたって、此処に来る理由にはなる。

でも、本当は違うのだ。本当の理由は彼を捕まえる為でも好奇心でもない。
新一は……。


「面白くねぇな」
「え……?」
ぽつりと漏らした彼の言葉に、新一は思わず頭を上げた。視界を閉ざされている所為で彼の表情は伺い知れない。
──しかし、明らかに……空気が変わった。

いつもの良く知る泥棒から、ふいに別人に成り代わったかのような感覚。身体を拘束され身動き出来ない新一は、その突然の変貌に内心震えた。

唐突に背中を強く押された。咄嗟の事に新一の身体は前のめりになって崩れるが、背後にいるKIDは彼を巧みに地面に跪かせた。新一は為す術もなく膝を折り、両手はコンクリート面に付いて身体を支える。
「……っ!」
背中を包み込みながら押さえ込む彼の行為に、新一の身体が己の意思に反して震えた。
「怖いの?震えてますよ?」
「……だ、誰がっ!」
新一は男から逃れるべく、相手の腹に肘を入れようと動こうとしたが、その前にKIDの指が彼の顎を捉えた。
ゆっくりと喉を反らすと、耳元にそっと口唇を寄せる。

「ほら、そんなに身体を硬くしてたら、何も出来ないじゃありませんか」
「……な、何……んんっ!」
耳朶に熱い吐息と、濡れた感触。柔らかい部分を甘噛みされて、新一は思わず声を上げた。
何をされているのか理解出来なくて、拒絶の言葉すら出てこない。

何が何だか分からない。

「こんな処に一人で来る貴方がイケナイ。それに、好奇心で近付かれては、後々の仕事に支障をきたす事にもなり兼ねませんしね」
「な、何を……」
耳朶から首筋へと熱く濡れた舌が行き来する。その感触に目眩を感じながらも、新一はKIDの言葉の意味を理解しようと必死になって考えるのだが、その傍から思考が霧散していく。
寒風吹き荒ぶ夜の屋上に居るというのに、身体が徐々に汗ばんでくる。



「やめ、ろっ……」
小さな衣擦れと共にネクタイが解かれ、きっちり留められていたシャツのボタンが一つ一つ、ゆっくりと外されていくのを、言葉で制止する事しか出来ない自分に歯噛みした。
「想像以上に滑らかな肌ですね。月の光に照らされて、一層艶めかしい」
手袋越しの指が胸の彩りを掠める。新一は息をのんだ。

「……や、やめっ」
「やめて欲しいなんて、思っていない癖に」
小さく笑いながらもぴしゃりと言い放ったKIDの言葉に、新一は思わず言葉を失った。震える新一の身体を余すことなく撫で回すKID。背後から覆い被されたままの新一の身体は、身を引く事も地面に突っ伏す事も出来ず、只身体を小刻みに震わせるしかなかった。

KIDの指が胸、脇腹、下腹部へと淫らに移動し、そっと下肢へと手を伸ばす。
「──っ!」
布越しにとは言え、男にとって最も敏感な部分に触れられ、新一の身体が思わず跳ねた。
身体の震えは相変わらずで、止まることはない。しかし、先程までの感覚とは全く違っていた。
信じたくない。しかし──明らかに身体が浅ましく反応している。

「くっ……」
そんな自分を認めるのが嫌で、新一はその感覚を振り払うかのように、両眼を強く閉ざした。この感覚から逃れたい一心、それだけで。
どうして、突然こんな目に遭わなければならないのだろう。頭の中で何度もその事を繰り返し、意識を保とうと必死になった。

そんな新一の態度に、相手は余裕のある笑みを漏らす。
「何を怯えているのです?……ほら、もっと素直になって」
視覚を閉ざすと余計に感度が上がる事くらい知ってるでしょう?

からかうように耳元に囁かれて、新一は思わず目を開いた。
しかし、静かに存在を主張し始めた新一自身が、衣服の中へと忍び込んだKIDの掌に包み込まれると、更なる痺れが全身を駆け巡った。
「ああっ……!」
掴んだ彼をゆっくりと扱き、殊更緩慢な動きで愛撫を施す。
「っく……はぁ……っ」
嫌悪を感じて良いはずの身体は、KIDの動きに併せるかのように自然に揺れ始めた。その動きにKIDは満足そうな笑みを漏らし、先程よりも強い刺激を送り込む。
「そう……我慢しないで、好きなように動いて……」
殊更甘い響きを乗せて囁く声に、新一は嫌がるように何度も頭を振った。
「誰も止めませんから、好きな時に達っても構わないですよ?」
「だっ……誰が」
「強情」
新一の態度にKIDは楽しそうに笑った。KIDの声と、直接される強い刺激。新一の心は精一杯抵抗した。しかし、肉体は自らを制御出来ずに呆気なく果てるしか無かった。

「や、あ…あぁっ!」
全てが初めての経験だった。誰かに触れられる事も、達かされる事も。

抵抗出来ない身体が惨めで浅ましくて、解放された後も小刻みに身体を震わせ、口唇を強く噛みしめた。
よりによって、男。しかも、しかも……!

「そんなに強く噛んだら、折角の形良い口唇が傷付きますよ」
そんな新一の心の内など我関せずに、KIDは相変わらず余裕綽々な態度で、新一の口唇にそっと触れてくる。

「も……離せ!」
やっとの思いで、そう吐き出す新一だが、当のKIDは苦笑を浮かべただけだった。

「……これからが、本番でしょう?」
「本番……?」
言葉の意味が判らずに後を振り向こうとした新一だったが、その前にKIDの指が口内に入り込んできた。

「さ、舐めて」
「──んんっ……!!」

突然の事に咽せそうになるが、KIDはそれを許さなかった。さらに奥へと突っ込んでくる。そうこうしている内に、KIDが新一の下半身を剥き出した。そして、口内を掻き回していた指を新一の口から引き抜くと、もう一方の口元へと寄せた。
「……な、何!?」
「力を抜いて……でないと、辛いだけだから」
言葉は優しい。しかし、その行為は容赦なかった。

「──痛っ!」
「今更の抵抗は無意味ですよ」
そう言いながら、KIDの指がゆっくりと、だが確実に新一の中へと消えていく。新一はそのあまりの事と痛みに身体を強ばらせた。

「……流石にキツイな」
KIDは一人ごちた後、あっさり指を引き抜いた。それから、胸の内ポケットから使えそうな物を取り出す。保護剤として何時も携帯しているそれをKIDは掌にたっぷりと出し、そのまま再び新一の身体に向かった。
「……っ、冷た……っ!」
「医薬品だから、代用にはなるだろう」
「な、何だ……」
得体の知れない異物感に怯える新一に、KIDの身体が覆い被さった。

