「西塔、聞いたか?今度の新人の中にスペシャルがいるってこと」 同期にそう話し掛けられた私は思わず苦笑を浮かべた。 もう噂がここまで来ているとは。 「いや、人事については良く知らないから」 苦笑を笑ってかわす手段に見せ掛けると、同期の男は疑わしそうに私を見る。 「ホントか?だってあのミスター・Cの娘だって言うぜ?秘書のお前が聞いてないのはおかしいだろ?」 どうやら彼は噂を広める為ではなく、噂の真偽について私に聞きたかったらしい。 「秘書と言っても下っ端の第3秘書だし、そこまで詳しく彼のプライベートを知らないよ」 私の言葉に彼は漸く納得してくれたらしい。 「そっか・・・それにしてもウチの会社は縁故入社が多いよなぁ・・・外資系のクセに」 それを言われると私はまた苦笑するしかない、けれど彼もその縁を伝って此処に入って来た筈だが。 私と同様に父親の縁で。 私から情報を集めるのを諦めた彼は、早々に私を解放してくれた。 今年の新入社員が研修を始める以前から、既に噂が立ち始めているとは。 社内の情報網は侮れないな。 しかし、どうして彼女は此処に入る気になったのか? 未だに良く解からない。 初めて彼女に会った時、彼女はあんなにも父親の援助を頑なに断ったと言うのに。 私が彼女に出会ったのは今から2年前。 それは今の仕事に関係があったからではなく、この会社に私が入る縁ともなった父からの依頼によってだった。 私の父親は彼女の父親、現在の私の上司である彼の顧問弁護士をしていたから。 多忙な父に代わって、私は来日したばかりの彼の娘に会いに行く事になった。 父は今までも彼のプライベートな部分について色々と交渉を行っていた。 日本女性と彼との間に生まれた子供の認知の手続きや、女性が亡くなってから子供を引き取る手続きなどを。 今回会う、彼の娘はアメリカにいる母親の実家で育った筈だが、何を思ったのか日本に留学して来た。 それを知った彼が父に娘との交渉を依頼してきた。 自分で会うつもりが無いのは彼らしいが。 アポは取ってあると父に言われて彼女の住まいへ赴くと、そこは豪華なマンション。 母親の実家が裕福だとは聞いていたが、大学生が住む場所じゃないな、と思った。 『どなた?』 エントランスで部屋番号を呼び出せば、インターホンで応答してくれる。 低い声の主は確かに日本語を喋っていた。 「西塔法律事務所の遣いの者です。お約束を頂いている筈ですが」 『伺ってます。どうぞ』 日本語が通じる様で安堵する。 英語が喋れない訳ではないが、英語で法律的な事を説明するには些か自信が無かったから。 ドアを開けてくれた彼女は思っていたよりも大人びて見えた。 まだ21の筈だが、Tシャツとジーンズといったカジュアルな服装ではなく、きっちりとスーツを着こなしていたからかもしれない。 髪と目の色は父親と同じようだが、顔は整っているという点を除けば全然似ていなかった。 娘だから、そんなものなのかもしれない。 「それで、どういったご用件なのかしら?」 リビングのソファーに腰を落ち着けると、彼女が尋ねて来た。 「まずは、この度のEJUの合格とKBSへのご入学、おめでとうございます」 このお嬢様は何を考えているのか、わざわざ向こうの大学をスキップして卒業した後に日本の大学院へと留学して来た。 いくらこちらでもMBAが取得出来るとはいえ、むこうでそのままHBSへでも進めば良いものを。 折角スキップしたというのに、1年近くを受験の為に無駄にした事になる。 挨拶代わりの私の言葉に彼女は頷きを一つ返しただけで、先を続けるように黙って促す。 やれやれ、社交辞令は不要と言う事か。 「つきましては、ウェルナー・クリフォード氏から娘であるあなたに対して、住居と生活費の資金援助のお申し出がありました。詳細はこちらです」 私は父から託された書類を出して彼女に提示した。 彼女は私の出した書類を手に取ると中身を読んでクスリと笑った。 「こんなもの必要ないわ」 まあ、これだけ立派な生活が出来るのであれば確かに必要ないだろうと思う。 「ですが、これをお父様のお気持ちだと思って受け取って頂ければと」 ああ、厄介だ。 父ならもっと上手く説き伏せられたかもしれないのに。 「気持ち、ねぇ・・・あの人は私とはもう遺伝子上以外の繋がりはない筈でしょう?