日常の果て
「さて、と」
一仕事終えたKIDがやってきたのは、とある探偵の屋敷。
今夜の仕事は上々だった。狙った標的は容易く盗み出す事が出来たし、焦がれていた相手と出会う事も出来た。
仕事は兎も角、その後の邂逅はKID本人だけでは実現出来ない事なので、彼が来てくれたのは本当に嬉しかった。最近は忙しいのか、それとも別の理由があっての事か、滅多に現場には来てくれない恋しい人だけど、今夜の彼は相変わらず切れのある空気を身に纏った冷艶な姿を見せた。
その時だけは、彼の中に巣くっている焦燥感から解放され、それと同時に、兼ねてからの計画を実行する事も可能となる。
KIDは身軽に塀を飛び越え、そのまま目的の場所へと移動した。空気のように軽やかに物音一つ立てる事なく彼の部屋のバルコニーに着地すると、躊躇いもなくその窓に手を掛ける。
鍵など掛かっていなかったように、それはするりと開かれた。
そのまま身を滑り込ませ、室内をゆっくりと観察する。
この部屋の住人の気配は希薄だった。しかし、KIDが気付かぬ訳はない。
彼はベッドの上で俯せのまま、まるで死んだように眠っていた。
KIDはその口唇にほんの少しだけ安心したような微笑を浮かべると、ゆっくりと彼に近付いた。軽やかにマントが揺れるが、足音を立てる事はなかった。
ベッドの上の相手は、闖入者の気配など気付きもしない。
それはそうだ。
彼は、眠らされている。
あの時。KIDと対峙した時、いつものように冷静でいながらも躍起になって捕まえようとする彼の隙を容易く付いて、腕を引き寄せその薄い口唇に口付けた。
それはほんの一瞬の出来事だったが、彼はそうして遅効性の、しかし強力な睡眠薬を口にしてしまったのだ。
一度眠りについてしまったら、6時間は目覚めない。深い眠りの中、恐らく何が起きても気付く事はないだろう。
「……少し反則のような気もしますが」
ベッドの傍に立つと、無防備な彼を見下ろす。
「でも、いい加減私も忍耐の限界だったのですよ」
眠っている彼の髪にそっと触れる。絹糸のような黒髪がさらさらと指の間を梳いていく。
KIDは暫くその感触を楽しむように、何度も梳いた。それからふと気付いたように、両手にはめられている手袋を外すと、今度は素手で彼の髪に触れた。
指先が彼に触れられる喜びに震えていた。
「……新一」
うっとりと夢見るような甘い声で、彼の名を囁いた。
日頃のKIDはこんな風に彼を名で呼んだ事はなかった。
あくまで彼は探偵で、己は怪盗なのだと、そう戒めて。
だけど、今は。
「何時か言いたかった。何時でも言いたかった。貴方に告げたかった」
好きだと。愛していると。
しかし、彼はそんな事を言われて喜ぶ相手ではない。嫌がられるか、迷惑がられるか。そもそも、犯罪者に情を寄せられて喜ぶ人間など居やしない。
特にその手の事には潔癖そうな新一が知ってしまったら……きっと、二度と会いには来てくれないだろう。
それが怖くて、今まで何も言えなかった。それが怖くて、今まで触れることも出来なかった。
……今夜、強引に口付ける迄は。
何時もは楽しくて、しかし、気の抜けない駆け引きで終始するあの犯行後のビルの屋上で、今夜のKIDは新一を手に掛けた。
それまで一切その手の感情を表に出すことも、もちろん口にすらしなかったKIDだ。
突然の行為に新一は怒りに目元を紅潮させて、闇雲に突っかかってきた。そんな彼の攻撃などさらりと交わしながら、何処か心が暗く冷えていくのを止められなかった。
分かっている事とはいえ、あんなにも激しく拒絶反応を取られると、辛い。好きになった人にあんな風に感情をぶつけられて涼やかに笑っていられる程KIDは強くなかった。
だけどそんな事、最初から分かっていた。だからこそ、今夜のチャンスに賭けたのだ。