「大丈夫。大人しくしていてくれれば、辛い目には遭わせませんから」
もう充分、辛い目に遭っている。と新一は言いたかったが、言葉にはならなかった。

元々、最初から満足に動く事が出来なかった身体。しかし、今のこの感覚は恐怖以外の何物でもない。
優しく囁くKIDの声に、殊更恐ろしさを募らせた。

「やめ……ろ、やめっ……!」
再び新一の身体の中へと消えていく、彼の細く長い、形の良い指。
ここにきて、よくやく新一は己の置かれている状況をはっきりと意識した。彼が一体何を求めているのかを。
それは、新一の知らない世界だ。……考えても理解出来ない事が、現実の自分に襲いかかっている。
抵抗は、与えられる痛みによって力無いものへと変わる。新一の意志とは裏腹に、次第に理性と思考が断続的になっていく。拒絶の言葉は呻きに代わり、何に対して許しを請えば解放されるのかも曖昧になっていった。
夢と現の狭間で、相手に与えられている痛みと、その奥に見え隠れする別の感覚が交錯する。

「ああ、とても滑りが良い。これなら、最初から使えば良かったかな」
再びもぐり込ませたKIDの指は、保護剤の力を借りて、易々と新一の内部に押し入って行く。
「さぁ、動いて。貴方の最も感じる処を教えて下さい。……それとも、捜し出して欲しい?」
両腕と膝を地面に付けたまま硬直したように動かない新一に、KIDは無遠慮に指を掻き回した。

「くっ……やっ、やめっ!」
今まで体験した事のない強い不快感。その感覚に身体が悲鳴を上げた。しかし、そんな新一などお構いなしに、KIDは指を何本ももぐり込ませ、無遠慮に這い回る。
有無を言わさぬ強引さで屈辱的な行為を続けるKIDに、新一の心は押し戻そうと懸命だった。

……なのに、次第に身体が意志に反して柔らかく変貌していく事に、新一は気付かずにはいられなくなっていた。

身体が相手に屈服したというより、それは防衛本能に似ている。
痛みを感じないよう、辛くならないように、身体が勝手に別の感覚を形成し始めるように。
そして、今までに感じた事のない感覚に、次第に思考も支配されていく……。

「……あっ…ん」
一際強い感覚に襲われて、新一は思わず声を上げた。それは、快楽の響きを含んだ甘い声。
「ココ?ココが良いの?」
「んんっ……!」
触れたその部分を何度も行き来して、新一は堪えきれずに甘い声を放った。身体が勝手に蠢く。
「自分で腰を振るくらい……そんなイイの?」
「ち、ちが……」
恥ずかしい言葉を耳朶に囁くKIDに、新一は何度も頭を振った。しかし、相手は楽しそうな含み笑いを漏らしただけだった。

「も……やめ……!」
「ウソツキ」
首筋に掛かる吐息にすら、新一の身体は快楽に震えた。これでは、心の内はどうであれ、少なくとも身体は嫌がっていないと相手に教えているような物だ。
新一はどうしようもなく、ただ必死に声を押し殺しすしか無かった。

それですら、KIDには媚態にとしか取れない。
倒錯的で淫靡で、KIDを昂ぶらせるには充分な美しい肢体。


「さあ…もっと気持ちよくしてあげます。……欲しいのでしょう?」
私を。と、そう告げるKIDだが、既に新一の思考は追いつかなかった。訳も分からず震える新一の口唇をKIDはそっと撫でると、彼の内部に入り込んでいた指を引き抜く。
「は……あぁ……」
初めはあれほどまでに拒絶していたソコは、引き抜かれることを拒むかのように、最後までしっとりと絡みついてきた。
「ちゃんとあげますから、心配しないで」
KIDは、たっぷり施された愛撫ですっかり溶けた新一のその部分に、自身を静かにあてがった。すると、まるでソレを待ち望んでいたかのように、彼の身体が押し開かれ彼を迎え入れようと蠢き始めた。
この時ばかりは、KIDは相手に対して気遣いを見せた。新一の身体を驚かせないように、なるべくゆっくりと腰を進めていく。
「余計な力は全部抜いて……」
強張ったままの身体を感じてそう忠告するが、新一は力無く首を振る事しか出来ない。
新一には、身体をコントロールする事など出来なかったのだ。

そんな相手の態度に、KIDは大した感情は見せなかった。
「そう……」
なら、仕方ありませんね。
KIDはそう言って軽く首を竦めると、今度は容赦する事なく力ずくで新一を貫き、深く打ち込んだ。

「ああぁっ!痛……っ!!」
それまでとは比べ物にならない、圧倒的な熱の塊をその身体に沈み込ませ、新一は悲鳴を上げた。
身体を壊されるのではないかと思うほどの激しい痛みの衝撃に耐え切れず、両眼から涙が溢れた。
「あ、もぅ……や、……いやだ……やめっ」
「何を今更。……手遅れですよ。感じているのでしょう?貴方の中にある私の存在を……」
「……い…言う…なっ!!」
「既に繋がっているのですよ。……ねぇ、名探偵」
「……っ!」
声にならない彼の息をのむ音を聞いて、KIDはゆっくりと動き出した。新一のその細い腰に何度も打ちつける。
新一は痛みに気を失いそうになるが、KIDはそれを許さなかった。
耐えきれずに嗚咽を漏らし、硬い地面に爪を立てて、必死に嵐が過ぎるのを待ち続けた。


もう屈する事しか、この悪夢の時を終わらせる事が出来ない自分自身に、新一は絶望の思いで受け止めるしか出来なかったのだった。











月は相変わらずの位置で、彼の身体に淡い光を注いでいた。
冷たいビルの屋上に一人取り残された新一は、投げ捨てられたままになっていたジャケットを引き寄せると、そこから携帯電話を取り出した。
通話を開いて、躊躇いもなく一人の男へと回線を繋げる。

相手との会話は数分にも満たなかった。早々に用件だけを告げると通話を切り、新一は気怠げな表情で夜空を見上げた。
冷たい風が新一の上を滑るように吹き抜け、徐々に身体を冷やしていく。

先程まではあんなに熱かった体温も、今は微塵も感じない。残っているのは、鈍い痛みと胸の中の戸惑いと、……そしてどうしようもない程の焦燥。
一人では立ち上がる事も出来ない身体は、冷たい地面に座り込んでいるしかなくて、そうしている事しか出来ない自分に叱咤してみても、どうしようもない。