親権も養育権もないんですもの。日本に来たからと言って、今さらこんな事をされても嬉しくも何ともないわ」 彼女はそう言って見ていた書類をテーブルの上へと投げ捨てる。 「わざわざご足労いただいて申し訳なかったわね。ご苦労さま。もう帰っていいわ」 私は少し散らばった書類を整えてから再びテーブルの上に戻した。 「こちらは置いていきます。もし、お考えが変わるようでしたらご連絡下さい」 これでは、子供の遣いと同じだ。 まるで役に立たない。 「・・・ねぇ、あなたのお名前は?まだ聞いてなかったわ」 立ちあがった私に彼女の声が掛かる。 父の事務所の人間ではない私は名乗る事に一瞬躊躇したが、諦めて名刺を差し出した。 「申し遅れました。私は本日、父の代理として伺ったものですから」 私の差し出した名刺を見て、彼女は眉をピクリと動かした。 「ふ〜ん・・・あなたは本来、あの人の秘書なのね」 「・・・西塔皐と申します」 一礼した私に、彼女は名刺を振り回して尋ねる。 「それで、返事についてはあの人に報告するの?」 「報告を求められましたら」 つい正直に答えてしまったが、彼女はその答えに高らかに笑った。 「あはは、そうね、あの人は私の返答なんて気にもしていないでしょうしね」 その笑い声は虚しく聞こえた。 彼女の母親は幼い頃に亡くなっていると聞いている。 やはり、日本に来たのは父親に会いたかったのだろうか? 「クリフォード氏は現在、海外出張中でして」 今すぐに会えない事を暗に匂わせると、彼女は首を振った。 「別にあの人に会いたくて日本に来た訳じゃないのよ。私が留学したのは純粋に日本の経済を勉強する為だけなんですもの。ただ、ほんの少しだけあの人がどんな事をしてくれるのか、興味があっただけよ」 目を伏せて溜息を吐くと、顔を上げて毅然とした顔を見せた。 「お金で済まそうとはあの人らしいわね。お手間を取らせて申し訳なかったわ。あなたのお父様によろしくお伝えして」 寂しそうに微笑む彼女に私は何も言えずに一礼して部屋を後にした。 車のシートに座ってポケットを漁る。 取り出した煙草に火を付けて深く息を吸い込む。 悪癖だと判ってはいるが、止められない。 「クソッ!」 思わずついた悪態に、唇を噛み締める。 何だか、とても腹が立った。 多分一度も娘とまともに顔を合わせた事のない彼に、あんなに寂しそうな顔をして父親に会いたくないと言う彼女に、そしてそれを見ているだけで何も出来ない自分に。 部下として彼の下で働く私から見てもウェルナー・クリフォードと言う人は立派な実業家だと思う。 優秀で勤勉で尊敬出来る。 しかし、彼のプライベートな面を父の傍で見て来た私は、彼の人間性については思わず眉を顰めたくなる事が多い。 だが、私が気にした所で私が彼らに何かが出来る訳ではない。 単なる傍観者の一人でしかない私には。 短くなった煙草を灰皿に押し潰して、私は漸く車を出した。 遣いが役に立たなかった事に父は「そうか、やはりな」とだけ呟いて、私の不始末については何も言及しなかった。 出張から戻ったクリフォード氏にも直接、娘の様子について尋ねられる事もない。 私はただ煙草の数が増えていくなと思いながら日々を過ごしていた。 入社2年目に入ったばかりの私には覚えなくてはならない事が多過ぎた。 気付けばもう梅雨に入っていて、彼女は日本の学生生活に慣れたのだろうかと考えたりもする。 そんなある日、それは接待を終えて彼を自宅へ送り出し、一息吐いた所に聞こえた。 「No! Let me go!」 大きな女性の叫び声に振り返ると、見覚えのある女性が絡まれていた。 思わず駆け寄って、彼女の腕を掴んでいた酔っ払いを引き離す。 「嫌がっていますよ。事を大袈裟にしたくなければこのまま帰った方が良い」 私がそう言って睨むと、泥酔した相手は「んだよ・・・」とブツブツと呟きながら千鳥足で去って行った。 大人しく引き下がった事にホッとして、絡まれた相手に向き直る。 「こんな時間に何をなさっているんですか?幾ら日本の治安が向こうよりもいいとは言え、繁華街では今の様に酔漢に絡まれる事は多いんですよ」 ましてや、こんな魅力的な女性なら尚の事。 「友人と逸れてしまったら、相手が勝手にぶつかって来て絡まれたのよ。