イロコノム





工藤新一。
メディアなど一切関知しない人間以外ならば、その名を知らぬ者は居ないだろう。
新聞を開くことなく、一面には工藤新一が。
朝夕のニュースでは、事件(特に都内)が発生すれば。そして、それが殺人事件であったりすれば必ず彼の名が上がり、昼のワイドショーでは、別の意味で名が上がり、その露出度はダントツ。

工藤新一。
一年程のブランクを経て、華麗に大復活した平成の名探偵は、更にパワーアップして、警察の皆さんを、そしてお茶の間を沸かしに沸かしまくる。

キレのある名推理。逃走はおろか、証拠隠滅する暇さえ与えず、華麗に犯人を割り出してしまう、彼。
それは、以前活躍していた以上の推理力。冴えに冴えまくった頭脳。少年から青年へと成長したその希にみる見栄えの良さ。しかも、両親の知名度は彼をも凌ぎ、おまけに実家は大金持ち。バックボーンも抜かりない。
正に完璧、パーフェクト。時代が生んだ寵児。
戦争のない日本が生んだ、現代の英雄。
それが、工藤新一。


そして。


『英雄色を好む』


古くからある慣用句にある通り、彼もまたそうであるようだった。
それは、手当たり次第、まさに『入れ食い状態』。

来る者は拒まず、来ない者は追いかけ、そして食い荒らす。
そんな、正に極悪とも呼べる行動を続けているにも関わらず、やはり顔良し、頭良し、スタイル良し、育ちも良し、の新一故か、誰一人として彼の行動を諫める者も妨げる者も居なかった。
……というか、彼の毒牙に掛からなかった人間が、新一の近くには、ほとんど存在しなかった所為なのかも知れない。
つまり、誰も彼も……。そう、女はおろか男までも、彼は食い散らしていたのである。











さて。それはそれは美しい月夜の事。

パトライトがくるくると。サーチライトもくるくると。そして、テレビカメラも回る回る。
そう、今夜は大捕物。
稀代の大泥棒が、古風にも予告状などというものを標的の持ち主はおろか、警察やマスコミにも送りつけるその所為で、今宵はとてもにぎやかな夜。

濃紺の夜空を背景に、絶対に溶け込まないぞと自己主張した泥棒が、目にも鮮やかな純白の衣装を身に纏い、ひらひらと下界に舞い降りる。

「……なんて事だ」
そして、平成のアルセーヌ・ルパン、怪盗キッドは、現場から遠く離れたビルの屋上に降り立つなり、落胆の呟きを漏らした。

「あんまりだ。仮にも世界の怪盗キッドに対して、あの包囲網、あの警備、あの追跡。……まるで、片手間に相手にされているとしか思えない」
杜撰過ぎる!
右手に今夜の獲物を握りしめ、計画の成功を喜ぶとは言い難い程の表情で、怒りの拳を振り上げる。

いつもは、もう少し……否、かなりマシな警備なのだ。
常に出し抜きまくって、一度も追跡を許した事は無いけれど。

「それでも、今夜は酷すぎる。中森警部は何やっているんだ!」


「仕方ねぇよ。警部、ショックと腰痛で、今晩マトモに機能していなかったから」
突然建物の影から響き渡る声に、キッドは顔を上げた。
極近くで聞こえた声に、キッドの身体が一瞬強張る。

「誰だ───!?」
ここまで接近しておいて、まるで気配を感じさせないとは───。

「いやだなぁ、もう。『怪盗キッド』を追い詰める人間が早々いるかよ」
しかし、キッドの誰何など、まるで気にしないと言うように、影は笑いながら、ゆっくりと姿を現した。

見覚えのある影。以前、……もう随分前に、彼の姿を見たことがあった。

「工藤……新一?」
「正解!」

些か不自然な程に陽気な顔した彼が、戯けるように胸を反らす。
その表情は月夜の下、本当に楽しそうだ。

途端に、キッドの脳裏に警鐘が鳴り響いた。
「これはこれは……今夜は何用でこちらに?」
彼のペースに併せるように、しかし、決して嵌らぬようにキッドは優雅に腰を折る。

