あ た た か な ご ち そ う (2)
つづく→
すっかり日が暮れて、夕焼け空の上の方に星が瞬きだした頃、剣道部の練習が終わって頼忠が体育館から出てきました。これでも普段に比べれば早いほう。今は試験中なので、クラブの練習は5時半までと決められているのです。頼忠は竹刀や道具類をキチンとロッカーに片付けると、先生方に挨拶をして校門に向かいました。この学校でただ一人、全国大会でベスト3を狙える腕を持つ彼は、どちらかというと試験勉強よりも剣道の練習の方に力が入っているようです。
下駄箱の前で使い込んだスニーカーを履いた所で、今しがた校外のコースから戻ってきたばかりの陸上部の面々と鉢合わせました。彼らも試験の一月後に控えている大会のために猛練習をしている所です。その部員達を引率していた主将らしき人が頼忠に声を掛けました。
「あ、源。お前さ、弟君と会う約束でもしてたか?」
「?…いや…。」
いきなりの質問に真意が飲み込めず、頼忠は不審そうに眉をひそめます。
「そうかぁ?おかしいなぁ」
「どうしたんだ、一体」
「ランニングの途中でさ、すれ違ったんだよ、よく似た子に。D校の制服だったし髪型も同じだったし眼鏡しててさ。でも、こことは反対の方向に泣きそうな顔して全速力で走っていったから声を掛けようもなくて」
主将がそう言った途端、普段物静かな頼忠が目をカッと見開いて叫びました。
「どっちだ!?いつ頃っ?」
「駅の東口からちょっと行った住宅街だよ、ほれ、F地区のあたり。今から30分くらい前かな」
聞くが早いか、頼忠は飛び出していきました。素晴らしいダッシュです。探すの手伝おうか、と声を掛けた時にはもう校門から頼忠の姿は消えていました。
「……あいつ短距離でも行けるよ…勿体ないなぁ」
背後でみしり、と音がします。怯えきった幸鷹君が振り向くと、そこには古い窓枠があるだけでした。この公民館はすっかり古びていて、あちこち軋んでいるのです。安堵の息を吐き出したい所ですが、その吐息すらあの恐ろしい男に聞かれてはと幸鷹君は無理に息を殺しました。
もうすっかり日は暮れて、辺りはさっきまで残っていた夕焼けの気配もすっかり消し去られてしまいました。
どうしよう。
さっきまではまだ通行人がチラホラいたのに、今は殆ど通る人がありません。希に通る人も全部サラリーマンのおじさんで、暗い道路灯の光ではみんな、さっきの怖い男のように見えてしまうのです。
お腹も空いてきました。制服だけで出てきた幸鷹君は夜になったらきっと寒くて凍えてしまうでしょう。それに……
お父さんやお母さんは何と言うでしょう。とても心配して、その上すごくすごく怒られるに違いありません。それにもし、この事が叔父さんの耳にでも入ったりしたら。全然悪くない頼忠が叱られるかも知れないのです。叔父さんは幸鷹君のおうちに引き取られた頼忠に対して、特に厳しいものですから…
ひっく。
涙がぽろぽろとこぼれます。小学生に似合わず聡明な幸鷹君も、今の状況はいかんともしがたいのです。誰に助けを求めたらいいのか、さっぱり解らないのです。抑えようとしても抑えきれない嗚咽を口を袖に沈み込ませることでふせぎ、幸鷹君が膝をもう一段深く抱え込もうと腰を浮かせたその時。
『……さん…っ』
遠くから、声が聞こえました。
『ゆき……か…さん!』
1年程前に変わってしまった低い声、でも必死な様子が見て取れる焦った声です。でも幸鷹君がいつも聞いている声に間違いありません。その声はあわただしい靴音と共に段々近付いてきて、ついに至近距離で聞こえました。