不可抗力だわ」 不貞腐れた様に呟いた彼女に、溜息を洩らして「送ります」とだけ告げる。 もう、とっくに日付は変わっている。 このまま、彼女を放って置いてもいられない。 タクシーを拾って、彼女のマンションまで送る。 車の中で黙ったままだった彼女は、タクシーを降りると躊躇いがちに一言呟いた。 「あの・・・助かったわ、ありがと」 それだけを告げてマンションの中に消えた彼女に、私は口元が緩んで思わず小さく呟いた。 「It's my pleasure」 何だか、疲れが吹き飛んでしまう様な出来事だった。 翌日、受付から『お届け物です』と呼び出されて、向かった先にはひと抱えはあるようなバラの花束を持った花屋の店員が「サインをお願いします」と言って来た。 困惑したまま、宛先に間違いがない事を確認してから受け取ると、カードが入っている。 そこには9桁の番号とL.Aの文字だけ。 ライラ・アクトン・・・彼女しか思い浮かばない。 女性から花束を貰うなんて初めてだ。 普通は反対じゃないのだろうか? 帰ろうとする店員を引き留めて、花束を自宅に送るようにお願いする。 受付の女性達から既にクスクスと笑われているし、噂になるのは必至だろうが、この大きな花束を抱えて仕事をする訳にもいかない。 カードにあった番号に電話をすると『どなた?』と、初めて会った時と同じような低い声が聞こえてくる。 「西塔です」 知らず知らずの内に憮然とした声で名を告げると 『ああ、届いた?』 悪びれもしない彼女の声。 「・・・困ります。会社にあんなものを」 取り敢えず抗議はしたが 『だって、自宅を知らないんですもの。それとも、あなたのお父様の事務所の方が良かったかしら?』 無邪気な彼女の言葉に、それはもっと最悪だ!と心の中で呟く。 「・・・あんなものを頂いても困ります」 礼をされる様な事はしていないのだし。 『気に入らなかったの?じゃあ食事でも奢るわ。今夜8時に桜木町駅の改札で待ってて』 彼女はそれだけを言うと一方的に通話を切った。 断る暇などありはしない。 いや・・・断るつもりはなかった。 緩みそうになる口元を押さえて、私は携帯を閉じた。 私は何とか約束の時間に間に合いそうな事にホッとしながら電車に揺られていた。 しかし、上司の娘と・・・一緒に暮らしてもいないし下手をすると会った事すらない娘でも・・・それでもそんな彼女とこんな風に会う事が良い事なのかどうか。 拙いな、と思う気持ちが心の隅にある。 でも、彼女に会いたい気持ちが大きく膨らんで、制止する声を押し止める。 桜木町の駅の改札に着くと8時10分前。 辺りを見渡しても、彼女はまだ来ていない。 暫く、他の待ち合わせの人混みの中に混じる。 そう言えば、どうしてこの駅なんだろうか? 彼女の通うキャンパスは東横線だから、廃線になった桜木町までは乗り換えなくては来られないし、中華街なら関内の方が近いのに。 考え込んでいると声を掛けられた。 「待った?」 チラリと構内の時計を見れば約束の時間を10分ほど過ぎていた。 「いえ」 正直に20分待ったと言う訳にも行かずに、そう答えると彼女はくるりと私に背を向けて歩き出した。 「車を停める所が無くて、ランドマークに入れちゃったのよ。その中で食べる?それともどこか行きたい所がある?」 スタスタと私の前をランドマークタワーへ向かって歩きながらそう説明する。 やれやれ、何とも事務的だな。 彼女にしてみれば借りを返すだけのつもりなのだろう。 何かを期待していた自分をバカだなと笑う。 「お任せします」 速足で歩く彼女に追い付いて、横に並びながらそう伝えると、彼女は「そう」とだけ答えた。 彼女が選んだのは懐石料理の店だった。 ラストオーダーにギリギリ間に合った私達だが、それでも静かな店内でゆっくりと食事が出来た。 彼女の箸使いは中々様になっていたし、予約もせずに個室が取れたから。 食事中の会話は終始、食べている物についてだった。 器や盛り付けや味について彼女が称賛し、私が賛同するといったような会話だけ。 彼女は冷酒を口にしていた。 先ほど、車で来ていると言わなかっただろうか? 不安を感じた私は勧められた冷酒を断っておいた。 食事が終わって彼女が席を立った隙に会計を済ますと、それを知った彼女が不機嫌になる。 