「五月病宣告」 前編
――――五月病………四月に入った大学新入生や新人社員などに、一か月を経た五月頃に見られる、新環境に対する不適応病状の総称(「大辞林第二版」より抜粋)
今まさしく、俺は五月病にかかってしまっている。
そうに違いない。きっと、そうであるに違いない。
新環境に不適応しているだけなのだ。
絶対に、それだけなのだ。
「あ………」
まただ。
横を向いてため息。
心底気だるそうな感じ。で、もう一回おまけとばかりに連続でため息。肩が、普段のこいつでは考えられないぐらいに下がってる。
「おい」
俺は思わず腕を取って須川を振り向かせた。
「なんかあったの? お前めっちゃだるそ〜」
この二、三分の間に数えただけでも十回はため息ついてるし。………って、思った矢先にも、またやられる。
深い深い深ーい、ため息。なんだ? 一体どうしたんだ?
須川は”憂い”がいっぱいこもった顔をして俺に告げた。
「なんでもない」
………
あのねぇ、どこからどう好意的に見ても、なんでもなくは思えないんですけど!
「………お前さ、やっぱ、嫌なんじゃねぇの? 面倒くさいとか」
それは本当によくわかるんで、確信ありげに尋ねた。そりゃ面倒くさいよな。しかもなんか雲を掴むような状態だし………自分で言っててもむなしいな。やっぱ俺ってバカなんだなー。加法・減法まではどうにか理解できたんだけど、それが乗法になった途端、何を足して何を掛け算するのかわけわかんなくなってきた。これはヤバイよな?そりゃ、須川だって呆れるよな?
だけど須川は、そんな俺の眼差しを逸らして、ついでに首を振った。
「………そんなんじゃねーよ。てか、おまえ一問しか解けてないじゃん………そのうえ、それ、答え間違ってるし」
一目で俺の解答の間違いに気づいて訂正―――嫌味を言うあたり、別に落ちこんでるとか気分が悪いとかそう言う様子ではなさそうな須川。
………
やっぱり、須川は。
俺があんまり………たぶん、須川の予想の遥か上のレベルで頭が悪いから………うんざりしてるのかも知れない。
俺は無意識にため息をついていた。
ああ、そっか。ため息ってこういう時についちゃうもんなんだなって、なんか納得してしまった。
で、なんで俺と須川が向かい合って勉強を教え合っている―――いや、俺が一方的に須川に勉強を教えていただいているのかというと、コトは昨日の放課後に起因している。
ま、なんだ。その日にこの間行われた中間考査の成績票が返されたわけ。
きちんと覚悟していた俺は、その覚悟に見合った以上の………最悪な結果に、成績票を持つ手が震えてしまった。点数はよく知っていたつもりだし、合計の点数も出して、平均で50点を割っていることにかなり深刻に悩んでもいたんだけど………だけど、さ。成績として、順番が出されると人間って本当に実感するもんなんだな。274人中、255番。俺の後ろには19人しかいない有り様。これは、ものすごくヤバイんじゃないのか??
回りで成績表を見せ合っている奴らを尻目に、俺はそれを握り締めて固まっていた。これは、誰にも見せられたもんじゃない。………ってか、中学では同じぐらいの平均点で真ん中ぐらいの成績だったこともあるのに、どうしてこの高校では平均が50点割ったぐらいでこんな酷い順番になるんだ! 横暴だ! みんな勉強のやりすぎ!
いくら心ん中で悪態ついても、255番の2の字が消えるわけは無い。そのうえ、テストの解答用紙が返されたときは気にもしなかったのに、こうして全教科ならんで自分の点数と学年平均の点数が上下に並んでいると………ご丁寧なことに、学年平均にダブルスコア(バスケ用語・2倍の得点差という意)をつけられている教科には担任が赤丸をチェック入れてて………それが、英語に数学、日本史に古文と4教科にも及んでいる有り様で………こ、これっていわゆる、赤点ってヤツだよな? 俺はこそりと担任の顔を窺った。その、上目遣いの視線が、見事に担任の嗜虐チックな顔とバッティングした。にやり、と笑われる。
「そうそう、成績票に赤ペンでチェックされてる教科があるヤツな――――お前ら、追試ってコトだからきっちり勉強すること。追試は三日後の月曜の放課後。今日の夜・土曜・日曜って精一杯範囲やり直しとけよ〜」
まさしく俺をじっと見つめながらのお言葉だった。
がく〜っと肩が落ちる。やっとテスト期間が終わったって喜んでいたのが全て水に流れて、その上俺のほうに土石流が押し寄せてきたような心境だった。やっぱ俺、この高校に入ったのが奇跡で、それで全部のラッキーと学力を絞りきったのかもしれない。これからこの高校の進度について行けるのか、本気で心配になってきた。
そんなこんなで、俺は三日後の追試を胸にどっしりと重石のように吊り下げつつも、この高校の心のオアシス其の2のバスケをしに行こうと、荷物をまとめた。心のオアシス其の1の兄・須川を誘うべく、教室後方の須川の席に向かった。その耳に―――
「この学校ってさ、追試でもまずい成績収めたら、即部活動禁止なんだってさ。やっぱウチって、部活動より勉強の進学校なんだな〜」
「つーかさ、赤点取るやつがヤバイってだけだよ。一年の一学期中間なんか、中学の勉強の延長線だろ? それで赤点とってりゃ世話無い。役不足ってやつだろ。このクラスにもいるのかな、そんなバカ」
「いるんじゃねぇの〜、担任もああいってたことだし」
………
います。
ここに約一名。
赤点を四つもチェックされた男が………ぁぁぁぁぁああああああああ!!!!!!
