「ファイト!!」・後編




 いまだに頭ん中が茹だってる。
 キスなんかされて、ようやく好きだって気づいた。だけど、肝心の陸斗は―――そのキスは、朦朧とした意識がさせたキスで……
 高史は真っ赤になった頬を両手で押し包みながら、深い深いため息を吐き出した。
「もうさ〜、俺、ホント自分がワケわかんなくて……」
 情けなく両肩を落としてうな垂れる高史の面前には、対照的に偉そうに両手を組んでリクライニングチェア―に踏ん反り返っている男がいる。白衣の下に非常に精巧なタッチで描かれた髑髏のTシャツを着込んだその男―――名を、杉山直輝(すぎやま なおき)といい、高史の通う高校の保健医である。
「―――んで?」
 口元を半ば覆うようにして押し当てている右手は、ちょうど煙草を支える形になっている。もし、保健室に高史以外生徒が誰もいなかったら、その指先には確実に紫煙くゆらす煙草が一本挟まれているであろう。そのぐらいは型破りな保険医で、けれど、その二床しかないベッドの内一つに熱発した女生徒が眠っているから、どんなに苛々していても煙草を吸ったりしない。そういうトコロがものすごく律儀で、ゆえに多くの生徒から妙に慕われ懐かれている、杉山とはそんな男なのである。
 だからこそ、高史もためらいを振り切って、意識の半分どころかほとんど全部を占めている懊悩を口にしたワケだが――……
「あのなぁ、一応言っておくが、青少年の悩みを解決してやるっていうのは俺の仕事の範疇じゃねーんだよ。ってか、そんなのひたすら悩んで悩んで悩み続けてろ。ガキの職業病みたいなモンだろうが。で、悩みが嵩じて体にガタがきたら、そこではじめて俺の出番ってワケだ。つまりお前は今んトコロ、診察の必要性も感じないぐらいまるっきり健康体なんだよ、わかったか? わかったら、さっさと教室に戻って、学生の本分でも全うしてろ」
 ばっさりと言い捨てられてしまい、高史は落ちた肩をますます垂れ下げた。
「だってさぁあああ……」
 などと、ぐずぐず漏らす。なにせ、教室に戻ってしまったら、この心臓ドキバクの元凶が絶対に居るのだ。ただでさえ、真っ赤に染まった顔を発熱のせいだろうと解釈されて、数学の先生から保健室行きを命じられたというのに―――こんなに困惑したままじゃ、また絶対、目が合ったりしたら今度こそ本気でヤバイと思う。絶対、ヤバイと思う。
(キスしたくせに……)
 思わず、恨みがましい眼つきで杉山を見つめる。
 だって、あれはもう、確実に完璧のキスだったのだ。口の中に広がった陸斗の熱で、火傷しそうなぐらい。いまだにその熱が、体中のどこそこで燻ってるぐらい。
 なのに、それなのに、あの電撃的な大事件の直後、ふっと意識を取り戻した陸斗は、気だるそうに高史を見やると、「伝染るから、帰れよ」って、たったそれだけのごくごくまともなことを口にすると、再び目を閉じて眠ってしまったのだ。その直前にした、ものすごく衝撃的なことの名残も感じられないぐらいあっさりした態度で!!
(おかげでお粥食べさせるのも、薬飲ませるのも全部忘れちゃったじゃねーか!!!!!!!)
 そのくせ、月曜のこの日、当の本人はひどく元気になって登校してる。仰天の挙句、土鍋も忘れて帰ってしまった高史は、単なる怒られ損だったのである。
(キスしたのに、キスしたのは陸斗の方だったのに)
 頭の中が特に混乱しているのは、そこら辺なのだ。キスされて、それでようやくムズムズの正体がわかったワケだけど―――でも、だって、なんで、陸が俺にキスなんかするんだよ!!!ってヤツだ。
 けれど、それを聞きたい肝心かなめの相手は、もう絶対、すっかりさっぱりそんなことなんか忘れてるっぽい様子なのだ。それに、なんて言って聞けばいいのか、そこらあたりも断然不明なワケで……それに、それに―――高史は本日13度目ぐらいの盛大なため息をついた。
「俺って、浮気モノだったのかなぁ……」
