薬指の決心



「葵、愛してる」

彼は私に何度もそう囁く。

私が信用するまで何度でも言うからと言って。

初めて口にした時に恥ずかしがっていた事が嘘の様に彼は何度も私に繰り返してくれる。

別れ際のハザードランプの合図もずっと続いている。

ネットで調べたら、それはとても有名な合図だったようで、出典は私が生まれる前の二十年も前の歌。

その歌ではブレーキランプと言っていたけれど、巷ではハザードランプで合図するのが一般的だとか、もう既にそんな事をするのは恥ずかしいとか言われていた。

彼はそんな恥ずかしいと言われている事を私にしてくれた。

私は彼がランプを点滅させる時に心の中で点滅に合わせて呟いてみる。

ア・イ・シ・テ・ル。

嬉しくて幸せで心の中に暖かな火が灯る。

けれど、私は彼に何も答えない。

答える事が出来ない。

答える資格がない。


お見合いの話は進められている。

日取りも決まった。

八月二日の日曜日、大安吉日。

彼がその事を知っているのかいないのか判らないけれど、もう私に「見合いを断れ」とは言わなくなった。

私があまりにも頑なだから諦めてしまったのだろうか?

それとも、私が既に断ったものだと信じてくれている?

彼の信頼を裏切った私を彼は許すだろうか?

彼をとても傷つけてしまう私を。

彼は派手な外見に似合わず、とても繊細で傷付き易い人だ。

誰にも言えない深い孤独を抱えて、それを表に出さないように敢えて明るく振舞うような。

同じ境遇の弟さんや妹さんの事を考えて無理をする優しい人。

私にも気を遣って、辛い過去をあまり話してはくれない。

けれど、私の下手な慰めに涙を見せてくれた時、私は彼の為に何でもしてあげたいと思った。

彼が望むなら人前でのキスだって、彼が望むならずっと傍に居てあげる。

そう思っているのに、家を継ぐことを諦め切れない私。

全てを捨てて彼の胸に飛び込んでいけない私。

こうして彼に請われるままに彼に抱かれている私は、彼だけでなくお見合いの相手や家族までをも裏切っている。



「あ・・・」

バスタブに浸かりながら、私は彼の膝の上に腰を下ろして後ろから抱きしめられたまま、胸を抱えるように持ち上げられて、濡れない様にタオルで纏めた髪が無くなって露になった項に舌を這わせられて、肌が粟立って思わず声が漏れる。