相変わらず目覚める気配のない新一を目の前にして、KIDは躊躇いがちな顔を見せた。
意識のない人間に手を出そうとしている。そこまで自分は落ちてしまったのか、そこまでして、自分はこの男を手に入れたいのかと、そう自問する。しかし……。
「一夜の情けです。……今夜だけで良いのです。この一時を」
私に下さい。
KIDは請うようにそう呟くと、俯せのまま微動だにしない彼のその細い肩に手を掛けようとした。
その時までは、決心してはいても、心の内は躊躇いを感じていたかも知れない。
だが次の瞬間、事態は別方向へと進み出す。
KIDの指先が彼の肩に触れたと思いきや、眠っていたはずの新一が突然動いたのだ。素早く身体を反転し、驚いたKIDが慌てて引っ込めようとしたその腕を強引に掴んで引き寄せる。
「──!?」
「……よう、怪盗KID」
咄嗟の事に声の出ないKIDとは裏腹に、眠っていたはずの相手は酷く落ち着いた鷹揚な響きで、彼の名を呼んだ。
「ど……して」
眠っていた筈ではなかったのか。
彼は、KIDが盛った薬を確かに口にした筈なのだ。あれは、遅効性とは言えかなり強力な薬で、微量でも口にしたら逆らう事は出来ない。それは、薬に慣らしたKID自身ですら、強い効き目を感じる程のものなのに。
「残念だが、オレに薬は効かない。少しでも薬物を体内に取り入れると、身体が拒絶反応を起こすんだ。……散々だったぜ?あんな強い薬入れられて」
暫く洗面所から離れられなかったと、にやりと笑みを浮かべつつも、まるで大した事なかったようにさらりと言った。そしてそのまま、新一はKIDの腕を掴んだままゆっくり上体を起こしたのだ。
乱れた衣服は、ビルの屋上で会った時と変わらない。だらしなく緩められたネクタイ。いくつかのボタンを外したシャツの隙間から、夜目にもはっきりと白い肌が浮かび上がっていた。
「では……最初から気付いていたと?」
「他人の家に堂々と入ってくるような人間に、オレが気付かないとでも思っていたのか?」
意識がないと最初から決め付けていたKIDは、口唇を噛み締めて応える事しか出来なかった。そんな彼の態度に、新一はさも楽しそうに笑う。
「飛んで火にいる夏の虫、とはこの事だな。よくもまぁ、探偵の家に潜り込もうとしたものだ」
嘲笑うかのような響きで畳みかけてくる新一に、KIDは反射的に腕を引っ張った。しかし、それは微動だにしない。それ所か、逆に新一の手がが引き寄せるように動く。
一瞬バランスを失ったKIDの身体がぐらりと揺れた。その反動を利用して新一が強引に自らの元に引き寄せる。
その動きについていけなかったシルクハットは床に転がり、そしてKIDは為す術もなく新一の胸の中に飛び込んだ。
「めっ、名探偵!」
「何?『新一』って、呼んでくんねーの?」
慌てて起き上がろうとするKIDに、新一はくすくすと笑いながら、そう戯けるように訊いてきた。KIDは思わず羞恥に熱が上がりそうになった。だが、それを気取られたくはないKIDは、表面上はいつものポーカーフェイスなままで、新一を見上げる。
「……つまんねーな、お前」
思った程動揺していないKIDに気を削がれたのか、新一が溜息混じりで呟いた。しかし、掴んだ腕は離さない。
強く押さえ込んではいない。しかし、それは容易に外されはしなかった。KIDが少しでも引こうと動けば、柔らかく絡みつくように動きを封じてくる。
「腕を……離して頂けると助かるのですが」
躊躇いがちにそう告げると、新一は不思議そうにKIDを見つめた。
「何で?……お前、オレの傍に居たいんだろう?」
その為に来たんだろう?……なら、こんなに近くに居られて嬉しい筈じゃないのか?と、先程とは打って変わって不思議そうな顔で訊いてくる。
何とか上体を起こして、KIDは新一を見た。吐息が触れ合いそうな程の距離に新一が居る。
