『かさぶた。』
【2】
リトルガーデンで、ゾロは自分の足を斬り落としかけた。
ヤケクソでも、死のうと思ったんでもない。
足が蝋で固められて、動けなかった。
なら、動くとこからぶった斬りゃあ、動けんだろ。
だから、躊躇いなく、自分の両足に刀を入れた。
半分くらい斬り落としかけたところで、ルフィに救われた。
まぁ、結果オーライだ。
それっきり、自分の足の傷の事は、ゾロの中で「どうでもいいこと」のカテゴリに入れられた。
唯一、後からのこのこと現れたコックを見た時に、この傷もかさぶたになったらまたこいつは剥がしに来るのかな、と思っただけだった。
またアホ面さらして「剥がさせて」ってくるんだろうな。
また馬鹿みたいに嬉しそうに剥がすんだろうな。
そう思ったら、なんだかちょっと笑みさえ、浮かんだ。
恐ろしい事に、恐ろしく馬鹿な事に、もちょっとぐるっと周りを広範囲に斬っときゃよかったかな、あのアホはかさぶたがデカいほど嬉しいらしいからな。等とすら一瞬考えて、慌てて自分で自分に突っ込んだ。
アホかァ!
ところが。
それまで、へらへらと笑っていたサンジは、ナミの一言で、それまでゾロが見た事もない顔を見せた。
「まったくもう! ルフィは暗示にかかるし!」
ナミの言葉に、サンジは腹を抱えて笑った。
「ゾロは、足斬り落とそうとするし!」
その瞬間、サンジの顔から表情が消えた。
「あ、し…?」
あれ?と思った。
サンジの顔から、唐突に表情がつるりと抜け落ちた。
てっきり小馬鹿にして笑いとばしてくると思ったのに。
能面のような、無表情。
ナミとビビが笑いながら状況を説明している間も、サンジの顔には何の表情も浮かんでこなかった。
へーそう。ばかだねー。あいつは。やっぱあたまのなかまできんにくー?みたいなー。あ、なみさんごめんねー。おれちょっとといれー。
すっとコックが踵を返した。
全く表情のない顔から、いつもと同じような軽口が、けれどまるでセリフを読んでいるかのように平坦に出てくる様は、異様以外のなにものでもなかった。
ナミとビビは、自分達の頭一つ分上で、コックがどれだけ異様な顔をしていたか、全く気づかずに笑い合っている。
二人とも、コックが持ってきたアラバスタへのエターナルポースに夢中になっていた。
「ゾロ」
振り返るとルフィが立っていた。
「サンジ追いかけろ。」
「…あ?」
「いーから追いかけろ。」
「あいつ便所だって言っ…」
「クソしてたっていいから追いかけろ。」
何だか分からなかった。
何だか分からなかったが、ルフィが真剣なのは分かった。
それに、サンジの今の様子も気になっていたので、ゾロは素直にサンジの後を追った。
倉庫を通って、ユニットバスの前まで来る。
よほど慌てていたのか、ドアがきちんと閉まっていない。
おいおい、まじでクソしてたらどーすんだ、と思いつつ、ドアの前まで来て、ゾロは、ぎょっとした。
中から激しく嘔吐する声が聞こえた。
ドアの隙間から覗いたのは、全身をがくがくと痙攣させながら、便器に突っ伏す、サンジの姿。
「おい! どうした?」
思わず中に駆け込んだ。
その瞬間、ゾロの顔面を凄まじい風圧が襲った。
振り向きざまのムートンショット。
咄嗟に上体を反らして避けるゾロ。
「ッ何しやがる!」
叫ぶゾロに、容赦なく二撃目が襲う。
慌てて躱す。
────なん、だ?
吐いてるところを見られたからとか、そんなんじゃない。
────これは殺気だ。
研ぎ澄まされた、心の底からの殺気だ。
だけど、何故?
わけもわからず、ゾロは蹴りの応酬からひたすら逃げる。
サンジは無言のままだ。
いつものような機関銃のような罵詈雑言もなく、無言のまま殺気と共に蹴りを繰り出してくる。
────なんだってんだ、いったい…
攻撃を避けながら、それでもゾロは、ふと訝しんだ。
襲ってくるのは本気の蹴りなのに、全く精彩がない。
攻撃は間髪入れずにくるのに、狙いが定まっていない。
まるで…、そう、まるで、子供が泣きながらめちゃくちゃに拳を振り回しているみたいだ。
────泣きながら?
