翠玉の季節の中で 2 |
儚いほど美しい笑顔で、彼は「とおる」と呼んだ。
切なげな表情に俺は胸が締め付けられそうになった。 彼のその呼びかけにはいったいどれほどの思いが詰まっていたのだろう。 愛しさ、切なさ、不安げで縋るような感情。 いったい誰だ?”とおる”って奴は。 *** 廊下で渡辺先生に呼び止められた。 「先日はご苦労様でした。」 俺が運んだあの生徒は極度の疲労で風邪が悪化した状態だったらしい。 その後学校に出てきた彼は、渡辺先生の所にお礼を言いに来たそうだ。 ちぇ、保健室まで抱いて運んだのはこの俺なのに。ぶつぶつ・・・。なんで俺んとこには何もないわけ? もちろん、そんなこと思ったなんておくびににも出さない。 「そうですか。そういえば、彼はどこのクラスなんですか?」 「2年1組ですよ。秋月紘(あきづき・ひろし)という生徒です。見たことありません?」 「いいえ、この前初めて見ましたよ。1組の授業はあの時まだやっていませんでしたから。それにしてもあの子なんていうか・・・一度見たら忘れられませんね。」 渡辺先生はくすっと笑うと、からかうように言った。 「そうでしょう。あんなに綺麗な子そうはいませんからねぇ。」 「はぁ。」俺は返事に困ってしまい、曖昧に答えた。 そうか、1組の子か。あの時倒れていなければ、翌日の授業で会ったかもな。 俺がこの学校にきてから、1週間が経とうとしていた。 放課後の屋上。俺はタバコをふかしていた。 ふー、やっぱ息抜きは必要だよな。やっと一人になれた。 空がゆっくり夕焼けから藍色へ変わっていく。校庭の方では運動部の掛け声が聞こえている。 俺はあの日の彼の顔が忘れられないでいた。 ”秋月紘”か・・・。 俺は彼に興味を持ち始めた。あんまりいいことじゃないが、彼の成績表などちょっと覗いてみる。 ふーん、こりゃずいぶんといい子ちゃんだな。成績もトップクラスだ。欠席がわりと多いのは、身体はあまり丈夫なほうじゃないってことか。まあ、あんなに華奢じゃ無理もないか。 俺は本来他人のことに深入りしない。他人は他人。今までそう生きてきた。 気の合う遊び友達はたくさんいるけれど、本当に心を許せる友達は何人いるだろう。いや、今まで誰にも気を許してなどいなかったのではないか? その俺が。 たった1回、しかも偶然に助けてやったガキが気になるなんて。 なんなんだ。どうかしてるぞ。 俺は3本目のタバコに火をつけた。 *** 「よし!次。次行くぞ〜!!」 「おーっ!!」 おいおい、おめーらまだ飲むのかよ・・・。 いささかうんざりしながら、ついて行く。 まあいっか。俺だってアパートに帰って寝るだけだし。金曜の夜はこれからだ。 大学の悪友が海外転勤するというので、送別会と称しての飲み会。 毎日をただおもしろおかしく過ごしていたあの時の仲間が集まった。社会の荒波に揉まれ大人になった奴らにも、息抜きは必要だ。だからといって、羽目を外しすぎるのもどうかと思うが。 三次会会場の店に向かう途中の交差点で信号待ちをしていた俺の視界にふと知った顔が飛び込んできた。 あれは・・・。 10メートルほど先の洒落たバーから俺よりちょっと年上くらいの長身の男が出てきたところだった。ビジネスマンのようだがダークスーツをきちっと着こなして卒のない仕種がなんとも言い難い優雅さを醸し出している。細いシルバーフレームの眼鏡が聡明さを一段と際立たせているが、どこか冷たい感じも見受けられた。 だが、俺の目に止まったのは彼の後ろから出てきた若い青年だった。 あれは彼だ。間違いない。 なぜか分からない。だが、純一は確信できた。 その青年は服装のせいでずいぶんと大人っぽく見えてはいるが、秋月紘に違いなかった。 2人は親しげに話しをしていた。 男が少し屈んで紘の耳元で何かを囁くと、紘はくすくすと笑う。 彼らの周りだけ時間が止まっているように見えた。 男は紘から少し離れると、軽く手を挙げ店の前にタクシーを停めた。 「純一!早く来〜い!」 その大声に紘がこちらを見た。俺に気付いた彼の表情が強張る。 俺と紘は少し離れてはいたが、お互い顔を合わせることとなった。 「じゅんいち〜!!」ああうるせぇ。この酔っ払いが。 「いま行く。」 俺がもう一度紘の方を見たときには、男が紘の腰に手を回し先に車に乗るように促しているところだった。 紘は車に乗り込む瞬間、一瞬だけ俺を見た。 俺は雑踏の中で、2人を乗せたタクシーのテールランプを見送るしかなかった。 仲間が俺を呼ぶ声が、遠くで聞こえた。
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