時はさかのぼり、2001年4月7日。
晴天。
AM7:50。
よく晴れた青い空の下、森和彦は"I won't you back"のメロディを口笛で吹きながら長い坂を下っていた。少し汗ばむ春の陽気に、学生服のボタンを二つ開けている。緩やかな風が桜の葉を躍らせ、柔らかな香りを運んでくれた。気分は上々。つい、口笛にも力が入る。
長い坂を下り、3軒目の家が和彦の悪友、千成比呂の家だ。朝の苦手な悪友を起こすために、優しい和彦は早起きしてかいがいしく迎えにいく―――というのは建前で、単純にいつもよりも早く目が冷めてしまっただけだ。あまり早く目がさめてしまうと手持ち無沙汰。迎えに行くのはいわゆる”暇つぶし”のためだった。
新学年。
和彦と比呂はめでたく今年、3年生に進級する。そして、和彦が楽しみにしているのはクラス替え。”新しい出会い”に期待し、浮かれていた。口元は自然に緩み、まだ見ぬクラスの名簿に、可愛い女の子の名前がならぶサマを妄想していた。桜が本当によく似合うアホ面で、和彦は比呂の家のチャイムを鳴らす。
「ちーなーりくーん。あーそーぼー。」
応答はなし。やっぱりね、という顔で和彦は鉄製のしゃれた門を押し開け、3段ばかりの階段をひょいと一足で上がった。ふと、ドアの前に張り紙がしてあるのが見える。
”絵里ちゃん。バカ息子がまだ寝てる。
頼む。 いつもごめんね☆ダンディパパ”
いつもの光景。体の大きさからは想像のつかないマメさをみせる、父親の置手紙・・・もとい、貼り手紙だ。”小さな頃から比呂を起こすのは絵里ちゃんの役目だ”と普段から言っているとおり、絵里の朝は寝起き番長との対決から始まる。貼り手紙があるところをみると絵里はまだ来ていないようだった。
小出絵里。
成績は優秀な部類。先生の受けもよく、優等生。気取ったところがないのが和彦も気に入っていた。毎朝遅刻寸前で教室に飛び込んでくるのは、隣に住んでる寝坊番長のせいだ。二人には幼馴染という間柄を超えたものがあることは、誰の目からも明らかだった。当然和彦も、絵里の親友”松本朋美”も気付いていた。
「あんな寝起きの悪いチェーンスモーカーのどこがいいわけ?」
と、和彦が聞くたびに絵里は顔を真っ赤にし否定するが、デキているのは一目瞭然。お互いの気持ちを知らないのは当人達だけかも知れない。
和彦が鍵のかかっていないドアをあけると、再び張り紙。
”俺は起こした!起きないオマエが悪い!
俺は先にいく!鍵かけろよバカ息子!”
和彦は呆れて苦笑した。・・・愉快な親子だな・・・。
比呂の家に住んでいるのはこの愉快な親父と比呂だけだ。母親は小さな頃に亡くなったと聞いていた。そのわりには片付いている玄関で靴を脱ぎ、目の前の階段をひょいひょいと上る。階段を上りきると一番手前の部屋が比呂の部屋だ。ドアノブには"Don't
desterve(起こさないで)"の札がかかっているが、構わずに開ける。と、部屋の中は煙のすえた匂いが充満していた。
「くさっ。換気くらいしろや・・・。」
和彦はぶつぶつと文句を言いながら暗い部屋を見渡す。
比呂は、布団に包まり身動きひとつせずに寝息を立てている。和彦は寝坊番長への挑戦を前に軽く深呼吸。手始めに窓のカーテンを全開にした。
朝の心地よい光が据えた匂いのする部屋に差し込む。いつもどおり、ある程度片付けられた部屋にはCDやら、エアガンやら、アーミー雑誌やらが、キレイにはとはいえないが棚に収まっているのが見えた。さらにサッシをあけ、少しだけひんやりとした朝の空気を部屋に入れる。
光が差し込み、明るい部屋になっても比呂は一度寝苦しそうに、う〜んとうなったきりだった。
とりあえず、正攻法。
和彦は比呂の布団を引っぺがそうとする。
比呂は目を覚ましたのか必死に抵抗をはじめる。和彦は布団を引っ張り上げながら
「朝だっての。起きろや。」
と告げた。
「う・・・起きない・・・寝る。」
比呂は眠そうな声でそう答える。
「起きないじゃねっつーの。ガッコだ。起きろ。」
「ガッコ?いかねー。寝る。」
「あほかっ、新学年初日から遅刻すんじゃねー。」