新一は、先程まで自分の身に起きていた事を考えずにいられなかった。
今の自分には、それしか思い浮かばない。

「KID……」
無意識に呟いた名に、新一の胸は強く痛んだ。

……新一は犯されたのだ。男に、しかも、正体も知らぬ泥棒に。

屈辱的な時間だった。こんな目に遭うなんて考えた事もなかった。
こんな手を使われるなんて、今まで一筋だって脳裏を掠めた事はなかったのだ。


新一は掴んだままのジャケットを羽織ると静かに自嘲した。
何故だか分からないが、胸の奥が軋む音が聞こえてきそうで、嗤っていないと、泣き出してしまいそうで。

だから、新一は胸に手を押し当て、ぐっと堪えた。硬い地面を掻いた自分の指先が血に濡れている事に気付いたが、手当をする気にもならなかった。
顔を伏せ、一瞬でも良いから思考を閉ざそうと目を閉じた。


短く長い沈黙の時。

「工藤君!」
立て付けの悪いスチールドアを開け放って、大きな声で名を呼ぶ声に、新一は顔を上げた。
「……おせーよ、白馬」
少し掠れた、しかしそれ以外は普段と変わらない響きで相手に応える新一に、呼ばれた方は急いで駆け寄ってきた。

「大丈夫ですか、工藤君。……一体、何が」
地面に座り込んだままの姿に驚く白馬だが、新一は冷静だった。
「取り敢えず、肩を貸せ」
ぶっきらぼうに言い放つ声に言われるがまま白馬は肩を貸し、立ち上がらせる。

「指、怪我してますね。手当しないと……」
「それより早く帰りてぇんだよ、オレは」
相手に肩を貸してはいても、元々それ程重くない新一の身体は、白馬にとって負担ではない。
新一の言葉に頷くと、白馬は彼を連れてゆっくりと歩き出した。




白馬によって、運転手付きの高級車に乗せられた新一は、そのシートに深々と凭れると、小さく息を吐いた。その隣で白馬が救急キットを取り出し、彼の傷付いた指に細く裂いた包帯を巻いていく。
「そんな、大袈裟にすんじゃねーよ」
「傷口を放っておくと、後で酷くならないとも限りませんから」
嫌そうに眉を寄せる新一などお構いなしに、白馬は手早く治療を施していく。新一は抵抗する気にもなれず、成すがままに任せていた。

「所で……訊いても構いませんか?」
「やめておけ」
白馬の問いに間髪入れずに言い放ち、新一は瞼を閉ざす。

「強引にボクを巻き込んでおいて、それはないでしょう?」
電話一本で此処まで呼び出されたのだ。しかも、真夜中過ぎに。
「……お前だって、別に家で寝ていた訳ではないだろう?」
今夜は、彼が最も執念を燃やしている怪盗の予告日だった。

「だからこそ、です。今夜は大事な夜だと言うのに」
「……あそこに、来てたぜ?」
あの屋上に。と、ぽつりと呟く新一に、白馬は目を見開いた。
「え……?」
「だから、……そのお前が追っているヤツ」
「怪盗KIDが、ですか!?……でもまたどうして」
「お前、詰めが甘いんだよ。……状況重ね合わせて追っていけば、自ずとあのビルに辿り着けたはずだぜ?」
口の端に笑みを浮かべたままそれだけ言うと、新一はふと目を開いて窓の外を見やった。
真夜中過ぎた外の景色は、人工的な明かり以外に見えるものなどありはしない。

「工藤君……」
全ての指に包帯を巻き終えて、白馬は名残惜しそうに彼から手を離した。外音を拾わない高級車の車内には静かな空気だけが流れていた。
対向車のヘッドライトが車内を照らし、新一の愁いを帯びたその顔に艶やかな陰影が浮かび上がる。

「……なぁ、白馬」
ふいに新一が口を開いた。
「はい?」
「お前が、女とヤりたいと思う時って、どんな時?」
普段の新一らしからぬ唐突な問いに、白馬は一瞬返答に詰まった。
彼は、一般の成人男子と比較しても、その手の会話を好む方ではなかったし、第一そんな話題が二人の間に持ち上がった事もなかった。

新一の顔は相変わらず窓の外に向かったままだった。

「オレは、さ。3つあると思うんだ」
「3つ、ですか?」
戸惑いながらも応える白馬に、新一は軽く頷く。
「そう。1つは、相手に対する愛情から。2つは、只単に欲求を充足させる為。そして3つ目が……」
「3つ目が?」
「相手を屈服させたい時」
気に入らない相手に対し己の優位を誇示させるには、一番手っ取り早い方法だ。
それに、相手に最も強い屈辱感を植えさせる事が出来る。
窓ガラスに映り込んだ新一の顔が、自嘲めいた笑みを映し出していた。

「……あまり、感心しませんね」
「かもな。……でも、効果は絶大だぜ? きっと」
新一はそれだけ言うと、それっきり押し黙った。

白馬はそんな彼の横顔を黙って見つめていたが、小さく溜息をついて自分もシートに身を沈めた。
二人の会話が消えた車内は再び静寂に包まれ、それは工藤邸に着くまで破られることはなかった。











家に着くなり何かと手を焼きたがる白馬を、新一はさっさと追い出して一人になった。
家の中なら、別に這っていたって誰も文句は言わない。新一は、引きずるようにして身体をバスルームへ運び、両手が濡れるのも構わずに熱いシャワーを浴びた。
着ていた衣服は全てゴミ箱に突っ込んで、パジャマに着替える。今から寝るには遅く、だが朝にはまだ早すぎる時間。
だが、新一は構う事なく疲れ切った身体を休めるべく、自室へと向かった。

本当は、頭の中が混乱してどうして良いのか判らなかった。身体の痛みのある内は、それだけに集中していられたが、その元凶まで遡ると、途端に胸が軋みを上げた。

ゆっくりと身体をベッドに横たえ、静かに息をついた。しかし静かな空間は、思い出したくもない情景を脳裏に浮かび上がらせて新一を包み込む。

今夜、この家を出る時には考えられもしなかった事。自分がこんな風に戻ってくる事になるなんて。


彼の新一に対する行為は許せない。だが、KIDが何故自分にあんな仕打ちをしたのか、それは理解していた。
……恐らく、邪魔だったのだろう。工藤新一の存在自体が。
白馬のように真剣に怪盗確保に奔走する訳でもなく、気の向いた時にだけふらりと姿を現すような新一の存在を、あの泥棒は忌んでいたのだろう。
気まぐれなその態度に嫌悪していたのかも知れない。
しかし、新一はそんな相手の事などお構いなしに、彼の聖域を侵していたのだ。

そう考えると、嫌がられて……嫌われて当然なのだと、新一は思った。

「……そんなつもりじゃ……なかったんだけどな」
慎重に寝返りを打って、新一はぽつりと漏らした。
気になっていただけだった。捕まえたいとも、盗んだ宝石を取り返す事も考えた事はなかった。

