Season Come.
 






「あっちー、窓、開けろよ」

 部屋に着いた途端、啓介は大袈裟な声を出した。
 三十五度を軽く上回る猛暑は、細胞を溶かすようにじわじわ肌の上から温度を染み渡らせる。
 言われた通りに、拓海は窓枠に近付き、古びたガラスに手を掛けた。サッシが錆び付いていて、ガタ、と大きく音を立てながら窓が開く。
 わんわんと響き渡る蝉の大合唱と共に、汗ばんだ肌を潮風が撫でていった。

 アパートの二階から見下ろす風景の大部分は、海で占められていた。揺れる海原に反射する太陽の傾斜角度が、眩しい。


 一週間にも満たない四日間という夏季休暇を得た拓海は、無論のこと、啓介に声を掛けた。せっかくの良い機会だ。今度連続休暇を取れるのはおそらく年末年始だろうから、この時間を利用して、啓介と旅行にでも行こうと思っていた。学生の時とは比べ物にならない程の貯金も溜まっているし、ボーナスも出た。こういう機会に、啓介を誘って、夏の時間を共有するのも悪くはないだろう。

 仕事の昼休み、職場近くの喫茶店まで出向いてくれた啓介は、少し考えた末、言った。

「お前、どっか行きたい場所あるのか?」
「……いや、特に。啓介さんに合わせますよ」
「主体性ねえな、相変らず。……うちの別荘、は、オレがもう行き飽きてるしな……」

 アイスコーヒーの氷をストローで掻き混ぜながら、ふと、何かを思い出したように啓介は瞳を上げた。

「そういえば、オレの友達が辻堂に住んでんだ。夏は実家帰るって言ってたから、そのアパート、自由に使っていいって言ってた。行ってみるか?」
「辻堂って……どこですか?」
「湘南とか藤沢の近くだよ。海の真ん前に住んでんだってさ。美術館とかゴルフ場とかしかねえ場所行ってもしょうがねえだろ? あそこなら、タダだし」
「金なら、おれ出しますよ。いつもDでは負担してもらってますから」
「いーよ、お前が働いて稼いだ金だ、とっとけ。いずれレース界に進むなら、その程度の資金じゃ雀の涙同然だぜ」

 啓介は、唐突に大人びた顔になって言った。ひとつのことにしか集中できないタイプの人だとばかり思っていたが、彼は時々、ひどく冷静な顔をする。





 国道から少し入った上り坂の途中に、啓介の友達が借りているというアパートはあった。
 狭い屋外駐車場の脇には、アパートの住人の物と思わしき自転車が何台も並んでいた。金属の部分が海からの潮風ですっかり錆び付いてしまっている。

「たまんねえな。こんな所、一ヶ月住んだだけで車はボロボロだろ」

 零す啓介の後に続きながら、拓海は口元を綻ばせた。
 今にも壊れそうな廃車寸前の中古車ばかりが並ぶ駐車場は、背の高い向日葵の花に囲まれている。呼吸が息苦しく思えるほどの上昇気温。太陽からの日差しの激しさは、群馬を照らすそれと変わりがないように思えたが、風通しがいい分、心地が良い。

 帰郷してしまったという啓介の友人が去ったアパートの一室は締め切られていて、見事に夏の熱気が篭っていた。サウナ状態に閉口しながらも、啓介の瞳は機嫌が良さそうに見える。そのことが、拓海は嬉しかった。

 お世辞にも綺麗とは言えない室内を眺め見て、拓海は汚いと素直な感想を漏らした。脱ぎっぱなしの服や雑誌が床に散乱している。

「ま、男の一人暮しなんてこんなもんだろ」
「でも、啓介さんの部屋よか、マシですね」
「黙れ。部屋なんてモンはな、寝る場所さえ確保できれば上等」

 啓介は無遠慮に、床を汚している物を脚で払いのけると、腰を下ろした。この部屋冷房ねーのか、と舌打ちしながらも、見つけた扇風機の羽を即座に回し始める。

「一休みしたら、さっそく行くか。いつまでもこのクソ暑い所にいてもしょーがねえしな」
「海に?」
「そう。ボード、好きに使っていいって」

 啓介が指差した方向には、部屋の壁に立て掛けられているサーフボード。長さが違うものが二本、部屋の隅でひっそりと呼吸をしていた。

「……おれに、サーフィンやれって言ってんですか?」
「やったことねえ?」
「あるわけないす」
「ま、話のネタになんだろ。付き合えよ」
「なんか、啓介さんってそういうのやりそうもないと思ってた」

 拓海の声音は決して否定的なニュアンスではなかったため、啓介は振り返って眼を合わせてきた。

「大学入った頃はたまに、な。群馬には海ねーし、峠にハマってからは足遠のいたけど。大体、サーフィンか単車かギターが、男が通る道じゃねえ?」
「啓介さん、それ時代が古いよ」
「若ぶってんじゃねえ。ショートはオレが使うから、お前、ノーズライダー使え」

 そう言って、啓介は長い方のボードを手渡してきた。






 海まで、歩いて五分。海岸へと続く上り坂は、陽炎に霞んでいた。
照りつける太陽の熱視線は、この時間が最高潮だ。表皮を紫外線に焼かれていく感覚をはっきりと感じながら、啓介とふたり、知らない匂いがする街を、サーフボードを抱えて歩いた。