その事実に気付くと、途端にKIDの心臓が勢い良く跳ね上がった。
少し乱れた新一の前髪。その髪を梳きたくて、無意識の内に拘束されていない方の腕が動いた。
しかし、それより先に新一の腕がKIDの首に絡みつく。
「え?……っ!」」
突然の事に、何が起きたのか咄嗟に理解し兼ねた。
新一の腕がKIDを引き寄せ、躊躇いもなくその口唇に吸い付いた。すぐ目の前にあった彼の秀麗な顔が、今は数センチと離れていない程の間近に見えている。
双眸は伏せられ、思っていたよりも長い睫毛が彼の瞼を飾っていた。
柔らかく押し付けてくる口唇は甘く暖かくて、次第にKIDの思考がその欲望に支配されていく。
もっと深く、もっと強く、彼を感じたい。
触れているだけの口唇には飽き足らず、KIDは自ら口を開くと、KIDよりも先に新一の舌がその口内に侵入した。新一を迎え入れたKIDは彼の舌を絡め、たっぷりと味わった後、その甘い舌を今度は無理矢理押し返した。
同時に、片方の腕は拘束されたままで、KIDは新一の半身に自らの体重をゆっくり掛けながらシーツの上に沈めた。
それまで口腔を嬲っていた侵入者を追い出したKIDは、今度は逆に新一の口腔を蹂躙し始める。
「……んっ」
抵抗するかのように押し退けようとするその舌を絡め取るかのようにKIDの舌が蠢いて、その後柔らかな彼の口内を思うがままに味わった。
喘ぎ混じりの吐息が新一の口から漏れる。そんな彼に煽られて、何とも言えない痺れがKIDの全身を走り抜けた。
口内をまさぐる舌は、どこもかしこも甘さを感じていて、相手もKIDの刺激を受け止めてか、ゆっくりと弛緩していくのを感じた。
呼吸もままならなくなる程充分堪能し尽くして、取り敢えず満足したKIDのがゆっくりと口唇を離した時、新一が名残惜しげに彼の口唇を追いかけようと僅かに舌を見せた。
恐らく無意識だろうが、それでもそんな彼の態度が嬉しくて、思わず小さく微笑むと、それに気付いた新一は途端に慌てて押し退けた。KIDは彼の抵抗に素直に従いその身を退いた。ベッドから離れて立ち上がると、新一も半身を起こしながら、ぐいと手の甲で口唇を拭った。
目元を朱に染まらせて鋭く睨み付けてくる新一に、KIDは笑う。
「おや。誘って下さったのは貴方からでしょう?」
それまで取り巻いていた互いの立場を逆転させたかのような、その物言いに、新一は悔しそうに口唇を噛んだ。
キスの名残で、普段よりも赤く色付いたそれは、更にもっと、とKIDを誘っているようだった。
「お前、やりすぎなんだよ」
新一が悔しそうに吐き捨てる。
「貴方相手に手加減なんて、出来ませんよ」
解放されてしまった身が妙に寂しくて、もう一度彼に触れたくて手を伸ばす。
しかし、指先が触れるその一歩前で、新一に払われた。
「気安く触るな」
怒ると言うより拗ねると言った感じで言い放たれた。さっきまでは、自ら触れてきた筈なのに、突然の変貌にKIDは眉を寄せる。
今夜の新一は、いつもの彼と全く違った。その原因は、もちろんKIDにあるのだろうが、この気まぐれに翻弄されるのも、あまり楽しい事ではなさそうだ。
「……あの…」
「オレは怒っているんだ」
口を開き掛けたKIDに対して、憮然とした態度で腕を組む新一。
KIDは内心首を傾げた。何に対して怒っているのだろう。……彼には心当たりがありすぎて絞り込めない。
しかし……。
「怒っているのに、キスを仕掛けてきたのですか?」
それとも、怒っているから、キスをしてきたのだろうか。
「アレは、……お前を混乱させたかっただけだ」
澄ましたそのポーカーフェイスなその顔を引っ剥がしてやりたかっただけだと、新一は憮然と言い放った。
その口調は、まるでその事以外に他意はないと強調されているようで、KIDの心が少し痛む。