ただ……会いたかった。彼に会いたかった。
周りのギャラリーと同じだ。新一も、心の何処かで彼に熱狂していたのかも知れない。
いや、そんな者達よりも、『探偵・工藤新一』という人間はタチが悪かった。

なまじ相手の行動の先が読める為に、誰よりも近い場所で彼と相見える事が可能だった。姿を現してくれるかどうかも分からない彼を、ギャラリーに紛れて見物するよりも、もっと近く、もっと確実に彼を見たい。
そして、彼にも自分という存在を知って欲しい。
敵とか、見方とか、……そんな割り切った形で区切るのではなく、只純粋に彼と会い、話をしてみたかった。
……それまで彼と会ってきた新一の気持ちの背景は、そうだった。


だけど、今夜のあの男との時間は何時もと違った。終始戸惑い、混乱し続けていた。
あんな事、されたい訳じゃなかった。もっと、強く抵抗する事だって出来た筈なのに、現実は考えが及びもしないあの行為を拒否し続ける事が出来なかった。

何故なら新一はあの時、頭の奥で拒み切れない自分自身と向き合っていたのだから。

あんな事を望んだ事は、只の一度もない。……なのに、心の何処かがそれを享受した。それが出来たのは、相手に対して起きるであろう強い嫌悪感が沸いてこなかったからだ。
もちろん、屈辱感や嫌悪感と言った感情が存在しなかった訳ではない。しかし、現実に抵抗を続けるには、あまり希薄だった。むしろそう言った感情は、彼が姿を消した後からついてきた。……まるで、そう感じなければならないと、理性が判断したように。
考えてみれば、それは不思議で、おかしな事だった。普通なら、好きでもない人間、しかも同性に陵辱される事など受け入れられる筈がない。

その時、ふと新一の脳裏をある思いが過ぎった。

嫌いな人間なら、何が何でも抵抗していただろう。例えその相手が友人であったとしても、やはり受け入れられるものではない。
あの行為は友情なんかでは甘受出来ない。

……なら、何なら受け入れられるのだろう。
そこまで考えが及んだ時、新一は呆気ないほどあっさりと気が付いた。

「好き、……だったんだ」
ふいに脳裏に浮かび上がった言葉が、新一の口をついて出た。
その言葉に吃驚した新一は、ようやく胸の中にわだかまっていた表現しようのない気持ちを自覚した。

これは、『恋』だ。本来ならば、異性に対して生まれる感情。理性では抑えきれない感情……。

「そ……か。そうだったんだ……」
だから、あんなにも気になっていたのだ。
捕まえる気も、宝石を取り返す気もなく、ただ会いたかった。たったそれだけの衝動に突き動かされて、あのビルへと赴いていた新一。
しかし、一度その事に気付くと、今度は胸の奥に言い様のない寂寥感が広がるのを止める事が出来なかった。


KIDは、気に入らない女を滅茶苦茶にしてやりたいと犯す男と同じように、新一に対してそうしたのだ。
相手が男だろうと女だろうと、そうされる事の精神的な傷に違いはない。
流石に新一は男だから『汚された』とまでは感じないが、男としての自尊心はずたずたに引き裂かれてしまった。屈辱と悔しさ。怒りと苦しみ。そして、その奥に潜む哀しみ。

犯された相手に好きを自覚して、新一はどうしようもない気持ちで胸が一杯になった。
これは、屈辱以上に惨めだった。
……『好き』だなんて、気付くべきではなかった。

気付かなければ、怒りを相手にぶつけるだけで済んだのに。
こんなに心が激しく揺れる事もなかったのに。


「……っ」
新一は絶えきれなくなって強く目を閉じると、この想いが消えてくれる事を強く願った。











ふいに何かを感じた。
頭は冴えていても、休息を強く欲していた身体に引きずられるように睡魔に身を任せていた新一は、何かの気配を感じたような気がした。

半覚醒のままではあったが、瞼を押し上げる。
いつもの見慣れた天井を暫くの間ぼんやりと見つめていたが、小さな衣擦れの音を聞いたような気がして、ゆっくりと頭を横に向けた。

「……」
視界に広がったのは、白いものだった。一瞬何なのだろうと首を傾げるが、すぐに思い至った。
白いマントだ。純白で光沢の放つ見慣れたマント。少し視線をずらすと足元が見えた。そのままゆっくりと視線を上げると、今夜新一が出会った時の泥棒が立ち尽くしていた。

ただ、先刻までとは少し違うのは、何時も皮肉気に浮かべている微笑がなかった所だ。……彼は、何故か酷く辛そうな、悲しそうな表情をしていた。
新一は、寝ぼけた頭ですぐに思い当たった。……これは夢だと。

でなければ、KIDが新一の部屋に居る訳はない。存在の仕方があまりにも突飛過ぎる。
と同時に、新一は自分の思考の浅ましさに情けなくなった。

好きなオトコの事を考えていただけで、あっさりそれを夢見る自分の思考があまりにも単純で……だけど嬉しかった。

「新一……」
KIDの声を聞いて、ああ、やっぱり夢なんだと思った。KIDは、今まで一度だって、新一を名前で呼んでくれた事はなかったから。
そうだな。やっぱり、名前を呼んで貰えると嬉しいものだよな。と、新一は頭の奥でそう思い、小さく微笑んだ。

夢の中であろうとも、彼がそう呼んでくれた事には違いない。それが、勝手に作り出した新一の空想であろうとも、ないよりはずっと良い。

新一はベッドからゆっくりと腕を出すと、KIDに向かって指を伸ばした。
別に何かをしたかった訳ではない。無意識の行動だった。彼の存在をこの手で確かめたかったのかも知れない。
伸ばした指先に気付いたKIDは、すぐに跪くとその手を取った。
手袋越しのその手は明らかな質感を新一に伝えていた。

「夢でも……暖かいな」
新一は嬉しそうに笑った。そっと包み込んでくれるその掌の感触が堪らなく愛しい。
夢に見る程好きなのだ。どうしようもない仕打ちをされても、好きな気持ちが打ち消される事はないのだ。
他人が見たら滑稽かも知れないその想いが、今の新一は一番大切なものだと思った。

「新一……指……」
指先に施された包帯に気付いたのか、KIDが震える声で呟く。
「ああ、気にするなよ。……別に大した事じゃない」
こんな風に新一を思いやるKIDなんて、本当のKIDじゃないよな。と、そう思いながらも、新一は嬉しそうに微笑った。
都合の良い新一の夢は、何処までも都合良く出来るものらしい。
優しいKIDが新一の理想なのだろか。……そんな風に考えた事などなかったが、優しくないよりは優しいほうが良いとも思った。

