|  目が覚めて、起き上がると頭が痛い・・・泣いた所為かな?
 
 クライスの姿はどこにも見えない。
 きっと帰ったんだ。
 昨夜は泊まっていったのかな?
 
 1階に下りるとキッチンにオムレツとソーセージが置いてあった。
 『規則的な食生活を』のメモと一緒に。
 ホント、マメな人。
 
 トーストを焼いてオムレツを突く。
 目が腫れぼったくてまだぼぉっとする。
 そんなに泣いちゃったかな?
 
 外の風景には雲が重く立ち込めている。
 昨日と一昨日は晴れていたのに・・・
 
 食事を済ませて外に出ると、湿った風が強く吹いている。
 灯台の裏手は緩やかな崖になっていて海が見渡せる。
 
 それが気に入って住み着いたんだけど、今日の海は荒れてるわね。
 また嵐になるのかしら・・・
 
 海は昔から好きだった。
 凪いだ海も荒れ狂う海も飽きが来なくていつまでも眺めていられた。
 
 昨日、久し振りにあの夢を見たのはクライスの所為だと思う。
 彼への思いを自覚した途端にシアの事を思い出した。
 
 だって、あたしはとてもシアを愛していたんだもの。
 思い出すだけで、ホラ、涙が浮かんでくるくらい。
 
 また、誰かを愛せるだなんて思わなかった。
 今まで付き合った男の人とは、ゲームやその場限りの関係でしかなかったから。
 
 クライスは休暇が終われば帰っていく人なんだよ?
 そんな人に本気になってどうするの?
 
 でも忘れられるの?
 忘れなきゃダメだよ。
 
 ぼんやりと考えながら緩やかな崖を降りて小さな砂浜の波打ち際まで近づく。
 ふと、視線を廻らせると、砂浜にある桟橋に繋がれているはずのあたしのボートがない。
 
 そう言えば、クライスが『釣りをするためにボートを借りたい』って言ってなかった?
 今日のこの天気に海に出たの?
 波がこんなに高くて、今にも嵐が来そうなのに!
 
 どうしよう・・・レスキューを呼んだ方がいい?
 レスキューってどこの?
 
 港に行って猟師の人に探してもらうのはどう?
 ダメよ!ここの港には大きな船なんてないもの、この天候じゃ船なんて出せない!
 
 どうしよう、どうしよう・・・もしかしたらクライスは自分の家の桟橋にボートを運んだだけかも。
 彼が借りてるシェンクさんの家には桟橋がついていたもの。
 
 そうよ、それだけならクライスは夕方になればまた食事を持ってやって来るはずだわ。
 クライスは来てくれる、きっと。
 
 ゴロゴロ・・・と雷が鳴って雨が降り出した。
 あたしは砂浜で膝を抱えたまま、立ち上がる事が出来ない。
 
 ポツポツと降り始めた雨は、あっという間に土砂降りになってあたしを叩く。
 それでもここから動く事が出来ない。
 
 どうしよう?
 クライスが海に出て遭難してしまっていたら・・・
 また愛する人を失うような事になってしまったら・・・
 
 あたしには耐えられないかもしれない。
 
 降り頻る雨から身を守るように身体を縮込ませる。
 クライス、クライス・・・大丈夫だよね?
 
 何を言ってんの?あんなちっぽけなボートでこんな海に出たら、ひっくり返るに決まってるじゃない。
 バカね、こんな思いをするのが嫌だから灯台に引き篭もってたんじゃないの?
 それを忘れてドアを開けたりなんてするから、また傷ついたりすんのよ。
 
 ホント、バカだね。
 
 どれくらいそうしていたのか判らなくなった来た頃、風と雨が唸り声を上げる合間に、あたしを呼ぶ声が聞こえた。
 クライス!!
 
 ヨロヨロと立ち上がって崖を這い上がる。
 空耳なんかじゃないわ!段々と大きく聞こえるもん!
 
 「クライス!」
 フラフラになりながらあたしがそう叫ぶと、ずぶ濡れになりながら灯台の周りを歩き回っていたクライスが振り返った。
 よかった・・・本物だわ。
 
 「マリー!」
 クライスはあたしに駆け寄ると、腕をガッシリと掴んで怖い顔をした。
 
 「中に居ないから心配しましたよ!ドアに鍵は掛かっていないし、車もあるのに貴女が居ないなんて・・・それもこんな嵐になったのに何をしていたんです?」
 なによ、そんなに怒って!心配していたのはあたしの方よ!
 