「葵の肌って白くてスゲーキレーだよな。アト付けんのヤバイって思うくらい」

彼が私の耳朶を唇で玩びながらそう囁く。

「少しあちらの血が入っていますし」

私の父はイギリス人とのハーフだし。

其れを言うなら彼の方があちらの血が濃いはず。

「和晴さんもあまり日に焼けていらっしゃいませんよね」

彼の腕は日に曝されていても、あまり黒くはなっていない。

「あ、オレ普段からインドアだし、最近はおベンキョばっかしてっからな」

司法試験の準備はタイヘンだぜ、と彼が溢す。

試験は来年なのにもう・・・彼の試験に対する真摯な姿勢が窺える。

私も再来年には受験なのに、まだ進路すら決められない。

再来年なんて・・・私には一月先の事すら分からないのに。

「ん・・・」

彼の指が私の中に入り込んで探り出す。

「クスッ、もうトロトロッなのが風呂の中でも判るぞ」

意地悪そうに彼が揶揄する。

そう言う彼だって・・・私は脚に当たっている硬く張り詰めた物の先を指でグイと押す。

「っちょ!・・・ったよ、ホラ!続きはベッドでな!」

彼は私に刺激されて、私に対する悪戯を止めてくれた。

そして私を抱え上げてバスタブから出すと、バスタオルでざっと大まかに水滴を拭っただけで、私を急くようにベッドへ押し込んだ。

「あ、まだちゃんと拭いて・・・」

身体が濡れている事を気にしてベッドから出ようとする私を彼が押さえつけて艶やかに微笑んだ。

「ダメ!オレを刺激して誘ったろ?」

私の頭に巻いたタオルを外した彼に、溜め息を吐いて身体を横たえる。

どっちが誘ったか、なんてお互い様なのに。

「愛してるよ、葵」

彼の深くて青い瞳が細められてそう囁きながら、私の髪に指を通して梳くように滑らせる。

彼は私の長い髪がお気に入りらしい。

こうして何度も指を滑らせて触れてくる。

暑くなったので切ろうと何度も思うけれど、こうされるとそれも諦めてしまう。

手入れも怠れない。

私も愛してる、と答えそうになってしまうけれど、彼の唇が私の口を塞いでそれを押し止めてくれる。

ああ、私もあなたが好きです。

試験休みと夏休みに入って、こうして長い時間一緒に居られるのがとても嬉しい。

毎日ではないけれど、こうして週に3・4日逢瀬を重ねられる。

家族には友人と勉強していると嘘を吐いて。

先日の朝帰りの件があるから、どこまで信じてくれているのか判らないけれど、夕食には間に合うように帰るし、平日の昼間出掛けているだけだから、母の『不倫している』といった疑いは晴れている様だ。

たまに彼に作るお弁当も『友人と一緒に食べる』という私の言葉を信じてくれているのだろうか?

私は家族に嘘を吐いて、裏切っている卑怯者だ。


「あ・・・ん」

彼の舌が私の身体を這い回る。

首筋、肩と滑ってから胸へと。

とても敏感になってしまった私の胸は、その刺激に、快感の予感に震えて声が出る。

彼の手が私の身体のラインを滑ってポツリと呟いた。

「葵、やっぱオマエ痩せたんじゃね?」

私は内心でギクリとする。

また食欲が無くなってきているから。

「暑くなって来ましたから、夏場は少し食が細くなりがちで」

鋭い彼に気づかれるのが怖い。

私の言い訳に彼は一応、納得してくれた。

「ん〜確かにココ最近急に暑くなって来たからなぁ。身体壊すなよ」

「はい」

彼は本当に優しい。

こんな私を心配してくれて、私には勿体無い人。

「メシは無理してでもちゃんと食えよ」

説教めいた事を言うのは彼が下に兄弟を持つ兄だからだろうか?

私を妹のように扱う彼がおかしくて思わず笑みがこぼれる。

「・・・だから、誘うなってんだろ?」

私は少し笑っただけなのに、彼は顔を赤くして突然そんな事を言い出す。

それほど私の笑顔が嬉しいんですか?

それほど私が好き?