KIDの掌が新一の指を優しく撫でる。
「新一……許してくれ……」
押し殺したような声が新一の鼓膜を刺激した。しかし、新一は何の意味かも判らずに彼の顔を見上げる。
シルクハットにモノクルを付けた新一の良く知った彼の顔は、何処か自分に似ていた。

……流石に見た事のない顔では、夢で補完は出来なかったらしい。
そう思うと、益々これが夢の世界だと確信させられる。

夢。都合の良い夢。……新一だけが見ている夢。
自分の夢ならば、何をどうしようとも許される。新一の自由に出来る。

新一は、KIDの何処か何かを思い詰めたような暗い表情など、見たいとは思っていなかった。いつものように自信ありげな笑みを湛えていてくれたほうがKIDらしい。きっとそんな彼を自分は好きになったのだから。

「KID……どうして、そんな表情(かお)してるんだ?」
「新一……?」
「笑えよ。……オレ、お前が笑っていてくれた方が嬉しい」
「し、んいち……!」
触れていた新一の指先に、KIDは堪らず口唇を押し付ける。そんな彼の態度に新一は驚いて半身を起こしかけて、身体の痛みに再びシーツに舞い戻った。
「新一!」
慌てて枕元を覗き込むKIDに、新一は何でもない風に笑って見せた。
「大丈夫……ちょっと、吃驚しただけ」
「ゴメン……」
頭を垂れるKIDのモノクルの飾りが小さく揺れた。それをぼんやりと眺めながら、新一は頭を振った。
「本当に……気にしなくても良いんだ。オレは今、嬉しいんだ」
穏やかな瞳がKIDを映し出す。
「これは夢だから。……オレが見ている都合の良い夢だから、そんなにオレの事、気に掛けなくても良いんだ。オレ、今スゴク幸せだから」

折角の夢なのだから、KIDが思い悩む事なんてないのだ。彼は微笑ってくれていた方が良い。
その方が新一も幸せに浸れる。

「新一。新一、私は……」
「でも、折角の夢だから、言っても良いかな?」
何をしたって構わないよな?
誰にも文句なんて言わせない。
新一は、不安気に覗き込んでくるKIDの頬をそっと撫でてみた。
暖かな体温が、包帯の巻かれた新一の指に伝わった。触れても消えない、その夢に新一は感謝して、ゆっくりと口を開いた。

「KID……オレは、お前が好きだ。好きだったんだ、ずっと前から」
今まで気付かなかったけれど、本当は好きだったんだ。
だから、決して気まぐれでお前の現場を荒らしに行ったのではない。
ただ、会いたかっただけだから。会うだけで構わないと思う程……。

穏やかな瞳のその奥の真摯な想いに、KIDは一瞬言葉を失った。
彼の双眸が信じられないと言うかのように大きく見開かれ、そんな彼に新一は少し不安になった。

夢だからと言って、自分が思い描いているように事は進まないものかも知れない。いや、その方が断然多いのだ。
今更ながらな事に気付き、新一は内心胸が軋んだ。

しかし、そんな新一の思いなどお構いなしに、KIDは落ち着きを取り戻したかのように小さな息をつくと、新一に告げた。

「新一……私も、……私も好きです。貴方が……」
「──ああ、やっぱり夢だ」
新一はそう言って穏やかに微笑った。

「いくら何でも、アイツがオレの事好きって言う筈ないもんな」
「新一、私は……っ!」
「でも、嬉しい」
夢の中だけでも好きって言って貰えた。すごく嬉しかった。

「も……充分だ」
何時目覚めても良い。
ちゃんと夢だと自覚しているから、目が覚めても哀しくなる事も虚しくなる事もない。
ああ、良い夢だった。と、微笑っていられる朝を迎えられる筈だと。

「新一、ちゃんと私の言葉を聞いて……」
「分かってる。スゴク嬉しいから。……もう、これ以上何も望まないくらい、嬉しい」
ゆっくりと瞼が閉じていく様を、KIDは戸惑いながら見つめていた。
穏やかに、口元が微笑んでいる。その口唇から零れる吐息は次第に静かになっていった。

「新一……!」
ゆっくりと、眠りに身を委ね始めた新一に、KIDは慌てて声を掛けた。
正真正銘、夢の中へと向かう彼を引き留めるように、その滑らかな頬に指を滑らせた。

「新一、眠る前に……これだけ、覚えておいて……」
「……ん」
吐息とも返事とも付かぬ新一の声が漏れる。KIDは構わずに彼に何事か告げた。

既に、意識があるのかどうかも分からない程、深い眠りに誘われつつある新一は、ただ穏やかに微笑しただけだった。


幸せな、これは夢だから。
今だけは、この気持ちに身を浸していたい。……それくらいなら、許される。誰も文句は言わない筈だ。



新一は、己の描いた夢の中で、ほんの一時の幸福を得たのだった。











身体はなかなか元のようには戻らなかった。いつまでもまとわりつく違和感。もしかしたら、それは身体の所為ばかりではないのかも知れない。
なら、この感覚は、この先ずっと抱いて生きていかなければならないのだろうか。

だけど、今の新一は幸せだった。

自分が哀れに感じる時もあった。新一は自分が生み出したモノに、縛られているのかも知れない。
しかし、それでも構わなかった。


あの夜、新一は夢を見た。あくまで己に都合の良い、それはそれは幸せな夢だった。
自分で生み出した夢(モノ)に、新一は喜々として囚われた。それくらい許されるのではないかと、そう思ったから。

そして、夢はあの夜だけでは終わらなかった。夢見たのはあの一夜だけだったが、記憶の最後に残るKIDの言葉が、新一に今暫くの夢を見させた。
あり得ない現実ではあるけれど、それを理解った上で行動するのも悪くない。無駄足に終わる事は最初から分かりきっている事だった。……しかしそれ故に、新一は失望という二文字を考えずにいられた。

これは遊びのようなものだから。
自分だけにしか分からない秘密の遊び。


新一の身体は、あの日あの夜から丁度一週間後の同時刻、再び同じ場所にあった。



誰もいない、雑居ビルの屋上。あの夜、新一が此処で怪盗KIDに手痛い苦痛を与えられ、そして恋を自覚した……その場所。
屋上は、相変わらず肌寒かった。時折強く吹く風が、更に新一の体温を奪っていく。しかし、苦にはならなかった。

だって、此処は約束の場所だから。

夢の最後に、彼はこう言ったのだ。
── 一週間後の同じ時刻に、あの場所でもう一度逢おう……と。


それが夢の出来事だと言うことは判っている。……だから、そんな言葉を真に受ければ無駄に終わる事など、容易に予測出来た。
だけど、新一はこの夢を最後まで大事にしたかった。