 独白が、どんより重たくため息に乗って口からこぼれ出る。
 陸斗を好きだって気付いたのが、一昨日の昼だった。でも、その一週間前にはクラスメイトで、2年に進学して以来ずっと心惹かれていた加藤に告白をしている。もちろん、軽い気持ちなんかじゃ全然なくって、物凄い勇気を振り絞っての告白だった。一世一代のつもりだった。その時は、本当にめ一杯、加藤が好きなんだって思ってた……のに。
(なのに、ほんの一週間で心変わりしてる俺って……)
 はぁ、と力の無いわりには深く長い吐息が続く。
 好きだって、陸が好きだって気持ちは、きっと間違いなんかじゃない。
 それは自信があるのだけれど、それでも、心の内に湧き上がる後ろめたい気持ちは消えるどころか、強まっていくばかりだ。陸斗が好きだって、思えば思うほど後ろめたくて、なんだかこういう気持ちが浮気してるヤツの気持ちなのかなぁなんて、変な考えまで浮かんでくる始末で。
 そんな時には、杉山の、皮肉っぽく口端を吊り上らせての、「なんだお前、具合は悪くなさそうだが、顔色は確かに悪いな。どうしたよ? 聞くだけなら聞いてやるから、悪いものは吐き出せ、青少年」っていうおざなりな台詞にすらも、溺れる者の藁の様に縋ってしまう。けれど、「俺、どうしたらいい?」と心の奥底から縋ってしまった高史に対して、前述のお言葉である。どうやら本当に「聞くだけ聞いてやる」のつもりだったらしい。
 まぁしかし―――確かに吐き出す事によって、少しは気持ちが楽になったような気がしないでもない。それに、どうしたって陸斗に顔を合わさずには過ごすことはできないのだ。クラスメイトで、親友で、家族ぐるみのご近所づきあいを長年してきた間柄なのだから。
 高史は、ようやくその上目遣い加減の視線を上げた。軽く頭を振って、「じゃあね、ま、とりあえずありがとうゴザイマシタ、先生」と呟く。
 そのまま退室しようとした高史の背に、保健医のいささか不謹慎な掛け声が投げ掛けられた。
「励めよ、少年!」
 しかしそれだけで終らないのが、この男の奇妙に生徒達から懐かれる真の理由なのかもしれない。
「まぁ、だ。お前がそのクラスメイトの女の子と幼馴染の間で揺れ動く感情を持て余していたとしても、だ。真実はやっぱりお前だけが知ってる筈なのだよ」
 わかるかね?とたずねる口調はあくまでおちょくる様な軽さだったけれど、それでも高史は、その声に勢いよく振り返っていた。
「どういうことだよ、先生!?」
「自明のことだろ?どちらへの気持ちがより大切で自分の中での重要度が高いかなんてな、逆説的に仮定してみりゃ良いんだよ。つまりだ、どっちが居なくなった方がよりダメージを受けるかって、そういう事だ。人間、表面的にならいくらでも惑うもんだが、深層部分は根が深い分だけ細かいことで変節したりしねぇ。ま、だからこそ一番気付き難いっちゃー気付き難いモンだがな」
 ふふんと、杉山は鼻を鳴らした。
「どうだよ少年。年長者を敬いたくもなっただろう? わかったら、とっとと散れ」
 最後のあたりは突き放すような、それでいてどこか背を押してくれるような、そんな言葉使いで―――重ねて問いかけようと口を開いた高史の眼前で、「ココは病人の来る場所」と、いかにも杉山らしく片方だけ唇を上げると、髑髏Tシャツを着込んだ保険医はぴしゃりと音高く扉を閉め切った。
 廊下へ一人取り残された形の高史は、口を開いたまましばし佇んだ。
 高史の悩みを、終始一貫、"幼馴染とクラスメイトの女の子"の間で揺らぐオコト心と取り違えたままの杉山であったが、事実はもうちょっとぐらいは複雑なはずだ。
(でも………)
 高史の開いたままの口が、きゅっと自ずからかみ締められる。
 最後の言葉が、ひどく胸を締め付けていた。
(間違いなんかじゃなくて、最初っから気付いてないだけなのかもって……ホント、俺、すげー調子イイだけなんだろうけど―――)
 でも―――と、高史は微かに頷くような仕草を入れた。

