■ 愛される資格 ■

 

【3】

 

「見られてたとはなァ…。」

サンジはまた一人ごちて、紫煙を吐いた。

 

淫売。

 

ゾロに突きたてられた言葉の刃が、こんなに痛い。

もう何も、傷つく必要などないというのに。

もう好かれたいと思うことはやめたのだから、傷つく必要も、ないのだ。

 

なのに、この心の中には、まだあの男への想いが残っている。

 

むしろ、体の奥底まで汚れきってしまったという思いが、サンジの心から、必死で纏っていた理論武装や、嫉妬や独占欲や焦りやあの男を汚したくないだとか、あの男を守りたいだとか、そんな物をもはや一切失わせていて、ただ純粋にあの男を好きだという思いだけが残っていた。

好かれなくてもいい。

名前を呼ばれなくてもいい。

蔑まれててもいい。

道が違っていても構わない。

ゾロか自分か、どちらかが命を落としても。

 

それでも、ゾロが好きだ。

 

呼吸するように微睡まどろむように潤うようにたゆたうように…………ただ、好きだ。

 

ゾロが好きだ。

 

こんな風に人を好きになる事は、この先二度とないだろうなと思えるほど、指の先まで、髪の毛一本一本に至るまで、好きという気持ちが満ちる。

それ以外に、何もない。

 

ただ好きだという気持ちだけがそこにある。

 

それだけでもう、充分だった。

 

こんな風に人を好きになれた。それだけで。

 

 

サンジは目を閉じ、深くゆっくりと煙を吸い込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バン!!!

 

いきなり力任せにラウンジのドアが開かれ、サンジは驚いた。

荒い息で、すごい形相で、ゾロが立っている。

勢い込んで入ってくるなり、ゾロは、

「クソコッ…。」

と、言いかけて、いきなり唇を噛んだ。

 

どうした?と言おうとしてサンジが息を吸い込んだ時だった。

 

 

「サンジ。」

 

 

─────瞬間、呼吸も忘れた。

 

名を呼ばれた事に、サンジは呆然と、目を見開く。

ゾロも、その名を口にすることが初めてだと気づいたらしく、しきりに口元に手をやっている。

その瞳に、ゆっくりと宿る、強い確信。

 

「サンジ。」

今度は確かめるように呟いた。

そして突然の事に硬直しているサンジの元へ、大股で駆け寄る。

いきなり距離を詰められ、びくりと震えるサンジの体を、ゾロが強引に抱き寄せた。

「ッ!!!!???」

反射的に逃れようと身を捩るサンジを力任せに抱きすくめて、

「サンジ。」

耳元で囁いた。

 

「サンジ。」

 

「サンジ。」

 

「サンジ。」

 

「サンジ。」

 

「サンジ。」

 

 

 

「……………………好きだ。」

 

 

 

 

 

 

「─────な…、に、言ってんだ! てめェは!!!」

 

呆けていたサンジの瞳に、一瞬で光が戻り、サンジは目の前の男を思い切り突き飛ばした。

「好きだ。」

「ふざけんな!!!!」

「好きだ、サンジ。」

「呼ぶんじゃねェ!!! 何をトチ狂ってやがる!!!」

怒鳴り返しながら、サンジは混乱していた。

 

何でだ?

何でゾロはこんな事を言う?

たったの今、その口でサンジを淫売と罵ったばかりではないか。

 

「…好きだ。」

好きだ好きだと言いながら、ゾロはサンジに近づいてくる。

からかうにしてもタチが悪すぎる。

「ッやめろ!!」

「好きだ、…サンジ。」

抱きしめられた。

「離ッ…!」

もがくサンジをゾロが力任せに腕の中に閉じ込めようとして、二人の足がもつれる。

「ッ!」

そのまま折り重なるようにして、二人の体は床に倒れた。

まるでゾロに押し倒されたような形になる。

ゾロがサンジの体にのしかかり、荒々しく唇を重ねた。

 

 

「!!???」

 

 

キス。

 

 

ゾロに、キス、されてる。

 

 

 

「何、ゾロ…っ!なんっ…!?」

完全に混乱して必死で抗うサンジの体を、ゾロは押さえつけて、執拗に唇を求める。

 

そのうちゾロの手は、サンジの体のあちこちをまさぐりだし、見つけ出した上着の裾から、中に滑り込む。

熱い指が素肌に触れ、その感触にサンジの体がびくりとする。

その指に明らかな性的な意図を感じとり、サンジは愕然とした。

 

ゾロは何でこんな事をしている???