「わざわざ、宝石の奪還に来られたのでしょうか?」
そう訊くキッドに、新一はついと眉を上げた。
「石?……んなモンに興味はねぇよ」
奪うなり捨てるなり、好きにしろ。と言い放ち、新一はニヤリと笑う。

「ならば……」
「興味があるのは、そんな石ころではなく、お前。世紀の大怪盗『怪盗キッド』、オマエだ」
「私……?」
ゆっくりと近付いてくる新一に気圧されて、キッドの足が僅かに後ずさる。
今まで体験したことのない緊張感が、キッドを覆った。

何だか分からないが……とんでもなく危険だと、本能がそう訴えている。
この仕事、綿密な計画もさることながら、この『勘』というものがいかに馬鹿に出来ないものか、キッドは長い怪盗家業で、身を持って知り尽くしていた。
工藤新一の……あの、あからさまに、この場に似合わぬ不自然な態度。キッドが僅かに目を眇めると、相手は鼻で笑った。

「もう、粗方食っちまったんだよ。オレって、えり好みしないタチだからさ。……で、どうしようかなと思ってたら、丁度良い獲物が飛び込んできたという訳」
「……?」
「飛んで火にいる夏の虫、って言うのは、こういうヤツの事を言うんだよなぁ」
と、さも楽しそうに話す新一。

だが、キッドには、警鐘は鳴り響くものの、彼の話の内容が全く理解出来なかった。
「食う……グルメ……?」
「違う、雑食性」
「……?」
ますます分からない。
ポーカーフェイスを保ちながらも、内心?マークが頭の中を飛び跳ねているキッドに向かって、新一は歩みを止めようとはしない。

「ま、安心してくれ。オレは今まで一人たりとも相手を傷付けたりはしてないから。……お前も、楽しませてやるよ」
「はい???」
思わず素っ頓狂な声を上げた時には、キッドの身体は新一によって、防護柵の金網に押し付けられていた。

そのまま、ゆっくりと近付く顔に、キッドの息が止まる。
あまりの事に硬直するキッドとは裏腹に、新一は両肩を押さえつけ、ゆっくりとその首筋に口づけた。

「──!!」
「おいこら、力抜けよ。……今からこんなに身体固くしてたら、何も出来ねぇじゃないか」
「何も出来な……って、何をするつもりですか!?」
思わず焦り声になるキッドに「オレだってなぁ。別に好きでヤッてんじゃねーよ」などと言いながら、新一は首筋に息を吹きかける。キッド背中にぞくぞくとした悪寒が走った。
「男の味覚えたら癖になるって言うけど、ありゃ嘘だな。山ほど食ってみたけど、女の身体の方が断然良かった。でも、後腐れなさを求めるのなら、男の方かな」
新一の告白を聞きながら……ようやくキッドは導き出したくない答えを引き当てた。

「貴方は私を……!」
強姦するつもりですか!  とは、とても口に出来ず、思わず声を殺すキッドだが、新一は飄々とした顔で肩を竦めた。
「だって、オレの周りで食ってないヤツ居なくなったから仕方ねーよ。それに、一度食ったら、繰り返して食いたい気にならねーし」
呆然として動きの鈍い泥棒のネクタイを、見事な早業で解き、シャツのボタンを一つ一つ外していく。その手さばきは現役マジシャンの目から見ても、鮮やかの一言に尽きる。

……嗚呼しかし、感心してばかりもいられない。
このままでは……まさかよもや考えたくないが。

(て、貞操の危機!?)

いやだいやだと身を捩るキッドに、新一は舌打ちしつつ、乱暴にシャツをはだける。
「大人しくしろって。往生際が悪いヤツだなぁ」
当たり前だっ! と、声を荒げたいのだが、如何せん、こういう時は何故か全く言葉を発せられない事をキッドは身をもって知った。……知りたくもなかったが。

首筋から鎖骨にかけて、ゆっくりと焦らすように口づけを落とされて、キッドは、その何とも言えない粟立ちに、首を竦めた。
ダメだダメだ。このまま行けば、本当に流されてしまう……!

