『かさぶた。』
【1】
今日も今日とて我らがゴーイングメリー号。
グランドラインに入ってすぐ、一行は水色の髪の王女を仲間に加えて、一路、リトルガーデンへと向かっていた。
穏やかな陽気だった。
こんなにいい天気なのに、ゾロは昼寝をすることもできず、いたたまれないような気持ちを抱きながら、後部甲板に座って、空を振り仰いでいた。
下を向くこともできない。
何故なら、座ったゾロの足の間には、金髪のコックさんがいるから。
ゾロが下を向くと、ちょうど柔らかな金髪頭に鼻を埋める事になるから。
そんな構図は、はたから見れば、まるっきり、いちゃつくホモカップルだから。
それだけは何となく勘弁してほしい。
だからゾロは精一杯上を向く。
それでも、風でなびく絹糸のような金の髪が、時折ゾロの鼻腔をさらさらとくすぐったりする。
外見に人一倍気を使うコックさんからは、コロンなのか、ふんわりと微かに甘いようなイイ匂いがする。
そのたびに、ざわりと、やな感覚が背筋を撫ぜた。
────色即是空。空即是色。…
我知らず、ゾロは般若心経を心の中で唱えていた。
こめかみを、汗が伝うのがわかる。
心頭滅却。
これも修行だ。何の修行だ。煩悩を断ち切る修行か。いや待て。コック相手に何の煩悩だ、クラァァ!
人知れず葛藤を続けるゾロの懐にすっぽりと入り込むようにして、金髪のコックさんが何をしているかというと、ゾロの腹巻からジジシャツを引っ張り出して、胸の上まで捲り上げて、ゾロの胸元を執拗にまさぐっているのだ。
まさぐってるというか、ひっかいてるというか。
もっと分かりやすくいうと、剥がしているというか。
サンジは、ゾロの胸の傷のかさぶたを剥がしているのだ。
そりゃもう満面の笑みを浮かべながら。
子供のようにきらきらと目を輝かせながら。
かさぶたの剥がすのの何がそんなに楽しいのか、ゾロにはさっぱりわからないが、サンジはやたらと嬉しそうに、熱心にゾロのかさぶた剥がしに興じている。
楽しいのか、と、問えば、楽しい、と返ってくる。
いっそ、一気に思い切ってがりっとやってしまってほしいのに、胸の上を這いまわる白い指は、何を惜しんでいるのか、ちょっとずつちょっとずつ慎重に、ゾロの胸の傷に爪を立てている。
たぶん、かさぶたが全部繋がって取れたら勝ち、とかそんなマイルールを作っているに違いない。
頼むから早く終われ。そう思いつつゾロは空を振り仰ぐ。
────くすぐってェ…。
ゾロは、断続的に続く掻痒感を、必死で耐える。
嫌ならサンジの体を突き飛ばして怒鳴りつければいい。
だが、ゾロはそれができないでいる。
そもそも、サンジにこれを許したのはゾロ自身なのだ。
だからゾロは耐える。
必死に上を向くと、見張り台から長い鼻がはみ出てるのが見えた。ゾロが睨むと、珍妙な鼻はびくりと震えて消えた。。
あの野郎、上から見てやがったな、と思うと、ゾロは苦虫を百匹くらい噛み潰したくなる。
そりゃもう奥歯でゴリゴリと。
他のクルーもどこからか、ことに女共二人は異常に嬉々としながら、覗き見てるに違いない。
サンジが、半ば押し倒すような勢いでゾロに覆い被さって、嬉々としてゾロのシャツを首までたくし上げてその肌をまさぐっているという、どこからどう見てもラブラブなホモカップルにしか見えない、この異様で奇妙な光景を。