わけがわからない。

 

不意に、「性欲処理」という言葉が、脳裏を掠める。

 

まさか。

俺で抜こうとしてる?

俺が何人もの男に犯られたから?

俺がそういう対象になると知って?

 

サンジの背筋が、冷水でも浴びたように冷たくなる。

サンジはゾロという男をよく知っている。

伊達に好きだったわけではないのだ。

ずっと見ていた。

どういう男なのか、よく知っていた。知っているつもりで、いた。

少なくともサンジの知っているゾロという男は、例えクルーが体を鬻ぐ商売をしていたとしても、それを貶めるような真似をする男ではなかった。

仲間に対しては、常に誠実で、真剣な男だった。

だから、サンジの知っているゾロと、今サンジを押し倒している男の行動とが、あまりにちぐはぐで、サンジは混乱していた。

ゾロはこんなことする男じゃない。仲間に対しては。

…仲間に対しては?

 

まさか、俺は…仲間としてすら、認めてもらって、ない?

 

くらりと、眩暈がした。

 

 

それすら。

俺にはそれすら。

仲間としてすら。

 

 

「離、せ…、離せッ!!!!」

渾身の力でゾロを押しのけた。

「誰がッ…誰がてめェなんかに犯らせるかよ!!クソ野郎!!離しやがれ!!!」

 

 

 

 

「うるせえ!!!!!!!!」

 

 

 

 

刹那、至近距離で大声で怒鳴られた。

大音響に一瞬耳がバカになり、サンジの動きが止まる。

 

目の前に、あまりにも真剣な目をしたゾロの顔があった。

 

「資格、つったな。」

 

「…あ?」

言われた意味がわからなくて思わず聞き返す。

 

「犯られまくって汚れたから俺を好きでいる資格はねェっつったな。」

 

またその話を蒸し返すのか。

意外としつこい奴だったんだな、と思いながら、サンジは「…言ったな。」と返した。

 

「なら俺はどうしたら資格が得られる。」

 

「は?」

 

「てめェを好きな事にずっと気がつかねェで、てめェを傷つけて、そのせいでてめェのバージンをわけのわからねェチンピラに奪われて、てめェの気持ちも失って、そうなって初めて自分の失ったもんのデカさに気がついたまぬけな俺も、てめェを好きでいる資格がねェ。」

 

何を…。

 

「だけど俺はてめェを諦められねェ。てめェが離れていくのが耐えられねェ。」

 

ゾロは、何を。

 

「どうすればてめェを失わないでいられる。どうしたらてめェは前みたいに俺を好きでいてくれる。」

 

何を、言ってる…?

 

「てめェに、…てめェに会ってから、俺はずっとイライラしてる。てめェ見てると気持ちが騒ぐ。頭ん中がんがんして何も考えられなくなる。」

 

「………それって、俺の事嫌いなんじゃねェの…?」

 

「俺もそう思ってた。てめェが嫌いだからイライラするんだと…。ならなんで俺は、てめェから見限られた今の方が以前よりもずっとイライラしてんだ? なんでこんなに全身の血が逆流しそうに苦しいんだ? なんで…てめェを犯った奴ら全員をぶち殺してェんだッ!」

 

「ゾ、ロ…?」

 

 

 

「なんで…、てめェを抱きしめたくて仕方ねェんだ…ッ…!」

 

 

 

泣き出すのかと思ったほど、悲痛な声だった。

サンジは目を丸くして絶句する。

 

 

 

 

 

「てめェが好きだ………! サンジ…!」

 

 

 

 

 

 

 

これはいったいどんな都合のいい夢なんだろう。

 

 

 

 

 

 

好きになって、絶望して、傷ついて、それでも好きで、自分で自分の身を汚して、そうしてやっとの思いで諦めた、恋。

何故今になって。

何もかもなくした今になって、この手に転がり落ちてくる。

 

「なんで、今さら…ッ…。」

必死で紡いだ言葉は嗚咽に溶けた。

みっともないほど涙が溢れてきて、止まらなかった。

 