私は歓喜で胸が大きく膨らんで、益々笑みが溢れ出てくる。

「・・・オマエ、オレをからかってんのがそんなにおもしれーのか?」

彼が顔を赤くしながらも私に睨みを効かせようと低い声で唸る。

「続きは?」

私は彼の頬に指を滑らせて誘うように囁く。

時折、彼は純真な少年のように初な反応をするのが堪らなく魅力的で甚振り甲斐がある。

「葵、覚悟しろよ」

彼はそんな私にそう呟くと、私の身体をうつ伏せにひっくり返してしまった。

そして両手を背中で一つに纏めて捕まれ、腰だけを上げさせられる。

「あ、や・・・」

膝を立てて頭を下げるようにさせられて、私は漸くとても屈辱的な格好をさせられた事に気づく。

でも、両手を彼の片手で捕まれたままなので抵抗も満足に出来ない。

「オレをからかったバツだ」

彼が笑った気配がして、突き出したような私の脚の間に彼が顔を埋めてくる。

「や、やぁ・・・」

脚を広げる為に彼の手は私を離したけれど、私は彼の与える刺激に顔を埋めた枕を両手で掴む事しか出来ない。

彼の姿を見られないまま、彼の目の前に私の恥ずかしい場所を曝け出して、彼の感触だけに溺れる。

立てている膝が崩れそうになるが、彼の手が私の腰を支えてそれを許さない。

「安心しな、ちゃんと感じさせてやっから」

彼のその言葉に疑いも無かったが、嘘もなかった。

「ああ!」

後ろから挿れられた彼の与える感覚は今までと違う場所を擦り続けて今までと違う快感を与えた。

「あっ、あっ、あ・・・ん、んんっ・・・あっ、ああん!」

いつもより大きな声が出たけれど、恥ずかしいと感じる余裕も無かった。

突き上げられる度に声が出て抑える事など出来なかった。

「スゲー感じてる?」

彼が背中に覆い被さって私の耳元で囁く。

まるで動物のような格好だ。

でも、今の私達は正に獣も同然。

私はあられもない声を漏らして、彼の言葉に頷くのが精一杯だった。

「オレもスッゲー気持ちイイ・・・ああ、葵・・・」

彼が荒くなった息の合間に漏らした言葉の最後は掠れたような『アイシテル』だった。

ああ、その言葉を囁かれるともう駄目・・・彼を逃さないように子宮が収縮して緩む。

一瞬、意識が途切れそうになった。

「大丈夫か?」

気づくと私は仰向けにベッドに横になっていて、心配そうな彼の顔が覗き込んでいる。

「私・・・」

「チット、意識が飛んじまったみたいだな。そんなに気持ちよかったか?」

「ええ」

意識が戻ってもぼんやりとしている私を彼が優しく抱きしめる。

ああ、この瞬間が一番好き。

「かーいーな!葵はホントにかーいー!」

彼は私を抱きしめながらそう言って嬉しそうに笑う。

こうしているだけなら、私達は幸せなカップル。

私が彼を裏切っていなければ。





その日は夏らしからぬ陽気で幾分涼しく、空は今にも雨が降り出しそうだった。

私の気持ちに相応しいのかもしれない。

「ちょっと早かったかしら。お茶でも飲んで待ってましょう」

着付けの時間を考えて早めに出たのが仇になったのか、約束の時間にはまだ間があった。

私と両親は待ち合わせ場所のホテルのロビーの中にある喫茶コーナーへと入った。

お見合いなのだから着物は致し方ないとしても、振袖は夏には暑くて面倒だ。

飲み物が届くまでぼんやりと大きなガラス窓の外の噴水を見つめる。

このお見合いが上手くいってもいかなくても、私がここにこうしていることは彼への裏切りだ。

彼との事もいつか終わるのだろう。

それは彼に今日のことが知られたら?

それは明日か?それとも・・・

ぼんやりとしている私に両親は何も話しかけてこない。

お喋りな母が珍しいな、と思っていると私達に声が掛けられた。

「失礼ですが、成島さんでいらっしゃいますね?」

私はその声に聞き覚えがあった。

その人は私の斜め後ろに立って両親の方を向いているようだ。

父と母が彼を見上げている。

「そうですが?なにか?」

父が彼を見上げてそう答えている。

私は・・・私は彼を見る事が出来ない。

「突然、お邪魔して申し訳ありません。私、波生和晴と申します。お嬢さんと、葵さんとお付き合いをさせて頂いている者です」

私が彼を振り仰ぐと、彼は私の両親に頭を下げているところだった。

「誠に勝手な言い分ですが、本日のお見合いはお断りして頂きたく、お願いに参上いたしました」

そう言って顔を上げた彼は・・・彼は髪を黒く染めて、いや戻して?短くなった髪は整えられて、ライトグレーのスーツを着こなし、ネクタイも締めていた。

いつもの、今までの彼とは全然違う、別人のようだった。

「葵、本当なの?」

母が驚いたように私に尋ねてくる。

私は・・・私は何だか怒りが込み上げて来た。

「違います!私はこんな方、存じ上げません!」

彼は知っていたんだ。

私が今日お見合いをする事を。

知っていたのに黙って私に何も言わずに・・・

強い口調で否定した私に両親は驚きを隠さなかった。

しかし、彼は平然といつもの口調に戻ってこう言った。

「ヒデーな葵、折角オレがこうして見合いをブチ壊しに来てやったのに、ナンだよその態度は」

折角被った猫をもう脱ぎ捨ててしまうのでは意味がないではありませんか!