「やだ。寝る。俺は・・・眠いんだ。」
「なんだその理屈はっ、せっかく起こしに来てやってるのに。」
「眠い、起きたくない。だから、寝る。ほっといてくれ。」
「うるせー、俺がわざわざ起こしに来てやってんだぞ?起きろや。」
「・・・。」
「てめっ、寝やがったな?おきろっつの・・・。」
「声・・・でかいって・・・。」
「朝だ。ガッコだ。起きろ。」
「・・・やっぷー。」
「・・・。」
和彦は頭に上る血を必死に下げようと、布団を離し深呼吸をした。気を取り直し、もう一度トライ。
「な、なぁ、新学年のアタマっから遅刻じゃかっこわりーだろ?」
「・・・それは俺の問題だ・・・。」
「大体2年の時、オマエ遅刻の回数3桁超えてんだぞ?」
「・・・おー凄いな・・・俺・・・。」
「・・・。」
「・・・。」
「高校いけねーぞ?」
「じゃ、いかねー。」
「ガキじゃねーんだからよ・・・。」
「和に言われちゃおしまいだな。」
和彦は空を仰いだ。胸に湧き上がった殺意を何とかやり過ごす。このバカをほっといて学校へいこう。そう決めた。
そんな和彦の耳に、とんとんと階段を駆け上がる足音と、聞き覚えのある声が聞こえた。
絵里の声だ。
「比呂ー?起きてるー?」
勢いよくドアが開く。
「わ・・・。びっくりした。和君いたの?」
ほんとに驚いたのか、持っていた鞄をどすんと床に落とし、口に手を当てた。
「おはよ・・・。」
和彦は元気のない声で軽く手をあげ、挨拶。
絵里は比呂のベッドを見、溜息をつきながら
「やっぱり、まだ寝てるか・・・。」
と言い、かばんを拾い上げた。
「挑戦したんだ・・・。アレに・・・。」
哀れむような声で絵里は和彦に尋ねる。
「うん・・・。力不足でしたけど・・・。」
「それじゃーお姉さんがお手本をみせてあげよう。」
と、絵里は和彦にいたずらっぽく微笑んだ。
「よろしくお願いします。」
和彦は深々と頭を下げた。
絵里はすっと比呂の机の上から、ガスガンを取り上げる。そして、グリップのボタンを押し、マガジンを排出した。
「比呂?起きた?」
「・・・寝てる・・・。」
「あそ。」
マガジンから大量のBB弾をばらばらとゴミ箱に捨てながら、和彦に尋ねる。
「ペイント弾ってどれ?」
和彦は疑問符を飛ばしながら、すっと机の上の真新しいペイント弾の箱を指差す。比呂や比呂の親父さんとサバイバルゲームで遊ぶ時に使うものだ。
「ありがと。」
絵里はそういいながら空のマガジンにペイント弾をじゃらじゃらと流し込む。そしてブローバックアクション。照準を比呂に合わせ、こう告げた。
「あなたには3秒間の猶予を与えます。布団から出なさい。」
洋画の警察官が犯人に銃を突きつけるようなセリフを、簡潔明瞭に言い放つ。最近洋モノのガンアクションにはまっている、と絵里が言っていたのを思い出した。
比呂は恐る恐る尋ねる。
「・・・絵里・・・ペイント弾入れた?」
「入れた。」
比呂の頭にあの惨事がフラッシュバックされる。
真っ赤に染まる布団。
けたけたと爆笑する、絵里。
「ペイント弾って洗濯して落ちるの?」という無邪気な声。
親父に殴られた右頬。
真っ赤なパジャマ。
洗濯機の前で聞いた”グオングオン”という寂しすぎる音。
そう、2学年最後の終業式の日に絵里はペイント弾を撃った。同じケースで。しかも、その布団は羽毛の、高い、お客様用掛け布団。寒いからと父親に内緒で引っ張り出してきたものだった。クリーニングに出しても、結局シミは全て落ちずに、比呂は半年間の減棒(お小遣い一部カット)処分となった。そして、今、比呂が掛けているのは同じく"お客様用羽毛肌がけ布団”。もちろん父親には内緒。比呂は恐る恐るもう一度尋ねる。
「撃つ?」
「起きなきゃ、撃つ。」
比呂は飛び起きる。そして両手をあたまに乗せ、ずるずると布団から出た。
絵里は満面の笑みで
「おはようっ」
と言った。
和彦は羨望の眼差しで拍手を送った。
「きったねぇ・・・」
寝癖のまま、比呂はうわごとのように呟いた。
「しばらくはコレで遅刻はなくなるかもね?」
と、けたけたと笑う絵里に聞こえないように、比呂は呟く。
「鬼だよアンタ・・・」