その日、早朝の霧は濃かった。
立ち向かうべき敵がすぐそこまで迫っているとわかっているのに、その姿を確かめることが出来ず、岸に集まった漁師たちの間に不安が高まっていた。
村と周辺の住民の、かなりの数が集まっているというのに、ちゃぷちゃぷという水音が聞こえるほど静まりかえっていた。半数は、戦争中の装備の名残と言った感じの軽鎧や戦槍を持っていたが、残りは漁民らしい身なりに魚を突く銛や棒、長包丁を持っているものもいた。
一人だけ、恐れる様子もなく、舟の舳先に立っていた男は、長い槍にもたれたまま煙草に火を付けていた。
「ちっ、つまらねえことになっちまったな。…おい、ヤム・クー、あいつらはまだ来ねえのかよ?」
「身支度が済み次第、舟を出すって言ってましたからねえ。ぼちぼち来るんじゃねえですか」
こちらも、さして緊張している風でもなく、声をかけられた男が答えた。
「だいたいねえ、賊どもが来るってわかったときに、『逃げるなんざ男じゃねえ!』って叫んだのは、アニキじゃあねえですか」
「んー?そうだったか?」
そう言って、男は笑った。連れの男も、笑った。
「来たぞー!!湖賊のやつらの舟だ!!」
鋭い叫び声が、もやの中から響いた。一斉に漁師たちが動き出した。
タイ・ホーも一瞬のうちに笑いを煙草と共に投げ捨て、槍を構えた。
戦闘は、明らかに湖賊=帝国兵残党の方に分があった。成り下がったとはいえ、やはり戦闘を生業としていた者たちである。数的には上回っていた漁師たちも、戦闘開始から間もなく押され始めていた。
「こりゃあ、アンジーたちに声を掛けといて正解だったな。…問題は、奴らが着くまで保つかどうか、ってとこだがな」
血に染まった槍を引き上げ、舟を操りながらタイ・ホーがぼやいた。ただ槍を振り回すだけの勝負なら自信があったが、弓兵や少ないながらも魔法兵の混じった帝国軍相手では、やはり不利と言わざるを得ない。
もう少し、敵の動きが早く読めたなら、共和国水軍に助けを求めることもできただろうに…。仕方のないことながら、どうしても思いがそこへ行く。水面に浮かんだ仲間たちの屍を見る度にそう思った。守りたいものを守るために命を落とす、それは正しいことなのかも知れないが…納得できることではない。
「このままじゃあ率悪くていけねえや。ばらけますぜ」
から船が漂ってくるのを見て、ヤム・クーが言った。
「おう、気を付けろよ」とタイ・ホーが答えるのも待たずに、もう向こうの舟に飛び移っていた。
よくもまあ、あの身体でああいうマネをして舟を覆さないものだ、と感心しているうちに、霧の中から沸くように新手の湖賊たちの舟が現れた。
「ンのやろう…!!」
勢いよく一漕ぎすると、槍を引き寄せて衝撃に備えた。
アンジーがトランの城からカクの街に着いたときには、もう乱戦状態になっていた。
彼が手下のものに大声で下知をし、全員が威勢良く答える。以前と少しも変わらない反応、水の上を滑るように、敵に向かっていく船団を満足そうに一瞥し、アンジーは己も武器を構えた。
数人ずつを乗せた機動性の良い小型船の十数隻が、引き込まれるように戦場に滑り込んでいく。
湖賊の舟にぶつかると、各々が長槍を振り回して敵を水に叩き落としたり、敵方に飛び移って斬りかかったりする。湖賊たちに劣らず水上戦に長けた彼らは、飛び交う矢や時折発せられる魔法に恐れることなく、敵に躍りかかった。
「ようやく来やがったな!」
湖賊の舟の上で、剣を携えた元兵士と対峙していたタイ・ホーは、どよめく怒号を耳にしてつぶやいた。
余裕の笑みが浮かぶ。
逆に追いつめられた表情を浮かべた元兵士が、自棄の雄叫びを上げながら突っ込んできた。狭い船上では、とっさに避けるなどという芸当は不可能だったが、刀に対して槍で向かう有利さがタイ・ホーに落ち着いた動きを許していた。
槍が一閃すると、元兵士の湖賊は血しぶきを上げながら湖面めがけて転げ落ちる。
「アニキっ!!」
ほっと一息ついたその背中に、義弟からの悲鳴に似た声がかかった。はっと振り向くと、いつの間にか背後に付けていた湖賊の舟に乗った弓兵が、弓を構えていた。
