* Pure Blooded *


 

−6−

 

サンジは有頂天だった。

─────ナミさん、ナミさんが迎えにきてくれた。よかった、俺捨てられたんじゃなかった。

嬉しくて嬉しくて、ナミさんがルフィの家に入ってきてルフィと話をし始めた時も、サンジはナミさんの周りを跳ね回っていた。

今日はナミさんと一緒に帰れるのだと、信じて疑わなかった。

だから、

「おい」

仏頂面のゾロに声をかけられた時も、

「あ、ゾロ。」

サンジはにこやかに笑顔を向けて、

「遊んでくれてありがとな。また来るからよ。あ、今度てめェも遊びに来いよ。きれーなおねーさまいっぱい紹介すっからよ。」

なんて、いつもの調子で言ってしまったのだ。

途端にゾロは顔色を変えた。

「きれーな…おねえさま…いっぱい、だと?」

不機嫌そうだった顔が、はっきりと怒りの色に染められていく。

「そんなあっちこっちのメスに手ェ出してやがんのか、てめェは。」

「え…?」

─────あれ、こいつ、…怒ってる? なんで?

「発情もまだのガキだと思ってたら、とんだ尻軽か。」

軽蔑しきったような声音で言われ、サンジの心臓が冷たくなった。

「なに…言ってやがる、てめェ…。」

ゾロのその言葉が『嫉妬』なのだと慮れるほど、サンジは性的に成熟していない。

蔑まれた、と思った瞬間、突き上げてきたのは、目も眩むような怒り。

「…尻軽は…てめェだろうが…。」

低い唸りと共に吐かれたサンジの言葉に、

「なんだと…?」

ゾロが気色ばんだ。

「尻軽はてめェだって言ってんだよ。昨日会ったばかりの俺に何しくさりやがった? 会ったばっかの、しかもオスの俺にあんな事出来るてめェの方が、尻軽じゃねェのかよ。」

あまりの怒りに、声が震えた。

「…俺が…誰にでもあんな真似してると思ってたのか…?」

言い返すゾロの声はもう、唸り声と区別がつかないほどに低く剣呑な響きを帯びている。

金色の瞳は禍々しいほどにぎらついて、獰猛な光を放っている。

その、ゾロの全身から発する凄まじい負の気に、サンジは本能的な恐怖を感じた。

だが、生来の負けん気が、そこから逃げる事もゾロから目をそらす事も、許さない。

それに、怒りよりも何よりも、サンジを一番強く覆っていたのは、悲しみだった。

サンジには何故ゾロがこれほどまでに怒っているのかわからない。

さっきまでサンジを見ていた優しい目が、憎悪にも似た冷酷な色を宿しているのを見るのは、泣き出したくなるくらいに辛かった。

遊んでくれてありがとうって言ったのに。

また会いたいって言ったのに。

ゾロが誰にでも、昨日サンジにしたような真似をしているとは本心では思ってなどいない。

いや、思いたくない。

けれど、一瞬でもそれが心を掠めたのは事実だ。

そして、もしかしたら自分の他にもゾロにこんな風に触れられた者がいるかもしれない、という事に、はっきりと心の痛みを感じたのも。

こんな痛みはサンジは知らない。知らなかった。

ゾロは、自分の行動の何一つ、言葉で説明しようとはしない。

だからサンジにはわからない。

ゾロの真意が。

わからないことがこんなに怖い。

 

その不安がサンジに、言ってはいけない言葉を紡がせた。

 

「さぞかしあっちこっちにガキ作ってんだろうよ。」

 

それは、狼であるゾロには決して言ってはいけない言葉だった。

 

狼は、一度つがいになったら、生涯その相手と連れ添う。

老齢になり、交尾しなくなっても、死ぬまで互いに慈しみあって生きるのだ。

たとえ片方が先に死んだとしても、残されたつがいは、後添えを迎える事はない。

連れ合いに先立たれた狼は残りの一生を一匹で生きる。

狼のつがいとは、唯一無二の至高の一対なのだ。

 