「私が奢ると言わなかったかしら?」 そう言われても。 「昨夜のお礼でしたら、既に頂いてますから。ここは私に花を持たせて下さい」 女性に払わせる訳にもいかない。 最初からそのつもりだし。 「・・・だって、気に入らなかったんでしょ?」 ちょっと唇を尖らせるような仕草を見せる彼女に笑みが浮かぶ。 「気に入らないとは申し上げていませんよ。可愛いピンクのバラでしたね。確か・・・あなたと同じ名前の」 私の言葉に彼女が驚く。 「よくご存じね」 まあ、確かに。私自身がバラに詳しい訳ではないが。 「クリフォード氏の温室で同じものを拝見した事がありますので」 意味があるのかどうかは判らないが、彼の自宅の温室には彼女から貰ったバラと同じものがあった。 彼女の名前と同じ『スィート・アクトン』という品種のバラが。 「そうなの」 彼女は私の言葉にそう言って瞼を伏せると、店を出た。 「酔い覚ましに歩きたいわ」 と言う彼女に付いて、山下公園までブラブラと歩く。 足元がふら付いている訳ではないが、バックを持った手が大きく振れている。 ほろ酔い加減ではあるようだ。 「ふう、さすがにちょっと疲れたわ」 公園に着くと、彼女はベンチに腰を下ろした。 「何か飲みますか?コーヒーか水でも?」 私の問いに彼女は首を振った。 「いいえ、結構よ。それより・・・あなたは知ってる?あの人の他の子供達の事」 彼女は私を見ずに、海の上に浮かぶライトアップされた船を見ながら、呟く様に尋ねて来た。 「ええ、一番下のお子様は母親と一緒に暮らしていらっしゃいますので、まだお会いした事はありませんが。それ以外の方達はクリフォード氏と一緒に暮らしていらっしゃいますし、3か月毎の社のパーティでお見掛けしますので」 「そう・・・どんな子達なのかしら?」 相変わらず私を見ないままの彼女に、私も視線を海へと向ける。 「あなたのすぐ下の弟にあたる和晴様は高校生になった筈です。その下が中学生の双子の靖治様と静香様。一番下の杜也様はまだ小学生だったと記憶しています。皆様、とても優秀だと伺っております」 上司のプライベートについて語り過ぎていると思いつつも、彼女の望む事を教えたかった。 「そうなの・・・優秀なの・・・あの人に似ているのかしら?」 「皆様、母親が日本人ですから・・・和晴様は最近、似ていると言われる事もあるようですが。優秀さではあなたが一番ではありませんか?ミス・アクトン」 私の言葉に彼女はクスクスと笑う。 「お世辞がお上手ね。日本にはスキップのシステムが無いから早く大学を出ると目立つだけで、向こうでは割と当たり前の事よ。2・3年早く出るなんて事は」 そう言って溜息を吐いた。 「あの人と一緒に暮らしている子達は・・・幸せなのかしらね」 呟く様な問い掛けに、私は何と答えたらいいものか判らない。 「さあ・・・私からは何とも」 相変わらず情けない答えだと思う。 傍から見ていると、波生兄弟は物質的に恵まれていて幸せそうだと言える。 けれど、幼い頃に母親を亡くして仕事が多忙な父親と一緒に暮らしている彼らは本当に幸せなのか? 誰にも判らない。 「そうよね、ごめんなさい。変な事を聞いて」 そう言うと彼女はベンチから立ち上がってふらついた。 「大丈夫ですか?」 彼女は冷酒を4合ほど飲んでいた。 口当たりが良いから日本酒は飲み易いが、慣れないと酔う。 思わず差し伸べた私の腕に彼女は掴まりながら囁いた。 「・・・今夜は帰りたくないと言ったら・・・あなたはどうする?」 俯いたままの彼女の表情は見えない。 「悪い冗談は止めて下さい」 からかわれているのだと苦笑するが、彼女は顔を上げて微笑んで見せた。 「あら、本気よ」 私はその言葉に一瞬、息を詰まらせた。 本気と言われたからと言って、その気になってどうする? 彼女は上司の娘だ。 遊びでも相手にしてはいけない相手。 「酔っていらっしゃいますね。車は私が運転します」 私は公園を出てタクシーを拾い、車を停めてあるランドマークタワーまで戻った。 彼女は黙ったまま、私に自分の車を運転させてマンションまで戻ると。 「あなたは紳士なのか馬鹿なのか判らないわね」 そう一言、言い残して部屋へ上がって行った。 間違いなく後者ですよ。 