翠玉の季節の中で 番外編 an auroral angel 6 |
としあきは消えた。 何の前触れもなく、箭内が目覚めると既に彼の姿はどこにもなかった。 箭内は何となく気がついていた。いつかこういうときが来ることを。それは彼と出逢ったあの夜から・・・。 ただ、箭内の身体には彼を抱いた感覚がはっきり残っている。彼の肌の感触や匂い、そして彼の熱さ・・・。 箭内は床に放り出されたままになっている彼の脱ぎ散らかしたTシャツを手に取って思う。決して夢などではない。昨夜まで彼は確かに存在し、ここで一緒に暮らしていたのだ。 「なんてことはない。また今までの日常に戻るだけだ・・・」 箭内は己に言い聞かせるように呟く。 ズキリと胸に痛みを感じたが、悲しくはなかった。 美しい片翼の天使は夢ではなかった。・・・あれは幻だったのだ。 箭内自身が強く強く望んだものが具現化されたのではないか。俊彰を想い続け、冷静の仮面の下にずっと秘められ押し込められてきた激情が堰を切って溢れてしまった結果なのだ。 無邪気で従順ですべてを曝け出してくる・・・そんな自分に都合のいい想い人を箭内は作り上げたのだ。己がすべてを懸けて生涯愛することを心に誓った「二階堂俊彰」という人間を自分のエゴで捻じ曲げたのだ。 なんと愚かで浅ましいのだろう。 だが、そんな自分の浅ましさに呆れながらも、己がそれほどまでに彼を愛し続けていることを恋焦がれ欲し続けていることを思い知らされたのだった。 シーツの波間で互いの裸体を絡まり合わせる。箭内の容赦ない愛撫は俊彰を追い詰める。熱い吐息と艶やかな喘ぎに満ちていく部屋で二人は互いに高め合い快楽の淵へと堕ちていった・・・。 情事の後、箭内はいつもそうするようにベッドヘッドに凭れかかりマルボロをふかしている。そんな箭内を俊彰は寝そべったまま見上げ、さっきまで自分を快楽に酔わせ散々弄んだその細く長い指がしなやかに動くのを見つめるのだ。 と、違和感が再び湧き上がり俊彰を戸惑わせる。 何があった?・・・そう訊ねようと口を開きかけた。だが、俊彰はなぜかそれを言葉にすることができなかった。 自分の不在中に何かがあっただろうことはすぐに予想がついたが、箭内に聞くことはできないでいた。 今日の夕刻、予定より1時間遅れで帰国した俊彰は空港へ迎えに来ていた箭内に会うと彼に何ともいえない違和感を感じたのだった。自分がアメリカへ発つ前の彼とは何かが違っているように思えた。違和感を纏わりつかせた箭内は、哀愁が漂いどこか諦めたような悟ったような目をしていた。 箭内は俊彰が知っている中で最も優秀な男だ。頭の回転が速く気が利く。仕事に無駄がなく類まれな判断力と分析力は、経営者として発揮されるべきではないのかと俊彰は思うのだ。だが、彼は専務秘書として常に俊彰を、時には父親である社長を完璧にサポートしている。箭内の家庭の事情から彼を引き取った父親はまだ少年の彼の中にある素質を見抜いていたのだろうか。だから息子である自分にするのと同じように経営者としてのノウハウを叩き込んだのだろうか。 初めて彼に会ったのは中学の時だった。その頃から彼は変わっていない。常に冷静で理論的で自分の感情を決して表に出すことはほとんどなかった。実年齢より大人びていた怜悧な容貌は感情が出ないために冷たく見えることがしばしばであった。だが、俊彰は気がついていた。そんなポーカーフェイスを崩すことのない箭内だが、彼の目だけがいつも激情を湛えていることを。顔色ひとつ変えないときであっても、激しい感情の渦がその冷たそうな身体の奥底に隠されていることを。 「明日は休暇でしたね。」 箭内は2本目のマルボロに火を点けながら言った。 「・・・ああ。今回は親父とずっと一緒だったから余計に疲れた。」 深いため息と共に吐いた言葉に箭内は少し笑いながら言う。 「親子水入らずでよかったじゃないですか。社長はとても楽しまれたと思いますけど。」 