‖a contribution ++ by YUGIRI‖
赤は嫌い。
炎の色。
太陽の象徴。
でも赤は嫌い。
赤は、血の色だから
そう言う彼は、いつも血の匂いがした。
「藤原、しよ?」
いつものくすくす笑い。
深夜遅くに帰宅した拓海を待っていたのは、バスローブ姿でソファーに寝そべり、不敵な笑みを浮かべる同居人。
「‥‥今から?」
拓海はあからさまに迷惑そうに、相手の上に上着を脱ぎ捨てる。
「明日休みだろ。だから、なぁ‥‥いいだろ?」
啓介は、ゆっくりそのしなやかな身体を起こし、ソファーから身を乗り出す。跪いた膝でバスローブが引っ張られ、シルクのきめの細かい生地は容易に啓介の片肩をさらけ出した。
「‥‥また、傷つけてたの?」
深いため息と共に、低い声。「それ」がまた新たに増えていることを、憐憫、あるいは軽蔑の眼差しで拓海は見つめた。
「‥‥」
特に悪びる様子もなく、拓海を含んだ空間を上下左右、虚ろな目でかき回し、そして、その視線は再び拓海に回帰する。
「それ、止めるまでやらない‥‥」
固定された啓介の視界からふと姿を消し、拓海はキッチンへ向かい、乱暴に冷蔵庫を開けた。
広いリビングのソファーに一人残された啓介は、前胸でクロスさせた両腕を逆手できつく掴んだ。ドクン、と「それ」は両手の中で脈打ち、疼いていた。
「‥‥痛い」
高橋啓介。
その名称から連想させるものは。
『地元屈指の名家の生まれ』『医者一家』『大病院の御曹司』
『レッドサンズNO2』『プロジェクトDのエース』
好意の声も、揶揄を含んだ声も、彼が人を羨む環境にいることは万人が認める。
だが、彼の内面を知る者は、ほんの僅かしかいない。
そして、彼の内面を知る者で、彼を本当に理解してくれる者は、誰一人いない。
拓海が代名詞を使う「それ」とは、啓介の自傷癖だった。
容易に人目に触れられない場所‥‥上腕の内側、そして、大腿の内側をナイフで無数の傷をつけ、癒えたと思ったら、その上から新たな傷を刻み、絶え間なくナイフの軌跡が刻まれていた。
「何で、いつもそういうこと、するの?」
拓海は片手に缶コーヒーを持ち、ソファーでうずくまる啓介の目の前のテーブルに、救急箱を荒々しく置いた。
「‥‥ヒマだから」
啓介がいつものように両腕を差し出すと、拓海は消毒液を浸したカット綿で傷の上をなぞる。
「暇だからって、フツウそんな事しねーよッ」
自分には到底理解できない異様な行為。
刃物という刃物は拓海の手中にある。
包丁やハサミ、カッターナイフ。
鍵をかけた箱に入れてあって、使うときだけ持ち出すようにしていた。
「早く、出せよッ‥‥ッ」
何回吐いたか分からない同じセリフ。
もう、何本取り上げたか分からないカッターナイフ。
そして、いつものように啓介は拓海にカッターナイフを差し出す。
そして、いつものように拓海は啓介のカッターナイフを奪い取る。
それが2人の日常だった。
拓海が啓介と暮らし始めたのは、3ヵ月前のことだった。
突然、家を飛び出した啓介が、行くところがないから暫く泊めてくれ、と拓海の実家に転がりこんで来た。その3日後、彼の兄、涼介から拓海の元に1本の連絡が入った。
それはあまりに唐突で、意外な申し出だった。
「今、啓介が藤原のところで厄介になっているらしいが、それはあまりに迷惑だと思うから、啓介と一緒に暮らしてやってくれないか? 場所と全ての生活費はこちらで負担する。理由はいずれ分かると思うが‥‥。とにかくアイツを1人にはしておけない。ただ、時々、アイツの動向を知らせてくれるだけでいいから、頼む。藤原しか頼る人がいないんだ‥‥」
わざわざ、涼介は拓海の仕事場にまで訪ねてきて、そして1本の鍵とマンションの書かれた地図が渡した。
仕事が終わると、狐につままれた思いで、その地図に書かれたマンションの最上階の一室の前に立っていた。
鍵を開け、室内を見渡すと、拓海の部屋以上もある広い玄関に圧倒される。
視線をせわしく上下左右に動かしながら、明かりの方へ進んで行くと、リビングへと出た。