「悪かった…全部…、全部俺が悪い。何もかも全部、俺が悪い。」

仰臥したサンジの体に馬乗りになって、ゾロはサンジの両手を包み込み、それを額に掲げた。

まるで神の祭壇に捧げるように。

「俺を…許してくれ…。許せねェだろうけど…。だが俺は…てめェを失いたくねェ…!」

 

ふざけるなと怒鳴りたかった。

今さら何を言ってやがる、と一蹴してやりたかった。

自分がどんな思いでゾロへの恋心と決別したか、この男に突きつけてやりたかった。

 

…けれどできなかった。

 

頭など、恐らく誰にも下げた事がなかろうこの男が。

野望だけを見据えて他には何一つ映さなかった獣の目が。

 

 

サンジに謝罪しながら落涙している。

 

 

 

ゾロの涙を見るのはこれが二度目だった。

一度目は出会ってすぐ。

バラティエで、あの鷹の目との戦いに敗れて。

袈裟切りにされた傷から流れる夥しい血で、全身を真紅に染めながら、ゾロの刀は天を衝いた。

涙とともに、ルフィに誓っていた。

二度と負けない、と。

 

ではこれは何のための涙だろう。

何がこんなにもこの男を涙させているのだろう。

燃えるように崇高なこの男の魂に、いったい何が触れたのだろう。

何故この目に…自分が映っているのだろう…。

 

「好きなんだ、サンジ…。」

 

ゾロ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!

 

ぽつん、ぽつん、と、ゾロの瞳から流れた涙が、サンジの頬に落ちる。

それはすぐにサンジ自身の涙と混ざって、サンジの頬を滑り落ちていく。

 

二人は長い事みつめあったまま、ただ涙を流していた。

 

涙が全てを浄化していくようだった。

 

 

 

綺麗だな、と、サンジは目の前のゾロの瞳から流れる涙に、目を奪われていた。

獣のように燃え立つ琥珀色の瞳から、熱い熱い滂沱の涙が滴り落ちている。

天を焦がす焔のような黄金のグラデーションの瞳が、強く強く輝きながら、まるで子供のようにあけすけに、何一つ隠すことなく、本能のままに涙を流している。

静謐なほどに潔い涙。

綺麗だ。

 

その涙に触れたいのに、涙の熱さを感じたいのに、手が動かせない。

サンジの両手は、ゾロの両手に包み込まれて、強く握られている。

その手はもう、火傷しそうなほど、熱い。

 

このままこの熱に焼き尽くされて、跡形もなくなってしまえたら、きっと幸せだろうな、と、ふと思った。

 

 

「ゾロ…。」

 

小さく呟くと、ゾロの瞳が、揺らいだ。

 

「俺…てめェを…好きでいて、いいのか…?」

 

どうやっても心の中から消えてくれない想い。

この想いを持ち続ける事を、この男が許してくれるなら。

 

きっと自分はそれだけで生きていける。

 

ゾロが微かに呻いた。

見ると、怒っているような、辛そうな、お腹が痛いような、お腹がすいたような、そんな色々な感情が綯い交ぜになったような顔で、ゾロがサンジを見下ろしている。

「…好きでいろ。」

言葉は不遜なくせに、叱られた子供が泣き出す寸前のような声で言う。

 

ふ、とサンジは息をついた。

「そか…。…よかった…。」

目を閉じて微笑んだ。

閉じた瞼から涙が零れ落ちる。

 

 

サンジの涙を、ゾロは息を詰めて見入っていた。

サンジの瞼は抜けるような肌の白さのせいで、血管が透けて見えて、薄いグレーに彩られている。

まつげの一本一本まで、輝くような金糸。

厳かな気持ちになって、ゾロはその瞼に唇をつけた。

蝶の羽根が揺らめくように、その瞼がひらく。

花びらのように薄い瞼の下から、まるで海の結晶のような透明なアイスブルーの瞳が現れる。

冷たくひんやりとした、ガラス玉のような蒼い瞳が、じんわりと柔らかく潤んで、真珠のような涙の粒が白い頬に転がり落ちる。

犯しがたいほど、静かな涙。

これがこんなに美しい生きものだと、何故今まで気がつかなかったのか、ゾロは自分自身が不思議でならない。

何故気づかずにいられたのか。

 

こんなにも、いとおしいのに。

 