新一の指先が、キッドの肩から上着を脱がし、更にシャツに手に掛かる。
「間違ってる……絶対に間違ってるぞ!!」
ようやく喉元から声を絞り出して喚くキッドに、新一は軽く伸び上がって、頤から頬、耳朶へと口唇を這わせ、息を詰めるキッドの口元に口唇を寄せる。

「五月蠅い口だな」
そう言って口を塞ごうとしたしたその時、キッドは咄嗟に片手で己の口元を庇った。

「───!?」
ひやりと感じる口唇に、新一は思わず目を見開くと、そこには彼の今夜の獲物である宝石。
鳩の血の名に相応しい真紅のルビー。ピジョンブラッド。
それが新一の口唇に押し当てられていたのだ。
その隙を突いて、ぐいと押し付けるように腕を突き出すと、そのままの勢いで逆に相手を押しやった。
ようやく金網から解放されて、大きく息を吐く。新一は大きくよろめいたが、直ぐさま体勢を立て直し、ジャケットの襟を正した。

表情は抑えているものの、なかなか呼吸が元に戻らないキッドに、新一は苦笑を漏らす。
「何で、そんなに嫌がるかな?」
「……拒むでしょう。普通は」
何とも言えない顔で吐き捨てるキッドに、新一は分からないと言うように首を傾げた。
「そうかな?……今まで、口だけ抵抗なんてのはあったけど、身体を張って抵抗された事ないんだけど」
何だかんだ言いながら、結局ヤられたがるのが人間なのだと思い始めていた新一だったのだが……。
本気で首を傾げる新一に、キッドはため息をつく。

「女性相手なら兎も角、どうして男を押し倒そうなんて発想が生まれるのです。おかしいでしょう?」
「おかしいか?」
生真面目に訊いてくる新一に、キッドは本気で嘆息した。
「おかしいに決まっているでしょう。人間の本質はヘテロなのですから」
「しかしだな……」

反論しようとする新一の言葉に対し、キッドはまるで遮るかのように声を上げた。
「嗚呼、信じられない。あの『工藤新一』が、まさかこんな人間だったとは!」
彼が『コナン』であった頃は、そんな素振りは微塵も無かった。……確かに、小学生で男漁り女漁りしていたとしたら、それこそ異常だ。
しかし、「まてよ」とも思う。
考えてみれば、キッドはコナンであった頃からの新一しか知らない。それ以前にニアミスを起こしていたのも事実だが、その程度では相手を知る由もない。
……もしかしたら、元々工藤新一という人物は、こういう人間だったのかも知れない。
女にだらしなく、男にだらしない。一瞬の快楽のみを追求し、そこに至高の悦びを見出す、快楽主義者。

そこで、ハタと思い当たった。


─── 仕方ねぇよ。警部、ショックと腰痛で、今晩マトモに機能していなかったから。

─── 男の味覚えたら癖になるって言うけど、ありゃ嘘だな。


……非常に考えたくない事を頭の中で想像してしまった。

「あ、あなたは、……まさかよもやいくらなんでも、いやしかしきっと、── ああっ!!」
「何が言いたいんだ、オメー」
世にも珍しい、『身悶えるキッド』を物珍しそうに見つめながら訊ねる新一に、我に返った世紀の大怪盗は、咳払いをして姿勢を正すのだが、すぐに頭を抱えた。

「考えたくもないが、まさかまさかまさか、中森警部とも……!?」
キッドにしてみれば、口にも出したくない問題であったが、相手はそうでもなかったようだ。

「一課から、順番に。取り敢えずは、知ってる人から、順番に」
好き嫌いはせずに、順番に。

けろりと応える新一には、後ろめたさなど微塵も見られなかった。……どちらかと言えば、キッドの方が大変居心地が悪い。
そして、彼の言葉の意味を考えれば考える程、怖い結論に辿り着いてしまう。

そんな彼の姿を見て、正直な所、このまま宝石を渡してトンズラしたいのだが、如何せん、どうも相手がそれでは納得してくれそうにない。

何故なら。

(工藤の目つきが目つきが目つきが───!!)