俺はかなり青ざめて、呆然と立ち尽くしていた。
バカといわれたことより、部活動禁止の言葉が、がんがん頭の中で反響していた。それは嫌だ。ぜったいヤダ。何のためにこの高校に入りたかったかって、家から近くてまともにバスケやってる高校ってそれだけだったのに。記念受験かとふざけた両親尻目に、ちゃんと受験勉強だってしたのも全部、バスケのため。………その結果、俺の運命に出会ったのは人生の必然で、先に立っていたのはあくまでバスケだったのだ。
「まじで?」
俺はふらふらと倒れこむように須川の席に辿り着いていた。うわ言にように呟く。
「俺、バスケできなくなんの?」
高原と喋っていた須川は、いきなり現れて机に突っ伏した俺にあ然としていた。高原と目を見合す。
でも俺は、そんな状況に気をまわす余裕はちっともなかった。
「やだぁああああ、須川助けてぇえええええ」
ひっしと須川の手を取って、それをぶんぶん振りまわして、じっとりと涙に濡れた目を須川に差し向けていた。一世一代のお願いだった。
渋りに渋りまくる須川がようやく折れて、俺にじきじきに勉強を教えてくれることでまとまったのはそれから小1時間ほど経ったころだった。
ふと思い立って須川の成績票を見せてもらった俺は愕然としてしまった。
こいつ、普通クラスの分際で………ぬわんと、学年で14番だったのだ。もちろん、ウチの4組ではダントツの1番。しかも、その場に居合わせた御崎の「やる気の無い結果だな」との一言から察するに、手を抜いてのその成績なのだ。
うぅっ………人間って、こんなに違っていいのかよぅ。
俺、けっこう真面目に勉強したのに………。
恨みがましい目を向けた俺に、須川は気分を悪くしたのか、一つ大きく息を吐き出した。がしっと頭を掴まれる。
「主将に許可をとんないとな………一応、大会前だし」
そうなのだ。中間考査を終えると、目前には県予選が控えている。「目指せ、全国!」のためには一つ一つの試合がぜったい負けられないトーナメント方式。その大会の、今は最終準備時期で、中間が終わってからの部活は一層熱が入ったものになっていた。土曜も日曜もない。朝から晩まで練習の予定だったのだ。しかし、それもこれも追試なんていう悪夢のせいでおじゃんになった。スタメンはムリでも、ベンチ入りは狙っていたのに。くっそ〜、それどころか部活を禁止される危機にあるなんて………!
「んな、悲惨な顔するなよ。俺も付き合ってやるから」
「え………? あ、あっ!!」
そのとき、ようやくにして俺は気づいた。須川もバスケ部で、つまり須川だって大会前で、しかも須川の場合………本当になんでもそつなくこなすこいつは、きっちりスモールフォワードのスタメンの地位を確立しているのだ。同じ大会前でも、俺とは価値が違う。
はったと顔を上げて須川を見据えていた。
「須川部活あるじゃん! ごめん、なんか俺自分で手一杯で………とにかくっ、俺、どうにか自分でやってっ―――もがもが」
もがもがは須川に口を押さえられたから。
「お前が自分ひとりでやってたら、リスのように後から後から詰めた情報を忘れていくだろ? ………いいよ、別に。西サンだっていいって言うと思うぞ」
相変わらずのゆーうつ気な声で、そういえば最近、部活中でもこんな表情ばっかりしているんだよな、こいつ。
でも、二人してバスケ部の主将の西サンにその旨報告したら、須川の言ったとおりにあっさりOKが出た。今日と土曜日曜の部活は休んでもいい、そのかわり、ぜったいに月曜の追試を―――俺には「合格しろよ」と、須川には「合格させろよ」との一言ずつかけてくれた。
外堀が埋まった俺は、内堀を埋めていくべくその日から須川を特別講師にまずは英語から取りかかった。放課後の図書館。人気のないその場にかすかに聞こえるのは、俺のシャープペンのノートを滑る音と、須川のため息。時たま、開け放たれた窓から野球部のバッドが放つ快音。それが聞こえなくなるころにはあたりは真っ暗になっていて、すでに時計の針は7時を示そうとしていた。結局その日は英語だけで終わってしまっていた。それでも、須川の教え方はうまくて、全部暗記あるのみだった俺に的確に「出そう」な箇所のみをひたすら反復演習させて、いつのまにか範囲の部分は全部訳が出来る様にまでしてくれていた。もちろん、「出そう」な部分はスペルも完璧っぽい。すげえじゃん、やれば出来るんだよな、俺だって!
