翠玉の檻
〜Emerald Prison〜
[6]
−夢魔−
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疲れた身体を、ベッドの上に崩し落とす。
手足を投げ出すと、疲れが決して安くないスプリングに向かって沈み込んでいくようだった。
逃げるように舞い戻った地上。
正体も経歴も何もかも、全て知った上で自分を受け入れた者が、
自分に与えた特別研究員という身分は、シュウの思惑通りに彼を酷使し疲労させる。
働く必要などなかった。
権利というものは、実に馬鹿馬鹿しいほどに正直で融通が利かないらしい。
朝のコーヒーを飲みながら確立したような理論達に冠せられた『特許』の2文字は、
請求されれば天文学的な金額に及ぶであろう弁償金など一切差し引かれることなく、
毎月「シュウ=シラカワ」の口座に、それに与えられた価値と同じだけの対価をもたらしてくれる。
雇用者などという、到底似合わない肩書きを敢えて求めたのは、ただ、『研究』というものの力を借りて、
己の感情をはぐらかすためだった。
脳裏を奔る新緑色のイメージ。
それは、ほんのわずかな時間の隙間にさえ滑り込んで来る。
だが、少なくとも『研究』に頭脳を支配されているその瞬間だけは、その緑から逃れられた。
あとは、その上に抱え込んだ、無謀な納期という重りで、
意識を強制的に疲労の海に沈めてしまえばいい。
一瞬の緑。
その後に続く眠りという黒い淵。
『マサキ=アンドー』という名を求めようとする心を殺した。
頑なに殺し続けた。
あの日、湖の傍らの自邸で、彼に対して犯しかけた過ちを、永劫に犯さないために。
狂おしいほどに奪うことを望む自身と。
その清廉さを穢すことを激しく憎悪する自身と。
恐らく決して終わることのない葛藤の狭間で、ギリギリのバランスを保つ為の逃避。
しかし、いかに奇跡と呼ぶにふさわしい叡智を持って生まれたとしても、
『欲望』という名の枷は、凡夫と同じように、彼の身にも課せられている。
”……は…ぁ…っ、ん…ッ!”
しなやかに乱れる身体を腕の中に絡め取り、なめらかな肌を楽しむ。
定められた場所を撫でれば、腕の中の無垢の人は、恥じらいも忘れて鳴き声を上げる。
”あぁっ! あ……、あぁ……、
シュウ…、シュウッ!”
縋り付く身体を抱き留め、健康的な両脚の隙間に下肢を割り込ませる。
泣き濡れた顔を静かに見下ろすと、潤んだ瞳は熱い涙をこぼし、切ない声で『シュウ』を求める。
”シュウ……、もう……、
お願い……早く……ッ!”
懇願に応えて、抱え上げ押し広げた場所へゆっくりと身を進める。
こすりつけるように押し当てると、腕の中の小さな身体は途端に強ばった。
だが、シュウを迎え入れる場所だけは柔らかく、その先端を何の抵抗もなく受け入れ暖かく包み込む。
眉間で光が弾け、シュウの全身に激しい劣情が走った。
「────っ!!!」
唐突に夢から弾き出された意識は、現実に追い付かない。
拍動が、心房を突き破りそうな勢いで胸を叩く。
不快な冷や汗が、じっとりと身体を湿らせていた。
だがその身の内側は、たぎるような熱に煽られている。
「………マサ…キ…?」
寸前に見た光景が夢であることを。
自らの手で暴いた身体が不在であることを。
確かめるように、名を呼んだ。
「ぅ……、あ……ぁ………っ」
自らが呼んだのにもかかわらず、その愛おしい言霊に、内なる熱が更に火照らされる。
全身を走る愉悦の痺れは、耐え難いほどに甘い。
「…は…ッ! ぁ…あ…!」
一人で生活するには無駄が多すぎるほどの、広さを備えたマンション。
衣擦れさえ響き渡るほどの、静寂に満ちた一室。
誰一人、知り得る者のいないその空間で。
「………マ…サキ……ッ」
シュウは、密かに、理性を捨てた。
+ + +
客分としての扱いを受けるシュウには、研究所での勤務時間などというものは定められていなかった。
好きな時間に研究所へ行き、好きな時間に帰ればいい。
そんな身分であるにもかかわらず、シュウが他の研究員と同じ時間に出勤し、
同じ時間に帰宅するようになったのは、決して周囲に気を遣ってのことではない。
繰り返し見る、禁忌の夢。
夢の中のしなやかな身体への、病的な執着。
定められた時間、という拘束を自らにあてがうことをしなければ、その甘い夢に溺れ、
支配されてしまいそうだった。
「……私としたことが、どうやら夢魔に取り憑かれたようですね…」
「え? 何ですか?」
不意に明るい声が掛かり、我に返る。
顔を上げると、若いバーテンの顔が目に入ってきた。
ごく稀に訪れる物静かな雰囲気の小さなバー。
そのカウンターで思惑に呑まれていたらしい。
カクテルを差し出してくる、控えめだが朗らかな笑顔に、曖昧な仕草を返して返答を誤魔化した。
「シュウ、最近、よく来ますよね。
あ、よくって言っても、他のお客さんよりはずっと少ないけど」
店内の静かな雰囲気を壊さない穏やかな声で、明るく笑う。
シュウが、名を呼ぶことを許した、地上で唯一の人間であることを、彼は知らない。
自分が、ほんのわずかだが、「安藤正樹」という名の日本人の面影を宿していることも。
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1996
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Sep.2006
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