「余計なお世話です!誰もあなたにお見合いを壊して欲しいなどとは頼んでいません!」

私は激昂したまま彼に食って掛かった。

「あんだと?オレってゆー立派な恋人がいんのに見合いを断らねぇとはどーゆー料簡なんだ?こっちこそソイツを聞きてーぜ!」

彼も私に負けずに言い返してくる。

座ったままの私と立っている彼がお互いに睨み合っていると、母の呟きが割り込んできた。

「ねぇ、潤。見た?」

「ええ」

両親ののんびりとした口調に怒りが少し削ぎれる。

「驚いたわぁ、葵があんなに怒るなんて・・・もしかして初めてじゃない?」

「そうですね、今まで見た事が無かったかも知れませんね。葵は親に刃向かった事は一度もない、反抗期もない子供でしたから」

私達を無視して会話を続ける両親に私と彼は唖然としてしまった。

「でも、ステキねぇ・・・彼女のお見合いをブチ壊しに来るなんて・・・潤、アンタも彼を見習いなさいよ。アンタってばあたしのお見合いの時、何にもしなかったじゃないの!」

「ええ?今、それを持ち出すんですか?何十年前の話だと思っているんです?あの頃私はまだ高校生でしたし、第一、見合いはあなたが自分で勝手に断ってしまったでしょう?」

「立場云々じゃなくて、気持ちの問題でしょ?あたしはねぇ!」

話が逸れて行く・・・私は呆れを通り越して両親に怒りすら覚えた。

「お母様、そういったお話は家でお願いいたします」

お2人だけの時にしてください。

ほら、彼だって呆れています。

「いや〜噂にゃ聞いてたけど、ホントにオマエの両親って仲がいいんだなぁ」

彼の呟きに私は顔が赤くなりそうだった。

私の両親の仲の良さはもう既にバカップルと呼ばれてもおかしくないと思うから。

普段は気にならないが、他人に見られるとやはり恥ずかしい。

「そうだわ、そうね、今は葵と彼のお話だったわね」

母は漸く今の状況を把握してくれたようだ。

「それで?葵は知らないと言ったけれど、知らない間柄ではなさそうね?お付き合いしているの?」

母に問われて言葉に詰まる。

あれだけ彼と言い合って、今さら知らない人だと白を切ることも出来ない。

「私はお付き合いさせて頂いているつもりでおります」

彼はついさっき地を出したばかりの癖に白々とまた猫を被って丁寧に言い放つ。

「波生というと、もしや・・・」

父の問いに彼は頷いた。

「はい、最初にお話があった波生靖治は私の弟になります」

彼はそう言って懐から何かを取り出して両親に渡した。

「御覧の通り、私は大学の法学部に在籍しております。まだ学生ですが、来年の司法試験を目指してます。葵さんは跡取り娘ですから、婿養子には入れない私との付き合いに悩んでご両親に言い出せなかったのだと思いますが、私は真剣に彼女と交際させて頂きたいと考えています。もちろん、将来を視野に入れて」

彼が両親に渡したものは学生証だったようだ。

でも、あの写真は髪を黒く染める前の彼の筈だけど。

「まあ、優秀なのね・・・さすがはクリフォードの息子」

母の言葉に彼が少し困った様に笑う。

「ご挨拶もせずにいきなりここへ伺う失礼は十分に承知しておりますが、彼女とのお付き合いについては私の父にも話してあります。ですが、生憎と父は現在、海外出張中でして、今回のお話を取り止める事が難しいと言われたものですから、このような不躾な真似をする事になってしまいました、誠に申し訳ありません」

彼は再度、私の両親に頭を下げた。

彼は・・・彼は真剣に私と付き合いたいと・・・彼のお父様に話をして・・・

私は彼の言葉を聞きながら泣きそうになってしまった。

どうしてこんなに真面目で真剣な彼を疑ったのか?

彼は此処までしてくれているのに。

将来を視野に入れて・・・真剣に私と交際をしたいと、私の両親の前で言ってくれた。

それだけでもう十分過ぎると思う。

「お言葉ですが」

私は決意して声を上げた。

「私は家を一緒に継いでいただけない方とお付き合いを続けるつもりはありません」

彼の為にも私とは別れた方がいい。

「んだよ!オマエはまだそんなコト言ってんのか?」

彼が私に向かって呆れた様な声を出す。

「そー言われても、オレはオマエを諦めるつもりはねーから。オレの執念深さを知ってるだろ?」

そ、それは・・・確かに何度も何度もメールや連絡を取る方だとは知ってますけど。

それでも。

「私の気持ちも変わりません」

言い切る私を彼が睨む。

そんな顔で睨まれても怖くなんてありませんから。

また睨み合いを始めた私達に、母の声がまた割り込む。

「ねぇ、葵はどうして跡を継がなきゃいけないの?」

え?