そして、一足先に啓介は、高級そうなソファーの上で煙草をくわえて寝そべりながら、カチャカチャと何かをいじっていた。
啓介の手にしている物は、すぐにカッターナイフだと分かったが、その用途が今一つ理解出来ない拓海は怪訝な表情を浮かべた。
「よろしくな、同居人。藤原と一緒だったら、家を出ていいってアニキがさ」
カチャ、手の中のナイフの刃の位置が元に戻る。
「何だよ、それ。オレの気持ち考えないで、勝手に決めるなよッ」
啓介に関わると、いつだって、自分の気持ちなんか後回しになる。
事実先行で、気持ちがついてこられない。
混沌とした「何か」が心の中で渦を巻き、拓海を妙に苛立たせた。
「‥‥嫌なら別に帰ってもいいんだぜ?」
啓介は手の中のナイフを見つめたまま、拓海を見ようとはしなかった。
「それじゃ、遠慮なく帰らせてもらうよッ」
拓海は啓介に向かって鍵を投げつけ、踵を返し、玄関に向かって歩きだそうとした時。
その背後から、唸るように発せられた低い声。
「‥‥だけど」
―――――オレ、放っとかれたらきっと。
―――――死ぬよ?
カチャカチャ、とナイフの刃の取り出す音。
妙に聴覚を刺激し、脳内に響いた。
そして一生、その音を忘れることはないだろうと、この瞬間思った。
拓海はその場に立ち尽くしたまま、暫く、振り返ることが出来なかった。
こうして、拓海にとって不本意な同居生活が始まった。
最初に誘ったのは、啓介の方だった。
拓海がこの広いマンションに啓介と暮らし始めて1週間。
バスルームの中でバスローブ姿のまま、冷水を全身に浴び、彼は数時間、動こうとしなかった。
「啓介さん、何やってるんですか?」
深夜も回った時刻に帰宅した拓海を出迎えたのは、水浸しになって、ガタガタと震える啓介だった。
「‥‥寒い」
白い肌が、さらに透けるように白く、まるで体温をも感じさせない無機的な白さを宿していた。
水を含んで、啓介の肌に張りついたバスローブは、その薄いシルクの生地の下の啓介の肢体をくっきりと形取る。未だ流れる冷水の飛沫の中に、微かに混在していた赤い液体を、拓海は見逃さなかった。
「‥‥血?」
咄嗟に、啓介の冷たい腕を掴み上げる。
「何これ。‥‥何で、こんな傷ついてるの?」
拓海は、啓介の腕をきつく掴み、暫く離そうとしなかった。
上腕の内側の無数の傷。
その内の何筋からか、血液が滲み出ていた。
「痛ッ」
きつく掴まれたその下には、癒えない傷が隠されていて、啓介が微かに悲鳴を上げる。
拓海は怪訝そうにその傷と、苦痛の表情を浮かべる啓介を交互に見やり、この場の状況から、啓介の行為の意図するところを考えてみる。
そして、一つの考えを導き出した。
「‥‥自分で傷つけたの?」
その問い掛けに、啓介は応えとして、深いため息を一つ吐き出した。
左手には、安物のカッターナイフ。
初めてこの部屋で啓介が手にしていたナイフとはまた、別の色。
拓海は、刃の出たままのナイフを啓介の手から奪い取り、ゆっくり刃を戻した。
彼が自分の身体を自ら傷つける理由。
ストレートに聞いても、拓海が望むような応えを、啓介は容易に与えはしない。
自分の知らないこのヒトの21年間。
その手は、今までの21年間、何の為に、どんな事に動いてきたのだろう。
その瞳は、今までの21年間、何を映し出してきたのだろう。
自分が知っているのは、たった1年間。
その手は、この1年間、ステアを握り、ギアをチェンジする為に動いて。
その瞳は、この1年間、先の見えない闇夜の道を映し出して。
峠という一つの舞台で、誰よりも輝いて見えた彼。
その彼が過去を、そして自分自身を語る時。
崩壊への過程を、ゆっくりと歩み出すだろう。
「‥‥藤原‥‥セックスしよ?」
その歯車は、水面下ですでに動きだしていた。
―――To be Continue‥.
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