私は馬鹿だ。 彼女の誘いに乗らなかった事を後悔している。 家に戻ると、彼女から贈られたバラの香りが私を責め苛む。 父親に冷たくされて寂しがっている彼女を慰めて何がいけない? 彼女がそれを望んでいるのに? いや、駄目だ。 きっと、そんな事になったら彼女も私も後悔する事になる。 彼女は一時的な慰めを求めた事に。 そして私は・・・きっと、彼女を忘れられなくなってしまう事に。 私は彼女と同じ名前のバラを一本手に取った。 彼女と同じ、可愛らしいピンクのバラ。 その花の香りを深く吸い込んで花弁に触れる。 もの凄い後悔が私を襲う。 どうして誘いに乗らなかったのか? とっくの昔に彼女に囚われて忘れられなくなっているのに。 茎を握りしめると、抜け切れていない棘が指を刺す。 胸の痛みに比べたら、それは何とも感じなかった。 翌週、私は海外出張のお伴を命じられた。 彼の補佐をする第一秘書がいて、アメリカでの彼をサポートする第二秘書がいて、私は日本での彼の補佐、と言うよりは雑用をこなす程度の仕事しかしていないので、出張のお伴は珍しい。 他の秘書が多忙な所為で今回お鉢が回って来たのだと思うのだが。 「君はどうして父親の跡を継がなかったのかね?」 彼の問いに私は思わず苦笑する。 「父の跡は兄が継いでくれますし、私は法曹界には向いていないようです」 私は何も期待されていない次男坊だから。 「父親と同じ仕事に就くのが嫌だったのか?君は父親と同じように細かい心配りが出来ると思うんだが、まあいい。君は英語の外に何カ国ほど喋れる?」 今回の出張はヨーロッパを2週間ほど回る予定だ。 帰って来る頃にはあのバラはもう枯れているだろう。 母が世話をしてくれるといいのだが。 「フランス語とイタリア語を少し」 まだまだ勉強中で日常会話以上の自信が無いが。 「ドイツとロシアと広東も完璧にして置きたまえ。これからは君にもこうして海外に付き合って貰うつもりだ」 彼の言葉に期待で胸が膨らむ。 「はい」 「MBAは持っていたかね?」 院は出ているが、さすがにそこまでは手が出なかった。 「いえ、まだです」 彼が考え込むように呟く。 「日本で働きながら取得するよりも、2年間休職した方が効率的なんだが・・・それならAASCBよりもAMBAの認証を受けている所が良いな・・・ロンドンにでも留学してみるか?無論、会社から金を出すが」 その言葉に彼からの期待の大きさが窺えて、嬉しいと言うよりも恐縮してしまう。 ロンドンへ2年間の経費留学だなどとは。 「・・・まだ私には時期尚早かと・・・」 尻込みする私に彼が苦笑する。 「資格を取るなら早いうちが良いが、無理にとは言わない。その気になったら言い給え」 これは試されているのかもしれない。 確かに資格は早いうちに取るに越した事はないけれど、MBAはそれなりの社会経験を経てからの方が効率的だと私は考えている。 もっと実務経験を積んでからならともかく、まだ入社して1年を過ぎたばかりでは、正直不安の方が大きい。 いつ、彼の言う通りに出来るようになるのか? 期待に応えると言うよりも、自分自身の努力で勝ち取らなければならない試練の様な気がする。 心の中で眠っていた野心が少しずつ膨らんでくるのが解かる。 自由な時間を与えられて、ロンドンでポートベローを見て回った。 アンティークを見るのは面白いから。 ピンクのピアスが目が留まる。 彼女に似合いそうだな、と思う。 聞けば、石はトルマリンだと言う。 彼女の耳には小さくて上品な石が飾られていたが、こんな安っぽいものが本当に似合うだろうか? 渡せるかどうかも判らないのに買ってしまった。 値切りもしなかった私に店員は、この石は良い石だ、幸運を呼び寄せる、と頻りに後悔しない好い物だとアピールしてくれた。 帰国しても、不格好に包装された物を彼女に渡す手段など考え付けずに引き出しに仕舞ってしまおうとすると、置いていった携帯が震えた。 今回は海外出張用にそれ専用の物を慌てて用意したので、いつも使っている物は日本に置いたままにしてあったのだが、見れば不在着信がズラリとあった。 それも全て彼女から。 慌てて、携帯に出ると『何をしていたの?』との声。 「申し訳ありません。海外出張中でした」 どうして謝る必要がある?