翠玉の季節の中で 番外編

an auroral angel 4







母は俺を女手ひとつで育てた。
俺達は小さな田舎町でひっそりと慎ましく暮らしており、そこで俺は少年期までを過ごした。今でこそ母子家庭はそう珍しいことではないが、当時、しかも田舎ではそうではなかった。しかも、俺は私生児だ。
母は決して父親が誰かということは話してはくれなかった。俺達の家庭では父親の話題はタブーだった。ただ、一度だけ。たった一度だけ母に訊ねたことがあった。それは保育園で父の日に父親にプレゼントするために似顔絵を書かねばならなかった時のことだ。園児達はそれぞれ思い思いにクレヨンで父親の顔を描き出す中、俺だけが画用紙に何も描けなかったのだ。その時の俺はあまりにも幼すぎて、そもそも父親というものが何なのか理解できていなかった。みんなの家にはなぜ男の人がいるのか、その頃はそれが疑問だった。
「まーくんにも、みっちゃんにも、み〜んなに”おとうさん”っていう男の人がいるんだって。何でいるの?それってなあに?・・・何で僕の家にはいないの?」
俺の疑問に母は何て答えたんだっけ?・・・・ああ、そうだ。母は何も言わなかった。ただ黙って俺を抱きしめたのだ。母は泣いていた。目からは雫が止め処なく溢れていた。そして抱いていた俺から離れる時に一言だけ母は言ったのだ。
「・・・・ごめんね。」と。
俺の言葉が母を悲しませたことはすぐにわかった。俺は幼いながらに心に誓った。これからは”おとうさん”というものについては絶対に話してはいけないということを。母が悲しそうに泣くようなことはしたくなかった。その時俺ができることはそれだけだと思ったのだから・・・。
父親が誰なのか・・・・母が死んだ今となっては永遠に真実を知ることはできない。ただ、母の遺品の整理中に見つけた一枚の写真がたったひとつの手がかりであった。その写真は母が愛読していた本に隠されるように挟んであった。大学生時代にキャンパスで写したものだろう。テキストを抱えた母を真ん中にして両側に男が2人写っている。一人は全然知らない男だ。もう一人のほうは・・・・。