この一週間、新一は幸せな気持ちで過ごしてこられた。
何だか、本当に彼と待ち合わせの約束をしたみたいに、心が浮かれた。
独りよがりなのは承知しても、この約束を忘れることは出来なかったし、忘れるつもりもなかった。

KIDは新一を嫌っている。あんな手を使ってまで、新一の存在を遠ざけようとしたKIDだ。彼は二度と新一の介入を望まないだろうし、介入させる気もないだろう。
現実に恋した相手には、きっと、もう二度と会えない。

それを思うと堪らなく胸が痛んだ。心の中に冷たい風が何度も吹き抜けた。

だからこそ、新一は此処に来たのだ。彼への想いを断ち切る為に。
振り切るのだ。この一夜を最後に全てを忘れて、もう一度前を向いて歩いていく。
だからこれは、その為の……新一なりのケジメの儀式だったのだ。


来るはずのない待ち人を、新一は屋上のフェンスに身を預けながら待ち続けた。
一週間前は満月の夜だった。今夜の月はスリムになっていたが、その姿は相変わらず滑らかで女性的に見えた。
新一の恋した人は、そんな月に愛されている。……そうだ、彼にはそんな女性が相応しい。
そんな、とりとめのない事を考えていた時だった。

──かつん。と、コンクリートが小さな響きを立てた音を聞いたような気がした。


「……?」
誰も来るはずのない場所だから、どうせ風の音だろうと思いつつも、暇を持て余していた新一はゆっくりと振り返った。
新一の背後にあるのは己の影だけ。ぼんやりと映し出されているそれに苦笑し、再び都会の夜の海を覗き込もうとしたその時、──強く、なのに何処か控えめな人の気配を肌に感じた。

屋上に人の姿は見えない。……しかし。
新一は、まさかとは思いつつも、恐る恐る上を見上げた。

「──!!」
新一は、信じられないモノを見たかのように、大きく目を見開いて驚愕の表情を浮かべた。

屋上の……塔屋の上に人が居る。……白い影。
あの夜、あの時と同じ情景が新一の目の前に起こったのだ。

「……んな……まさか」
KIDだ。──彼が、存在る。


KIDは、あの時と同じように軽やかに飛び、屋上に着地すると驚愕に目を見開いている新一に視線を向けた。
逆光で、顔も表情も分からない。だけと、彼が小さく口唇を震わせたのは見えた。

「……しん、いち」と、今の自分にとって、信じられないくらいに都合の良い言葉が聞こえたような気がした。新一は、そんな自分の聴覚が可笑しくて、そして不愉快になった。

これ以上、惨めな自分を支え続けることなんて出来ない。


どうして、思い通りに行かないのだろう。どうして、夢ですら夢のままで終わらせてくれないのだろう。
新一は、本気で彼に会いたいと思った事は一度だってなかった。本当の彼は、新一を嫌い厭い……唾棄すべき存在なのだから。
……ほんの僅かな間ですら、夢を夢のままで終わらせてくれなかった現実に、新一は切なく頭を垂れた。

彼は新一を犯したのだ。それは男としての存在を覆す出来事だった。恐らく新一は、その事を一生引きずって歩く事になるのだろうと思う。こんな事、早々に忘れられるものではない。
しかし、だからと言ってその事に振り回されたくはなかった。

目の前の男は、降り立った位置から一歩も動くことなく佇んでいる。
新一は小さく決心した。胸の中にある諸々の感情を抑え付けて、ゆっくりと顔を上げた。

「奇遇だな、KID。……何か此処に忘れ物でもしたのか?」
いつもとは全く違った、馴れ馴れしいとさえ感じる口調で新一は言葉を放った。その口許にうっすらと笑みを浮かべたままで。
これが現実なら、この目の前に居るのが現実のKIDであるのなら、相手に怯んではダメだ。
例え彼が征服者として新一の前に君臨しているのだとしても、だからと言って彼の態度に呑まれてやる義理はない。

一週間前の事など何も無かったかのように振る舞う新一に、目の前の男は相変わらず佇んだままだった。
否、どちらかというとそれは、立ち尽くしていると言った方が良さそうだった。何故なら、彼に対して常に感じている覇気や、張りつめたような緊張感が、今は全くと言っていいほど感じられなかったからだ。
……まるで、『怪盗KID』の衣装だけ身に纏った別人のような、新一はそんな錯覚すら覚えた。

怪訝に感じて、新一が一歩足を踏み出そうとした時だった。
「……良かった」
ぽつりとKIDが呟いた。

良かった?……何が?
新一には理解出来ない。

眉を寄せる新一に、KIDはすっと顔を上げると、彼もう一度同じ言葉を繰り返した。
「良かった……来てくれたんだ、新一」
「……何?」
「不安だった。……あの時の新一は、まるで眠っているようで、夢と現実の区別が無いようだったから」
もしかしたら、来てくれないかも知れないと、KIDはそう言葉を続ける。

新一は、目の前の男の言葉に声を失った。

一体、彼は何を言っているのだろう。
あの時って、何時?眠っているって、誰が?
内心の戸惑いを隠したまま、新一はKIDを見つめていた。思考が、上手く働かない。

「新一」
「……お前、一体何を言っている?」
こちらに向かって歩き出したKIDを牽制するかのように、新一は声を上げた。
「何をって……新一、約束した。此処で会おうと」
だから、貴方も此処に来たのでしょう?
そう小さく微笑むKIDに、新一は尖った視線を緩めなかった。

── 一週間後の同じ時刻に、あの場所でもう一度逢って欲しい。
彼は、新一にそう言った。
……だけど、あれは。

「……夢だ」
そうだ。あれは、新一が作り出した、都合の良い幻想夢。
「夢?」
怪訝に首を傾げるKIDの態度が、新一の勘に障った。
この男は、あの時と同じようにまた自分を弄ぼうとしている。あれだけでは飽き足らずに、更に新一を貶めようと手をこまねいている。

これ以上彼の手に、堕ちる訳にはいかない。もう、新一は泣きたくなかった。

二人が対峙する屋上に、一際強い風が吹いた。吹き付ける風に、新一は片腕を翳してやり過ごす。KIDの白いマントが耳障りな程の音を立て、ばさばさと大きくはためいていた。