と思いながらも、何だかすまない気持ちになる。 『もう帰って来ているのね?』 「はい」 『では、今夜7時にこの前と同じ場所で待ってるわ』 相変わらず一方的な通話は突然切られる。 帰国したばかりの私はそれでも喜んで支度を始めた。 彼女からの着信は一日一回だけ、それも何のメッセージも残さずに。 けれど、それでも、彼女が私に会いたがっていたのだと思える事が嬉しい。 本気になったら拙い、と心の隅で囁く声は消えないけれど。 今まで学生時代は女性とそれなりに付き合って来ていたけれど、それは友人関係の延長のようなもので、勉強が忙しかったり、仕事を始めると時間が合わなかったりで自然と消滅してしまう程度の物だった。 別れても後悔したり惜しむ程ではないような。 社内の人間とは噂が立ったり揉める事が嫌で、申し込まれても断り続けている。 この年になって、5つも年下の我が侭なお嬢様に振り回されても腹が立たず、寧ろそれを喜んでいるなど、自分でも理解しがたいと思う。 それも外国人の留学生で上司の娘。 いくら彼女がどんなに魅力的でも、リスクが高過ぎる。 それでも・・・それでも、彼女に呼び出されると嬉しいと、会いたいと思う。 彼女が私に父親との繋がりの代わりを求めているのだとしても。 「海外出張って多いの?」 今回、彼女が私を連れて来たのはイタリアンレストランだった。 また車で乗り付けた癖に、ワインを飲んでいる。 「今まではあまり、これからは多くなりそうですが」 私は運転が気になって、今回も飲めない。 まあ、飲むと時差ボケが一気に来そうだが。 「そうなの」 彼女が聞きたいのは父親の事ではないかと勝手に推測した私は少し話をする。 「クリフォード氏は月に半分以上が海外ですから、お伴をしたのは今回が初めてですが、彼の傍に居ると・・・」 だが、彼女は気分を害したように私の言葉を遮った。 「私はあなたの事を聞いているのよ。あの人の事じゃなくて」 そして気を取り直したように、微笑んだ。 「あなたの名前って変わっているわよね?もしかして5月生まれなの?」 嫌な話題に眉を顰める。 「・・・そうです」 まず、最初に会った人間は振り仮名がなければ読み間違う。 名前だけを見た人は女性だと勘違いをする。 名付けの理由は単純だが、厄介な名前を付けた両親を恨みたくなる事は多々あった。 「へえ、じゃあメイって呼んでもいい?」 面白そうに尋ねる彼女に、私は憮然としながらお願いする。 「西塔とお呼び下さい」 クスクスと笑う彼女は上機嫌で私に車のキーを渡した。 「それじゃ、西塔。また運転をお願いね」 畏まりました、お嬢様。 会計をしようとすると、既に済んでいると言われた。 先に店を出て、待っていた彼女は得意そうに笑っている。 困ったお嬢様だな、と思いながら込み上げてくる笑みを零す。 「男に恥をかかせるのはやめて頂きたいものですが」 窘めると言うよりは苦笑するに留まってしまう。 「あら?前回、誘った私に恥をかかせたのは誰?今日はその為に誘ったようなものよ」 前回、私に食事代を支払わせたのがそんなに悔しかったのだろうか? それとも、誘った彼女に恥をかかせたとは・・・考え過ぎだ。 「さ、マンションまで送って頂戴。それともお勧めのドライヴコースでもある?」 ワインを1本空けた彼女は先日よりも酔ってはいないようだが、私が疲れている。 「ご自宅までお送りします」 車を出して彼女の家へと走らせる。 疲れていた所為か、運転に集中していて彼女が何も喋らない事をあまり気に留めなかった。 マンションの駐車場に車を入れて、助手席のドアを開けて彼女を降ろして、ロックを掛けてからキーを返す。 「上でコーヒーでも飲んでいきなさい」 車のキーを渡そうとした手をそのまま握られてエレベーターへと連れ込まれた。 「どうする?逃げるなら今の内よ?」 上昇するエレベーターの中で、彼女はそう言って私の頬を撫でて、身体を擦り寄せて来た。 ふわりと立ち上る彼女の香りと、押し付けられた柔らかい身体に目眩がしそうだった。 「あなたこそ・・・追い返すなら今の内ですよ」 そう言いながら、私は引き寄せられるように彼女の赤い唇に触れた。 エレベーターに監視モニターがなければ、この場で押し倒してしまいそうだった。 