 八月中旬の海は、シーズンを迎え、それなりに賑わっている。沖合いを眺める啓介の、精悍に整えられた顎のラインが、視界の中で印象に残った。きれいだ。

「波、全然出てねーな」
「おれ、泳ぎはあんまり自信ないんですよね……」
「パワーコードが切れない限り、そのボードが命綱になってくれる。流されたら、ボードに乗っかってひたすら待ってろ。助けに行ってやる」

 見上げた啓介の髪の輪郭が、日光を浴びて光っていた。何か眩しいものを見るように、拓海は目を細める。
 海岸のゆだった砂浜を歩くたび、ふたりの足跡が残った。
 水平線の向こうに燃え盛る夏がゆらゆらと揺れている。
 喉の奥がカラカラに渇いていた。瞳を閉じても、海からの光がきらきらと目蓋の裏でいつまでも反射している。




 波と存分に戯れ、浜に上がった頃、夕日はすでに沈みそうになっていた。
 気温はまだまだ夏そのものだったが、昼間よりも日差しが翳り、海上がりで全身を濡らしている身に、潮風は少し肌寒く感じられる。
 渡されたタオルで体を拭いた拓海は、啓介を横目で見た。
 啓介の、健康的に構成された体を流れ落ちる水滴が、夕日に光っている。拓海の視線に気づいた啓介が、その野性的な瞳で、ん?と尋ねてきた。

「着た方がいいよ」

 短く言って拓海は、自分のパイル地のパーカーを手渡した。啓介は意外とでもいうように目を丸くしたが、やがて微笑してそれを受け取った。

「今日は、色々と気が利くんだな」

 何と返していいのか分からずに拓海は困って、もう一度啓介を見やった。夏の日差しの下ではにかんだ彼の顔が、胸に焼きついた。

「風も出てきたし、帰るか」
「飯、どーします? 簡単なものなら、おれ、作りますよ」
「そーだな……。一度帰ってシャワー浴びようぜ」

 一度だけ軽く触れた啓介の指先に、鼓動が熱くなる。
 彼の乾き切っていない髪の先端についた砂粒を指の先でそっと拭って、波間に沈んでいく太陽に背中を向け、ふたりは歩き出した。






 開け放した窓から、うるさいほどに蝉の声が入り込んでくる。
 シャワーを浴びた直後は多少涼しくなったものの、扇風機の力だけではこの暑さを凌ぐことはできず、すぐに肌が汗ばみはじめた。
 14型の小さなモノラルテレビが部屋に据えられていたが、その電源を入れる気はない。世間の雑多な情報から隔離された時間は、驚くほど緩やかに流れていた。一日がこんなにも長いものだったなんて、知らなかった。

 直に、ユニットバスから啓介が出てくる。
 机の上のカロリーメイトを缶ジュースで飲み下すと、啓介はぬるい、と文句を言った。

「当然ですよ、この暑さじゃすぐに温くなりますって」

 アルミの表面に汗をかいた缶ジュースを見て、拓海は呆れた口調を並べた。

「うるせー。オレは疲れたんだよ」

 サーフィンは啓介が誘ったくせに、彼の方が体力を消耗してしまったようだ。開き直ったのか、啓介はごろりとすり切れた畳に横になった。頭を拓海の膝の上に乗せて、瞳を閉じる。
 彼が、こんな風に甘えてみせるのはそうそうお目にかかる光景ではなかった。年上であるプライドがあるのか、啓介はふたりきりになっても、いつだって主導権を握りたがる。拓海もどちらかといえば積極性に長けるタイプではないため、そんな主張を持つ啓介との関係はまずまずと言った所だった。

「なんか、啓介さんの普段の姿を見た気がする」
「なんだそれ。いつものオレをなんだと思ってたんだ?」

 啓介が猫科の動物を思わせる瞳に心外だ、と浮かべて、見上げてきた。

「あんまり、おれの前でそういうの見せてくれないじゃん。いつも気合い入ってて、啓介さんといると緊張感ある。……そういうのも、結構好きだけど」
「殺るか殺られるかって?」
「それは大袈裟だけどさ」
「走ってる時、てめーにだけは負けないと思ってるのは本当だ。だから、お前のハチロク見ると、嫌でも走りを意識しちまう。お前にだけは、なめられたくねーからな。けど、峠も何も関係ねー今くらい、肩の力抜いたっていいだろーが」

 啓介の腕が下から伸びて、拓海の髪に触れた。
 普段の啓介は、例え酔っていても、こんなことは口にしない。こんな関係になっても、いぜん彼との間には強固なライバル意識が根付いていたが、この土地にきてからというもの、すっかり気にならなくなっている。その思いは、拓海だけでなく、啓介も同様だったようだ。

「お前は、どこにいても変わんねえな」

 囁いて、啓介は瞳で笑った。優しい笑顔だった。

「そうかな」
「ああ。ぼーっとしたまんまで」
「ぼーっとなんか、してねえよ」

 啓介の体をゆっくり引き起こして、唇を重ねた。彼が直前に口にしていた炭酸水の刺激が、舌の上にじわりと染みて、痺れを残した。





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