 絶対に、これだけは、嘘じゃないって言えることがある。
 絶対に、本当だって、思えることがある。
 自分の中で、一番奥のところで。

 当たり前のことで。

 当たり前すぎて、杉山に指摘されてようやく認識できたぐらいだけど……―――

 高史は、それを脳がきちんと言語化する前に、衝動的に走り出していた。







 好きだって、気付いたのは、ごくごく最近のこと。
 ムズムズ訳わかんないのを自覚してたのを入れても、それでもホントこの何日かのことに過ぎない。
 でも。
 でも、だ。
 "一番大事な"って、そういう冠詞をどでんと頭上に掲げた人間として、それこそ生まれた数日後ぐらいからはそばにいたのが陸斗で―――近すぎて、その大切さすら眩んでしまうほど馴染んでいたから、だからわからなかった。わからなくなってた。
 意識的な死角って、こういうことなのかもしれない。ちょうど、おじさんが頭の上に乗っかった眼鏡の存在を気付かないまま探し続けているっていう、滑稽な状況みたいに。
 でも、そんな滑稽な状況の割には、実は深刻な状態だっていうのも共通してる。
 おじさんは、視力が悪いおじさんは、眼鏡を失ったままじゃきっと次の日、ものすごく困る。会社に行く途中の道すがらだって、会社に行ってからだって、めちゃくちゃ困るだろう。そのとき、眼鏡があったらなって思っても、なくしたものの大切さにようやく気づいたとしても、もう、失ったものは絶対に戻ってこない。
(……もしかしたら、俺、今、自分から無くそうとしてるのかもしれない)
 でも、それでも、その重要さに気付いてしまった今となっては、後ろ向きに歩いて、なかったことにするフリなんか到底出来そうにない。そんな器用さを持ち合わせてたら、もともとこんなバカをやってるはずがない。
 高史は自分を落ち着かせるように、胸郭に屋上の清涼な空気をたくさん溜め込んで、ゆっくりと吐き出した。地上4階の風が、まだ夏になりきってない一筋の冷気をはらんで高史の頬を撫でていく。
 呼び出したのは、衝動だった。
 教室に走り込んで、まだ4限目が終わったばかりの解放感と慌しさがちょうど半分ずつぐらいの配分でない交ぜとなった雰囲気の中を、陸斗の席の真ん前に立って宣言した。
「話があるッ、屋上に来い!!!!!」という鬼気迫った大上段に、何か事件勃発かと途端かしましさの増す室内を、高史は陸斗の二の腕をつかんで、引き摺るようにして屋上に連れ去った。そして現在に至っているワケだが―――連れ去ったときの勢いはどこへやら、高史は吐き出した息の行方を追ってでもいるかのように、視線をあちらこちらへと揺らしていた。
 頬が熱くなっているのは、もう絶対ばっちりと、陸斗に気付かれているのだろうと思うと、ますます視線が遠くへ逃げていってしまう。
「……高史」
 しかし、さすがに陸斗にあきれたように名を呼ばれてしまい、高史は観念したようにその視線を幼馴染に差し向けた。
「うん……」
 間を持たすように一つ相槌のようなものを入れると、高史はごくんとつばを飲み込んだ。
「い、今更かも知んないけど、ホント信じられないかもしんないけど、でも、俺、これだけは嘘じゃないから。ちゃんと考えて、悩んで、でもやっぱりホントだって気付いたから……」
「―――高史。言ってる意味が全然わからない」
 ため息混じりの陸斗の言葉に、高史は瞬きを数回繰り返した。
 ココに及んで、話をぼかしたりする意図なんか、どこにもない。あるわけない。でも、だからこそ、どうにかうまく伝えられないかと頭を一回振って―――けれど、脳内のどこからも、絶妙っぽい言い回しなんか出てこなかった。
「だからっ!!」
 高史はバシっと擬音語がつけられる程の勢いで両眼を閉じた。もともと、言葉を重ねたりとかできるタイプじゃない。もう、ここまで来たら、それはもう、勢いしかないのだ、やっぱり!!
 高史は目じりと肩と喉の奥の方にめいっぱいの力をつぎ込むと、一気呵成に言葉を押し出した。
「だから―――オマエが好きなんだって。そう、気づいたんだってば!!」
 わかったかと言わんばかりに言い切る。ぜえはあと息を継いで。頭の中は、沸騰した血流で煮え繰り返ってる。バクバク心臓の音が、鼓膜を乱打して痛いぐらいだった。
(一番大事だから―――)
 見返りを求めるつもりなんか、これっぽっちもない。伝えたかった、ただそれだけ。でも、それでも陸斗の何らかの反応を欲している自分がちゃっかりといて―――期待とそれを大きく凌駕する不安に、瞑った目が、ぴくぴく痙攣してしまう。
 高史は騒ぎまわる心臓を服の上からぎゅっと押さえつけた。
 好きだって、そう気づいたら、それがどれくらい自分の中で大切な気持ちかって気づいたら、歯止めなんか効くはずもなかった。それが、どれくらい諸刃の剣だってわかっていても―――これ以上、卑怯にはなれないから。
 気持ちを偽る事なんか、出来るはずもないから。
 気づかなかったフリをして、近くに居続けるなんて芸当、出来るはずもないから。
 そして何よりも―――
(俺の気持ちを、陸にも知ってほしいから……)
 相変わらず、自分勝手な言い草だって思う。でも、それが一番の理由なんだとも思う。
(俺が好きなのは……ホント好きなのは、陸なんだって知っててほしいから)
 ずいぶんとんでもない迷い方をしたし、いっぱい迷惑ばっかりかけたし、今だってかけまくってるんだろうけど、それでも。すごい、我ながら突っ走ってるけど、でも。
 高史にとっては心臓が爆発するまでのカウントダウンとも言いえるその時間は、けれど実際には呼吸二回分ぐらいの時間でしかなかった。それぐらい、思ってもみないほどのすばやさで、反応は返ってきた。