犯人を追いつめる探偵の目、というよりも、獲物を捕らえたハンターの眼、をしているからだ。

何とかして欲しい。キッドは、切実に思った。
ポーカーフェイス(と彼は信じている)の裏で、滝のような汗を流し、打開策を考えるのだが、良い案が全く浮かばない。
IQ400もある筈なのに!

暫く間、まんじりともしない時間が流れた。緊張の時。
結局、キッドが導き出した結論は、誰もが考える凡庸なものでしかなかった。

───三十六計逃げるに如かず!

キッドは無言で身を翻し様、宝石を新一に向かって放り投げた。その隙にふわりと身を躍らせた───つもりだった。

ぐい、と背中に感じた引っかかり。恐る恐る振り返ると、マントの裾をしっかり掴んだ新一が楽しそうな顔で笑っていた。
続いて、カランと乾いた音が床面に響く。
どうやら、キッドの放った宝石は、新一には価値のない色石となり果てたようだ。

……時価数十億円のビッグジュエルなのに。受け取ってくれなければ、傷が付くではないかっ!

「おいコラ、逃げるな」
くすくすと、楽しそうに笑う新一。キッドは彼から離れるべく、マントを外した。
そのままふわりと新一の手元にそれが残されたものの、しかし彼は動じることはない。

「これでお前は飛んで逃げられなくなったってコトだ」
ポイと後方にそれを投げやると、キッドを見やる。彼の方はと言うと……崩れ落ちそうになる足腰を持ち前の精神力のみで支えているような状態であった。

怪盗キッド、あまりにも情けない。

彼が、今までこれほどまでの危機感を感じた事が、果たしてあったであろうか。
死の危険に陥ったことなど何度あるか数えたことも無いくらい体験してきたが、今程迷乱した事は無かった。
命の危機より、身の危機。身の危機より、貞操の危機。

これからは、嫌がる女の子をあまり強引にホテルに誘い込むのは控えよう。 と、キッドは固く固く誓った。
しかし、今そんな事を誓った所で、この状況を打破する事にはならないのだが。

しかも、うっかり余所事に気を取られている間に、新一はキッドの間近にまで詰め寄っていたのだ。防護柵の金網の軋む音が、キッドの鼓膜を振動させる。
新一の右手が彼を逃さないというように、金網を掴んで覆い被さってくる。
無言のキッドに気を良くした新一は、片方の手を伸ばし、そっと彼の顔からモノクルを外す。




───そして、キッドは、覚悟を決めた。


「……へぇ。結構、整ってるじゃねーか」
「自画自賛、ですか」
キッドの言葉の意味に気付けず、新一は一瞬呆けた顔をたが、すぐにマジマジと彼の顔を覗き込んだ。
「うーん……似てる、かな?」
「少し、倒錯的ですね」
こういうのが、お好みですか? と、問いかけるキッドに、新一は軽く首を傾げる。

「ま、何でも良いし」
「そう。……でも、今までは、満足出来なかったのでしょう?」
キッドの腕が持ち上がり、新一の頬をそっと撫でる。シルクの手袋の感触に、新一は思わず首を竦めた。

「別に、全く満足しなかった訳じゃねーぞ。……その、何だ。つまり、何というか……開放感はあるんだけど、充足感がないというか。気持ち良いんだけど、頭の中にまでは満ちてこないというか……何かが足りないんだよ、何かが」
つまり、新一はその欠けた「何か」を求める為に、乱獲を続けているのだ。

