第5章:最後に(第1節)

初版2007年5月1日 第2版2007年5月24日 著者:草加床ノ間


賭博とは何か

 賭博に対して,皆さんはマイナスのイメージをお持ちにように思う。そのようなイメージをふまえたうえで,私の賭博についての考えを述べる。

 まず,マイナスイメージの最大原因は刑法185条の存在であろう。(※1)

第185条(賭博)
賭博をした者は,50万円以下の罰金又は科料に処する。 ただし,一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは,この限りでない。

 ちなみに麻雀が賭博として判例にあがったのは1931年(昭和6年)5月2日である(※2)。また,昔は現行犯でしか逮捕することができなかったが,今は証拠でも逮捕できる。

 この条文の主旨は,射倖を戒めるものである。

 大人のダークな世界を説明するつもりではないが,賭け麻雀があおる射倖心なんて,株,競馬などの公営競技,パチンコ,ジャンボ宝くじなどの公営くじに比べたら無に等しい。しかも,今挙げたものでパチンコ以外は刑法に抵触しない。

 競馬などの公営競技は競馬法などの公益競技を制定する法律によって,刑法35条の「法令又は正当な業務による行為は,罰しない。」に基づき違法性を除外するからくりを設けている。刑法185条か187条の富くじ発売のどちらかの除外かは議論の分かれるところだが。公営くじは明らかに187条の除外だ。

 パチンコにはからくりはない。特殊景品はからくりの一部かもしれないが,パチンコ以外でこのシステムを使ったら間違いなくお縄になる。刑法に抵触するが,警察が許しているという本当にダークなものである。

 株は賭博という土台にさえ上らない。しかし,あおられる射倖心は巨大だ。何故これが刑法185条に抵触しないのか不思議で仕方がない。

 本当に,射倖を戒める主旨はどこへやら。こんなに例外ばかり作るのだったら刑法185条なんてやめてしまえと言いたい。胴元の利益で目が眩んでいるに違いない。愚かな大人たちよ。行政側に都合の良い賭博だけ認めているようなのは絶対におかしい。

 そういうこともあってかどうかは分からないが,世の中の麻雀荘では,何がしかのレートがあることは警察もよく分かっている。刑法185条はザルだ。賭け麻雀は確かに185条に抵触するが,185条自体がこの状態では威厳も何もない。

 第2によく言われるマイナスイメージは,勝者と敗者の金銭授受が行われることによって,人間関係に良くない影響を与えるというもの。

 私が上記で挙げた競馬やパチンコは賭け麻雀と違い,全て胴元が介在し金銭の管理を行うので,実際は敗者が勝者の金銭負担をしているが,どの敗者がどの勝者に金銭を渡しているかは分かり得ない。従って,2人でパチンコへ行き1人が勝ってもう1人が負けたとしても,その勝者が敗者の金銭を取ったとは考えにくい。

 麻雀などの対人競技で賭けを行えば,勝負の結果の対価として勝者と敗者の金銭授受が行われる。はっきり言えば,これが嫌な人は賭博に対する心構えがなっていない人で,対人競技の賭博などやる資格はない。

 賭博に対する心構えを,格闘技を例に出し説明したい。

 格闘技は当然ながら相手を攻撃し肉体的にダメージを与える。通常生活で,理由無くそのようなことをすれば相手は怒るし,人間関係は破綻するだろう。

 格闘家は,試合で相手の攻撃をくらいダメージを被ったとしても,それは自分が未熟であるためと思い,相手に対し怒りや不快感などを覚えるに至らない。

 同じく,賭博に対する心構えを持った人なら,自分が負けて金銭を払う結果になったとしても,それは自分が未熟であるためと思い,相手に対し怒りや不快感などを覚えるに至らない・・・ということである。

 あと三つ項目を挙げたいが,その一つは平等の精神である。麻雀で言えば,卓上の4人は年齢や地位や性別にかかわらず平等であり,相手を見て和了を見送ったりなどは有り得ない。

 二つ目は,不調な人がいても手加減してはならない。心構えのある人にとって,手加減されることほど屈辱なものはないからだ。そして,後から「かわいそうだから手加減してやった」なんて言うのは最悪にも程がある。