「なんだよ……それ?」

 呟かれた言葉以上に雄弁に物語るその目に。すっと細められたその目じりに。次第に深く刻まれていく、眉間の縦皺に―――高史は、一瞬見開いたその目を、再びキツく閉じた。
 けれど、両眼をいくら固く瞑ったところで、聞きたくもない言葉が眼前で消失してくれるはずもない。
「なんだよ、それ……」
 もう一度、先ほどと寸分違わぬ言葉を、先ほどよりずっと胸の奥の方に切り込んでくるようなトーンで繰り返されて、高史はその肩をびくりとそびやかせた。
 やっぱりっていう一番わかりやすい感覚で、臓腑が抉られたような痛みを覚えた。
 ホント当たり前だって……男で、しかも親友で幼馴染でその上つい一週間前に他の男に告白したようなヤツが何言ってんだって、そういうのはきちんとわかってた。わかってて、それでもちゃんと気持ちを伝えたいって思って……でも、―――それでもどこか、体の隅っこの方では、ちゃっかりと魂胆めいたものが居座ってたんだと思う。甘えてたんだと思う。陸なら、陸斗ならいつもみたいに笑って許してくれたり―――もしかしたら受け入れてくれるんじゃないかって。今までみたいに一緒に居させてくれるんじゃないかって、そんな風に楽観してるところも、実は、本当は、たくさんもってて………だから、痛みはひどく体を内側からきしませた。
 わかってた事のはずなのに、当然の反応のはずなのに、ギリギリ心臓と一緒に心も締めあげられる。痛くて痛くて……たまらず高史は囁きをもらしていた。
「キスを―――」
 途切れる言葉に、唾を飲んでその滑りを借りて言葉を押し出す。
「キスしたくせに……」
 奥歯の噛み締められた隙間から滑り出てきたのは、低い―――いつもの高史からすると、驚くほどに低く重たく響く声。
 けれど、その声よりも何よりも、陸斗はその告げられた内容にこそ瞠目した。
「何言って………」
「何って!!」
 一つ息を吸い込むと、その分だけ言葉に勢いが加わる。低い声はその重みと迫力を増して、高史の口から飛び出て行く。
「オマエがッ! この間、土曜日の昼前、オマエが俺にキスしたんだ!! ……俺、すっげー驚いて、いっぱい悩んで、でもやっぱり、おかしいかも知んないけど、変って思われても仕方ないけど、でも、でもッ!! ―――俺、オマエが好きだって!!!!!!」
 感情の高ぶりに喉が詰まる。熱い息と少し冷たい外気との差異に、すでに喉はひりひり痛みを訴えていた。
 でも、一番痛いのは、そういう表面的なところじゃなくて。
 もっと、ずっと、内側のドクドク暴れているあたりで。
「―――オマエが好きなんだって」
 一番大事なものに、ホント一番大切だってことに気づいたから。
 瞑った両眼が、ピクピク痙攣しているのがわかった。
 日差しがその発する位置を変え、校舎の壁の奥に隠れてしまったのも。
 その瞬間、陸斗がもらした長いため息すらも。
 ―――でも、その意味だけは、全然……ほんの少したりとも、理解なんかできるはずもなくて。頷くことなんか、到底できるはずもなくて!!
「そんなんじゃない!!!!!」
 高史はただ、子供みたいにわめくばかりだった。
 頭ん中は、もう、どこもかしこも真っ白だ。真っ白。わめく言葉すら上滑りするぐらい、何もワケなんかわからない。
(思い込みなんかじゃ、思い込んでるだけなんかじゃない!!)
 引き絞った目と、寄せられた眉、かみ締めた下唇―――そんなひどい顔で、陸斗を見上げる。頬からは、ついさっきまで火照りを彩らせていた熱もすっかり引いてしまって、唇もカサカサに乾いてしまっている。
「……高史は本当に何にも変わってないって」
 反対に、陸斗はあの困ったような苦笑を浮かべて、覗き込むように高史を見やっていた。昔よくやったように、ぱふんとその手を高史の頭に乗せる。
「ちょっとした事で運命感じてさ、感激屋で一直線で突っ走ってく。……3コぐらい前の樋口さんの時も、廊下で出会い頭にぶつかったのがキッカケだっただろ? 好きだって、そう思ったらめいっぱいで盲目になって―――」
 そこで、ふっと自嘲めいた笑みを口端に這わせて―――そして陸斗は、深いため息とともに高史の頭をぐちゃぐちゃにかき乱した。
「そんなトコが、すげー好きだ」
 髪の毛をかき回す指と同じぐらい、高史の頭ん中をかき乱してくれる陸斗の言葉。これ以上ないほどに高史の心臓は高鳴った。突き放すように言われた分だけ、高鳴りは大きく体を内から揺さぶる。
 けれど、それが一番の高まりに達した時、そのてっぺんから突き落とすような言葉が高史を襲った。
「好きだから、本気だから、お前の”好き”には応じれない。勢いとか思い込みなんかじゃないから―――俺はお前が他の誰かを好きでも、誰を好きになっても、このポジションだけは譲れないから」
 寡黙の陸斗がこれだけ多弁になるときは、いつだって高史がムチャをやらかした時。青ざめた顔と心で、ふと高史はこんなことを思った。
「キスのことは謝らない。夢だって思ってたけど、夢じゃないなら……一回ぐらい、俺だってイイ目を見たって構わないだろ」
 そう言うと、ぐしゃりと高史の髪と頭をほんの少し乱暴に撫で回してから、陸斗は屋上から立ち去った。
 呆然とその後姿を見守る高史は、その背に投げかける言葉の一つだって浮かんできやしなかった。
 思い込んでるだけだって、キスに勘違いしてるだけだって、すぐ冷めてしまうって―――そんな言葉のどれ一つにだって、反論することすらできなくて。
 高史は、唇が切れてしまうほどに強く、強く噛み締めることしかできなかった。