 「ボートがなくなってたからアンタが海に出たのかと思ったのよ!こんな嵐の日に海に出るなんて自殺行為でしょ!」
 あたしはクライスに怒鳴り返した。
 
 「私はそこまで愚かじゃありませんよ。ボートはずっと使っていないようでしたからハレッシュにエンジンシの様子を見てもらう為に運んでもらっただけです」
 なんだ・・・そうだったの・・・
 
 「もしかして・・・心配して下さったんですか?私の事を?」
 答えに困るような事言わないで!
 
 「こんなに濡れるまで外で待っていてくれたんですか?」
 ア、アンタだってこんなに濡れてあたしを探していたじゃないの!
 ・・・と、言う事は・・・もしかして、アンタもあたしと同じ気持ちなの?
 
 「ああ、マリー・・・」
 そんなに艶っぽい声を出さないで・・・
 さっきまでの怒りがどこかへ消えてしまってアンタに抱かれる事しか考えられなくなっちゃう。
 
 「今すぐ、ここで貴女が欲しい・・・」
 あたしも・・・あたしもアンタが欲しい・・・クライス。
 
 あたし達は嵐の中、ピッタリと身体をくっつけて抱き合った。
 嵐なんて気にも止めないくらいの長くて情熱的なキスをして。
 
 濡れた服は体に張り付いて、裸でいるよりお互いを感じられる。
 クライスとあたしはキスを続けたまま、濡れた服を脱ぎ去っていった。
 
 そして、その場に横になったクライスがあたしの身体をその上に乗せる。
 ああ・・・クライス・・・アンタも感じてるの?
 あたしはスッゴク感じちゃてるよ、すぐに来て!
 
 クライスはあたしを下から激しく突き上げて、あたしはかなり大きな声を上げちゃったけど嵐に掻き消されてクライスにも聞こえたかどうか解らない。
 ぐったりとクライスの身体に倒れこむと、そっとあたしの身体にクライスの腕が回される。
 
 悔しいけど、愛してるのよクライス。
 アンタが死んだと思った時、あたしはもう生きていられないと思っちゃったんだから。
 
 アンタだって少しくらいはあたしの事、好きでしょう?
 ここに居る間だけだって一緒に居られるよね?
 夜だけだって構わないからさ。
 
 
 
 
 
 嵐の中、外で抱き合っていた私達は、我に返った時、灯台の中に駆け込んで身体を拭いて冷えた身体を温かい飲み物で温めなくてはならなかった。
 自分の中にこんな情熱的な部分があるとは信じられなかったが、嵐の中で私を待ち続けていた彼女を思うと堪らなかった。
 
 きっと、降り頻る雨の中で膝を抱えて海を見ていたのだろう。
 たった一人で。
 
 そんな彼女が愛しくて、この手から離したくなくて衝動的に抱いた。
 彼女も私を愛してくれている・・・もう放したくない。
 
 だが、今の彼女に、私と一緒にここを去る事が出来るだろうか?
 まだ過去の傷が癒えない彼女に。
 
 「ねぇ、今日のディナーは何?」
 彼女の言葉に思わず苦笑が漏れる。
 
 「残念ながらありませんよ、まだ作っていないんです。戻る途中で立ち寄りましたから・・・そうですね、ここにあるもので何か作ります」
 あまりロクな材料はなかったはずだか・・・なんとかなるだろう。
 
 キッチンに立って数ある缶詰から使える物を開けていると、彼女が私の後ろから抱きついて来た。
 「このままじゃディナーは出来上がりませんよ」
 
 私の着ているバスローブ越しにシャツを一枚だけ着た彼女の胸が押し付けられて、益々抱きつく腕の力が込められる。
 「このバスローブはあたしのだもん」
 
 「じゃあ、脱いでお返ししますか?」
 からかうように訊ねると
 
 「そうね、2階に上がるまでは貸してあげるわよ」
 クスリと笑って螺旋階段を上り始めた。
 
 やれやれ・・・食事は要らないんですかね。
 そう思いながらも私は彼女の後を追って階段を上った。
 
 ベッドの傍らでシャツのボタンを外していた彼女の肩を、トン、と押してベッドへ放り投げる。
 「キャッ!なにすんのよ!」
 
 投げ出された彼女は怒っていたが、ベッドの上でボタンの外れたシャツを着ただけで起き上がろうとしている彼女の姿はとても煽情的で魅惑的だった。
 私は自分の作り出した絵画に暫く見惚れていたら、怒った彼女に腕を引っ張られて立場が逆転させられた。
 
