翠玉の季節の中で 番外編 an auroral angel 3 |
ちゃぷん。 微かに聞こえた物音。あれは、あの音は・・・・。 俺はすぐさま浴室へ向かった。 ばしゃ。 確かに聞こえるのは水音だ。 俺が洗面所のドアを開けるとちょうど浴室から出てきたとしあきがいた。 「あ、おかえりなさい。」 にっこりと笑みを浮かべてとしあきが言う。 いきなりドアが開いて素っ裸を見られたにも関わらず、としあきは平然としていた。むしろびっくりしたのは箭内の方だった。 「あ・・・ああ。ただいま。」 「お風呂に入ってたから帰ってきたのわかんなかった。あ、Tシャツ借りるね。」 としあきはそう言いながら身体を拭き始めた。 華奢な身体。スラリとした手足。肌は白く艶やかだ。女だってここまで綺麗な肌をしているのは少ないだろう。 「!」 俺は驚愕で息を呑んだ。 ちらっと見えた背中にはその美しく白い肌にそぐわない生々しい傷痕があった。はっきりとは見えなかったが鋭い刃物か何かで切られたようなその傷は、右の肩甲骨辺りから左の脇の下とウエストのちょうど中間部分へ斜めについていた。 どうしてこんな傷を? 身体を拭き終わったとしあきは箭内のTシャツを着る。彼には少し大きい。 黙り込んだ俺を不信がったのか、としあきが声をかける。 「どうかした?」 濡れた髪からはぽたぽた雫が落ちている。 「いや。・・・・ほら、髪ちゃんと拭かないとまた熱出るぞ。」 「うん。」 としあきは素直に答えると、タオルでごしごしと拭いた。 「ねえ、・・・」 「ん?」 「お腹すいた・・・・」 やっぱり・・・・。そう来ると思ったよ。 「わかった。美味いもん食わせてやるよ。」 無邪気な顔で見つめてくるとしあきを俺は愛しいと思い始めていた。 俺の腕の中でとしあきは静かに眠っている。 今晩もベットを譲りソファーで寝ようとしていた俺に、一緒に寝てくれと頼んだのはとしあきだった。としあきがいくら華奢だからといっても男2人がセミダブルベッドで眠るのだから余裕は無い。病み上がりの彼をゆったり眠らせてやりたかったが、としあきの涙を溜めての懇願に俺はそれ以上何も言えなかったのだ。 安らかな寝顔。 闇の中に浮かび上がるそれはいつしか俊彰のものへと変わっていった。 あの人はこんな風に眠ったことがあるのだろうか。 誰かの腕の中で、穏やかな心で素直な心で。すべてを預け、心の底から満ち足りた表情を晒したことがあるのだろうか。 いや、あったはずだ。そうでなければ説明がつかない。 だからこそ彼は諦めたのだ。心に固く誓ったのだ。・・・もう誰も愛すまいと。 俺は堪らない気持ちになった。としあきを起こさないように静かに起き上がると、カーテンを僅かに開けた。 女の爪のような細い三日月が僅かな光を照らしている。 凛として儚い姿。傷つくことを怖れて強がる心。本当の彼に近づこうとすれば、己を守る為に彼は侵入者に容赦なく牙を剥くだろう。例え、ずたずたに切り裂かれようとも、喉を食いちぎられようとも俺は構わないのだ。むしろ、彼になら殺されても構わない。しかし、実際は俊彰のほうこそが相手を傷つけたことを深く悲しみ自分を責めるだろうことは目に見えている。俺はずっとあの人を見てきたんだ。あの人がそういう人間だということは解っている。解っているから、彼を苦しめたくないから、俺は自分を抑える。もっと近づきたい、自分だけのものにしたい、その欲望を殺すのだ。 『自分を信じなさい。』 幼い俺の手を引いて銀杏並木を歩きながら、母は言った。 『秀はしっかりしたいい子よ。だからひとりでも大丈夫ね。』 秋風が俺達の間を吹きぬけていった。黄金色に色づいた葉を巻き上げる。 この時母は己の最期のことを考えていたのだろうか。 やさしい笑顔でそう言った母を俺は見上げた。 だが、次の瞬間、その母親の顔はとたんに女の顔になった。ルージュを引いた艶やかな唇が動く。 『愛情は恐ろしいわ。愛する気持ちは決して美しいだけのものじゃない。その想いが強ければ強いほど、憎しみに変わる反動も大きくなるの。』 悲しげに睫毛を伏せながら呟く母は、俺に彼女が母親である前にひとりの女だということを改めて感じさせた。 なぜ、母はあんなことを言ったのか? 母は感じ取ったのかも知れない。息子の中にも自分と同じ禍々しい激情の火種が燻っていることを。 ベッドを振り返り静かに眠るとしあきを見た。 うっすら月光に照らされたその姿は神秘的だ。と、としあきの姿がすうっと薄くなり青白い闇に溶けていくように見えた。俺は急いでベットに駆け寄った。 「おい!としあき!」 思わず叫んだ。 揺り起こそうと肩を掴もうと差し出した手は彼の肩があった位置で空を切った。 なに? 驚いて自分の手を引っ込める。 としあきを見るとさっきと変わらず眠っている。先程のように薄くなってもいない。もう一度手を伸ばすととしあきの暖かな身体に触れた。 一体なんだったのだろう。確かに一瞬透き通って見えた。触れることもできなかった。あれは俺の錯覚、思い違いだったのか? 「う・・・ん。」 としあきが目をこすりながらこちらを見た。 「どした・・・の?・・・なんか怖い顔してるよ。」 「・・・なんでもない。それより、起こして悪かった・・・・。」 ゆっくり手を伸ばし、彼の髪を梳いてやる。 大丈夫。ちゃんと触れられる。としあきは確かにここに存在している。 「ん・・・・」 「俺も寝るよ。」 そう言ってベットに滑り込んだ。としあきは俺に擦り寄ってくる。 その暖かい身体をぎゅっと抱きしめながら、俺は静かに目を閉じた。 |
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