ボン、と低い音が響く。
室内に立ち込める黒い煙。
「マルローネ!」
甲高い女性の声が煙だらけの教室に響く。
「すみませ〜ん」
泣き出しそうな情けない声が返ってくる。
「あなたの様な生徒はこの学院始まって以来です。どうしてヴィーナマッセを作る途中で爆発させてしまうの?」
怒りを通り越して呆れた様な声で責められているのは、少し煤けた白い制服を着た1人の生徒。
「1年目の学科もギリギリで乗り越えられたばかりなのに、実技もこんな調子では卒業なんてとても無理ですよ。本当にやる気があるの?マルローネ」
しょぼんとしていた生徒は尋ねられて勢い良く顔を上げ、元気良く答える。
「モチロンです!イングリド先生!あたしは何としても菓子職人になりたいんです!」
力説したマルローネにイングリド先生は安心したように頷いてから。
「そう、それなら来月までにちゃんとしたものを1つ作り上げて御覧なさい。その結果次第であなたの在学を検討しましょう。やる気が合っても才能がない生徒をこれ以上在学させておくのはあなたにとっても学院にとっても無駄なだけですから」
最後通告とも言える言葉を伝える。
「来月までに、ですか?」
マルローネは戸惑いながら期限を繰り返す。
来月まではあと10日と少ししかない。
「そうです、これまでの授業をきちんと覚えていれば出来るはずですよ。頑張りなさい」
「はぁい」
イングリド先生の励ましにマルローネは少し情けない声で答えた。
「それで、何を作るつもりなの?マリー」
マルローネはその質問に今まで睨めっこをしていた教本から顔を上げて首を振った。
「あたし今までまともに作り上げたものなんてないんだもん。やっぱり向いてないのかなぁ・・・お菓子作り」
「そんな事ないわよ、マリーの作ったゲベック、とっても美味しいじゃない?わたし、好きだわ」
優しく微笑んで励ましてくれる友人にマルローネは溜息を吐いた。
「ケベックは材料はよっく練り合わせればいいだけだもん。ゲベックとかゲリーベナー・タイクとかなら自信あるけど、それだけじゃダメなんだよ。どれを作ったら先生から認めて貰えるのかわかんないよ、シアぁ、どうしよう?」
マルローネは泣きそうな顔をシアに向ける。
「失敗したヴィーナマッセをちゃんと完成させればいいんじゃないの?」
「ダメだよ〜だってヴィーナマッセってクーヘンの土台だもん。それをどう変えて作り上げればいいのか全然解んない」
シアの言葉にマルローネはへたり込む。
「ん〜それじゃあ、やっぱり誰か上手な人に教えて貰うしかないんじゃないかしら」
マルローネはシアを見返して恐る恐る訊ねる。
「上手な人って・・・まさか」
「そうね、上手といったらやっぱり学院で一番の彼しかいないんじゃないかしら?」
シアの返事にマルローネは苦虫を噛み潰したような表情になった。
「おや、これはこれは。学院のオーブンを片っ端から破壊して廻ってるマルローネさんじゃありませんか?」
顔を合わすなり飛び出してきた嫌味にマルローネは顔を引くつかせながら、歪んだ笑顔を浮かべた。
「あ、相変わらずねぇ、クライス。いくら成績が良くても友達出来ないわよ、そんなんじゃ」
マルローネの言葉にクライスは眼鏡を持ち上げて口元を少し上げる。
「貴女には関係の無い事です、私に友達がいようがいまいがそんな事は。それより私に何の御用ですか?」
「うっ、じ、実は・・・」
クライスの言葉にマルローネは詰まりながらも状況を説明した。
「・・・なるほど、それで学院で一番の私に救いを求めに来たと言う訳ですか?貴女にしては賢明な処置ですね」
「不本意な処置だわ」
ボソリと呟いたマルローネの言葉が聞こえているのかいないのか、クライスは無視した。
「では、まず先日貴女が失敗したヴィーナマッセを作って見て頂けませんか?どうやったら爆発するのかその原因を究明しましょう」
クライスに促されて、マルローネは渋々先日の実習を再現して見せた。
材料を用意し、撹拌してタネを作り上げる。
「んで、これをオーブンに入れて・・・」
オーブンを開けようとしたマルローネをクライスが止める。
「判りました、そこまでで結構です。このままだとまたオーブンを壊してしまいますから」
「え?判ったの?何が原因?」
マルローネの言葉にクライスは溜息を吐いた。
「マルローネさん、お菓子作りに一番大切な事は何だと思いますか?」
「え?配合通りに材料を合わせることじゃないの?」
マルローネの言葉にクライスは頷いた。
「そうです、特に材料の量は絶対に間違えてはいけません。貴女の様に小麦粉と膨らし粉の量を取り違えていては爆発するのは当然です」
「ええ?違ってた?」
マルローネはクライスに指摘されて材料を確認する。
「あ、ホントだ・・・てへっ、失敗・失敗」