 「ふ〜ん、だ。おあいこよ」
 澄ました顔をする彼女をベッドに引き入れて抱きしめるとクスクスっと笑う。
 
 出会った最初の時、怒ってばかりいた彼女は笑うと可愛い・・・笑顔が彼女に一番似合うと思う。
 彼女の頬に唇を滑らせて、彼女の耳を軽く食んで、クスクス笑い続ける彼女に優しく触れ続ける。
 このまま・・・ただ笑っていて欲しいけれど・・・
 
 「マルローネさん・・・もう絵は描かないんですか?」
 私の言葉に彼女の笑い声が消える。
 
 
 
 
 
 あたしはその言葉にウキウキとした楽しい気分が凍りついたような気がした。
 「どうして・・・」
 判ったの?
 
 「上の部屋を拝見しまして・・・あれはシア・ドナスタークさんの肖像画ですね」
 そっか・・・そうだよね。
 随分と新聞や週刊誌に取り上げられたもんね。
 
 「そうよ・・・あれはあたしが描いた唯一の肖像画なの」
 シアが生きていた頃に描いた。
 たった一枚だけの。
 
 「もう描かないんですか?」
 そうよ!
 
 「だって・・・もう描けないんだもん・・・あ、あたし・・・あたしはシアがいたから描き続ける事が出来たのに・・・」
 シアはもういない・・・
 
 クライスは泣き出したあたしを優しく抱きしめて、宥めるように軽く肩を叩いた。
 「絵を描かずに、ずっとこの灯台で一人で眠り続けるお積りなんですか?」
 それがどうしていけないの?
 
 「アンタなんかにあたしの気持ちなんて判んないわよ」
 反論するあたしの声は小さい。
 
 シアの事を思い出す度に辛くて辛くて涙が込み上げてくる。
 絵筆を持てば、その重さに耐え切れなくなって持ち続けている事すら出来ない。
 励ましてくれる人がいなくなったのに描き続ける事に何の意味があるの?
 どうすればよかったって言うの?
 この苦しみは誰にも解りはしない。
 
 「私も・・・私にもホンの少しですが貴女の気持ちが解ると思いますよ」
 どうして?
 
 「私も両親を事故で亡くしましたから・・・先月の事でした」
 そう・・・それで。
 だから一人になりたかったの?
 
 「この年になっても親に死なれると辛いですからね・・・周りが煩くて逃げ出してきた私が偉そうに言える事ではありませんが、ここで貴女がいつまでも友人を悼んで泣き暮らしていれば彼女は生き返ってくるんですか?彼女が喜ぶとでも?」
 そんな事、今まで何度も言われたわよ!
 あたしは・・・
 
 「あたしはホントはシアの為に泣いているんじゃないわ・・・自分が辛いのよ・・・あたしがシアの不在に耐えられないの」
 そうよ、あたしは自分を悼んでいるの。
 それじゃダメだって判ってるけど、ダメなのよ・・・
 
 「彼女の代わりには誰もなれないと、そう仰るんですね?」
 そうよ。
 
 「私でも?私では代わりになれませんか?マルローネさん」
 アンタが?
 
 「私は貴女を愛してますよ、マルローネさん。多分、貴女が不機嫌な顔をしてこの灯台のドアを開けた時からずっと・・・」
 あたしは優しくあたしの涙を拭って、あたしの髪を梳くクライスの手に触れた。
 
 嬉しいよ、クライス。
 あたしもアンタのこと、愛してるから。
 
 「だから、私と一緒にここを出て、ボストンへ来て欲しいんです。私の住む場所に、家へ」
 ボストン!!
 
 「私はボストンで弁護士をしていますから、休暇が終われば戻らなければなりません。この1ヶ月の休暇が終わったら貴女とお別れしなければならないなんて私は嫌なんです」
 クライスはあたしの肩を強く掴んで言うけど。
 ボストンだなんて・・・ダメ!ダメだよ。
 
 「あ、あたし・・・あたしは人が大勢いる所には行きたくない・・・」
 行けないよ。
 
 「私がこれから貴女の側にずっと居ます。とお約束してもダメですか?」
 首を振り続けるあたしにクライスは優しく囁く。
 
 「クライス・・・そう言ってくれるのはスゴク嬉しい・・・けどダメ・・・」
 ダメなの、ダメなのよ・・・
 
 クライスはその後、黙ってあたしを優しく抱き続けていてくれた。
 あたしは次第にウトウトと眠くなって眠ってしまった。
 
 
 
 そして目が覚めるとクライスは居なくなっていた。
 帰ったのかな?
 