逃げ場はない。
槍をかざしてはみたものの、もうダメか、という思いが背筋を凍らせた。帝国兵の使っていた強い弓は、槍などでかわせるものではないことを経験上知っていた。
歯を食いしばって、身構える。こんなものか、という諦念と、まだ終わってねえ、という未練が一瞬せめぎ合った。
が、その瞬間、眩い光と共に耳を圧する爆音があたりに響いた。天から伸びる細い閃光は、数条にも及んで、敵の舟を貫いていた。
「も、紋章か!?」
爆煙と激しい臭気の向こうから、ヤム・クーの笑顔が現れる。鮮やかに漁船をあやつってタイ・ホーのいる舟に付けた。
「大丈夫でした?」
「おめえ…それ……」
義弟の左の手の甲には、かつて従軍したときに貸与された紋章がそのままあった。
「便利そうなんで、返さなかったんで。ま、才能が無いんで使える回数は少ねえですが」
「危ねえやつだな。」笑いながら義兄は答える。
「水か何か、回復する奴のほうが、普段役に立ったんじゃねえのか?」
「いいじゃねえですか、今役に立ったんだし」
ヤム・クーが口を尖らせた。
「そりゃそうだが…じゃ、まあもう一踏ん張り、気合い入れようぜ」
二人は、戦いの続く湖上を振り返った。
短時間のうちに、形勢は見事逆転していた。魔法も矢も打ち尽くし、それでも残る得物で対抗しようとする湖賊を追いつめてゆく。
「投降しろ!!」
アンジーは、指揮船と思われるのを追いながら、大声で叫んだ。明らかに雑兵とは格の違いそうな男が、かすかに振り向いた。
「頭領、あまり追い詰めねえほうが…」気遣わしげに、漕ぎ手である部下が声をかける。だがアンジーは首を振った。
「下っ端なら見逃しても良いが、組織力のある奴を逃したら、また同じことをやる。」
かつての己の姿を想起しながら言った。そして、立場の逆転した相手と己のことを考えると、不思議な因縁すらあるような気がした。
機動性を重視し、手も十分にかけてあるアンジーの舟は、すぐさま敵の指揮船に並ぶ。両者の目が合い、やがて敵は漕ぎ手に停止を命じた。
アンジーも敵の舟に合わせた動きを手下に命じた。
相手が長槍を握るのを見、アンジーも鬼神槍をゆっくりと構えた。
いつの間にか、あたりには、空舟が吹き寄せられるように集まってきていた。死体を運ばない棺桶のようだった。
何の合図もなく、戦いは始まる。
烈しい気合いとともに、敵の長槍が突き出される。
一般的な槍とは違い、突く打つ両方の攻撃に対応した、重い槍である。船上では、受け流すのもかわすのも容易ではない。その上、アンジーの持つ鬼神槍は長さで劣る分、不利だった。
重い長槍をもって激しく薙ぎ、それを重さを感じない速度で引く。さすがに伊達ではない、と相手の力量に舌を巻く。引かれたと思った槍は、恐ろしい勢いでまた突き出されていた。
避けられない。
アンジーはとっさに、鎖状に繋いだ連結部分を強く張って、長槍の刃を受けた。重い衝撃が腕の筋肉を固く強ばらせる。重心を下げ、はじき飛ばされそうになる身体を懸命に支えた。力が拮抗する一瞬、そして不意に引かれる刃の感触を腕に感じると同時に、鬼神槍に大きく弧を描かせて敵を打とうとする。が、敵は大きくバランスを崩しながらも身と槍を同時に引き、鬼神槍の鋭い切っ先は今一歩のところで届かなかった。
「ち…おい、舟を向こうに寄せろ!」
漕ぎ手に命じた。
「しかし、それは…」
「このままの間合いじゃあ、焦れってえ。乗り込んでやる。早くしろ!」
躊躇する手下を叱咤し、アンジーは船端に足をかけて飛び移る体勢を既に整えていた。
舟と舟が間合いを詰める。敵は、槍を引いて相手が近づくのをじっと待っていた。
アンジーは唇を湿らせると、鬼神槍を強く握り直す。飛び移ることの出来る間は一瞬だ。
向こうの漕ぎ手は、すでに漕ぐことを忘れて、戦闘に見入っている。
引き寄せ合うように二つの舟がすっと寄ったその時、敵の長槍が躍った。
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