お、お母様・・・あなたがそれを仰いますか?

「そ、それは・・・小さい頃からお爺様とお婆様に言われて・・・」

私は跡取り娘だから、婿養子をとるのだと、成島の家を継いでいくのだと言われて育ったのですから。

「ったく!あのクソ親父め!あたしの娘に何て事、教え込んでんのよ!」

母が口汚い悪態を吐く。

「青華、子供の前でその言葉遣いは感心しませんが」

父の言葉も流石にここでは少し的外れかと思う。

「まあ、葵が小さい頃はあたし達も忙しくて子育てをジジババに頼っていたのも悪かったんだけど・・・葵、あたしは一度でもあなたに婿養子を貰って家を継げって言った事があったかしら?」

た、確かに、母からは一度も言われた事がない。

無論、父からも。

で、でも!

「私はずっとそう思っていました」

今までずっと、何の疑いもせずに。

「あのね、葵。確かに成島の家は古いし、継いでいく必要性がないとは言わないけど、でもその為にあなたがそれを義務に思ったり好きな人を諦める理由にはならないのよ?」

母の言葉に私は驚かされる。

そんな・・・

「大体ね、イマドキ家の為に婿養子を貰って家を継ぐなんて時代遅れもいいところでしょう?あたしの時だって古臭いと思ってたんだから」

「で、では、どうして今回のお話を受けられたんですか?」

両親がそれを望んでいるから持ち込まれた話だと思っていたのに。

母は私の言葉にちょっと困ったように笑った。

「あのね、あたし達はあなたにもっと視野を広く持って欲しかったのよ。あたしは従弟である潤と結婚して跡を継ぐのが嫌じゃなかったけど、確かに世界が狭いとも思ってたから。娘であるあなたにはもっと色々な人と出会って知り合って世界を広げて欲しかったの。あなたは小さい頃から聞き分けが良過ぎるいい子だったし、このままだと周りの言い成りになってしまうと思ってね。今回のお見合いはその切っ掛けの一つになればと思ってたのよ?だから、何度も聞いたでしょう?好きな人はいないのか?とか、嫌なら断ってもいいのよって。親の言う事をちゃんと聞かないとダメよ!」

私はもう母に何も言い返せなかった。

拘っていた私が、何だか、凄く馬鹿みたいに思えて力が抜けてしまった。

「では、葵さんと私とのお付き合いを認めて頂けますか?」

何も言えないでいる私を余所に彼が話を進めようとする。

私は彼に反論する気力すら無くなってしまった。

もう勝手にして。

「そうね、それはあなたと娘次第じゃないかしら?ねえ?」

母は父に相槌を打った。

父は黙って頷く。

「ってさ、どーする?葵?」

どうするって・・・断る理由がもう何一つないじゃありませんか?