海外から戻ったばかりで疲れていたから誘惑に抗えなかったのか? いや、私はこれをずっと待っていたから抗わなかっただけだ。 マンションの部屋のドアを開けると、私は彼女の身体を強く抱きしめてキスをした。 いつも誘うように小さく開いている魅惑的な唇に、ずっとしたいと思っていた深くて長いキスをした。 彼女がただ寂しいからでも、父親の代わりが欲しいからでも、一度の遊びのつもりでも構わなかった。 私は彼女が欲しかった。 「ん・・・んふっ・・・」 息継ぎの合間に漏れる声が艶めかしい。 私は彼女の着ている服に手を掛けた。 サマースーツの上着のボタンを外してスカートのホックも外す。 「あ、や・・・まって!」 彼女が慌てて落ちそうになったスカートを押さえながら私を止める。 「その・・・そう、まだシャワーを浴びてないわ」 ストップを掛けられて機嫌を悪くした私は、シャワールームへと行こうとする彼女の腕を掴んで引き留めた。 「追い返すならさっきの内だと言いましたよ」 早くも後悔しているのか?と思った私は強引に彼女を抱き上げて寝室と思しき部屋へと運んだ。 「あ、ちょっと!」 ベッドに投げ出した彼女は身体を起こして、尚も抵抗しようとしたが、私は耳を貸さずに上着を脱いで彼女の唇を再び塞いだ。 「ん・・・んんっ」 二度も誘っておきながらお預けを喰らわせるつもりなのかと、少々腹が立った私は、やや乱暴に彼女の服を脱がせた。 上着の下のタンクトップを引きずり降ろして、露わになった胸を強く握る様に掴む。 「や!痛い!」 悲鳴を上げる彼女に力を弱めるが、豊かな胸から手を離さずに形を変える様に揉む。 腰に引っ掛かっているスカートを引きずり下ろして、下着の上から指で刺激を与える。 「んあっ・・・ダメぇ」 彼女の脚に力が入って、私の手を遮ろうとする。 私はネクタイを外し、シャツのボタンを外しながら、彼女の胸へと舌を這わせた。 「ひっ・・・やっ」 彼女の身体がビクンと跳ねる。 胸の頂がプクリと勃ち始めた。 私は力が緩み始めた足の間に指を入れて、下着の中に潜り込ませる。 「あっ!やっ・・・やぁん・・・」 可愛い声を上げる彼女に私は昂り、指で柔らかな襞の中を何度も行き来させる。 「あっ・・・はっ・・・そ、そこ・・・」 胸への愛撫を続けながら、指が充分に濡れたと感じた私は、彼女の下着を脱がせて漸く自分も裸になる。 「もう、構いませんね?」 指を中に入れて彼女に尋ねると、恥ずかしいのか視線を逸らせて頷いた。 彼女の脚を大きく広げて、身体を割り込ませ、自分を宛がうと、彼女の身体が一瞬硬直した様な気がしたが、気にせずに押し込んだ。 「ああっ!っ・・・」 大きく跳ねた彼女の身体の中から聞こえた音に私は驚いた。 初めてだったのか? 私は慌てて抜いて、出血を確かめる。 バスルームからタオルを濡らして彼女の身体を拭いた。 「どうして黙っていたんですか?」 身体を拭いた後、彼女は身体をシーツに包んで顔を背けている。 やれやれ、意地っ張りで負けん気の強いお嬢様は白状するつもりが無いらしい。 誘ったのは彼女だが、間際になって躊躇いがちだったし、指を入れた時の狭さを考えれば思い当たる節が無いとは言えないのだから、気付かなかった私も悪い。 大胆に何度も誘うから、てっきり慣れているものだと思っていたが・・・偏見だろうか? アメリカ人で魅惑的な身体を持った彼女が初めての筈はないと思ったのは。 知っていたら、こんな形ではなくもっと・・・優しくしてあげられただろうか? いや、駄目かもしれない。 結局、私は彼女に気を配る余裕がなく、自分の欲望を優先させてしまったのだから。 私は服を着ると、枕に顔を埋めている彼女の髪をそっと撫でた。 「もう帰ります。乱暴にして、申し訳ありませんでした」 本当なら、このままずっと朝まで傍に居て、出来るならもう一度ちゃんと優しく抱いてあげたいが、無理だろうな。 ベッドから腰を上げた私の手を彼女が掴んだ。 「最後までしないの?」 「火遊びは程々にされた方が良いですよ」 私が苦笑すると、彼女は私の腕を離した。 「失礼します」 そう言って寝室のドアを閉めようとすると声が掛けられた。 「今度の出張はいつなの?」 彼女はまた私と逢うつもりがあると言う事か? 「・・・当分、その予定はありません」 困惑しながらも答えると、彼女は私に背を向けて呟いた。 