幸鷹君は必死で頼忠の名を叫んで、今の今まで潜んでいた掲示板の影から飛び出しました。
「…幸鷹さん!!」
公民館の暗い影からそれこそ転がるようにまろび出てきた幸鷹君を見て、頼忠はすごい勢いで駆けつけてきます。そして、幸鷹君よりもずっと大きな体で包み込むように抱きしめてくれました。
「……よ…かった、見つかって…っ…!」
「…おうちに電話しても…誰も出なくて…藤原先生も奥様もまだ病院だと言うし…っ…どんなに心配したか…」
頼忠は暴風のような息を吐き出しながら、それでも安堵の表情を浮かべて幸鷹君の細い身体をキュッと抱いてくれます。幸鷹君の今まで冷えていた身体が、じんわりと温められていくようです。
ここにいたって初めて、幸鷹君は大きな声で泣きました。安心したのと、不安が去ったのと、ごちゃ混ぜになった感情がグルグルと頭の中を渦巻いていますが、この腕の中にいれば安心なのです。今までどんなに怖かったか、寂しかったかを思い出したらもう涙が止まりません。
幸鷹君の大粒の涙は頼忠の学生服に大きな染みを作ってしまいましたが、それでも頼忠はじっと幸鷹君を抱きしめたままでした。とても優しい笑顔のままで。
どれくらい泣いたでしょうか。ようやくしゃっくりが治まった幸鷹君を頼忠はおんぶしてくれました。幸鷹君が滅茶苦茶に走り回ったせいで駅からは随分離れてしまいましたが。 長い時間、頼忠は幸鷹君をおぶって薄暗い住宅街を歩き、やっと駅に着きました。幸鷹君は、もう大丈夫、歩けますといって下ろしてくれるように頼忠に言いましたが、頼忠は笑って頭を振るばかりでした。
幸鷹君をおんぶしたまま、頼忠は駅の公衆電話に近付いていきます。ポケットからカードを取り出すと幸鷹君もよく知っている番号をピ、ポ、パと押しました。お父さんとお母さんの病院の番号です。
「……お忙しい所すみませんが、藤原先生を。…家の者です」
大人の人みたいに代表の人に挨拶をして、頼忠はお父さんに電話を繋げて貰ったようでした。幸鷹君が無断で遠出をして、挙げ句迷子になったことは一言も言わずに、頼忠は幸鷹君がまだ御飯を食べていないこと、どう過ごしたらよいかをお父さんに確認をとって電話を切りました。
「お父さん、怒ってた……?」
幸鷹君は怖々聞きました。お父さんは普段はとても優しいのですが、怒るととても怖いのです。何年か前、口答えした幸鷹君を真っ暗な押入にほおりこんだ事もあります。
「大丈夫ですよ。幸鷹さんと駅に出てきたとだけ言いましたから。…今日のことは内緒です」
頼忠は言って、やっと幸鷹君を背中から下ろしてくれました。そしてホオッと息を吐き出した幸鷹君の頭を撫でて。
「今日は楽しみにされていた夕食会が駄目になってしまいましたけれど、かわりに美味しいラーメン屋に行きませんか?藤原先生が今日は幸鷹さんと一緒に外食するようにと仰ってましたから」
ラーメン屋さん?頼忠と一緒に晩御飯を?
何て素敵な提案でしょう。幸鷹君はラーメン屋さんに行くのも初めてなら、頼忠と二人だけでお外で食事をするのも初めてなのです。いつも小学校の帰りに前を通るラーメン屋さんは、とても美味しそうな香りがして中に入って食べている人達はみんな頼忠と同じような大きなお兄ちゃんかお父さんぐらいのおじさんばかりでした。
幸鷹君にとっては、子供だけでは行けない大人のお店です。そこに、今から頼忠が連れて行ってくれるというのです。
ブンブンと幸鷹君は頷いて、先程の涙はどこへやら、期待でキラキラしている小さな瞳を頼忠に向けました。
「では、俺の贔屓の店に行きましょう。小さなサイズのもあったはずですから」