そんな狼の血を濃く持つゾロの貞節を疑う事は、ゾロを根底から否定するのと同じだと、もう狼の血の薄れたサンジは、知らなかった。

 

すうっ…と、ゾロの顔から表情が消えた。

さっきまでの憤怒の相が嘘のように、無表情に変わる。

 

「そうか。お前にはその程度の事だったのか。」

 

能面のように表情を無くしたゾロの顔に、サンジの心は俄かに焦りだした。

ようやく、自分が何か取り返しのつかない事を口走ったらしい事に気付く。

だがもはや、目の前のゾロは完全にサンジを拒絶していた。

棒立ちになったサンジに、ゾロはくるりと背を向けて、室内の自分の定位置に歩いていくと、そこにごろりと横になって、目を閉じた。

金色の目は一度もサンジを見なかった。

 

─────どう…しよう…

 

心の中を焦燥が渦巻いていて、全身が震えた。

 

怒らせた。嫌われた。

耳元で、どくん、どくん、と心臓の音が聞こえる。

立っているのも辛いほど、心臓は早くなっている。

すごく、痛い。

冷たい声で切り捨てられた。

拒絶された。

─────どうしよう…

謝らなきゃ。

そう思うのに、指先一つ動かせない。

凍り付いてしまったみたいに。

頭から冷水を浴びてしまったかのように、全身が冷たい。

凍えるように寒い。

なのに心臓だけは、やけに大きな音を立てて、ものすごい速さで脈打っている。

 

サンジは生まれてきた時から愛されてきた犬だった。

生まれたばかりのときは母親に。

引き取られてからはナミさんに。

ずっと、息つく暇もないほどに愛を注がれてきた犬だった。

ナミさんは毎日毎日、「大好きよ、サンジ君。」とあふれんばかりの愛でサンジを包んでくれている。

 

愛されることに慣れているサンジは、だから、愛されることに傲慢だった。

 

ゾロの不器用な、けれど一途でまっすぐな愛に、サンジは気がつかなかった。

言葉で言われなかったから。

あんなにもゾロが全身で愛情を示してくれていたのに。

 

生まれてからまだ一年しか過ぎていないサンジは、本当の意味で、まだ子供だった。

 

犬ならば生後一年で性交が可能なほどに成熟する。

狼は二年から三年かかる。

サンジも、体だけいっぱしに成長したが、中身は未成熟のままだった。

 

薄いとは言えサンジの中に確かに息づいている狼の血は、ほとんど犬のサンジに、成熟が遅いという狼の特性を与えていたのだ。

 

「あん? どした、お前ら。ケンカしたのか?」

 

ナミさんと話し込んでいたルフィが、ゾロとサンジの様子のおかしいことに気がついた。

ルフィの問いかけにも、ゾロは無反応で寝ているし、サンジも立ち尽くしたままだ。

「サンジ君…どうしてこんなにへこんでるの…?」

飼い主のナミさんはさすがにサンジの心の機微に敏感だ。

「…ケンカしたみてェだな。」

ルフィも困ったな、と言う風にゾロとサンジを交互に見てから、ナミさんを見て言った。

サンジは、ナミさんに怒られた時のように、いや、それ以上に可哀想なほどに萎れている。

ナミさんに怒られた時のサンジは、しおしおになってゴメンナサイのポーズをとる。

そしてそのあとは、ごめんねごめんね、と甘えた声で鳴くのだ。

けれど今のサンジは成すすべもなく、捨てられた子犬のような目でゾロを見るばかりだ。

ナミさんは小さくため息をついた。

「ね、ルフィ。サンジ君とゾロを散歩に連れて行ってあげようよ。」

気分を変えたら仲直りも出来るかもしれない。

ナミさんはそんな風に考えていた。

 


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