□ □ □
まあ、以前から面白い奴だとは思っていた。
なにしろ眉毛がぐるぐる巻いている。
そのわりに綺麗な金髪で整った顔で料理が美味い。
だがなまじの賞金首より凶暴だ。
口が悪くて態度が悪くて足癖が悪い。
なのに、女に対しては途端に弱くなる。メ〜ロリンメ〜ロリンと言いながら、月まで飛んでいきそうだ。
それを見るたび、ゾロは、「こいつはアホだ」と思う。
思うだけでなく、つい口に出る。
そうするとコックはチンピラ面で絡んでくる。
絡んでくるからケンカになる。
だが、どんなに激しいケンカになっても、サンジのそれは鮮やかなほど一過性で、ケンカの余韻を引きずってゾロに食事を与えなかった、などという事は、ただの一度もない。
どんなに激しいケンカの後でも、サンジは、ゾロが拍子抜けるほど邪気がない顔をして、ゾロにおやつを持ってくる。
面白い男だ。
眉毛ぐるぐるで、凶暴で、海の一流コックで、女に弱くて、男に強くて、アホの生け作りだ。
でも、かさぶたフェチとまでは知らなかった。
□ □ □
鷹の目に斬られたゾロの胸の傷は、全治二年といわれていたが、ゾロの回復力は化け物並みで、ココヤシ村を出航する頃には、ゾロはもう平気な顔をして歩き回っていた。
治りかけの傷は痒みを伴い、ゾロは無造作に掻き毟る。
掻き毟れば血が出る。
血が出れば、かさぶたになる。
それを、サンジが見咎めた。
「ゾロ、血ぃ滲んでんぞ。」
甲板で昼寝をしていたゾロは、サンジにそう言われ、
「問題ねェ。もうかさぶたんなってる。」
とだけ答えて、寝直そうとした。
だが、サンジの気配は、なかなか立ち去らない。
「お前…、上、脱いでみろ。」
いつになく神妙なサンジの声に、ゾロは訝った。
そういえば、と思い出す。
サンジは、アーロンパークでも、ゾロの敗戦をからかいながら、ゾロの傷の事はやたらと心配していた。
こんなに口も態度も悪いくせに。
どうも、他人の傷には過敏に反応するな、こいつは。
自分の傷には頓着しねェのに。
「脱げ。」
焦れたのか、サンジがいきなりシャツに手をかけてきた。
いつもなら、何しやがる、と抜刀するところだが、いかんせん、今日の陽気は穏やかすぎた。
体を動かすのが億劫なくらいポカポカとしている。
怒りより眠気の方が勝った。
別に脱がされるくらい、いいか、とも思ってしまった。
傷見りゃ、納得すんだろ、こいつも。
サンジがゾロのシャツをめくりあげた。
息を呑む気配がする。
だから、いちいち大袈裟なんだよ、てめェは。
傷は治ってる。ただのかさぶただ。そう言おうとして薄目を開けたゾロは、その瞬間、ギョッとして目をむいた。
てっきり心配そうな顔をしているのかと思ったサンジの目が、爛々と光っていた。
その口元には、明らかに、喜悦の笑み。
あまりの気色悪さに、ゾロの眠気は吹き飛んだ。
尻で後ずさりしたくなった。
後ろは海だったが。
「なぁ。ゾロ…。」
サンジが変にもじもじしながら近づいてくる。
なんだ、こいつ。
何が取り憑いた?
薄く頬を染めて、もじもじと迫ってくるサンジに、ゾロは一瞬、本気で怯えた。
サンジは、「先輩、好きです♪」と言う前の中学生のようなもじもじをひとしきりしたあと、おもむろにこう言った。
「なあ、それ…、俺、剥がしてもいい?」
は?