「そうですか」
キッドは、思わせぶりにそう言うと、大袈裟に溜息をついた。
その態度に、新一の眉間に僅かな皺が刻まれる。
「何だよ。……何か分かるのか!?」

「そうですね。……それはつまり、貴方の求めるものと、実際に求めているものが違うからですよ」
思いがけない言葉に、新一の目が見開いた。

「───それは、どういう事だ」
「ですから、貴方が求めているのは、身体と心の充足。……つまり、
!?」
「貴方は誰かを愛し、そして、愛されたがっているのです」
我ながら陳腐な台詞だとキッドは思った。

しかし、当の新一は、驚愕に目を剥いたまま凝り固まっていた。
そして、これ幸いにとキッドは彼から逃れ、床ではためいていたマントを拾い上げると身に着ける。
次いで、同じく転がったままの宝石を取り上げようと腰を屈めた───その時。


「───うわっ!!」
背中にあり得ない圧力を掛けられ、乾いた床に転がされた。

転がされたキッドが見たものは、自分に覆い被さる新一の姿であった。
「もう復活しやがったのかよ!」
「……なら、お前で試す」
キッドの言葉など、新一は聞いていない。
「何だと……?」
「オレに愛を与えるんだ。お前なら出来るだろう?」
「出来るも何も……オレは」
完全にポーカーフェイスが剥げ落ちて、些かガラが悪くなっているのだが、新一は気付かなかった。

「誰が相手でも、ピンと来なかった。二度と手を出そうとは思わなかった。それはつまり、愛が無かったって事だが、オレも誰かを愛そうなんて思わなかった。好きでも嫌いでも、身体は勝手に反応するしな」
キッドの両肩をガッチリ押さえ込んで、新一は話し続ける。
「しかし、オレの事を良く理解しているお前なら、きっと素晴らしい夜になる」
「ならないならないっ───!」
それに、全く理解などしていない。 と言いたいのだが、そう言う前に言葉を封じられた。

「!!!」
これ以上はない距離に新一の顔が見え、キッドは口唇を塞がれている事に気付いた。

「やっ───ヤられるのは、嫌だ!」
「我慢しろ」
キスの途中で喚くキッドに、新一はバッサリと切り捨てる。しかし、キッドも「はいそうですか」で済ませられる問題ではない。
……もちろん、済ます程、墜ちてもいない。
だから。


もう、本気でやるしかない。


───そして、キッドは、二度目の覚悟を決めた。


「工藤……オレの愛を与えて欲しいのなら、これでは無理だ」
「……何」
怪訝に眉を寄せる新一の腕をやんわりとした仕種で、両肩から退かせると、ゆっくりと上体を起こした。逃げないというように、キッドの腕が新一の肩を引き寄せる。
「お前だって、本当は判っているんだろう?これだけ経験を重ねて、それでも満足出来ないのは、お前は元々愛されてこそ花開く身体だと言うことだ」
……陳腐を通り越して、既に腐りきった台詞。言ってる傍から、背中がぞわぞわと総毛立つ。現に口から腐りかけていくかのような感覚に包まれつつも、キッドは頑張って頑張って頑張り抜いた。


「あい……されて……だと?」
頑張った甲斐あって、新一はキッドの餌に興味を持ったようだ。

「それは、どういうコトだ!?」

さあ、ここからが正念場だ。

戸惑いを見せる新一の身体を更に引き寄せ、キッドは腕の中にかき抱くと、キッドは死ぬ気で言い放った。

「オレが、……………お前を抱いてやると言ってんだよ」
「……へ?」

新一にとっては、思ってもみなかった台詞だったのだろう。吃驚眼で見上げてくる新一に、キッドは内なる葛藤を綺麗に押し隠して、嫣然と笑って見せた。

「だが、オレは男だ」
「何人もの男を食ってきた奴の台詞とは思えないな」
「いや、しかし……お前にそんな経験なんてないだろう」
「誰でも最初は初心者だ。それに、用意はしてあるんだろう?」
「……そりゃ、まあ」
言い淀む新一の上着の中に、キッドの手が滑り込む。そして、胸ポケットから、潤滑剤とゴムを取り出した。