「用がないのなら、失せろ。オレの時間の邪魔をするな」
風が収まった後、冷ややかに告げる新一の声に、KIDは嬉しいとも悲しいともつかない曖昧な表情で見つめてきた。
そして、ゆっくりと首を振る。
「此処へは、用があって来たのです。……貴方に逢う為に」
まるで何かを吹っ切るかのように、新一に向かって歩き出す。
「オレに用はない。……来るな」
一歩足を引きかけて思い留まり、そう言い放った新一だが、相手の足は止まらない。
「なら、何故貴方は此処に来たのです。……此処は何よりも赴きたくはない場所ではないのですか?」
触れて欲しくない事を言外に匂わすKIDに、新一は口唇を噛んだ。

そうだ。彼の言う通りだった。新一はあの夜、この場所で、力によって屈服させられたのだ。
忘れたいと願う新一にとって、この場所は鬼門に他ならない。

だけど、それでも来たのは……此処が彼との約束の場所だから。
夢の中で出会ったキッドと交わした約束の場所だから。

そう何度も自分の心に言い聞かせていた新一は、既に間近に迫っていた男に気付くのが一瞬遅れた。しかし、遅れたからといって、自分から逃げるような真似はしたくなかった。これ以上、自ら自尊心を傷付る行動をするのも、相手に傷付けけられるのはゴメンだ。
しかし、腕力で彼に勝つ事は出来るはずもなく、只睨み付ける。

そして新一の双眸が、彼の表情をはっきりと捉えた。

「……」
不思議な表情(かお)をしていた。
常日頃接していた時の彼とは全く面影の違う、曖昧な表情。
新一は何時も彼の皮肉じみた表情や、傲慢不遜な態度しかお目にかかった事がなかった。何時だって、探偵を……新一をバカにしているかのような嫌味な微笑で切り返すその態度。

その彼の不遜な態度に、何時だって新一は不愉快になったり、……時にそれが彼に相応しいと感じていたり。
新一の知っている「怪盗KID」らしい振る舞いに、心の奥で満足すらしていた。

そんな彼が、今は新一の知らない顔で自分を見つめている。
その態度が奇妙で、無意識に新一を心を揺さぶった。


「新一……」
はっきりと、囁かれる声。
「お前に呼び捨てにされる覚えはない」
新一がそう言うと、目の前の男の双眸が無様な程に揺れた。……こんなの、彼らしくない。
だけど、新一の言葉に応じる事なく、もう一度彼は「新一」とその名を呼んだ。
「貴方が私を厭うのも理解しています。だけど、今だけは私の話を聞いて下さい。……私が貴方に行った酷い仕打ちのその理由と、此処に来た訳を知って欲しい」
「そんな事……」
聞きたくなかった。

新一は、全てを否定するかのように頭を振った。
知りたい、彼の言葉から全てを知りたい。でも、知りたくない。知ったら、全てが壊れてしまいそうで、それが怖い。

何も言わずに立ち尽くす新一に、KIDは勝手に肯定の意と取った。KIDの方も、そうしなければならない理由があったのだ。
何も言わなくても良い。ただ、聞いて欲しい。

KIDは静かに口を開いた。
「貴方は何時だって気まぐれに現場にやって来る。その事に対して、私がどんな気持ちで居たのか分かりますか?」

彼の言葉は穏やかだった。しかし、その言葉に新一は声を失う。
今でこそ分かる事だが、その時はそこまで考えが及ばなかった。彼の聖域を無断で、しかも土足で踏み込んでいる事に。
「……確かにオレは、中森警部のような仕事としての追跡も、白馬のような強い執着心もなかった。中途半端な気を向けて、お前の前に現れた。そのいい加減な態度でお前と接していた事には……悪いと思っている」
新一は只の一度だって、彼に手を伸ばした事がなかった。……捕まえようなどという、普通の人なら感じる筈の当然の行動に繋がらなかった自分は、とてもいい加減であったと思っている。

だが、その言葉を聞いたKIDの反応は、新一の予想とは大きく異なっていた。

「そう。貴方は何時だって気まぐれに私の前に現れた。警察やあの探偵のように私を確保する為に追い詰める訳でもなく、かといって私に執着している訳でもなく……ふらりとやって来ては私との邂逅に満足し、そして去っていく。……貴方にとって、私という存在は一体何なのかと思いました」
穏やかな夜風が、彼のモノクルの飾りを小さく揺らした。
「貴方にとって、『怪盗KID』という存在は単なる暇つぶしに過ぎないと、それくらいの事、私もすぐに理解出来ました。……私はそれでも構わなかったんです」
「……KID?」
「構わなかった。気まぐれだろうと暇つぶしだろうと、貴方に逢えるだけで……それだけで良かった。それだけで嬉しかった。幸福だった」
当たり障りのない会話ですら、KIDにとっては貴重な時間だった。何故なら、KIDが彼と会う事が叶うのは、新一の胸一つで決まるのだから。

「キッ……お前、何言って」
「だから、私にとって仕事とは、貴方に会える唯一の手段にすらなりました。今夜は来てくれるだろうか、今夜こそ来て欲しい。そんな気持ちを抱きながら、仕事に取り組む私は、端から見れば滑稽でしょうね。……でも、心は偽れない。新一、──私は、貴方が好きなんです」
顔を上げ、潔いほどキッパリと言い放つ彼の言葉に、新一は一瞬その言葉が理解出来なかった。

今、彼は何を言ったのだろう。
新一の聴覚が異常をきたしていなければ、彼は間違いなく新一に「好き」と告げたのだ。

だけど、だけど……どうして。

「……嘘だ」
今度は……自分を力で屈服させたその次は、そんな言葉で縛ろうと言うのか。
まるで新一が望んでいる言葉をその口唇に甘く乗せて囁いて、その言葉に踊らされて受け入れた途端に今度は突き放すのか。
そうして、身体も心も新一を傷付けたいのか、KIDは。

──いくら何でも、それはあまりにも酷い仕打ちではないか。

新一の被っていた脆い仮面の表情が崩れそうになった。
必死になって己を保ち続けているのに、そのプライドすら、目の前の男は剥ぎ落とそうとしている。

「オレを……滅茶苦茶にしたくせに」
震える口唇で放った言葉は、声にはならなかった。しかし、その口唇の動きを読んだKIDはいたたまれないと言うように視線を揺るがせた。

「最近……貴方はあまり来なくなった。何ヶ月も来てはくれなかった。……もう、来ないのかとすら思っていた」
名探偵は怪盗に飽きたのだと、そう認めざるを得ないと思っていたKIDの前に、再び現れた時の彼の気持ちを、新一は理解出来るだろうか。
「貴方に再び会えた喜びと、もうこの先二度と来ないかも知れないと過ぎった気持ちが貴方には理解出来ますか」
「……」
「あの夜の貴方も、相変わらず気まぐれな態度で……もう限界だった」
次はないかも知れない。もう、KIDに興味が消えてしまうかもしれない。否、既に希薄で……もう二度と相手にしてくれないかもしれない。
新一の態度は、KIDにそう感じさせてしまう程気まぐれだった。

