翠玉の季節の中で





書店近くの喫茶店。
煉瓦壁が蔦で覆われてクラシカルなイメージを醸し出している。その店はほんとに小さくてテーブルが3つとカウンター席が5つほどしかない。内装はいたってシンプルでいつもクラシック音楽が低く流れている。常連客が多いのだろう。何度か見かけたことのある客が一番手前のカウンター席でマスターと雑談していた。
俺がこの街にきて間もなく見つけた場所だ。この店の無駄のない落ち着いた雰囲気は癖になる。常連客が多いのもうなずける。
俺はマスターに会釈して一番奥のカウンター席に腰を下ろす。奥からマスターの奥さんが出てきてお冷を持ってきてくれた。
ヨーロピアン・ブレンドを注文すると早速本を開いた。じっくり読むのは家に帰ってからにして、とりあえずぱらぱらとページを捲る。
コーヒーの香りがたちこめると間もなく、お待たせしましたと傍らにカップが置かれた。
休日の午後のひととき。この小さな幸福がすべてを忘れさせてくれるといいのに。


書店から取り寄せてもらっていた本が入ったとの知らせがあり散歩がてら出掛けた。その帰りに優雅な時間を過ごしているわけだ。
あ、飯の材料買っていかなくちゃだな。何食うかな。・・・途端に現実に引き戻された。


朝はあんなに晴れていた空が臍を曲げたらしい。青空が灰色に覆われ始めているのを見上げると、俺はため息をついた。
スーパーで食料を買い込んで家路を急ぐ。家に着くまで持ち堪えてくれという俺の願いも虚しく、雨が降り出した。すぐに本を濡れないよう保護する。雨足はたちまち強くなり俺はあっという間に濡れ鼠となった。こうなってしまってはもうどうだっていいという気持ちになる。これ以上濡れたって大した変わりはない。開き直った俺は先程とはうって変わり歩調を緩めた。
アパート近くにある小さな公園に差し掛かった。と、この雨の中、人影が見えた。木の下に立っているところを見ると、一応雨宿りをしているらしい。
あの人も気まぐれ天気に振り回されたか。もう一度その人物を見た途端、俺は思わず立ち止まってしまった。


なぜだろう。
俺は自分でも気がつかない内にその人物に近づいていった。
俯いて立っている彼の髪からはぽたぽたと雫が落ちていた。シャツも濡れて彼の肌に張り付いている。
「おい。」
ばっと顔を上げた。その拍子に雫が飛ぶ。
やっぱり。
「どうした?こんなとこで。」
「あ・・・先生。」
「あ〜あ。お前もびしょ濡れだな。俺もこの通りやられたよ。」あはは・・・?
反応がない・・・。
「秋月?」
「・・・は、はい。何でもないです。」
俺ははっとした。顔色良くないかも。そういえばこいつ身体弱いようだし。このままじゃマズイ。
「秋月。行くぞ!」
秋月は酷く驚いて俺を見たが構わず手を掴んで歩き出した。その手は予想以上に冷たかった。
俺に半ば引っ張られるような格好で歩きながら、秋月はおずおずと口を開いた。
「あの・・・先生。どこに行くんですか?」
「俺んち。すぐそこだから。」

アパートへ着くとすぐタオルを取ってきて玄関に突っ立っている秋月に投げる。
「ほら、拭け。風邪引くぞ。」
俺はすぐに踵を返すと浴室へ向かい湯を張った。自分もタオルでがしがしと頭を拭いた。
びしょ濡れなのを遠慮してか、秋月はなかなか玄関から動こうとしない。
「いつまでそんなとこに居るんだ。いいからこっちにこい。今風呂準備してるから。」
「すいません。迷惑かけてしまって。」
未だに恐縮したままの秋月を浴室へ押し込むと、俺は濡れた服を着替えた。
秋月の確認もなしに強引に連れてきてしまったことを少し後悔したものの、やはりあのまま彼を放っては置けなかったと思い直す。肺炎なんて起こしでもしたらとんでもない。
間もなく秋月は風呂から上がって来た。俺のシャツは彼には少し大きい。顔はほんのり上気しており随分温まったらしい。
普段の秋月からはとても想像できないほど幼い表情を浮かべていた。
突然、守ってやりたい思いが湧きあがった。
俺は子どもにするように濡れた髪をタオルで拭いてやった。
秋月は大きい目で俺を見上げる。
「温まったか?何か飲むか?」
「いえ、いいです。お風呂まで借りてしまって・・・。ありがとうございました。」
「いいって。気にするな。それよりこっちこそ悪かった。お前の都合聞かないで連れてきて。大丈夫だったか?すまん。」
「平気です。僕のほうこそ・・・」
「あ〜、学校じゃないんだからもっとリラックスしてくれ。敬語なんて使わなくていいぞ。遠慮なんてするな。」
優等生の彼ではなく―。普段の、ありのままの彼を知りたいと思った。
「服は乾燥機に放り込んだから。少し遅くなるって家に連絡入れるか?」
おかしなことに秋月は表情を曇らせた。
「いいえ。大丈夫です。」それっきり黙りこんでしまった。
「え、でも・・・心配してるんじゃないか?やっぱり・・・」
「平気です!」
突然大きな声で俺の言葉を遮った。何か事情があるのか。
「先生!泊めて下さい!!」
ぎょっとした。まさかこんなこと言い出すとは・・・。
「お願いです・・・泊めて下さい。」
大きな瞳にはみるみる涙が浮かんできていた。
あ〜、泣くなよ。
「わかった。わかったから、泣くな。な。」
頭に手をやり、よしよしと撫でてやる。最後にぽんぽんとたたくと秋月は顔を上げ、
「ありがとうございます。」と微笑んだ。
あの日、保健室で見た微笑に少し似ていた―。







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