 風にさらされて冷えた体がぶるんと震えた頃、うな垂れたその項に、ひどく呆れたような、間延びした声が振り落ちてきた。
「いったいいつまで、んなとこに突っ立ってるつもりなんですかねー、と」
 声とともに、すとんとその声の主も飛び降りてくる。非常階段上部の、屋上で一番高いところへ器用に登っていたのだろう。高史は表情を動かすことすらできずに、彼を見つめた。
「俺としたことが、快い睡眠をしているところにだ。青春街道ぶっちぎりはじめた二人に気なんぞ使って、気配を押し殺しつづけたというのにだ」
 ぐはーと息を吐き出すと、加藤は常になくぞんざいな仕草で髪をかき上げた。
「ったく、なんでそーゆー展開になるのかねキミ達は? まぁ、俺としては好事とみなすべきだとも、しばし葛藤はしたんだかな……なんつうか、こう、歯がゆいことこの上ないらしい」
 表情を決め兼ねたようにあいまいな笑みを浮かべた加藤は、「ホントにねー……」などと小さくつぶやきながら、手の甲を高史の頬に触れ合わせた。
「的場、冷え過ぎ。こんなトコでうだうだしててもイイ事なんかあるはずもないんだから、風邪引く前に避難しとけよ」
 体温なんかすっかり引いてしまった高史の青ざめた頬に、じんわりと加藤の手の甲の熱が伝わってくる。
 でもその指先は、実は高史の頬と同じぐらい冷たくなっていて、どのくらい加藤がその場に居たのか、どんな気持ちで陸斗の言葉を聞いていたのかとか、そんなことを考えていたら、喉の奥にせり上がるものがあった。我慢が、利かなくなってた。
「加藤っ……俺、俺ッッ!!」
 たまりにたまった熱いものが弾けたような声が飛び出る。
 それに制止を入れたのは、加藤の長い指先だった。
「おいおい」
 ひどく力の抜けたようなため息とともに、その指を軽く左右にふる。
「あのな……一応確認しとくけど、俺の青木へのほのかな慕情は、だ。つい先程、メッタ打ちの細切れにされた上に、未来永劫完全確実に成就することはないと太鼓判まで押されたワケだ。そんな俺に、さらに塩まで擦り付けるつもりか、お前は?」
 吐き出される言葉の割に、その口調はただただ呆れかえっているだけのような響きがある。高史には判別などつかないであろうが、聞く者によっては、何かをきっぱりと振り払ったかのような色もうかがえる。
 大きな目を見開いて見つめてくる高史に、加藤は、一瞬人の悪そうな笑みを投げかけた。