(───本気でヤるつもりだったのかよっ!)
改めて、相手の本気を見せつけられて、目眩を感じたキッドだが、───もう、後には引けない。


引けないのだ。


「ほ、本気なのか?」
流石に、それまでの威勢の良さを保ち続けられないのか、新一が戸惑った瞳で訊いてくる。
思わず、渡りに船とばかりに「止めても良いよ」と言ってしまったのだが、途端に組み伏せられそうになったから、慌てて押し倒した。


「だ、大丈夫。オレは今まで一人たりとも相手を傷付けたりはしてないから。……お前も、楽しませてやる」
それは、キッド自身を奮い立たせる為、半分は自分に向けての言葉だったのだが、奇しくも、先程放った新一と同じ台詞だった。

そして、新一はと言うと、初めての体験に、驚愕から脱せないまま、あれよあれよという間に、以下省略──。



結局、キッドが最後の最後に導き出した結論は、「犯られる前に犯ってしまえ!」というもので。

(こっちの方が、まだ男としてのメンツが保てるし)

……どちらにせよ、キッドのプライドもその程度なのは否めない。











ミイラ取りがミイラ、と言うのは、果たしてキッドに当てはめられるべきか、それとも新一か。


「つまりは、すべてAPTX4869が引き起こしたと言えなくもないわね」
キッド……もとい、黒羽快斗は、全ての元凶であるらしい新一の隣家に住む住人から、コーヒーを勧められた。
「お砂糖は、たっぷり。……だったわね」
「……出来ればミルクも」
砂糖壺を差し出す宮野志保に、快斗は憮然とした声で要求する。当然、彼の望みはすぐに叶えられた。


「長年の研究によって、APTX4869の解毒剤を作り上げる事には成功したわ。最初の試薬は、私自身が実験台となって試してみたの。もちろん、工藤君は反対したけれどね」
志保は一息つくと、自らもコーヒーを飲んだ。
「マウス実験では成功したと言っても、人体にどんな影響を及ぼさないとも限らないし、工藤君が先に飲むって言い張ったんだけど、これで失敗して、彼に万が一の事が起きたら、今までの研究が無駄になるし」
志保本人は、元に戻る意志はほとんどなかった。全ては、新一の為に研究を続けてきたのだ。

「私への投薬は成功したわ。その後の数値にも異常は見られなかったし、半年の経過期間をおいて、全てが正常だった事もあって、ようやく私も工藤君に解毒剤を渡したのよ」
結果は、周知の通り。新一は、本来の肉体を取り戻し、心身ともに正常である……ように見えた。

「異変は、その日の夕方。博士が学会から帰宅した時に起きたわ……」
志保は、複雑な眼差しで、あの悪夢の出来事を思い出していた。


新一は、志保の目の前で、コナンから新一へと戻った。その後の検査にも支障はなく、志保自身の成功例から、彼も特に心配する事は無いだろうと思っていた。
新一も元に戻った事で、その喜びからか頬を紅潮させて、感慨深くしみじみと、今までの苦労を志保相手に話していた。

その時だった。博士が帰ってきたのは。

その後の出来事は、志保にとって、正に悪夢であった。
それまで、和やかに談笑していた新一が、博士の顔を見るなり、いきなり襲いかかったのだ。
……あの時。茫然自失してしまった志保の意識が戻るのが、あと半瞬遅れていたら……きっと、彼が第一被害者になっていただろう。

「よりによって、博士に襲いかかるなんて…………私ですらまだ寝込み襲った事ないのに」
後半部分は、志保の口の中だけで呟かれたものだったから、快斗の耳には届かなかった。


工藤新一に男女はおろか年齢まで規制がない。
「中森警部相手にして、ケロッとしているくらいだから……」
考えたくなくとも口にしてしまう快斗に、志保も嘆息する。
「流石に、この時ばかりはご両親が海外で良かったと思ったわよ」
恐らく、親であっても、見境無かっただろう。