だが、そう考える方が普通でもある。
彼は、今夜突然KIDが仕掛けてしまったたキスに狼狽した事を恥じていたのだ。ほんの一瞬のキスですら過剰に反応した事が情けなくて、……そうしてKIDに仕返しをしただけなのだと。
もしそうなら、KIDは反応を誤ってしまった事になる。ちゃんと慌てふためいてみせたら、新一は笑ってくれただろうか。
それが例え嘲笑の類であろうとも、KIDにとっては不機嫌な彼と居るよりずっと嬉しかった。
「お前は、何時も優位に立っているような顔でオレを見る」
「私が?……それは心外です。私は何時だって、貴方に翻弄されている」
「そんな顔見せずに、よくそんな事を言う」
吐き捨てるように言い放つと、ふいと横を向いて、それからはKIDを見ようともしなかった。
全身でKIDを拒絶しているようで、こんな彼は今まで見たことがなくて。
……もう、許して貰えないのだろうか。
「……貴方の怒りは尤もです。口付けに乗じて薬を盛った事も、深夜に勝手に貴方の家に侵入した事も謝ります。全て私の身勝手な行動で……だから名探偵…っ!」
「不愉快なんだよ!」
新一はいきなり激高した。
視線を逸らせたまま、声荒立てる新一にKIDは何も言えなくなった。
普段のKIDなら、もっとスマートに会話を繰り出すことも、相手の感情をコントロールする事も出来た筈だ。
……だけど、惚れた相手には、気弱な自分が心の奥底に巣くっていて、上手くあしらうなんて事は出来やしない。
何より、今この空間を支配しているは、KIDではなく新一。今夜のKIDは、彼に対して後ろめたい事しかしていない。そんな自分がどうして強気に出られようか。
双方共に黙り込んだまま、暫くの時が過ぎ、新一はベッドの上で座り込んだまま動かず、KIDもその脇で立ち尽くしたまま動けなかった。
このままKIDが姿を消せば、少なくともこの状況は変わるだろう。……しかし、こんな状態で逃げ出せば、もう二度と関係は修復出来ない。……そもそも、修復出来る余地があるかどうかも怪しい。
そんなKIDの苦悩に気付いたのか、新一の頭が小さく揺れた。そうして、彼の声で沈黙が破られる。
「KID……。今までのお前は何時もバカみたいに冷静で、ポーカーフェイスを決して外す事はなかったな」
「……そんな事」
「でも……それでもオレとの時間は楽しそうで、……それが嬉しくて……オレも楽しかったんだぜ?」
新一は顔を上げると、KIDに向き合うように目線を合わせた。予想に反して、その顔つきに怒りは感じられなかった。……しかし、何処か寂しそうな表情で見つめていた。
「オレは探偵で、お前は泥棒で、だけど本当のオレはそんな事関係なかった。オレはお前に会いたくて何時もお前の前に姿を現してた」
正体を掴んでやる為とか、捕まえてやる為とか、そう言った理由ではなく、純粋に『KID』に会いたかっただけだ。
しかし、そんな彼に会えるのは、犯行に及ぶ夜くらいしか新一には残されていなくて。
もし彼が普通の友人ならば、わざわざあんな暗い夜の屋外で、人目を忍ぶ事などなかったのだけど、新一は様々なリスクなど物ともせずに彼に会う為に赴いていたのだ。
「……だけど貴方は滅多に姿を現しては下さらなかった」
新一の告白に、KIDはぽつりと呟いた。
「今夜は本当に久しぶりでしたね。私が予告状を出したのは、今月で3通目です。先月は2通、その前は3通……だけど、貴方は先月も先々月も来ては下さらなかった。……私は……もう、私に飽きてしまったのかと……」
「なぁ、KID。お前、知っているか?」
ふいに新一がKIDに微笑んだ。だけどその瞳の奧は、何処か意地悪めいた色を湛えている。
「知って……何を……?」
「お前は有名人なんだよ。それもとびっきり知名度が高くて」