「よしよし……意地悪はこの位にしておくとして、まぁ、本題に入ろうじゃないか」


 そして告げられたその内容に、高史はぎゅっとこぶしを握り締めていた。
(好きなんだろ……って)
 確認というよりも、単なる話のふりだしのようにそう切り出されて。
(好きだって、好きなんだって)
 本気だったらさって、うんと唇を吊り上げさせた加藤が教えてくれたこと。見返してやれと、見せ付けてやれと、焚き付けるように背中を押されて。

 ―――青木もさ、いいかげん目を覚ませって事だよな。事態がここまで激動したってのに、大切に手元に置いときたいだけなんてヘリクツ、自分が一番暴走してる分際で言ってんじゃねーよって事だろ? ってか、お前もお前。結局俺って掻き回しただけつーか。ああ、アホらし。自分がいっつもどっち向いてんのかぐらい、気づけよ? お前ら、傍から見てたこの俺の気持ちを、どのくらい揺さぶってくれたと思う? ホント、呆れる。

 ふっとこぼれたのは、自嘲めいた笑い。それも完全に飲み込むと、加藤は高史の背を音を立てるほど強く、手の平で叩いた。
「行けよ」
 衝撃に、片足が一歩出る。それを契機にして、もう一歩目はめいっぱいの気力を振り絞って―――でも、次の一歩からはただもう必死に足を動かしていた。
(好きだって……)
 一度は否定されたけど。
 たった一度で、諦めてしまえるような”好き”なんかじゃ、全然ないんだって!!!!!
 キッと眦に力を込めて、高史はまっすぐ前を見据えながら走った。



 その背に視線を流した加藤が憮然と顔をしかめたのは、だから、この世で誰も目に留めることはできなかった。この男にしては珍しく、気落ちしたように肩をすくめたのも。
 しかし、一瞬のちには何やら思い付いたように、加藤はいやに愉悦たっぷりの笑みを口元に這わせていた。
「うんうん……この俺がシツレンにへこむのなんか、まったくもって似合うわけがないよなぁ、いや、ホント」
 いつものように、自信たっぷりの口調に返っているあたり、精神的失調から回復したのだろう。くすりともらした笑みが、それを裏付ける。
「もともと青木の一途なところがたまんねーだったワケで、つまるところ、収まるトコに収まってくれなきゃそれはそれで至極つまらんし……」
 一言一言で復調していくかのように、声に愉悦と陽気さが加わっていく。もともと頭の切り替えの早い男なのである。
「今度は……もっとサバサバと割り切ってくれそうな―――」
 独白は、実に危険きわまる一言で切り上げられた。
「杉山センセって、ちょっとイイよな」
 まるっきりノーマルらしいけど、それはそれ。少しは困難がないと、頑張り甲斐もないワケで―――そのとき刻まれた唇の形は、その数分後、不幸な保険医の眼前でそっくりそのまま再現されるのだった。







