孤独(さみしさ)の標的 1





忙しない毎日の中であっても彼との思い出は俺の中で静かにただ静かに息づいている。
あのたった1ヶ月間の関係。
あの愛の記憶は俺の心の一部を今も占めていて、それはまるで何者にも侵されない聖域のようだ。彼の不在は俺の想像以上のものだった。失ってからわかる愛の大きさ。愛しさは日々募りとどまることを知らない。膨張していくその想いに俺は必死で耐えた。
日常のふとした瞬間、その静かで優しい想い出は急に鮮明さを取り戻し俺の全ての感情を感覚を凌駕する。
これはもう発作だ。彼が足りない。彼に飢えている。
そして。
彼しか俺を救えない。
そんなことはとっくにわかりきっていることなのに。
この想いが満たされ解き放たれることはない。もう二度と逢うことはないのだから。
翔との別離から2年の月日が流れていた―。





プルルル・・・プルルル・・・・
「はい。・・・ああ。わかった。じゃ。」
携帯電話を仕舞うとさっと今夜の予定を組み立てる。今日はコール残もないしな。
「じゃ、お先に失礼します。あ、明日は朝イチでサーバー定期点検のため客先直行しますから。お願いします・・・。」
残っているメンバーに挨拶を終えて、俺は会社を後にした。
見上げる夜空には月も無く星も見えない。
俺はポケットからキャビンを取り出しカチリと火をつけた。
以前は吸わなかったタバコ・・・・。
今は一日で一箱ほど吸うようになった。
会社から少し遠ざかるとタバコを咥えたまま携帯電話を取り出しリダイアルする。
プルルルル・・・ワンコールで電話に出た相手は軽い口調で話し掛けてきた。
『終わった?』
「ああ。」
『さっきはゴメン。もう仕事終わった頃かと思って電話しちゃったの。』
「平気。それよりどこにいるんだ?」
『いつものとこ。先に飲んでたわ。』
「ふうん。じゃ、これから行く。」
手短に話を切り上げると俺は歩き出した。
夜空には月も無い。星も見えない。
でも、そんな闇夜でも人工的な街の光は地上を照らす。
星の瞬く美しい夜であっても、街のネオンに照らされ月の美しさも星の輝きも目に止まらない時もある。
いや、本当は気がついているのだ。その凛とした気高き美貌に。その高貴な輝きに。



カラン・・・
地下への階段をおりて、重厚な木の扉を開けるとそこは小さなバーだった。
数人の客がいる。俺は相手を捜すために店内にさっと目を走らせた。
カウンターの隅にスラリとした足を組んだスーツ姿の女が座っていた。ダークグレーのスーツはいかにもキャリアウーマンを強調しているようだ。
女は入ってきた俺に気がつくと、手にしていたグラスを軽く上げて挨拶してきた。
俺はまっすぐ女の方へ向かうと隣に腰を下ろす。
「ジントニック。」
俺はマスターにそう告げると、タバコを取り出した。
「マスター、あたしにもギムレットのおかわり」
間もなくジントニックと灰皿が俺の前に置かれた。すぐに隣の女にはギムレット。
艶やかなルージュの唇が動く。
「急に呼び出して平気だった?」
「ああ。ただし、明日は朝早いから早く開放してもらいたいね。」
「あら、まるであたしが離さないような言い方じゃない?それって」
「そう聞こえたか?」
「それってイヤミ?まったく失礼ね。」
女は細い指でグラスを持つと一口飲んだ。桜色の爪だけが少女のように初々しい。
「君もそういう口が利けるようになったのねぇ。初めの頃は素直で可愛い子だったのにね。」
くすくすと笑いながら女は言った。
「あなたに鍛えられましたし。それに年も取ったんだよ。俺も、あなたもね。」
「あー、生意気ね。」
こういう会話は嫌いじゃない。お互い軽く流しながらのやり取り。
「そういえば久しぶりだな。1ヶ月くらいか?」
女は人差し指を唇にあてて考えているようだ。
「んー。そのくらいかなぁ。出張で東京行ってたし、帰ってきたらイベントで大変だったのよ。」
「へー、で、一段落ってわけ?」
「そ。それで久しぶりに雅弥に連絡したってワケ。会えなくて淋しかったでしょ?」
「へいへい。そーいうことにしておくさ。」
お互い顔を見合わせて笑った。
「あーおかしい。やっぱ雅弥と話すと楽しいわぁ。それにしてもちょっと痩せたんじゃない?だめよ、ちゃんと食べなきゃ。・・・って仕事帰りにバーに寄らせちゃったわね。ごめん。」
「いいさ。明日からちゃんと食うよ。」
そう言って俺はジントニックを飲み干した。
「おい。出よう。」
「あら、もういいの?」
「明日も仕事だからあんま飲めないの。」
「そう。ね、あたしんちいらっしゃいな。軽いものでも作ってあげるわ。」
「ああ。」
「じゃ、行こう。ここは奢ってあげる。」



店から出た俺達は通りでタクシーを拾った。
女が行き先を告げると車は静かに滑りだした。平日だというのに繁華街にはたくさんの人が仕事で疲れた精神を酒の力でリフレッシュさせるべく集まっていた。
そんな人達を横目で見ながら、ここにはどれほどの虚無が満ちているのだろうなどと考えてみた。
だが、自分のこともちゃんとできない俺がそんなこと考えても仕方ないと思い至ってその思考を止めた。
俺がそんな訳のわからないことを考えている間にタクシーは目的地へ到着したらしい。車は静かに停止した。








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