この美しい生き物を、いとおしい存在を、今まで自分がどれだけ傷つけてきただろう、と思うと、ゾロはそれだけでいたたまれなくなる。

自分で自分を斬り刻みたくなる。

サンジの気持ちに、ずっと気がつかなかった。

ひどい言葉で傷つけた。

一度だけじゃない。何度も何度も傷つけた。

ただ自分を、見てもらいたいだけの為に。

サンジが自分を好きだと知って感じたのは、優越感じゃなかった。

きっとただ…嬉しかったのだ。

サンジに好かれていると知って。

なのに、好かれている事に舞い上がって、有頂天になって、─────傷つけた。

きっと、ゾロが気がついてないところでも、いっぱい傷つけてる。

 

サンジを傷つけたのが他の誰かだったら、ゾロは思う様それを切り刻めばいい。

けれどそれが自分自身だったら、ゾロはどうしたらいいんだろう。

 

詫びるだけでいいのか。

腹掻っ捌くくらいの事をしなければいけないのではないのか。

許してくれなどと、そんな虫のいいことを言うことができるのか。

 

けれど、許してほしい。

受け入れてほしい。

触れさせてほしい。

またあの柔らかな優しい視線で、自分を包んでほしい。

 

なんと己は傲慢なことか。

 

自分の中の矛盾した思いを、ゾロは持て余す。

どうしていいかわからない。

 

なのにサンジは、まるでうっとりと夢見るような目でゾロを見つめてきて、「俺はてめェを好きでいていいのか」等と言う。

こんな自分を、まだ好きだと言う。

たまらない気持ちで「好きでいろ」と言うと、心底ほっとしたように微笑んだ。

その瞬間、ふわりとしたものを、サンジが纏うのがわかった。

サンジのゾロに対する、“想い”。

そんなものを、サンジは大切に大切に、纏う。

あれほど傷つけたのに。

 

ゾロを好きでいることを許されたのが、嬉しくてたまらない、というように、サンジはほっとした笑みを浮かべた。

それがゾロにはもうたまらない。

 

サンジはゾロをなじっていいのに。

蹴り飛ばして、怒って、なんだったら殺したって構わないのに。

そうするべきなのに。

 

サンジがゾロを思う事に“資格”がいるというのなら、今のサンジには、ゾロを殺す“資格”がある。

ゾロに愛想を尽かす“資格”がある。

或いは、ゾロからの愛を、ゾロ自身を、全て余すところなく手にする“資格”がある。

 

なのにサンジは、そのどれも欲しない。

ただ行き場を失っていたゾロを好きだという想いを取り戻しただけで、満足そうに微笑む。

 

 

不意に、ゾロの内心を戦慄が貫いた。

 

 

サンジは満足そうに笑っている。

自分の恋心を取り戻して。

自分の恋心を取り戻しただけで。

 

それだけでもう、充分だ、というように。

 

ゾロからの気持ちを求めない。

ゾロからの想いを受け取ろうとはしない。

 

 

 

 

 

サンジの恋はサンジの中だけで完結している。

 

 

 

 

 

気づいて愕然とした。

 

─────なん、でだ…

確かに掴んだと思っていたサンジの心が、指の間から砂のようにさらさらと零れてなくなっていくような、強烈な喪失感がゾロを襲った。

一度は、サンジはゾロに告白してきたのだ。

サンジがゾロの心を欲していないわけがない。

まだサンジはゾロに傷つけられると思って気後れているのだろうか。

そう思っても仕方がない。

それだけの事をゾロはした。

もう二度と傷つけたりしないと言っても、そう簡単にサンジはゾロを信用しないだろう。

どうしたらいい。

どうしたら、サンジは受け取ってくれる。この心を。

 

「…抱きてェ…。」

一番シンプルに、自分の気持ちを伝えたつもりだった。

好きだと言った。

失いたくないと言った。

許してほしいと言った。

あと自分の気持ちを伝える言葉は、これくらいしか残っていない。

 

なのに、そう告げた瞬間、サンジの顔が、はっきりと傷ついたように歪んだ。

それを見て、ゾロはぎくりとする。

 

また傷つけたのか、俺は。

またしくじったのか。

…伝わらないのか。

 

「やめとけ…。」

傷ついた顔のまま、サンジは笑う。

顔色を変えたゾロを見て、サンジは弱々しく微笑んだままため息をつく。

 

 

「…俺に触るとてめェが汚れるからやめとけ。」

 

 

瞬間、ゾロは完全に言葉を失った。

 

2005/01/16


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