 教室から再び陸斗の腕を掴んで、がむしゃらに高史が向かったのは、自宅の二階、たくさんの時間と瞬間を一緒に過ごしてきた自分の部屋だった。
 その間、通学路を突き進んでいた時も、ガチャガチャ煩いぐらいの音を立てて自宅の玄関のカギを開けた時も、どすどす階段を上った時だって、がっちり掴んだその指の力を緩めたりなんかしなかった。今じゃないと、もう絶対無理だから、途中で挫けたりしないように、抗議する陸斗の声にも一切答えたりなんかしなかった。
「座ってろよ!!」
 だからこれが、ようやく高史が口にした言葉。震える指先を気持ちだけで動かして、ベッドを突き指して告げる。
「ちゃんと見てろよ、陸」
 言葉一つ一つに、熱い呼気が被さっている。
 理不尽さも感じていたし、問いたい事も多々あったけれど、陸斗はその迫力にとりあえず従った。高史のベッドに片膝を立てて座る。
 それを緊張で腫れ上がった赤い目をして、高史は見やった。
 奥歯が自然とキツく噛み合ってしまう。ドクドク心臓が暴れて、今にも飛び出てしまいそうなのをそうやって抑えこんでいるかのように、ぎちぎちに噛み締めていた。
 ベッドを指差したままの指先が、ひときわ大きく震えてしまったのは、ごくんと溜まってしまったつばを飲み込んだせいだった。
「どうしたんだよ、高史?」
 何度目かのその問いを舌に乗せた陸斗の口の形が、開いたそのままで固まるのを、充血した目で捕らえた。瞬くことも忘れて、高史はその顔を見つめる。震える指先は、すでに襟から二番目のボタンにかけられていた。
(見てろって……)
 ごくんと、再びつばを飲み込む。
 好きだって、お前が好きなんだって、思い知らせてやれって―――脳内では、まるで呪文みたいに、何度も何度も加藤の言葉を繰り返していた。
(―――好きだって、要は頑迷な青木の蒙を啓いてやるしかねぇだろ? 言葉なら駆使した、気持ちなら告げた。なら、後は張るのはやっぱ体じゃないですかねー)
 と、核心はことさら避けて婉曲的に語る加藤の、その核心をちゃんと掴み取れてるかなんて、そんなの判るはずはない。
(でもッ、でも……ッッ!!!!!)
 体なんか、いくらだって張ってやれるのだ。そんなので、この気持ちが伝わるんなら、いくらだって、どれくらいだって、全部だって、張れるんだ!
 覚束ない指先にじれたみたいに、ほとんど引き千切るみたいにしてシャツの全てのボタンを取り外す。片肌がわずかな動きにすっとはだける。
「ちょ……高史!?」
 ようやくにして言葉を取り戻したらしい陸斗が言い募るのに、耳なんか貸してやらない。高史は赤くなったり青くなったりする頬を強張らせたまま、その手を今度はベルトのバックルにかけた。
 いつもなら気を回す必要もなく外せるはずの金具が、まるで知恵の輪みたいに感じた。金具がこすれる音だけがただ続いて、つま先をベルトに食い込ませるように突き立てた。
「お前、いったい何の―――」
 慌ててその手を抑えこむ陸斗の顔に視線を合わせた途端、押し込めていたものが唇を割ってあふれ出た。
「好きなんだって!!!!!!!!」
 熱い、熱い息に茹ったみたいに気持ちが高ぶる。叫んだ次の瞬間には、高史はただ闇雲に、陸斗の口に自分のそれを押し付けていた。
 乾いた感触が、唇を発端に体中をめぐる。それが脳みそまで達した時、高史はぎゅっと目を瞑っていた。なんだか、気持ちという気持ちが全部暴れ出して、頭も体もめいっぱい、ぱんぱんに膨らんでしまったみたいだった。目じりから潤んだものがこぼれ出る。同じく語尾も潤ませて、それでも精一杯、高史は思いの丈をぶつけた。
「何でわかんないんだよ、思い込みなんかじゃない。思い込んで―――友達だって、幼馴染だって思い込んでたののずっと奥ら辺では、すっと昔っから、本気でオマエが好きだって、一番オマエが大事だって、そう気づいたんだよ! どうして、すぐさめるって……そんなのあるワケないじゃんか!!」
 肩をいからせて、言葉を全部吐き出す。
 好きなんだって、溢れでてくる気持ちを。気づいた瞬間から、どんどん涌き出てくる思いを。
 高史は陸斗の体温の失った指を振り払うと、金具をどうにか外して、ベルトを抜き払った。
「全部、見ろよ。俺の全部。どこにも嘘なんかない。どこもかしこも本気だらけでオマエが好きなんだって。それに、勢いなんかじゃないんだぞ!! こんなクソ恥ずかしくてバカみたいなことッ……でも、陸が信じてくれるまでは止めないんだからな!!」
 宣言して、さらにズボンのボタンを取り外す。―――取り外そうとして、高史の指はキツい握力で覆われた。体温はさっきと同じで全然感じられなかった。けれど、ほんのり湿った陸斗の両手が細かく震えているのは判った。その震えが、ふいに大きくなる。それは陸斗の吐き出したため息が伝えたものだった。
「止めろって……」
 ため息の最後にそうもらす。
「……理性が、保たなそうだって」
 小さすぎる呟きに、高史が聞き返そうとして―――あごを持ち上げようとしたときには、逆にそのあごを取られて、ついと引き上げられていた。
「え―――」
(ええええええええええッッ!!!???)
 驚きと困惑とが、口から飛び出すことができずに、頭の中だけで反響する。
 唇には熱。口の中には嵐。頭の中なんか、とっくにパンクしてる。