「次がないなら、なくても構わない。だけど、私の想いは知って貰おうと」
そうして、KIDは新一の身体を奪ったのだ。

憎まれても構わない、断罪されたって平気だ。……工藤新一の胸の中にKIDの想いを刻みつける事が出来れば、それで構わなかった。
抱いたのは、相手をねじ伏せる為でも、快楽の為でもない。……身体につけた痛みや快楽は、その時だけのもの。すぐに消えてしまうだろう。だが、記憶には残る。強く刻み込ませる事が出来る。
そうして、『怪盗KID』の存在を新一の胸の中に残そうと……そう思ったのだ。

どうでも良い存在には、して欲しくなかった。だから、『怪盗KID』の名を忘れられないようにしたかったのだ。


全てを語り終えたKIDは、新一を見つめた。
新一には俄に信じる事が出来なかった。……そんな、まるで夢の続きのような、都合の良い告白。
「新一、どうか信じて欲しい」
信じられない。KIDの言葉にそう心の中で返した。

「……新一が、私の事が好きだと言ってくれた事がどれだけ嬉しかったか判りますか?」
新一は無言で首を振る。
「許された。……そう思いました。私の闇雲な行為に対して、貴方は許してくれたのだと」
「……ゆる、す?」
オウム返しにつぶやく新一に、KIDはまるで泣いているかのような顔で笑った。
「そう。貴方に許された。……だから、もう二度と同じ過ちは繰り返さない。──新一、私は貴方が好きです。もう二度と貴方を裏切るような真似も、悲しませるような事もしない」
それまでの、儚げな存在のまま立ち尽くしていたのとは打って変わった彼の、その自信に満ちた態度で、迷うことなくきっぱりとそう告げた。

信じたくなる。……新一は、その言葉に縋りたくなる。
好きな男に想いを告げられて、例えそれが嘘だとしても、本当は嬉しくない訳はないのだ。
だけど、だけど──。

そんな心の葛藤をKIDは判っているようだった。
屋上に佇んだまま、床面に視線を落としたままの新一に彼は告げる。
「信じて欲しい。私の言葉に嘘偽りのない事を。もし万が一、私が貴方を裏切る様な事があれば……貴方は私を殺せば良い」
「えっ……」
思わず顔を上げると、真摯な眼をしたKIDと視線がぶつかった。
「殺せば良い、私を。貴方なら、その痕跡一切を残すことなく、私を葬り去る事が出来る。自分の手を汚す事が出来なければ、私が私を殺します」
貴方を裏切った私を、私は決して許さないから。

「キッ……ド……おまえ」
彼のその真剣な表情に、新一は戸惑いを含んだ瞳で見つめることしか出来なかった。
「新一、愛してる。たった一度だけでいい、私を信じて欲しい」
信じるのは一度だけで良い。……何故なら、自分は二度と新一を裏切りはしないから。
そう言ったKIDの双眸は、まっすぐに新一を見つめたまま動かなかった。

正体不明、確保不能の大怪盗。──怪盗KID。
彼が何者なのか新一は知らない。知らない相手に恋をしたのは自分。焦がれるような想いを自覚してしまったのも自分。
そんな彼の手を取るのは、間違っているのかも知れない。社会的にも、道徳的にも。

そう考えが及んだ所で、新一は苦笑した。
ああ、自分は一生懸命、この男を受け入れざる理由を欲していると。

それに気付いた時、新一はようやく素直な気持ちで答えを導き出す事が出来た。
答えなど、最初から判っていた筈なのだけど。

例え裏切られようが掌を返されようが、それでまた泣いたり、惨めに唇を噛む事になったとしても。
それでも、真実の自分は彼と共に生きたいと。

彼を受け入れて、果たしてどれだけの時間、幸福な時を過ごせるかは判らない。
今夜受け入れて、明日には裏切られるかも知れない。

それでも。


だから、
「……一度だけ」
信じてみよう。
「十分です」
彼は笑った。嬉しそうに安堵を織り交ぜた優しい微笑で。

新一がゆっくりと手を伸ばす。彼に差し出すそれを、キッドは恭しいまでの仕種で手に取った。
まるで、あの夜の夢を繰り返すかのように、キッドは新一の指先に口づける。

あの夜、彼によって傷つけられたその指先は、一週間の間に完治した。元々、包帯など巻かなくとも構わない程度のものだった。しかし、キッドには許せない事なのだろう。
「もう、二度と貴方を傷つけない……絶対に」
彼を傷つけた自分を許さないとでも言うかのように、キッドは堅い声でそう宣言する。
「……キッド」
新一の僅かに戸惑った声。その声に気付くと、彼は顔を上げた。

「どんな事があっても、私は貴方を傷つけない、悲しませんし、泣かせませんから……」

何度もそう繰り返す彼の態度に対して、だけど新一の心の奥には酷く理性的な感情が芽生えた。
どんなに彼がそう言って心を砕いたとしても、何時か……何時の日か、新一は傷つく事になるだろう。大であれ小であれ、悲しくなって泣いてしまう時が来る。
この、目の前の男の所為で。
それは逆に、新一にも言える事なのだ。
新一だって、図らずも彼を哀しませてしまう事があるかも知れない。彼が傷つく様を見なければならなくなるかも知れない。

それでも、……それでも──。

「信じる」
彼はもう二度と自分を傷つける事はない、悲しませることも泣かせる事もないと。そう思う事が出来る幸福に新一は身を委ねた。
彼の手を取る事、彼の想いを受け取る事。……これは、決して間違っていないと信じて。

「信じる……信じるから、お前も信じろよ。オレも、お前に決して辛い思いなんてさせないから」
揺らぎのないその言葉に、キッドは導かれるように新一を見上げた。その双眸が大きく見開かれ、次いで泣きそうな表情になった。
それは新一の知る怪盗KIDらしくない、情けない顔だったけれど、だからこそ信じられた。

「ありがとう」と呟くように囁いたKIDの言葉を受け止めて、新一も泣きそうになりながらも笑顔で頷いたのだった。


ゆっくりとぎこちなく、けど甘く2人の身体が重なる姿を見つめるのは、天空にゆったりと漂う下弦の月。
月はそれまでも、そしてこれからも、何ら変わる事なく2人の姿を照らし続けていた。





END





NOVEL

約束の場所
2003.03.04〜2003.05.08
Open secret/written by emi tsuzuki
約束の場所
1 : 2003.03.04
2 : 2003.03.21
3 : 2003.04.28
4 : 2003.05.08

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