 社交辞令なら問題ないが,本気で自分は弱いからお手柔らかになんて思っているとすれば恥以外のなにものでもない。

 三つ目は,心構えがなってない人をメンバーに入れてはいけない。当然といえば当然だが。

 格闘技に話が戻るが,練習ならともかくプロの試合でプロテクターを付けることはない(グローブは別)。

 プロテクターがあれば事故は少ないが,プロテクターがあるため気持ちに隙ができる。

 麻雀などの対人競技も,賭けをしないとは聞こえが良いが所詮エキジビションゲームであり,自分の成績に応じた報酬がないため気持ちに隙ができる。

 自分に報酬やダメージがなければ,真剣勝負にはならない。大衆に晒された競技麻雀に出るのなら,優勝という報酬を得ようとして気合いが入るところではあるが,個人の集合ではそこまでする機会がほとんどない。

 そこで,個人の集合で報酬やダメージを発生させる方法が,金銭を賭けることなのである。

 それは仕事に歩合制をとるようなものである。何がしかの見返りがあれば,仕事も気合いが入る。

 確かに,賭けをしなくても常に全力の人もいるだろう。良い仕事をしていて怠けている人と同じ給料でも,良い仕事を続けることができる人もいよう。

 残念ながら,そういう人たちばかりの世界はない。ユートピアだ。

 分かっていただけると思うが,射倖心を満たす目的で賭博をするわけではないのだ。それは,相手を怪我させるために格闘技の試合をするわけではないのと同じことである。

 格闘技の試合は刑法35条により,暴行罪や傷害罪の適用除外になる判例が出ているが,射倖心を満たす目的ではない賭博もなんとかならないものかと思ってしまう。

 人生は奇麗事ばかりではない。

 社会に出れば,ほとんどの場合,競争は避けることはできない。その競争も紳士的になされているかといえば,そうではなく,汚い欲望が渦巻く醜い争いも多い。

 いま,私にはにわかに信じがたいが,順位をつけない運動会や主役を作らないお遊戯会があるそうだ。そういう教育を受けてきた人たちは,競争社会に適応できるのか他人事ながら心配である。

 私は小さいときから賭博をしていたが,トラブルも結構あった。実は,そのときのトラブルの経験は社会人になってから生きている。また,賭博で培った勝負勘も生きている。人間,揉まれなければ大きくなれない。

 だからと言って,賭博を勧めているわけではないが,全ての賭博が射倖心を満たすためにあるわけではなく,一方的に目の敵にして撲滅していいものではないことは分かっていただけると思う。

 まとめとして,賭博の心構えを整理しておこう。

 1.金銭の授受に関し,自分が負けても勝った相手に敬意を払うことができ,勝っても傲慢になることはないこと。
 2.相手は平等に扱い,手加減をしないこと。
 3.上記2項目の賭博の心構えがないと分かっている人と対戦しないこと。


(※1)

 刑法は1994年6月1日に現在の口語体の平易な条文になって施行された。

 実は私はその前の条文のほうが好きで,条文は

 「偶然の輸贏に関し財物を以て博戯又は賭事を為したる者は50万円以下の罰金又は科料に処す。 但一時の娯楽に供する物を賭したる者は此限に在らす。」(原文のカタカナをひらがなで,句読点を補助して表記している)

である。輸贏は「ゆえい」もしくは「しゅえい」と読まれ,「輸」は負け,「贏」は勝ちを意味し,「偶然の輸贏」とは偶然に支配される勝負のことである。

 つまり,偶然に支配されないイカサマでなど勝利する人が決まっていた場合では詐欺罪が適用されることになる。もちろん,現在もである。

 私は輸贏という言葉から「輸」は負けを意味することを知ったが,それで親が流れる「輸荘」の意味も同時に分かった。荘家(親)が負けるということなんだと。漢字とは奥が深いものだ。

(※2)

 昭和6年(れ)239号

 麻雀遊戯の勝敗は技術の優劣,経験の深浅に関係する所なきに非らずといえども,その勝敗が主として偶然の事項に基づくものなること,また公知の事実に属す。故に原判決が金銭を賭したる麻雀遊戯をもって偶然の輸贏を争うものと為したるは相当なり。(原文のカタカナをひらがなで,句読点を補助し難読漢字をひらがなにて表記している)


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