自分の行き当たった考えに、ゾロはギョッとする。
その瞬間、サンジの蹴りがゾロの顔面にヒットした。
もんどりうって空の浴槽に叩き込まれるゾロの体。
弾みで活栓に触れたのだろう、シャワーから勢いよく冷水が噴き出してきた。
ゾロはしたたかに頭から水を被る。
「っ…! てめ…!」
すぐさま後を追って振り上げられたサンジの足が、一瞬、何かに気を取られたように、びくりと躊躇った。
その隙を見逃さず、ゾロの手が、宙に浮いたサンジの足首を掴んで浴槽に引きずり込む。
「!」
咄嗟の事で受け身も取れず、サンジも浴槽に倒れこんだ。
その体にも、冷水は降り注ぐ。
ゾロがサンジの胸倉を掴み上げた。
「なにしやがる、てめェ!!」
だが、サンジの目はゾロを見ていない。
怪訝に思い視線を追うと、サンジはゾロの足を見ていた。
蝋の戒めから自由になるため、ゾロが自ら傷付けた足を。
そこは未だ治療もされず血を流し続けていた。
シャワーに洗われて、真っ赤な血が、排水口に流れていく。
サンジの目から、もう叩き付けるような殺気は消えていた。
ただ痛々しい色を宿して、ゾロの傷を見ている。
まるで自分が傷つけられたかのように。
その目があまりに悲痛な色を帯びていて、思わずゾロの息が止まる。
そんな目、するんじゃねェ…。
サンジの指が、ゾロの足の傷に触れた。
その指は、微かに震えている。
努めて何も感じてない風を装って、ゾロが
「まだかさぶたにはなってねェぞ。」
と言うと、サンジが、馬鹿野郎、と小さく呟いた。
「どーすんだ、これ。」
サンジがやけに力無く言うので、
「縫っときゃ治る。」
と答えた。
するとサンジはまた、小さく、「馬鹿が。」と呟いた。
バカバカ言い過ぎだ、とゾロが口を開こうとすると、不意にサンジがゾロの足首をそっと持ち上げた。
傷に触れないように、踵に手を添えている。
狭いユニットバスの中で、バランスを崩してひっくり返りそうになり、ゾロは慌てて後ろに手をついた。
サンジは、痛々しい顔をしたまま、おっかなびっくり足首を持ちながら、ゾロの靴をゆっくりゆっくり脱がせている。
靴の中から溜まっていた血がどろりとどす黒く流れ出た。
「………っ…」
サンジが思わず痛そうに顔を顰める。
けれどサンジは手を止めようとはせず、ゾロの靴を両足とも脱がせた。
それからおもむろに足首に顔を寄せると────────
その傷を、舐め始めた。
「────ッ!」
ゾロが驚愕に目を見開く。
やめろ! と叫んだつもりなのに、それは全く声にならなかった。
驚きのあまり。
丁寧に、丁寧に、サンジはゾロの足首を舐め続ける。
舐めながら、傷口に張り付いた蝋の残滓を、舌で剥がす。
降り注ぐシャワーの水で傷口を洗いながら、サンジは、丹念に、丹念に、傷口に舌を這わす。
その様は、以前、ゾロの胸のかさぶたを剥がしていた時の構図と、よく似ていた。
だが、あの時のサンジは楽しそうだった。
今のサンジは、辛そうにしか、見えない。
今にも泣き出しそうな顔をしながら、それでもやたらと真剣に、舌で傷を清め続ける。
他人の、それも男の足に、口付ける行為。
何故サンジはこんな事をしている?
骨にまで到達している刀傷は、舐めたくらいで血が止まるとは思えなかったが、サンジはやめなかった。
────こいつが今舐めてるのは、俺の傷じゃねェ。
ゾロは何となくそう思った。
サンジが舐め清めているのは、ゾロの傷ではない。
なにかもっと別のものだ。
サンジは、ゾロの足の傷を、自らの口で清める事によって、何かを贖っている。そう思った。
────贖う? 何を?
贖う、という言葉は、罪を犯した人間に使う言葉だ。
コックは何を贖っている?
何の罪を犯したと言うのだろうか。
サンジは自分の顔や服が、ゾロの血で汚れるのも構わず、ひたすら傷を舐め続けている。
思わず、サンジの頭に手が伸びた。
濡れた頭を、何度も撫でていた。
サンジがびくりと顔を上げる。
痛々しいほど、泣きそうな目。
子供が、親とはぐれて途方にくれているような目。
その頬を伝うのは、シャワーの雫なのか、涙なのか。
「…大丈夫だ…。」
らしくもない言葉が口をついて出る。
「縫っときゃ治る。元の通り治る。大丈夫だ。」
何度も、大丈夫、を繰り返した。
「すぐにまたかさぶたになる。」
「そうしたら、また剥がさせてやる。」
「だから、こないだの大吟醸、また飲ませろ。」
「つまみも作れ。」
「てめェの作るつまみは酒に合う。」
「んで、かさぶた剥がせ。」
「こないだ、てめェ、胸の傷、血ぃ出したろ。」
「また新しいかさぶたんなったぞ。」
「剥がしてェだろ?」
自分でも何を言っているのかわからなくなったが、ゾロは必死で言葉を紡いだ。
不意に、サンジの顔が、くしゃりと歪んだ。
てめェ、バカだろ。と、小さな声が言った。
大吟醸はこないだてめェが全部呑んじまったよ。
あれ、いくらすると思ってんだ。
しょうがねェからまた用意しといてやる。
クソウメェつまみ付だぜ。
だからさっさと治せ。
さっさとかさぶたにしろ。
泣いてるんだか笑ってるんだかわからない顔で、サンジはそう言った。
不意に、────抱きしめたく、なった。
サンジが内包している傷ごと
その不安定に揺れる瞳ごと
優しく抱き寄せて
包み込んで
泣くな、と囁いて
────キスをして。
ゾロの心臓が、どくん、と大きな音を立てた。
それは自分が信じられなくなるほどの衝動だった。
自分でも驚くほど爆発的な強烈な衝動で、けれど、本能的な恐怖が、かろうじてそれを押し殺した。
この衝動に押し流されたら、自分は何をするかわからない、と思った。
もうそれは、「やばい」等という漠然とした次元ではなかった。