このご時世、メディアに対して目と耳を塞がれていない限り、否応がなしに飛び込んでくる『怪盗KID』の存在は、知らずに生きていく事など難しい。
「そんなお前は、奴らの格好の餌食になる」
「餌食?」
「利用されてんだよ。……犯罪者達に、な」
どんな策を弄しても確保不能の天才怪盗紳士。KIDの犯行は事前に予告される為に、警察も警備確保へと余念がない。しかも、何度も確保のチャンスを当の本人に与えられながら、証拠一つ握る事が出来ない為に、益々躍起なる。
「そんなお前の犯行日、犯行時間前後には何故か飛躍的に犯罪件数が増えるって、お前知っていたか?」
「……え」
怪盗KID確保の為だからといって、何も警察官全員が駆り出される訳ではない。関係部署や管轄が違えば、彼らは普段と同じ勤務態勢で望んでいる筈なのだ。
しかし、怪盗KIDが出現する日は警察の動きが鈍くなるだろうと浅知恵を働かせる犯罪者の多い事。
「ちなみに管内の盗難件数は、お前が現れる時間を狙って飛躍的に上がるらしいぜ?」
怪盗確保に手を取られて、こそ泥までは手が回らない。と、そういう安直な思考の上で。
「泥棒はこの際置いておいて。この日は少しばかり厄介な事件が起きる事もままあって、オレはそっちに駆り出されてしまう訳だ」
ちなみに、前回が密室殺人、その前が幼女誘拐、連続殺人、強盗致傷……新一も全てを告げるのも憚られて、途中で口を噤んだ。
「つまり、オレはお前に会いに行きたくても、諸々の事情で会いに行けなかったという事だ。お前に遊んでくれる警察(相手)が居るように、事件の解決に必要としてくれる人達がオレにも居るから」
新一にとって、犯罪は日常だった。探偵としては、そう言ってしまうしかなかった。
日常を優先するのはごく当たり前の事で。……そしてKIDと会う事は非日常の世界の話で、だからこそ、この日常の果てで出会える彼との邂逅が大切で何より楽しみな事なのだ。
「だから、今晩は珍しく警部に呼び出されなくて……本当に、楽しみにしていたんだ」
いつものように他愛のない、だけど軽妙でいて複雑な駆け引きを楽しめる。彼との会話は楽しかった。立場は全く逆なのに、まるで視線の先は互いに等しいような感覚。するりと飛び出す専門的な話ですら、彼は容易く言葉を返してくる。それが気持ちよくて心地よくて……相手がどう思おうとも、新一にとって彼はとても貴重な存在だった。
「捕まえてやる」なんて言葉や態度は、大義名分に過ぎない。
彼は、日常の果てでようやく手に入れた、大切な存在。
なのに、折角久しぶりに会った相手はどことなく雰囲気が違っていて。
内心怪訝な思いに駆られながらも、しかし久しぶりに直に見るその姿に心浮かれていた新一の隙だらけの身体を捕まえて、何時もと全く違う態度。
浮かれていた心に冷水を浴びせかけられたかのような気持ちに陥った新一を、更に混乱させるかのような彼の行為。
思いもよらない彼からのキスは、驚きでしかなかった。
突然の事に驚いて。嫌悪すべきその口唇が、甘い痺れに満たされた事に驚いて。
「お前はオレの楽しみを奪ったんだ」
声を荒立てる事もなく、只淡々とした響きで、新一はそう言った。
「……だけど、それはもう怒っていない。いや……そんな事は、初めから怒っていなかったかも知れない」
最後の方は聞き取れない程小さな声でしかなかった。しかし、KIDは聞き逃しはしなかった。
「怒って……いなかった?」
その言葉に驚いたのはKIDの方だった。だって、怒っていないと言う事は……嫌じゃなかった?男にキスなんかされても。
ふいに自分に都合の良い思いが脳裏を過ぎる。だけど、まさか。
……では、彼は一体何に対して怒っているのだろう。
「名探偵」
「……だから、不愉快だと言ってるだろう」
何度も言わせるな、と言われ、KIDはようやく思い当たった。
──何?『新一』って、呼んでくんねーの?