黙ったままじっと彼を睨むと彼は笑った。嬉しそうに。

それを見て、嬉しいと思う私は・・・駄目だ、頬が緩んでしまう。



すると、何とも言えないタイミングでまた声が掛けられた。

「成島さんではございませんか?まぁ、遅れてしまったようで申し訳ございません」

両親と私が声のした方を向くと、そこには派手な服装の壮年の女性と私と同じ年頃の少年が立っていた。

今日のお見合いの相手がやって来たのだ。

時計を見ればちょうど約束の時間。

「あら?あなたはどうしてここに?」

壮年の女性は彼を見ると眉を顰めたけれど、彼はそれを少しも気にせずにっこりと笑った。

「これは岳居さん、ご無沙汰いたしております。本日は私もこちらの成島さんご夫妻にお話があったものですから」

私は彼のこんな顔を初めて見た。

先ほどの両親に対しての真面目で真摯な態度とは違う、人を嘲るような視線で笑う彼を。

「そうなの?でも、今日はわたくしどもがお約束頂いているのよ。後にして下さらないかしら?」

岳居と言うその女性は彼の存在にあからさまな不快を示してそう言った。

何だかとても腹が立つような言い方に、言われた訳でもない私が不愉快になる。

「生憎と、そう言う訳にもいかないもので。実は本日の杜也クンとのお見合いの相手は私の交際相手なものでして。このお話は無かった事にしていただきたいのですが」

平然と女性の言葉を受け流して、彼はさり気なく問題発言をする。

「なんですって!わたくしは聞いておりませんよ!今更どういうつもりでそんな事を言い出すんです?」

激昂する女性に彼は少しだけ頭を下げた。

「話が行き違った様で申し訳ありません。父はご存じの通り、現在海外ですのでそちらにお話が行き渡っていなかったようですが、私から父には話を通してありますのでご安心を」

彼の言葉に憤慨した女性はしばらく言葉に詰まった後、こう言い残して去った。

「嘘か本当か調べれば判る事ですからね!」

怒って帰る女性を唖然として見送っていると、その後ろにいた少年と目が合った。

私は一言お詫びをしなければと立ち上がったが、彼が私をその腕で制した。

「悪いね、杜也クン。そーゆーコトなんで今回は縁が無かったモノと諦めてくれたまえ」

さっきとは違うニヤリとした笑いを浮かべて彼が言った。

「いえ、これで益々、あなたが父の跡を継ぐ気が無い事が解かって僕としては一安心です。和晴さん。成島のお嬢さんも、今回は残念でしたが、ご縁があれば、いずれまた」

そう言って岳居杜也は私達に会釈をして彼の母の後をゆっくりと追った。

岳居杜也と言う人はとても冷静で落ち着いた少年で、私と同じ年には見えない人だった。

何だか、少し怖い様な人。

「チッ、食えねーガキ!」

彼は小さくそう呟いた。

そして、私と両親に向き直ると深く一礼して詫びた。

「お見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでした。我が家は少々複雑でして」

それはまあ・・・私も両親も事情を知っているから解かっていた事だけれど。

「あら、あなたが謝る必要はなくてよ。悪いのはあなたの父親でしょう?」

母の言葉に彼は苦笑する。

「そう言っていただけると、お恥ずかしいですがほっとします。本日はご無理をお願いして、申し訳ありませんでした」

そしてまた深々と頭を下げる。

「勝手ついでにもう一つお願いしてもいいですか?この後、葵さんを連れ出しても構いませんか?」

彼の言葉に私は顔が赤くなる。

両親の前で誘われるのは、恥ずかしいものだと知った。

「それは構いませんが、波生くん」

それまで、あまり彼と話さずに黙っていた父が立ちあがって、彼の前に立った。

「葵はまだ高校生ですから、節度のあるお付き合いをお願いしたいですね」

並んで立つとあまり彼と変わらない父にそう言われて彼が「はい」と答える。

今更『節度あるお付き合い』と言われてどう思っているのか?

