ショートショート

夢一夜

 私がここで暮らし始めてどれくらいになるだろうか。
 外を眺めながら、ふとそんなことを考えていた。
 山奥にあるこの温泉街はいつも湯煙に包まれている。
 そして、その真っ白い景色に、ここを取り囲む大きな山々が影を落としている。
 そんな風景を見ながら、私はそんなことを考えていた。

 今日は雨が降るかもしれない。
 軒先の掃除をしながら、薄暗い空を見ていた。
 私がこの温泉街にやってきたのはいつだったか。
 なにせ記憶が無いので覚えていないが、いつの間にか私はここに住み着いてしまった。
 山に囲まれた温泉と温泉宿しかない街。
 私がこの街にやってきたのは、確か2年ほど前だったと思う。たぶん。
 もう、どうしてここにやってきたのかも忘れてしまった。
 それからなんとなくこの休憩所のような家で暮らしている。
 ここには、台所と居間があり、今にはたんすやこたつなどの家具までおいてある。
 別に仕事をしているわけではないが、誰からも家賃を払うこともなく、どうにか暮らしている。
 時々、近所の人が持ってきてくれる晩のおかずが楽しみなくらいで、それ以外は特に何もない。
 この街の人は余所者に無関心なのか、私のことは全く気にしていない。
 なんだかこの街そのものが過去を失ってしまっているんじゃないだろうか。
 この街は過去を失った人たちの街なんじゃないだろうか。
 という、つまらない錯覚に陥ってしまう。
 私もここから出ていこうとは思わない。
 それに誰も私をここから追い出そうとする人間もいない。
 いつも同じ毎日が続いていく。
 けれど、何か大切なことを忘れてしまった、という焦りのようなものが私の頭の隅でくすぶっている。
 けれど、白くかすんでしまった山の陰を見ていると、何もかも忘れてしまう。

 朝は晴れていたのに、夕方に突然珍しく雨が降りはじめた。ここでは雨はめったに降らない。
 ここに来て一度だけ降ったことがあった気がするけれど、よく思い出せない。
 私はいつものように休憩所から外の景色を眺めていた。
 そうするといつもの見慣れた街の景色があっという間に雨でかき消されてしまった。
 雨の音を聞きながら、私はこたつに入って、お茶をすすりながら、外を、ぼんやりと見ていた。
 その時、雨の中から影がひとつ、こちらに飛び込んできた。
「ここ、よろしいですか?」
 温泉客だろうか。カバンを傘代わりに雨の中を駆け込んできたのは一人の男だった。
「ええ。別に構いませんよ」
「すいませんね。天気予報は晴れだったはずなのですが…」
 私はそこらへんの物を適当に片付けて座布団を置き、乾いたタオルを男に渡してやった。
 男は濡れた体と髪をタオルで拭くと、コタツを挟んで私の正面に座った。
 その時、初めてその男の顔をじっくりと見た。
 年は私と同じ30代前半。特にこれといった特徴もない顔立ち。
 灰色の長いコート着て、いやに大きなカバンを一つ持っていた。
 ちょっと一泊二日の温泉旅行に出かけたのではない格好だった。
「今日は晴れそうに無いですね。あなたは運が悪い」
「そうですね」
 男は静かに胸ポケットから煙草を出すと、こたつの上にある大きなガラス製の灰皿を引き寄せて一服吸い始めた。
 「煙草を吸ってもいいですか?」
 「ええ、どうぞ」
 見知らぬ男は雨を見ながら、一言も喋らず煙草を吸った。私はその煙をずっと眺めていた。
 煙草を一本、吸い終わったところで私が口を開いた。
「失礼ですが。長い旅をしておられるのですか?」
「…ええ、そうですが」
「いえ、とても大きな荷物を持っておられるものでしたから」
「そうですね。もうずいぶん長いこと、旅をしています」
「そうですか。いいですね。私はもう長い間ここから出たことがありません」
 しばらく沈黙が狭い部屋を包んだ。
「…私は人を探しているのですよ」
 今度は男が口を開いた。
「妻を捜しているのです」
「ほう。奥さんを…。それはまたどうして」
「ずいぶん前になりますが。2年ほど前に置手紙を残して妻が突然いなくなりまして。
 理由は全く分かりません。思い当たるようなこともありません。
 本当に突然いなくなったのです。
 それから方々手を尽くしましたが、結局見つからず。
 しかし、私はどこかに妻がいると信じて、旅を続けながら妻を捜しているのです」
 私は男と向き合って、男の話を聞いていた。
 聞きながらあることを思い出していた。

 私は旅をしていた。
 その時、私と付き合ってた女性が突然いなくなったのだ。
 私はその人がどこかにいるのではないかと思って、あちこちを旅して回っていたのだ。
 そして、ここにたどり着いた。
 その時もやはり男がここに住んでいた。
 私はここで休んだ。男と話をした。
 そして、それから何があったかも思い出した。

 私は静かにこたつから立ち上がった。
「どうしました?」
 男が吸いさしの煙草を手に、私を見上げるようにして、不思議な顔をしていた。
 私はこたつの上においてあるガラスの灰皿をゆっくり持ち上げると、男の頭に振り下ろした。
 あの時と同じように。

 私は男の荷物を抱えると、そのまま外に飛び出した。
 雨はもう上がっている。
 あの人を探さなくてはいけない。今、どこで、どうしているだろうか。
 もう私には何をすべきなのか、分かっている。
 あの男は大丈夫だろうか。
 大丈夫だろう。
 またあの真っ白い景色を見ながら、私と同じように暮らしていくに違いない。
 彼と同じような旅人が現れるまで…。

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