その日、母の葬儀は静かにとり行われた。たった一人の身寄りを無くしてしまったまだ中学生の俺を不憫に思った近所の人たちがすべて取り仕切ってくれた。こうした点は田舎の美点なのだろう。
参列者が帰った後、俺はひとり母の遺影の前に呆けたように座っていた。薄情だという人もいるかもしれないが、俺は涙も出なかった。ただただ不思議な思いだった。昨日まで生きていた人間が、物を食べ、話し、動いていた人間が心臓が止まり、身体が冷たくなってそれっきりもう二度と動かなくなるのだ。
母はもういない。
いつものように一緒に過ごすはずだと思っていた、あまりに当たり前すぎて疑いもしなかった今日にも明日にも明後日にも、もう母は存在しないのだ。
そんな俺に声をかけてきた人物がいた。
「秀くんだね?」
声のほうを振り返ると見たことも無い男が立っていた。年齢は母と同じくらいだろうか。落ち着いた声の主は俺の隣に腰を下ろした。俺が黙っていると男は静かに話し始めた。
「私は二階堂という者で、君のお母さんとは昔馴染みでね。・・・随分お世話になったんだよ。・・・でも、ある日突然連絡が取れなくなってしまってそれからはずっと会っていなかったんだ。ここに住んでいるってことを聞いたのでやっと会えると思った矢先だったんだ。・・・本当に残念だよ・・・。」
男はそう言うと俯いて膝の上に載せていた両手の拳をぎゅっと握り締めた。その姿はなぜもっと早くにと自分を責めているようだ。
俺は何と言っていいのかわからずに、ただ黙ってその様子を見ているだけだった。
男はふっと顔を上げ、俺を見た。
「・・・これからどうするんだい?親戚の人にお世話になるんだろうか?」
「いえ、今まで母は親戚との交流はありませんでしたので。これからのことは明日担任の先生と相談することになっています。」
俺の口から抑揚のない声が発せられた。自分の声なのにまるで他人が話しているようなそんな感じがした。
「・・・じゃあ、どうだろう。秀くん、うちへ来ないか?君の面倒を見させてほしいんだ。」
男の突然の申し出に俺は心底驚いた。いくら俺だって自分の立場は弁えている。
「気を使って下さって嬉しいですが、そんなことまでしていただくわけにはいきません。」
「お願いだ。君の手助けをしたいんだ。させてくれないか。・・・君のお母さんへの恩返しの意味でもあるんだ。この通りだ。」
男はそう言うと深々と頭を下げた。こんな子供に頭まで下げて頼み込むには何か余程の理由があるとしか思えなかった。
さらに、俺は先程から不思議な感覚に捕らわれていた。今まで俺は他人に対して警戒心を根強くもっており、そう簡単に打ち解けることはなかった。幼い頃から父親がいないことで何度もいじめられたりして辛い思いをしてきたのだ。子供とは残酷だ。親たちが話している雰囲気からわかるのだろう。俺の家庭が自分達と違う、つまり”普通ではない”ということが。親達は俺の家庭をそういう風に見ているってことだ。仲の良かった子達も次の日には俺をいじめる側にいた。他人は信用できない、気を許してはいけない、そうずっと思ってきた。そんな俺が初対面であるはずのこの男に強い確信を持ったのだ。この人を信じれば大丈夫だと。理由などなかった。ただ俺自身がそう感じたのだ。母の言葉が脳裏に甦った。
「・・・どうぞ、頭を上げて下さい。・・・わかりました。そこまで仰っていただけるのなら。こちらこそよろしくお願いします。」
自分でも子供らしくない、可愛げのない言い方だと思った。だが、これは俺が他人から自分を守る為に身に付けた鎧だった。成績優秀で落ち着いた大人っぽい少年を演じ続けた。誰にも付け入る隙を与えないように。
男は漸く頭を上げると俺を見て言った。
「ありがとう。秀くん。・・・・君はお母さんによく似ているね。」
「・・・母は昔のことはほとんど話してはくれませんでした。母とはどういう知り合いだったのか教えていただけませんか?」
二階堂は俺の思いがけない問いに驚いた様子だった。
「・・・君のお母さん、江梨子(えりこ)さんとは大学が一緒でね。同じサークルだったんだよ。江梨子さんはとても綺麗な人でね、男達の憧れの的だった。読書の趣味も私と似ていて、よく本を貸してくれたよ。」
二階堂は目を細めて懐かしそうに母の遺影に目をやった。灯っている蝋燭の炎の向こうに過ぎ去った眩しい景色が映し出されるような感じがした。





こうして俺はこの二階堂という男の援助を受けることとなった。
俺は彼の家の近くにアパートを手配してもらいそこで暮らし始めた。それが彼の援助を受ける上でのたったひとつ俺が強く希望した条件だった。二階堂には妻子がいて家庭があった。俺はその中に割り込んで暮らすことはできないと思った。きっと身につまされる思いを感じるだろうことは目に見えていた。だから、あえて一人を選んだ。一人でやってみせるという意地だけがあの頃の俺を支えていた。
二階堂の援助は金銭的な部分はもちろんのこと、厳しい現実社会を生き抜いていくための手段、企業人としてビジネスのノウハウも彼から学んだ。二階堂は情報化が進む世相の中で経営するコンピューター会社を彼独自の手腕で大成功させており、経営者としての能力をいかんなく発揮していた。
彼は息子の俊彰と共に俺にビジネス的思考や経営などを教え込んだ。
どういうつもりなのか俺にはわからなかった。
まさか・・・。ふと頭をよぎった考えにドキリとした。いや、在り得ないことではない。
・・・だが、俺は追及することをやめた。
当事者がずっと隠し通してきたことをわざわざ暴くことは躊躇われた。しかも、母は己の死の間際にすら口にしなかったことなのだから。
残されたたった一つの手がかりの写真をもう一度見る。そこに写っている男2人のうちの一人は二階堂であることは間違いなかった。









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