そして、父は

「あと、これは葵の父親として」

そう言って、彼の腹部に握った拳をめり込ませた。

彼は父からの一撃に後ろへと数歩下がり膝をついた。

「お父様!」

私は吃驚して、慌てて膝をついた彼に近寄った。

「娘を泣かせた罰だと思って下さい。二度と泣かせたら承知しません」

普段温厚な父の言葉に私はとても驚いた。

そして、父の言葉を聞いた彼は、膝をついたその場に土下座をした。

「申し訳ありませんでした!二度と泣かせません!」

私は・・・私は涙が溢れて来そうなくらい嬉しかった。

父の言葉も、彼の言葉にも。

だが、

「素敵よ!潤!やる時はやるのね!」

「いえ、少しは父親の威厳も見せておかないと。青華に見限られそうですし」

母の嬉しそうな言葉と続いた父の言葉に感動は薄れてしまった。

この人達は・・・

「そうね、これでさっき言ってた見合いの時の件についは少しだけ考え直してあげてもいいわ」

「まだ、それを言うんですか?」

両親はそんな事を言いながら、私達を置いて席を立ちホテルを出て行った。

もう勝手にして下さい。

「大丈夫ですか?」

私はまだ蹲ったままの彼の傍に膝をついて様子を窺った。

「ああ、ちっとばっかし効いたけど、ヘーキ」

そう言って彼はお腹を押さえて立ち上がった。

「しっかし、やわそーに見えて意外とヤルね、葵の親父さん。顎に一発かと思ったのに、腹か」

苦笑した彼はそう呟いた後、私をジロジロと見回した。

「葵、今後はそーいったカッコはオレの為だけにしとけ!他の男の為に着飾るなんて胸糞悪ぃ」

そう言って私の手を取った。

「どこへ?」

尋ねる私に彼は振り向きもせずに言い放つ。

「まずは服だ。そんなカッコじゃどこにも行けねーだろ?そんであとは・・・」

立ち止まって振り向いた彼は私の耳元で囁いた。

「ホテルとドライヴどっちがいい?後者なら車の中で我慢して貰う事になっケド」

この人は・・・つい先ほど、父から『節度のある付き合いを』と言われて答えた事をもう忘れたのか?

「車の中は狭くて嫌です」

こんな答えを返してしまう私も駄目だわ。

「よっしゃ!行くぞ!」

彼に手を引かれて私はホテルを出た。



「いつか」

彼が私の手を引きながらポツリと呟いた。

「いつか一人前になったら、ココにちゃんとしたもの填めてっからな」

握られた彼の右手の指が、握った私の左手の薬指を撫でる。

「一人前になるとは、いつの事ですか?」

私の問いに彼が詰まる。

「そ、そーだなぁ・・・司法試験に受かって、司法修習が終わったら?」

どうして疑問形なんですか?

「検察官になった場合、その後も何年も地方や場合によっては海外への勤務があると聞きますが?」

私だって色々と調べたんです。

各地を転々と移動しなくてはならない事くらい知っているんですから。

「そん時は、一緒に行こうぜ。大丈夫、司法修習の段階で給料が出る筈だから」

そんな、簡単に仰いますが。

「司法修習も地方を転々とすると伺ってますが」

その間、私は待っているだけですか?

「一緒に来てもイイんだぜ?上手く行っても高校は卒業してっだろ?」

来年か再来年には合格できる自信をお持ちとは。

「もし、試験にスグに受かんなくても、その間は花嫁修業でもしててくれよ。なにしろ公務員になっからな、家計の遣り繰りとか家事とか頼むぜ!」

「私は家政婦ですか?」

少し腹立たしい彼の言葉に異議を唱えると、彼は明るく笑った。

「ちげーだろ?オレのオクサンで理想的な子供の母親になんの」

彼の言葉に私は胸が熱くなる。

彼の妻となって彼の子供を産む、この私が?

いいのだろうか?

彼の嬉しそうな笑顔が、彼の私の手を繋ぐ力強さが、私の不安を少しだけ払拭してくれる様な気がする。

「ですが、私もそう長い事、花嫁修業ばかりをしている訳にも参りません。今の司法試験制度が無くならない内に合格出来なければ、成島の家に入る事も視野に入れて頂きたいものです」

新しい司法試験制度は時間が掛かるものだと聞いている。

長い時間待たされるのは嫌だし、正直言って彼が法曹界への道を諦めて私と家を継いでくれる事への未練もある。

「え?だってさっき、オマエのお袋さんが・・・」

彼の戸惑った様子に思わず零れそうになる笑みを堪えて毅然とした態度で答える。

「母は確かに『婿養子を取らなくてもいい』と言ってくれましたが、私は長い間そう考えて参りました。母の言葉一つだけで、そう簡単にその考えを捨てる事は出来ません」

母だって『成島の家は引き継がれていくべきものだ』とも言っていたのだし。

「うはっ、頑固だな」

彼の呆れた様な言葉に私はビシリ!と言い返す。

「あなたが来年か再来年に司法試験に合格出来れば済む話です。和晴さん」

私の言葉に彼はグッと言葉を詰まらせた。

「よ、よっしゃ!見てろよ!オレの実力を!」

気合を入れた彼の言葉は頼もしい。

「家業についてはともかく、名を継いでいく件につきましては、あなたにもご考慮頂きたいと考えております」

彼が『成島和晴』になるのも悪くないと思うし。

「・・・そこまで言うのか?よっぽど諦めきれねーんだな」

彼は私に呆れ果てただろうか?