「・・・おまえ、完全に面白がってるな・・・。」 からかうような箭内の言い方が気に障ったのか、俊彰は鋭い視線を投げた。 「とんでもない。・・・専務はいつも社長を避けてらっしゃるので、社長はお寂しいんですよ。専務も本当は気がついているでしょうに。・・・」 そんなことを言う箭内にまた反論をしようと口を開きかけた俊彰に箭内の呟きが聞こえた。 「・・・・父親というものはどういう気持ちで息子と接するんでしょうね・・・・。」 箭内が母親とたった二人で苦労して幼少時代を過ごしたことは、彼を引き取ることが決まったときに父親から聞かされていた。彼は自分の父親の顔も名前も知らずに育ったということも。 彼が引き取られてきてまだ間もない頃、俊彰は箭内に言われたことがあった。 『今後こちらでお世話になります。私の家庭の事情は既に聞いていると思いますが、私のことはどうぞお気になさらないで下さい。小さい頃は母子家庭のためいろいろありましたが、今は全く気にしていません。周りが思っているよりも当の本人はそれほど気にしていないものなんですよ。』 そう言って彼はうっすら微笑んだ。 その時、俊彰は箭内に対して憐れみを含んだような視線を投げていたのではないかと自分が心配になった。彼ははっきりと言い切った。自分のことなどいないものと放っておいてくれ、箭内はそう望んでいた。突然母を喪い天涯孤独の身で厳しい社会に取り残された少年が言うには相応しくない言葉だった。本当は彼はたった一人で生きていくつもりだったのだろう。だが、彼は未成年でまだ義務教育中でそれは不可能だということも聡明な彼は充分わかっていたのだ。だから、俊彰の父の援助を受ける決心をしたのだろう。そうでなければ援助などきっぱり断る男だ。 箭内はマルボロを灰皿に押し付け揉み消して、俊彰に目を向けた。箭内を見上げていた俊彰と目が合い二人の視線が絡まり合う。俊彰は箭内の瞳の中にあの激情の炎を見つけた。その瞬間ゾクリと身体中を収まりつつあった先程の快感が駆け抜けた。俊彰の中の快楽への扉が再び開き始めたことを悟った箭内はすかさず俊彰へ覆い被さる。 「時差ぼけの上司に対して随分な労わりようだな?」 箭内に悟られた羞恥から俊彰は皮肉っぽく言った。 「明日は休暇を取られているんですから問題はないでしょう?適度の運動をしてからごゆっくりお休み下さい。」 そうぬけぬけと言い切ると、俊彰の首筋に唇を這わせ始める。 快楽の波は徐々に大きくなり、遂にはうねりとなって俊彰を飲み込んでいった。 この箭内の心を揺り動かすほどの出来事が何であったのか知りたくないわけではなかったが、自分は知らないほうがいいと俊彰は思う。 高まる快感。薄れゆく意識の中、箭内の小さな囁きが耳に届いた。 「愛しています。・・・これからもずっと・・・・。」 意識を手放す瞬間、俊彰は無意識にその言葉に答えようと口を開いたがそれは箭内の熱い口づけに吸い込まれた。 『ああ。知っている・・・・』 おわり。 |
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ここまでお付き合い下さってありがとうございます! 当初は2〜3話くらいで終わらせる予定がここまでになってしまいました・・・。 今回の番外もやっぱりいじり易い箭内を中心に展開させてもらいました。 これから一生報われない愛に耐えていかなければならない箭内が少し不憫に思えまして、つい親心を出してしまいました。「箭内。ひとときだったけどいい思いができてよかっただろう?」ってな感じですかね。 それと、片翼の天使ってのも書いてみたかったんです。完璧ではないというか、手負いというか・・・。多分、私自身の中にある何かのメタファーとしてそのイメージが浮かんだと思うのですが、自分でもわかりません。(笑) |
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