 でも、その夜、クライスは夕食を持って訪れる事はなかった。
 次の日も、その次の日も・・・
 クライスか灯台を訪れる事はなかった。
 
 クライスが借りている、シェンクさんの家に行ってみたけど、誰も出ない。
 クライスはいないんだ・・・ボストンに帰っちゃったのかもしれない。
 
 自分で拒絶したクセに落ち込むなんておかしいよ。
 でも、まだ3週間は一緒にいてくれると思ってたのに・・・
 
 クライスは真面目に本気であたしと一緒にいたいって言ってくれたのに、それを断ったからもう会わないつもりなのかな?
 別れを待つだけの関係が嫌になったのかな?
 
 食糧がもう底を突き始めて来てる。
 町に買出しに行かなきゃ。
 でも起き上がれないよ。
 
 空腹を抱えたまま、あたしはまた眠りに就く。
 この灯台はあたしの孤独なお城。
 あたしが眠り続ける事を誰も邪魔したりはしない。
 
 
 
 あたしは暗闇の中で膝を抱えて眠っている。
 安らかで穏やかで何者にも冒されないあたしの聖域。
 
 だけど突然、扉が開いて光が差し込んでくる。
 そこに立つ一人の影・・・
 
 クライス!戻ってきてくれたの?
 側に誰か居るの?誰?
 
 待って!どうして行っちゃうの?
 あたしのところに戻って来てくれたんじゃなかったの?
 
 クライスは知らない女性の肩を抱いて光の向うへと歩いて行った。
 そしてまた扉は閉ざされ、闇が訪れる。
 
 あたしは一人で暗闇の中に取り残される。
 膝を抱えて座り込む事も出来なくなって泣き崩れるだけ。
 
 
 
 こうなる事は判っていた筈なのに、どうして涙が出るの?
 でも、夢だと判っていても辛いよ。
 
 クライスの事を好きになったのがいけなかったの?
 それとも、クライスについていけないあたしがいけないの?
 
 どっちも正しくて、どっちも間違っている・・・
 ううん!やっぱりクライスについていけないあたしが悪いんだよ。
 
 だって、あたしったらすっかり忘れてたじゃないの。
 クライスが死んじゃったと思った時、あたしも死んじゃおうか?って考えた事を。
 
 シアの事を思い出そうとしたって・・・
 ホラ、手は震えるけど、涙は出なくなったよ。
 
 スケッチブックを持って町に出てみようか?
 食糧を調達して、雑誌を買って・・・でも、この町なら今まで何度か来てるし。
 
 教会をスケッチしてみる?
 この町の教会は小さくて古びているけど、正面のドアが重厚そうな歴史を物語っているじゃない?
 
 ペンは一度、走らせると思っていたよりも良く動いた。
 何枚か描いているうちに、気付けば教会じゃなくてクライスの顔を描いてる・・・
 
 休暇中のクセにワイシャツを着てばっかりいて、シャープなプラチナブロンドにメガネの奥は鋭い目付き。
 でも笑うと印象がガラッて変って・・・笑顔が可愛い。
 
 あたしはスケッチのペンの動きを止めた。
 スケッチブックのクライスの顔に涙が落ちる。
 
 ダメじゃない!
 折角、シアの事を考えても涙が出なくなったのに、クライスの事を思い出すだけでまた涙が出るようじゃ。
 
 でも、クライスはシアと違って生きてる。
 会おうと思えば会いに行ける筈だわ!
 
 もう会いたくないってクライスに言われたら?
 その時はその時考えればいいじゃないの!
 
 でも、ボストンまで行けるの?
 あそこは都会なんだよ?
 
 だ、大丈夫よ・・・大丈夫。
 たぶん・・・
 
 あたしはよろめきながら立ち上がって自分のジープに向った。
 まずは買い込んだ食糧で食事をして『規則的な食生活』をしなきゃね。
 
 
 
 灯台に戻ると見覚えのある車が止まってた。
 これって・・・クライスの車じゃない?
 