チラリと不安が頭を掠めるが、それでもこれが私の偽りようのない本心だから。

「ん、ならさ、オマエもオレをちゃんと口説いてくんねーと。オレ、まだオマエから一度も言われてねーんだけど?肝心の言葉をさ」

肝心の言葉?

何の事だろうか?と考えて・・・漸く思い当る。

「な、言ってくれよ。葵」

彼が私を誘うように甘い声で囁く。

私はとても恥ずかしかったけれど、彼の手をギュッと強く握って勇気を奮い起した。

「私も・・・あなたの事が、好き、です」

頬が熱くなるのが止められない。

きっと顔は赤くなっている。

彼の最初の躊躇いが今になって解かる。

言葉にする事はとても恥ずかしい。

けれど、彼は握りしめていた私の手を更に強い力で握り返して、

「うん、オレも!」

無邪気な少年の様に笑った。

それはとても、先ほど両親の前で毅然としていた彼とは別人のように子供っぽくて可愛らしかった。

その可愛らしさに私は自然と笑みが浮かぶ。

彼はそんな私を、一瞬驚いた様に見てから微笑んだ。

「いつまでもずっと、オレの傍でその笑顔を見せてくれよ、葵」

したら、司法試験も婿養子もドンとこい!だぜ!

そう高らかに宣言する彼に私は微笑んで答えた。

「はい、和晴さん」

私達は手を固く握り合って、未来へと歩き出した。







 

































 

Postscript


こ、これでエンドマークを付けてもいいのか?
正直、疑問ですが、一旦付けときます。
何故なら、この先果てしなくなりそうで・・・
書けば色々と追加できますし、考えていない訳ではないのですが、一先ずここで。
一応、めでたし、だし?

葵の悩みは母親が全て取り去ってくれました。
彼女の妙な拘りだけですが。
下手をすると葵のアイデンティティの崩壊にも繋がりかねませんが、良い子は得てして意外と親との交流不足が原因で爆発してしまいそう。

親や家から解放された彼らは自分たち自身の足で歩んでいかなければならない分、ある意味とても大変だと思います。
でも、愛があるから大丈夫?
いへ、親の援助がありそうですが・・・愛だけじゃ飯は食えねぇ。

専業主婦になりそうな葵ですが、ヒロインとしては一発芸能界でも目指して和晴をヒヤヒヤさせて欲しい所(笑)
マジで彼女にも自分自身で自立の道を考えて欲しいなと思います。
専業主婦もイイけどね。

まぁ、二人ともまだ学生だし、この先、もしかして葵が和晴を見限るかもしれないし、その逆は・・・あんまり有り得なさそうですが、無いとは言い切れない。

ただ、一つ、管理人がポッと妄想したのは、葵が生まれたばかりの男の子を抱いて聖母の様に微笑んで、それを幸せそうに見ている検察官となった和晴の姿。
あのシリーズで有り得なかったシーン。
これに繋がってくれればなぁと思ってます。

晴れて、親公認の恋人同士となったばかりの二人ですから、これからは親からの制約も数多く出てくるでしょうし、司法試験に向けての勉強も大変です。
これからも立ち塞がる数々の試練を乗り越えて、無事にめでたし、になって欲しいと思います。


と、ここまでが最初の後書き。

その後、ナニが終わらせる事に不満だったのか、考えて考えて・・・ラストの葵のモノローグがすっごい中途半端なのが不満だった様です。
なので少し書き直して付け加えました。

そーでした、彼女からの告白が無かったよ〜!アホ!
んで、母親から言われたからと言って、すぐに納得しちゃうのも・・・と思ってそこら辺を色々と加えました。
こ、これで何とかエンドマークつけられるかな?


2009.7.30 up 8.2加筆

 


 

 

 

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