笑って誤魔化そうとするマルローネをクライスは厳しく追及する。
「失敗は許されないんですよ、マルローネさん。プロになるつもりなら、間違いは出来ません」
「ううっ」
クライスの言葉にマルローネは思わず体を小さくする。
「まずヴィーナマッセをきちんと焼き上げられるようにしましょう。基本ですし」
「で、でも・・・それだけじゃ・・・」
「基本を疎かにしてはいけませんよ、マルローネさん。まずは貴女のそのそそっかしい所を治さなければこれからも同じ様な失敗が続きます。それでは何の解決にもなりません」
クライスの言葉にカチンと来ながらもマルローネは不満を隠しもせずに頷く。
「はぁ〜い。クライスせんせぇ〜」
「でも、どうすんの?ウチのオーブンはとっくの昔に壊れてるし、学院のオーブンはその、あたしが壊したからあんまり使えないし・・・」
「オーブンを使わなくてもヴィーナマッセは作れますよ、これで」
クライスが持ち出したのは少し厚手の普通の鍋だった。
「これで?」
「そうです。こちらの方が火加減が調整出来て、失敗が少ないですしね」
こうして、クライスによるマルローネの特訓が始まった。
「ああ、また間違えてますよマルローネさん。どうして貴女はいつもそう計量を疎かにするんですか、どんぶり勘定ではいけませんよ、ちゃんとカップやスプーンを使って下さい」
「いちいち煩いなぁ、解ってるわよ!」
クライスからの指摘に文句を返す事を忘れずにいながらも、マルローネは計量をやり直した。
「焼き始めるまでにこれだけ時間が掛るとは思いませんでした」
ようやく鍋を火に掛けた時にクライスが呟く。
「悪かったわねぇ」
クライスの嫌味に不貞腐れながら返すマルローネだったが。
「でも、ありがと!途中で見捨てないでくれて」
にっこりと明るい笑顔をクライスに向ける。
クライスはあれだけ詰られても挫けないマルローネに内心とても感心していたが、礼を言われて笑顔まで見せて来るとは思っていなかったのでとても驚いた。
「焼き上がるまで安心してはいけませんよ。油断は大敵です」
内心の動揺を隠すように眼鏡を持ち上げるクライスだったが。
「うん、そうだね、出来上がってみないと判んないもんね」
素直なマルローネの言葉と笑顔にときめくものを感じてしまう。
「まだかな、まだかな〜♪」
片づけをそっちのけで歌いながらコンロの前から動かないマルローネに代わって、材料や器具を片付けながらクライスはふと浮かんだ疑問を口にした。
「貴女は何のために菓子職人になりたいのですか?」
言外に才能が無いと責めているように聞こえるだろうかと思って、少し不安になりながら答えを待つとマローネは気にした素振りも見せずに、あっけらかんと答える。
「そりゃあ、お菓子が好きだからに決まってるじゃない」
「そうですか」
拍子抜けしたようなクライスにマルローネは更に語る。
「あたしはお菓子大好き!食べてると幸せな気持ちにさせてくれるもんね。だから自分でも美味しいお菓子を作って他の人も幸せな気持ちにさせてあげたいんだ」
無邪気な子供が夢を語るように話すマルローネにクライスは嫌味を返すことも出来ずに考え込んでしまった。
だからマルローネから「あんたは?クライス」と聞かれた時に。
「もうそろそろいいかもしれませんね」
そう言って逃げてしまう事しか出来なかった。
「うわぁ!ちゃんと膨らんでるぅ!凄い!」
感激して大声で叫ぶマルローネにクライスは冷静に返す。
「分量を正しく配合すればちゃんとしたものが出来るのは当たり前です」
「うん、本当にそうなんだね!ありがとう!クライス!!」
マルローネは嬉しさの余り、クライスに抱きついた。
「マ、マルローネさん!!」
うろたえるクライスをマルローネは気にも留めず
「で?これをどう仕上げるの?」
鍋から取り出したヴィーナマッセを掲げて聞いて来る。
クライスはうろたえた自分が馬鹿馬鹿しくなって溜息を1つ吐いてから。
「粗熱を取ってから、中央に切れ目を入れて果物などを挟んで飾り付ければ充分立派なものになります」
「判ったわ!」
ほぼ、完璧に出来上がったヴィーナマッセに嬉々として飾り付けを施していくマルローネを見詰めながらクライスはポツリと呟いた。
「私は正確な計量と配合で完璧に出来上がるお菓子作りが気に入っていましたが、それだけではなくなってしまいましたよ、マルローネさん、貴女のおかげで」
「え?今何か言った?」
飾り付けに熱中していたマルローネにはクライスの告白は聞こえていなかったようだ。
「いえ、別に大したことではありません。それよりもここに付いてますよ、粉が」
「え?ドコドコ?」
クライスの言葉にマルローネは手の甲で顔を拭おうとするが、手には白い粉が付かない。
「どこぉ?」
尋ねるマルローネにクライスは近づいて顎を掴む。
「ここですよ」