この言葉は、決して彼をからかう為のものではなかったのだ。
「……新一」
「何だ」
彼を前にして初めて名を呼んだKIDに、新一は満足気に返事をした。
「新一。……私は恐れていた。何時か貴方に飽きられてしまう事を。そして、それがもう遠くない未来であるだろう事を」
興味がないから、彼は会いに来てくれないのだ。相手の事情の判らぬKIDは、そう思い込んでいた。
「私は焦っていた。ほんの一時でも構わない、貴方が何時までも私に会いに来てくれていたら、それだけで満足だった。だけど、何時か来なくなってしまう事を思うと……耐えられなかったんです」
彼が何時か目の前から居なくなってしまう現実を、KIDはいずれ受け入れなければならない。
だけど、KIDにとって『工藤新一』の存在は計り知れない程大きくなってしまっていたのだ。……そう簡単に彼を手放すなんて出来ない。
ほんの一時の逢瀬で構わなかった。それだけでKIDは充分満足していた。
……それが単なる『友情』ではなく『恋』である事にも、KIDは気付いていた。男が女を想うように、KIDは新一を想っている。しかし、このままの関係のまま続いてくれるだけで、充分幸せだった。
KIDの我が儘な恋に、新一を巻き込む事はしたくなかったから。
だけど、もう二度と会う機会が無くなってしまうと思った時……KIDは決心した。
一夜で良い。ほんの一時でも良いから、新一を自分のモノにしたかった。
彼に触れて、彼の温もりを知って、その全てを思い出にして、それを糧に生きて行こうと。
「私はずっと貴方を待った。この前も、その前も、その前も……。もう二度と姿を見せてはくれないかも知れない。そう思えば思う程、私の心は暗い想いに導かれた」
次に出会えた時がチャンスだ。それを逃せば、もう二度と会いに来てくれないかも知れない。会えなくなる前に、彼を知りたかった。
「自分勝手な想いを抱いたまま、私は貴方に手を伸ばした。貴方を眠らせて……意識のない貴方なら抵抗されない。深い眠りに落ちてくれれば、夢の中であった事など、きっと覚えてなどしない。そうして私は一夜の幸せを、貴方は何事もない朝を迎えて全て丸く収まると、そう思ったのです」
KIDの告白を新一は黙って聞いていた。静かな室内に、暫しの間沈黙が横たわる。
レースのカーテン越しに月の光が漏れて、床に淡い影を作ったが、ベッドまでは届かなかった。
「……勝手だな」
ぽつりと新一が呟いた。
「ええ、そうです。……私は勝手なんです。身勝手で我が儘で、どうしようもない男なんです」
「そうだな。……けど、お前はそこまでオレに吐き出して、何故言わない?」
「……え」
「何故、言ってくれない?お前の……オレへの気持ちって、一体何なんだ……?」
真摯な瞳で問いかけてくる新一に、KIDは愚問だと思った。
好きだからに決まっている。愛しているからに決まっているではないか。
そこまで思った所で、はたと気が付いた。
KIDはとても重要な事を忘れている事に思い至ったのだ。
思わず取り乱しそうになった。
「めい……いや、新一。……よもや、貴方の怒りの原因って」
もしかして、KIDが新一に、想いを言葉にして伝えていないから?
「言葉にしない男の態度は、逃げ道を作っているんだって、この前蘭がそう言ってた」
憮然として呟く新一にKIDは慌てた。
KIDとしては、もう既に充分告白しているつもりだったのだ。ここまで言って、想いが伝わらないなんて思いもしない。
もちろん、新一だって朴念仁ではない。
この一連のKIDの行動を鑑みるに、彼は新一に普通に感じる情以上の想いを持っている事くらい判っていた。新一もそこまで鈍感ではないのだ。
だけど、キスしたり、寝込みを襲おうとしても、彼は新一に何も告げる事がなかったのだ。
好きって言えよ、好きって!