「・・・また連絡するわ」 そして車のキーと部屋の鍵が付いたキーホルダーを投げて寄こした。 「好きに使って」 彼女の車で帰れと言う事か? そしてこれは・・・この関係をこれっきりにするつもりが無いとでも? 私はポケットの中の小さな箱の事を思い出した。 彼女のベッドサイドに戻ってランプの傍に置く。 「ロンドンのお土産です。宜しければ使って下さい」 疲れ果てていた私は考える事を止めて、素直に彼女の車で家に戻った。 幸せの余韻に浸る事もなく、ただ眠りたかった。 瞼を閉じれば、彼女の柔らかな身体の感触と艶やかな声が響いて、よく眠れそうだった。 |
ライラお姉様と西塔さんとの出会いの回想を西塔さん視点でお送りしました。 アダルトにならないかと心配してしまいましたが、理性を吹き飛ばしてくれてよかった(苦笑) 本当なら「令嬢の溜息」まで時間軸を追い付かせるべきでしたが、さすがにそれだと長くなり過ぎるので、一旦ここでストップ。 つーか、冒頭の入社してくるまでの間も埋めてない・・・繋げるまでにまだ時間がかかりそうだ(汗) 親父は社長ではなく、グループ企業の取り纏めをする会長の様な立場の人。 日本にある会社はグループの基幹会社であると認識して頂ければいいかもしれません。 具体的にコレと業種を決めていないのですが、やはり貿易かなぁ・・・M&Aの方が外資らしいですが。 EJUとは日本留学試験の事で、外国人留学生は日本の大学や大学院に入学する為にはこの試験を受けて合格しなければ大概の日本の学校に入る資格が与えられません。 大まかに言えば日本の大学での授業を受けられるか、日本語の読解の能力や日本の学校に見合ったレベルの学力が試される試験です。 KBSとは某私立大学の大学院経営管理研究科の略称です。 MBAとは経営学修士のこと、MBA認証機関であるアメリカのAACSBやイギリスのAMBAなどが認めた学校で2年間学べば修得することが可能とされています。 KBSもその一つ。 HBSとはハーバード・ビジネス・スクールの略称でMBA取得の為の学校としては世界屈指の所です。 EJUの試験は6月と11月に、KBSの入試は9月と1月の2回行われますが、入学は厭くまでも4月から。 アメリカの大学は5月で終了してしまうので、翌年の4月まで1年近くが空きます。 日本の有名大学は融通が利きません。 正直に白状すると、KBS入学の為にEJUが必要かは明記されていませんでしたし、ライラの年齢で果たして入学資格が得られるのかは不明です(果たして外国の大学を卒業してもそれがどこまで認められるのか?スキップしていると修学年数に不足があるので・・・単位を取っていればいいだけならOKのはずだけどな) MBAは本来、社会人が経営者となるために取得する資格ですので、大学生がそのまま入学した例がない訳ではないようですが、難しいのは確かかも。 西塔さんのお父さんは親父の顧問弁護士になりました(笑) その方が彼が親父の家庭の事情に詳しいのが秘書と言うだけではないからと思って。 親父の会社の秘書、ではなく親父の秘書という立場が実はエリートコースなのだと知っているのはごく一部の人達だけ。 つまり、西塔さんは入社した時からかなり期待されていた事になります。コネ入社でも(大笑) 横浜デートを思いついた時、桜木町なら東横線が・・・と思って調べたら・・・ガーン!そ、そうだった廃線になったってニュースで言ってたっけ・・・ゲッ!2004年1月かよ・・・これって2004年6月頃の話だ、使えねぇ。 関内の方が中華街にも山下公園にも近いかなぁ・・・と思いましたが、ランドマークがあるよなぁ、とそのまま。 引き籠り生活が続いているので世事に疎くてお恥ずかしいです。 でも、ネットって便利ですね! ロンドンのポートベローマーケットは「ノッティングヒルの恋人」でも有名ですが、私も一度だけ行った事があって、あそこは露店も多いが店舗もかなりある。 アンティークジュエリーのお土産は良いなぁ、と思ったのですが、アレはアンティークじゃなさそうだな。 ピンクトルマリンには「恋愛を進行させたい」とか「友人との親密度向上」といった意味合いがあるそうです(笑) 2009.8.4up |