てっきり拭って貰えるものと思っていたマルローネは不意打ちの頬へのキスにしばし、呆然としてしまった。
「取れましたよ、マルローネさん」
にっこりと笑って答えたクライスにマルローネは一瞬、ホンの一瞬だけ見とれてしまった。
「ク、クライスゥ〜〜アンタねぇ!」
そして我に返ったマルローネは真っ赤になって憤慨する。
「まぁ、これなら何とか合格点をあげましょう」
期日の日にイングリド先生からそう言われたマルローネは小躍りしながら教官室を後にした。
「よかったわね、マリー」
親友のシアも喜んでくれた。
「ありがとう!シア」
「クライスさんにお礼は言ったの?」
シアの言葉にマルローネは返答に困ってしまった。
「ええっとぉ、実はその・・・あの後会ってない、の」
学院でも顔を合わせるのが恥かしくて報告は愚か挨拶すらしていない。
「まぁ、マリー。いけないわ、今回無事に合格出来たのはクライスさんのお陰でしょう?」
何も知らないシアはマルローネを責めるが、シアに詳しく話す事が出来ないマルローネは「う・・ん」と歯切れの悪い返事をするしかない。
マルローネのおかしな様子にシアは訊ねる。
「どうしたの?クライスさんに告白でもされたの?」
シアの推測にマルローネは首を振りながら「ち、違うよ、まさか」と否定しながら、ただキスされただけでこんな風に避けるのはクライスに失礼だと思った。
別に告白してきた訳でもないのだし、キスっと言っても唇ではなく頬にだし、自分が意識し過ぎているだけなのだと思うことにした。
「そうだね、ちゃんとクライスにお礼を言うよ」
マルローネはそう吹っ切れたようにシアに言って笑った。
「クライス!」
マルローネに呼び止められてクライスは驚いた。
彼女の頬にキスをしたあの時から彼女に避けられている事は解っていたから。
「何ですか?マルローネさん」
平静を装いながら、クライスはマルローネが何を言い出すのかとても期待していた。
「あ、あのさ、あたしイングリド先生から合格点貰えたんだ」
マルローネの言葉にクライスはがっかりするが、眼鏡を持ち上げてそれを押し隠す。
「ええ、知ってます。良かったですね」
マルローネはまだ恥かしさが残っていてクライスの顔をまともに見れていなかったので、内心動揺しているクライスの仕草に気付く事など無く、冷静な声に少しがっかりしていた。
自分の自意識過剰を思い知らされたようで。
「上手くいったのはアンタのお陰だわ、本当にありがとう、クライス」
マルローネは必死で笑顔を浮かべた。
感謝の気持ちを伝えなくては、と思っていたから。
クライスはマルローネの笑顔に素直に賞賛の言葉を述べた。
「私の助力など大した事はありません。貴女自身の努力の成果ですよ、マルローネさん」
そしてマルローネの笑顔に引き摺られるように自然と笑顔を浮かべる。
キスの後のようなクライスの笑顔にマルローネはドギマギしながら「あ、ありがとう」と答えてから。
「いっつも嫌味ばっかり言ってるアンタから褒められると変な感じだわ」
誤魔化すように笑い飛ばしてしまう。
「そんなにいつも嫌味を言っていますか?私は」
苦笑したクライスにマルローネは慌てて反論した。
「で、でも、今みたいに笑ってれば嫌味なんかじゃないわよ、友達だってもっと増えるんじゃない?」
マルローネの言葉にクライスは驚いた。
「笑ってましたか?今」
「うん、いい笑顔だったよ」
クライスは思わず顔に手を当ててしまったが、マルローネの言葉に彼女をじっと見詰めた。
「それはきっと、貴女の前だからだと思います」
「え?ええ?」
クライスの言葉にマルローネはうろたえてしまう。
「貴女の笑顔を見ていると私も自然と笑えてしまうようです。不思議な人ですね貴女は」
クライスはそう言ってマルローネの心を揺さぶるような笑顔を向けた。
顔を段々と赤くしていくマルローネを見詰めながらクライスは内心で溜息をついた。
「貴女のお菓子作りの腕も、その笑顔と同じくらいに人を喜ばせるものが作れるようになるといいですね。そうしないと今度こそ退学になるでしょうから」
クライスの言葉にマルローネはカチンと来た。
「アンタって、死ぬまでその嫌味を止めないつもりなの?」
今度は怒りの為に顔を赤くしているマルローネにクライスは平然と追い討ちをかけた。
「私は嫌味ではなく、事実を申し上げているだけですよ。マルローネさん」
「そのスカした言い方が嫌味だって言うのよ!もう!アンタなんて嫌い!」
マルローネは思いっきりクライスにアカンベーをして立ち去って行った。
「やれやれ、貴女も私もまだまだ勉強しなくてはいけないようです」
ぽつりと呟いたクライスの声はマルローネには届かない。
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