「だめ。」
ゾロは即座に拒否した。
拒否しないと何されるかわからないような恐怖がちょっとあった。
するとサンジは唇を尖らせて不満そうな顔をする。
それからしばし考えて、やがてにんまりと笑った。
ゾロの背筋に戦慄が走った。
サンジはゾロの足の間にムリヤリ体を割り込ませてそこにしゃがみこむと、ものすごく至近距離まで顔を寄せてきた。
「すっごくおいしいお酒をあげます。」
買収工作ときたもんだ。
「蔵で最高峰の大吟醸です。」
ちょっと揺れるゾロの心が情けない。
「超端麗、超辛口。」
サンジがゾロの首に手を回しながら囁く。
「深いまろみと透明感。土性骨にずんと来る力強さ。」
まるで口説いてるようなサンジの仕草にゾロは動揺する。
「華やかな香りとすっきりした呑み口。深いコク。」
お前はどこの酒蔵の回しもんだ、と思った。
「水晶のように磨きぬいた酒米だけでじっくりと醸した杜氏の熱い思いがあふれる逸品。」
ゾロは陥落した。
「…………好きにしろ。」
途端に、サンジが、にぱあっと笑顔になった。
アホ全開の笑顔だった。
何でそんなに嬉しそうなんだ。
何でそんなにやる気満々だ。
ゾロは思わず腰が引けたが、好きにしろといった手前、抵抗することも出来ない。
するとサンジは、おもちゃを見つけた子供みたいな笑顔で、ゾロの足の間に座り直した。
それがあんまりにも嬉しそうで、ゾロはたじろぐ。
おまけに、吐息がかかるほど傷に顔を寄せてくる。
なんかやばい。
妙な焦燥のようなものが腹の底からじわじわとこみ上げてきて、ゾロは腹に力を込めた。
サンジの指が、ゾロの傷に触れた。
すげェな、これ。と、小さな掠れた声が言い、何度も何度もひんやりとした指が傷の上をなぞった。
「…おい…てめェ…」
ゾロが低く言った。
うっかりすると声が上擦ってしまいそうで、意識して低い声をだした。
「剥がすんならさっさとやれ。」
あァ悪ぃ悪ぃ、とサンジが笑いながら言い、肩口から始まる大傷のかさぶたに、かり、と爪をかけた。
くすぐったい、というか、むず痒い。
かりかりひっかいて、ぺりぺりと剥がされる。
「あ」と小さく、サンジが声を立てた。
「ごめんな、血ィ出ちまった。」
そう言いながら、胸元で笑った気配がした。
暖かな息が胸にかかる。
ゾロのうなじの辺りの毛が、ぞわっと逆立った。
たぶん、くすぐったくて。
絶対くすぐったくて。
くすぐったいからだ、この野郎!
「この傷…、斬られた時モツ出たよな、きっと。」
下を向いているから、サンジの声は少しくぐもって、妙に鼻にかかって、甘ったるく聞こえて、…なんかやばい。
モツとか言うな。牛か、俺は。
「見てたろうが。」
斬られるとこ。
一瞬、サンジの手が止まった。
ため息のような小さな吐息が、またゾロの胸元にかかった。
ゾロは奥歯でなにかを噛み殺す。
サンジは、またかりかりとかさぶたを剥がし始める。
楽しいのか? と聞いてみた。
楽しい、と返ってくる。
かりかり。ぺりぺり。
「お前、あれか。」
ゾロが何とか声を出した。
「かさぶたフェチか。」
そう言うと、サンジがゾロの胸元で小さく吹きだした。
「そう。」と、くすくすと笑う。
かさぶたとか剥がすの、すげェ好き。俺。と笑う。
本当に楽しそうだった。
だから、クソコックが楽しいんならまあ、いいか。とゾロは思ってしまったのだ。
うなじのあたりにあったぞわぞわは、だんだん下にさがっていって、今は腰の辺りでぞわぞわしていて、なんかやばい、それはやばい、やばいって、と、ひっきりなしに警告を発していたが、ゾロはそれを凄まじい精神力で耐え続けた。
大吟醸の為だ。大吟醸の為。と何かに言い訳しながら。
ぽかぽかした陽気の中、甲板でいちゃつく図体のでかい男二人、という、実にむさくるしい光景を乗せて、GM号は、リトルガーデンへと入っていく。