 ドアを開けると、クライスが座っていたイスから立ち上がった。
 「よかった・・・心配してたんですよ。でも、今度は車がなかったから出掛けているんだと思って」
 
 また来てくれたんだ・・・嬉しい。
 「もう・・・来ないのかと思ってた」
 だからなおさら嬉しいよ。
 
 「来れなかったんですよ、急な仕事が入って戻る羽目になりまして。電話をしようとしたんですが、番号を知らなかったし、急いでいたので書置きも出来なかったんです。電報も考えたんですが、ここの正式な住所も知りませんでしたから。それよりも仕事を早く片付けようと思いまして。ちゃんと食事をしましたか?」
 あたしは持っていた紙袋を持ち上げた。
 
 「これから作るトコよ」
 あたしだって料理くらい・・・缶詰を温めるくらいは出来るんだから。
 
 「それは・・・スケッチブックですね?描き始めたんですか?」
 クライスがそう言ってあたしの持っているスケッチブックの中身を見ようとした。
 
 「ダメ!」
 見せらんないよ!
 クライスの顔のスケッチなんて。
 
 「あの・・・まだ勘が戻ってないし・・・人に見せらんないもの」
 そう言って誤魔化す。
 
 「そうですか?でも、描き始めたんですね?」
 クライスはそう言って優しいキスをあたしの頭の天辺にしてくれた。
 
 「ああ・・・マリー、貴女に会えない5日間は辛かったです」
 クライスはあたしをギュッって抱きしめてくれた。
 あたしも・・・すっごく辛かったよ、クライス。
 
 「まずは食事にしましょうか?さすがに今日は作る事が出来なくてチーズとハムを買ってきただけなんですが」
 それよりもクライス。
 
 「あたしはアンタの方が欲しいわ」
 だって、もう二度と会えないかもしれないって思ってたんだもん。
 だから、あたしの胃袋よりも心の餓えを満たして欲しいの。
 
 クライスはクスリと笑うとあたしを抱き上げて螺旋階段を上り始めた。
 「痩せたんじゃないですか?やっぱり食べてなかったんでしょう?」
 
 だって
 「アンタがあたしに美味しいものを食べさせるから、口が肥えちゃったのよ」
 だから、あたしを満腹にさせてね。
 
 「呆れた人ですね。私はコックじゃありませんよ」
 違うわよ。
 
 「これからずっとあたし専用のコックになってくれないの?」
 側に居てくれるって言ってたでしょ?
 
 あたしの言葉にクライスは驚いた顔をした。
 「これからずっと・・・ですか?」
 
 「そうよ」
 
 「ああ、マリー・・・後悔させませんよ、きっと」
 クライスはあたしを抱きしめてからベッドの上に降ろすと、あたしに覆い被さって来た。
 
 そう・・・まだ平気かどうか判んない。
 都会の人込みに出て行く事や、また絵が描けるかどうか。
 たくさんの人に囲まれるのはまだチョット怖いし。
 
 でも、たぶんきっと、乗り越えていける事が出来るはず。
 クライスを失う事に比べたら。
 
 「ああ、クライス・・・もっと・・・」
 そうよ、この温もりが二度と手に入らない辛さに比べたら、きっと大丈夫。
 
 クライスに抱かれて、その思いを受け止める事が出来て、愛撫に彼の思いを感じて、それを返す事が出来る。
 それはとても幸せな事だと思う。
 
 
 
 「マリー、私も仕事場を変えようかと思うんです。もっと静かで落ち着いた場所に。ここほど静かな場所は無理かもしれませんが」
 クライスの言葉にあたしは驚いた。
 
 「・・・あたしのため?」
 そんな事されたら・・・させたら悪いよ。
 
 「いえ、前から考えていたんですよ。私にも両親の遺産が入ったので自分の事務所を持って独立しようとは。それが別にボストンじゃなくても構わないと思うようになっただけです」
 ホント?ホントに?
 でも・・・
 
 「無理しないで」
 して欲しくないよ。
 
 「貴女と一緒に暮らす事を考えるのは私にとって無理な事ではありませんよ、マルローネさん」
 クライスはそう言ってあたしを抱き寄せる。
 
 「貴女にはそれだけ私にとっては価値のある女性だという事です」
 そう?
 
 クライス、アンタだってあたしにとって価値がある男性なんだよ。
 このあたしが、再び絵筆を持って人込みに出て行こうという思いにさせた人なんだからね。
 
 
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