そう言ってくれさえすれば、新一もその想いに応える事に吝かではないのに。
「で、どうなんだ。何か言うことはないのかよ」
高圧的とも取れる態度で見据えるその眼には、KIDが焦がれて止まない蒼天の青が強く光を宿している。
この瞳に魅了されたのだ。いや、これだけじゃない。髪も口唇も、手も足も、その身体全て。彼の頭脳も、性格も、人に敏感で己に鈍感な少し不器用な所も全部。
「好きです、貴方が。ずっと前から……恐らく、初めて逢った時から、貴方は私の心に住み着いてしまっていた。……好き、愛してる」
まるで許しを請うように頭を垂れて、「好き」と「愛してる」を繰り返す。
「私のこの想いを受け入れて欲しいなんて願わない。だけど、嫌いにならないで……」
「嫌いになんて、ならない」
頭を下げたまま、こちらを見ようともしないKIDに、新一は告げた。
「最初に一言そう言ってくれれば、それだけで良かったんだ。……それだけで、オレも判ったんだ」
KIDだけじゃない。新一自身も、相手に焦がれていた事を。
新一は無言で俯いたままのKIDの頤に指を滑らせた。そのまま強引に上向かせると、驚きと戸惑いを含んだKIDの双眸と視線がぶつかった。
「お前でも……そういう表情(かお)するんだな」
穏やかにそう言って微笑むと、新一はそのまま彼の口唇に口付けた。それはほんの一瞬で離れていく。
「男との……いや、お前とのキスが全く嫌じゃないオレは、何処か変なのかな」
「……新一?」
「お前にキスされて、心臓が強く反応して、頭に血が上って、訳分からなくなって、何で突然こんな事されなきゃならないんだろう、って考えて。でも、からかわれているだけなら、怒るだけで済むはずなのに。……なのに、もしそれだけならと思うと、胸が……胸が苦しかった」
そしてお前は何一つ告げる事なく、姿を消した。
「だから、お前は最初にこう言うべきだったんだ。──好きだ、って。そうしたらオレを……」
言葉は最後まで続かなかった。それまで力無く投げ出されていた両腕が、新一の身体に強く絡みついた。強引に引き寄せて、KIDは彼の肩口に顔を埋めた。
「新一、新一……!」
「く、苦しいぞ、キッド」
「新一が、好きだ。好き、愛してる。もう離したくない」
「なら、離すなよ。オレも離れてやらない」
でも、力一杯は苦しいから止めろ。新一は微苦笑と共にそう言うと、次第に落ち着きを取り戻したキッドは、ゆっくりと身体を解放した。
「お前、結構可愛いよな」
新一に対する彼の態度が微笑ましい。そう言われて絶句するキッドに、新一は笑いかけた。
「そんな所も、オレは悪くないと思う、うん」
イイ感じ。そう笑って、新一は彼の元へと手を伸ばした。
身じろぎする度に、キッドの目元に揺れるそれ。
「今更だけど……これ、外しても構わないよな」
片眼鏡のフレームを指でなぞりながら囁く様にに訊いてくる新一に、キッドは静かに頷いた。
「貴方の手で……取って」
素顔を晒すのは今更だった。こんなに間近で触れ合って、相手の顔が判らない筈はない。それでも、2人の間を隔てる象徴のようなそれに、新一は自らの手で取り払った。
カチャリ……と小さな音を立てて、容易に取り外されたその顔は、何処か気恥ずかしそうに微笑んでいる。
「ない方が……ずっとオレ好みだって、言ってやるよ」
新一が満足そうにそう笑って、キッドの首に両腕を絡ませた。
日常の果てに2人が得たものは、互いの愛情に接する至福の喜び、その全て。