永遠の子供 <the eternal child>
<IX>
頬を寄せていた壁の冷たさに平次は目が覚めた。
ぼんやりした頭で、自分の置かれている状況を思い出す。
(あーっと……工藤救急車で運んで毛利の姉ちゃんと病院来て……でアイツ見とって……いつの間にか眠ってしまったんか)
夢も見なかった。余程熟睡していたらしい。
寄りかかっていた病室の壁から身を起こし、首を回して覚醒する。
暗闇の中、カーテン越しに届く淡い光が周囲をぼんやりと浮かび上がらせている。
蘭は自宅へ帰らせた。医師の説明では心配無いとの事だったし、それでも数日入院する以上、彼女には色々と準備する事があるだろうから。
と半ば強制的にタクシーに乗せると彼女はごめんね、と心底済まない顔をしていた。
「……さむ……」
忍び込む寒さに僅か震え、毛布を掛け直す。
「服部」
囁く程小さな声が、静寂の中真っ直ぐ耳に飛び込んできた。
音を立てないように、椅子ごとベッドに近づく。
「……お前、起きとったんか」
仰向けになって天井を、天井よりももっと遠くを見ていた目が、戻ってきた。
彼が目覚めたら言いたい事は山程あった。
けれど、何から言い出せば良いものか分からず、最初に口に出したのは決まりきった文句だった。
「災難やったな」
「別に、頭殴られた位だし」
「下手したらあの世ゆきだったで」
「まだ生きてるし……俺、しぶといから」
コナンはゆっくり上体を起こすと包帯を巻いてある頭に触れ、顔をしかめた。
背中に手を添え、もう一度横たわらせようとしたが少し起きていたいと言われ、手を添えるだけにした。
「ずっと寝っぱなしっていうのも疲れたからさ」
「せやかて……安静にしとき。幸い大きなキズやなかったけど、頭やから」
「分かってるって」
「……分かっとらんからそないな目に遭うんやろ。全く幸運ちゅうか、悪運がついとるんやな。自分の場合」
溜息混じりに言う平次に、コナンは苦笑する。
「まあ、俺も夢を現実からひっぺがす事が出来たさかい、良しとするけど」
「だから、悪かったって」
「本気で言うてないし」
「―――サンキュ、な。服部」
「………」
だからといって素直に感謝されても、今度はこちらが対応に困る。
少しの間、沈黙が下りた。
「なあ」
「ん?」
遠くを見ながら、コナンが言う。
「……黄莉ちゃん、どうした?」
「―――紅莉サンの事は聞かへんのやな」
「だって自首したんだろ?」
事も無げにコナンは言う。紅莉の告白を、おそらく切れ切れには聞いていたのだろう。
それでも、言い切る自信があるあたり流石というか。
「ま、な。……黄莉ちゃん、今の時間に焦点が合ったよな顔つきになってきとったで。まだ混乱は続くにしても」
「そっか。―――永遠から抜け出たんだな」
コナンは目を瞑って微笑んだ。
「俺は―――まだ抜け出せない」
「………」
ああ、そうか。
抜け出た彼女への、喜びと羨望と寂しさをないまぜにした表情だ、これは。
「抜け出せるのかな、俺は」
聞く者を想定していない、独り言のような呟き。
平次は黙って先を促す。
「俺自体が―――『江戸川コナン』という器に収まるよう、変化しているのかもしれない、って最近思う事があるんだ」
「……弱気やな」
反発を期待して掛けた言葉にも、手応えは無い。コナンは口元を歪ませた。
「そりゃあ、怖いよ。もしかしたら永久に『工藤新一』には戻れないかも、って考える時とか」
「………」
「でも、それでも。このまま成長していくんならまだいい。以前の俺じゃなくても、俺に近いモノにはなれるから。……けれど、―――もし。ずっと、ずっとこのままだったら……」
堰を切って喋るコナンを止めたいのか止めたくないのか分からず、只振り向いて欲しくて名前を呼んだ。
「工藤」
「俺は永遠に子供のまま、成長もしない……ピーターパンの国にでも逃げるしかないだろ?」
永遠の、子供。
今までずっと、自分の内に溜め込んでいたその可能性。言葉にすれば、希望が逃げてゆくと思っていたのかもしれない。
上掛けをつかんでいる小さな手を握る。ひやりとした手に、少しでも体温を移したかった。
「工藤」
「不意にそんな事思って、震えが止まらない時もある位……」
居ても立ってもいられず、小さい子供の身体に手を回して抱きしめた。
無性に頭を撫でたい、と思った。怪我さえしていなければ、ずっと撫でてやれるのに。
泣いてしまえばいい、と思った。怪我のせいに出来る、今なら。
「……泣いてもええよ、工藤」
「ああ、泣けたらどんなに楽かって思う事もあるけど……俺、泣く事が出来ないから……」
息を飲んでコナンの顔を見る。どこか虚ろな、その表情。
「―――」
「そりゃ、欠伸したり目を擦ったりすれば自然現象として涙は出るよ。でも、悲しくて涙が出る、っていう事が良く分からない―――から、出来なくて、ッ」
唇を塞ぐ。せめて言葉を吸い取ってしまいたくて。
身体と同時に、心も子供になっていればまだ幸せだったかもしれなかったのに。
「永遠」に取り込まれなかった心の苦しみを担う事も出来ないでいる、そんな自分が遣る瀬無くて、だから―――
離した唇から、吐息が漏れた。
「―――な、に」
「……もう寝とき」
呆然としているコナンを、横たわらせ、寝かしつける。
「朝まで、一緒居たるから」
「……うん」
感情を吐きだして疲れたのか、惑う中でもコナンは目を閉じるとすぐに意識を無くしたようだった。
規則正しい寝息を確かめ、平次は息を吐いた。
「―――さて……どないしよ……」
熱い顔に手をやって、途方に暮れる。
表情を悟られずに済んだのは助かったが、自分でも、どうしてあんな事をしたのか分からない。
ワザとではなく―――けれどわざわざ―――いやしかし。
ぐるぐると言葉の断片が頭で渦巻いて止まらない。どうにも混乱している。
「夢やと思うてくれへんかな―――工藤……」
とにかく、それを祈るしかなかった。
カーテンの隙間から光が差し込んだ。
目を射るような眩しさに、カーテンを直そうと窓に近づく。
覗いた隙間から空が見えた。
「夜明け―――や」
空を覆っていた青が薄れ、紅い色がざわざわと昇ってきた。