「でも、一体どうして」
「彼の脳を調べてみたら、LH-RHが、異常に分泌されていたわ。それだけではなく、新皮質にはもっと顕著に異常が見られたの」
その事から、志保は、本能である性欲と、理性が異常なまでにせめぎ合ってもたらした結果が、この新一の行動だったと結論づけた。

「つまり、子供を作りたいという本能ではなく、快楽を追求したいという感情が優先された。しかし、理性によって、動物的性欲を抑制し、大脳に道徳感を強く受け付けられ、愛のある行為を無意識の内に求め続けていたのね」
だから、見境無く発情するが、相手との二度目は無かったのだ。新一にとって、大脳に詰め込まれて異常増幅した倫理観等が、それ以上の暴走を抑え付けていた。

……普通の人間なら、とっくの昔に精神異常を来していた事だろう。
男と女の違いでこうも副作用に違いが出るなんて、志保も想像していなかった。しかも、新一にとって、唯一志保だけは、その手の対象にはならなかった。
それもこれも、全てAPTXと解毒剤がもたらした結果なのだろう。

でなければ、志保の女としての自尊心が許されない。


「でも、本当に良かったわ。貴方が居なかったら、被害は益々広がる所だった」
僅かに口角を吊り上げてそう言う志保に、快斗は嫌な顔を見せた。

そうなのだ。
キッドと寝てから、新一の奇行はピタリと治まった。それどころか。


「宮野! もう快斗との話は終わったか!?」
突然玄関を開け放ち、大きな声を上げながら、二人のいる居間へとやって来る、件の人物。
「あら、工藤君。……ええ、もう連れて帰ってもらっても構わないわ」
顔を出した新一に、志保はにこやかにそう応えると、コーヒーの残りを飲み干した。

「じゃ、帰ろっか、快斗♪」
ソファの後から腕を回し、快斗の首に巻き付けて、新一が嬉しそうに声を弾ませた。

「早く帰って、いっぱいヤりまくろうぜ!」
嬉々とした表情で、誘いを掛ける新一に、快斗の顔が微妙に強張る。

「工藤君。あなた達の事は何も言わないけれど、他人の居る所では、もう少し慎みを持つべきだと思うわ」
肩を竦めて忠告する志保に、新一は素直に頷いた。

「そうだな、わりぃ。……快斗、帰ったらイイコトいっぱいしような?」
誰もが見惚れるような笑顔で、そう誘いを掛けてくる。快斗は、とんでもない人間に見込まれてしまったと、今更ながらに溜息をついた。
あの夜の一件から、新一の異常行動は無くなったが、その分快斗だけに全てが向けられていたのだ。いくら、若さ溢れる青少年とはいえ、新一の底なしぶりには、ほとほと参る。

「黒羽くん……滋養強壮剤でも処方しましょうか。それとも、性感抑制剤の方が良いかしら?」
後半は、新一に視線を向けたのだが、本人には志保の存在などほとんど認識していないようだった。快斗の首をまとわりついて、ゴロゴロと喉を鳴らしている。

「この状態……何時まで続くんだろ」
一生、このままという訳ではあるまい。こんな異常な性欲を保ち続けられていては、近い将来、快斗は枯れ果てるに違いない。


「快斗……快斗は、オレの事好き?愛してる?」
新一が、うなじや首筋に小さくキスの音を立てながら、快斗に訊いてくる。
「ああ。もう、新一以外は考えたくないよ……」
疲れ切った声で応えたのだが、新一は気付くことなく、パッと、顔を輝かせた。

「良かった。オレも、一生好きだからな!」
「判ってる。新一が一番だよ」

なんだかんだと言って、快斗自身もハマりまくっているのだが、それを自覚するのは、もう少し先の事。


「悪いけど、滋養強壮剤の方、貰える?」



ミイラ取りがミイラになったのは、やはり……。










NOVEL

2005.07.06
Open secret/written by emi

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