目指すは本丸・月曜の追試!!!! それさえ落とせば、うれしたのしのバスケがこころおきなく出来るのだ。
俺は、明日の予定について須川に相談を持ちかけた。もちろん、俺のほうはどんな条件でもばっちり飲めるし、飲みこむつもりだし、両親を挙げての歓待をする予定だった。
「俺、いつでもいいよ。何時でもいいし、何時間でもオッケー。夜でもイイし、あ、飯は母さんに作ってもらうから………それでもよければ、心配しなくていいし」
「………」
「て、店屋物取ろっか………?」
なんとしても追試に合格したい俺は必死だった。
「須川?」
不機嫌とも取れる、須川のしかめ面。うーん、やっぱ、土曜とかに勉強見ないといけないのって迷惑だよな?嫌だよな?面倒くさいよな?………それでも、頼むから俺に教えてくれ。おまえの教え方は、めちゃくちゃ俺に合うんだあああ!
須川はばさりと前髪をかきあげた。なんとも、ツレナイ態度。内心、俺は須川の一挙一動にひやひやしていた。
「………もいるし、部屋ならバカなことしたくないし………」
ぼそぼそ呟くのは須川。よく、意味がわからないんですが?でも、須川は一人で納得したらしい。うんうんと、頷いたりしている。そして、告げられたのが次の台詞で………俺は、苦節1ヶ月、とうとうここまで漕ぎ着けたのかと感動してしまいそうだった。
「いや、おまえの家より、俺の家で勉強しよう。桐子の参考書とかあるし、まあ、俺もそのほうがなにかとイイし………春日もそれで構わないか?」
構わないどころか、大歓迎っす!!!
四月の入学式の日以来、ひたすら須川に引っ付いて離れずに、なおかつ友達として認められるべく心砕いてきたのは、ひとえにヤツの後ろに控えた桐子ちゃんを思えばこそである。いや、もちろん須川自身も面白いし、カッコイイし、頭は良いし、バスケはうまいし、やることなすことサマになってて大好きになっていたんだけど。
そして、とうとう、俺は須川宅へ”お呼ばれ”される身分に昇格したのだ。
ああああああ、桐子ちゃんてどんな家庭環境で育ってきたんだろう?
もしかしたら、まかり間違って桐子ちゃんのお部屋とかに入る機会が合ったりして………??
「な、何時がいい!? 俺、マジで何時でもいいし、朝6時とか言われても駆けつけるぐらい!!」
息急き込んで言う。須川はちょっと呆れたようだった。
「朝6時に来られたら、普通イヤだろ………」
ぐったりと、なにやらお疲れのようだった。
そして現在、五月晴れのうららかな過ごしやすい気候の中、俺は須川の家で数学の教科書とノートを開いて、須川と顔をつき合わせて勉強なんぞをしているというわけ。
須川は気分がすぐれないのか、ここ最近と変わらずブルーに表情を雲らせて、それでも時々俺の進度をチェックしては間違いを指摘したり、俺の見当違いの公式の使い方を訂正してくれたりする。ものすごく、わかり易い。こいつは、もしかしたら教師が天職なのかもしれない。
俺は、あらぬほうに視線を泳がせている須川をそっと上目遣いで覗き見た。
心ここにあらず、といった憂い顔。
はっきり言って、めちゃくちゃ絵になる男だ。
さすがにあの桐子ちゃんの双子の兄だけある。ため息つく仕草がたまらなくカッコイイ。
頭も良くて、正確はちょっと悪いっぽいけど、こうやって勉強を無償で教えてくれたりして、そのうえでそういう風に憂い顔をされると、少し詮索してみたくなる。
ホント、こんなに何拍子もそろった男が、一体何を悩むことがあるんだろう?
気にならないといったら、ぜったい嘘になる。
シャープペンを握る手が、自然力みを覚えたのか、ガッと音を立てて芯を折ってしまった。その音と、須川のため息が重なる。
う〜ん。
かっちょいいなぁ。
俺もいつか、あんな感じで大人っぽくなおかつカッコ良く雰囲気作ってみたいもんだ!!
でも本当に、須川は何を思ってるのかな?
気になる。気になるぞ〜。
(02 09.23)
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