 高史は与えられる唾液を飲み下すことぐらいしかできなかった。舌も上あごも、口の中いっぱい、陸斗に翻弄されるがままになっていた。
「ん……ぅ」
  時折もらす吐息で、これが現実なんだってどうにか認識できるぐらいで、あとはもう、どこか違う世界にでも連れ去られてしまったみたいで……口の中を掬い取られるように舐められて、陥落したかのように全身から力が抜ける。見開いた目も、とろんと蕩ける。
(陸……)
 そうやって、気持ちも体も全部蕩けてしまう寸前で、口の中の熱い嵐はふいに止んだ。その唐突さに、ぱちくりとのろまな瞬きを繰り返す高史の眼前で、唇を離した陸斗が少し色づいた頬と口元を隠すように、手の平で覆った。
「悪い……」
 言いながら、袖口で高史のぬれた唇を、伸ばした親指で目許の潤みを拭う陸斗に―――全然平静っぽくない、寡黙を通り越して、何から口にしたらいいのかすら困っているような様子の陸斗に、高史の心臓は今日一番の暴走をはじめた。痛いぐらいに、胸を突き上げる。
「陸……」
 呟く声音が乾いてかすれる。
 舌先にはまだじんわりと熱が残っていて、その甘い疼きが言葉を押し出してくれる。
「好きだって……ホント、お前が好きなんだって」
 それしか言葉を知らないみたいに言い募る。
 でも、ほんのりとその言葉に甘えるような響きがこもるのは、きっと、さっきからバクバク自分のじゃないぐらいすごい音をたてている心臓と同じで―――陸斗の困ったような眉の形とか、泳がした目線だとか、そういう何気ない仕草のせい。
 きっと、他人には全然想像もつかないんだろうけど。
(俺は、知ってる。俺なら、わかる―――から)
 その通りであれって、強く強く願っている。願いが、喉の奥を締め付け、心臓を圧迫するぐらい強く。
(ずっと一緒にいて、いろんなコトやって、思い出なんか全部陸斗しかいなくて……!!!!)
 あとほんの少しで、心臓がつぶれるって……そのぐらいのぎりぎりのタイミングだった。陸斗はさまよわせた視線をどうにか高史にあわせた。でもまだ時折、その目がふいに逸れたりするのは―――それも、高史がよく知っているはずの陸斗の仕草。
「くどい……って」
 一言ずつで途切れてしまう話し方も、陸斗が照れたときのいつもの癖。
「好きとか、そんな何度も言うと減る」
 むっつりとした感じのしゃべり方も、照れ笑いを事前に防ぐための防御手段。人生今の今まで一緒に過ごしてきた高史にとっては周知の事実だ。
「減るわけない。減った分だけ、追加するからいつでも満タンなんだよ」
 口調に妙に、力がこもる。だって本当のことだから、これだけは自信をこめて断言できるのだ。
「そういう……軽いことばっかり言うから、お前は信用置けない」
「…ひっでぇ言い方するな」
「事実だろ? 俺は、お前の歴代の”運命かもしれない”ヤツにはなりたくない」
 ばっさりと言い捨てられて、高史のほんの少し反らされた胸は、しゅんと前かがみにまがる。心臓がきゅんと縮んだ。
 けれど、それがしおしおにしぼんでしまう前に、陸斗の手の平が高史の背に回った。途端に息を吹き返したみたいに、心臓が暴れ出す。さっきからちょっとした事に縮んだり早まったりする心臓が、これでもかってぐらい血流を吐き出しまくる。バクバクいってる音が、絶対に陸斗に知られてしまうぐらい、それぐらい深く抱きしめられて、高史は出された血の量だけ顔を真っ赤にさせた。
 でも、そんなことよりもずっと、もっと、とんでもなくでっかい爆弾は、鼓膜から滑り込んできて、高史の心臓を直撃した。
「でももう止めた」
 そんなジャブのすぐ後に、突然の必殺アッパーカット。
「やっぱり、誰かの横に居るお前を見るのはムカつくし、これでもお前の扱いで他の誰かに遅れを取るとは思えない。何よりも―――何よりも、お前が俺を好きでいさせ続ける、そういう努力なら、いくらでもやれるはずだから」
 だから、と陸斗は驚くほど強く、高史を胸に抱き包めた。
「勢いでも、ホントは勢いでもなんでもいいんだ。お前が俺を好きかもって思ってるんなら、それにつけ込ませもらう。もう放せないって、判ったから」
 背中を掻き抱く陸斗の手が、ダイレクトに感じられた。
 いまさらながら、自室に半裸で陸斗に抱きしめられているっていう状況に思い至って……けれど、今にも爆発しそうな心臓を抱えた高史は、たぶん、生きてて一番っていうめいっぱいの幸せを感じていた。
「陸……」
 ほとんど口先にある、陸斗の耳に直接言葉を注ぎ込む。
 いくらだって、減るどころか後から後から溢れ出す思いを、しっくりする言葉に代えて。
 高史は何度も何度も、一番キツくて嗚咽がこぼれたその時ですら―――しまいには、陸斗が呆れてしまうほどの「好き」をささやき続けたのだった。






ああああああああ、とんでもなく長くなってしまいました。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい(滝汗)
で、でも、今回ホント楽しませてもらいましたv
プロット頂いたときから、実は一番お気に入りだった保健室のセンセも書けたしv
改めて、マツウラ様、ありがとうございました。
また機会がありましたよろしくお願いします。


(03 12.08)


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