「五月病宣告」 中編
シャープペンの動きが止まった。そわそわこちらを窺っている気配。
小動物のようなヤツだな。
頭が悪いところなんか、ホント、リスみたいだ。冬に備えてあくせく貯めこんだ木の実を、その隠し場所を忘れておじゃんにしてしまうリス………馬鹿で手に負えない。忘れっぽいならどっかにメモっておけよ。
はあ。
ため息と一緒にまたもや俺の頭にもやもやとしたものが広がっていく。
こいつが本当にリス頭なら………
裸にひん剥いてひーひー言わせても、明日には忘れるんだろうか?
………
………
い、いや………いかん。また頭のねじが緩んだ。
俺はねじを締め直して、春日の方へ向き直った。ちらりとノートに目を落としたら、汚い字がのた打ち回っている。この時点ですでにアウトだ。ノートをうまく整理できないようでは、頭ん中が整理できているわけがない。言っても理解できないだろうが。
ようやく最後の1行まで解読すると、やはり同じような間違いを犯している。
「春日、だからさ、デカイ数字は掛け算して、チイサイ数字は足し算するの。わかる?」
「………う、うん………………たぶん」
俺の声は予想外に冷たく聞こえたのかもしれない。春日はごもごも呟いた。まぁ、すでに三回目の同じ忠告だから、春日のほうも恥ずかしいのかもしれないけど。春日は顔を真っ赤にして、俯いた。―――うなじが、のぞく。
………
裸にひん剥いたら………
………
………
首を振る。少し大げさに、何回も。
マズイ。
俺は一体何を考えてるんだ。
ふと、気づいたのは―――四月の後半だから、今から2週間ほど前。
春日に触られても嫌気がささなかった。
俺という人間は大概にしろと言いたくなるような性格の持ち主で、自分から人に触れるのはよくても、人から勝手に触れられるのが大嫌いという性質を兼ね備えている。
だから、俺にぶつかってきたヤローには、的確に対応してやることにしている。
女の子はカワイイし柔らかいから許すが、ヤローの硬い胸板とかが俺と接触したかと思うと吐き気がする。ま、その吐き気を堪えて殴るだけで済ませてるんだから、それはそれで被害が少なくていいことだ。
それがさらに、相手が体温の高い人間ならなおさらイヤだ。
体温の残ったものは気持ち悪い。
椅子に座って、ケツからほんのりと前に座ってたやつの体温が伝わってきたら気色悪いもんだろ?まじで全身に鳥肌が立つ。コンビニとかで、店員が握り締めた小銭からそいつの体温を受け取ってしまったときなどは、その小銭をそいつに投げつけてやりたくなる。誰だってそう思うよな?
唯一の例外は桐子だけ。
さすがに生まれも育ちも一緒だったせいで………ガキの頃とかにさんざん同じ布団で寝かしつけられたせいだろう、桐子の体温は苦にならない。
無意識で触られてもイヤにならない。
それは桐子だけだったはず………なのに。
気がついたら、その位置に春日がでーんと居座っていた………とかいう、こと、らしくて。
「汗………」
部活の始めのストレッチングのときだった。その前に体慣らしがてら、一人でシュート練習をやっていた春日はもうすでにぐっしょりTシャツを濡らしていた。その状態で、ストレッチをしていた俺の背を勝手に押し始めたのだ。なんの許可も得ず、一言も声をかけず、ぐいぐい俺の背を前方へ押し倒そうとする。しかも、俺の背にぽたぽた汗をたらしながら。
「オラオラ〜須川ギブか〜」
ふざけているのかうるさいもんだ。
怒り狂ってしかるべきなのに、不思議と、そのとき俺が思ったのはその程度だった。その程度だったことに、すぐさま愕然となってしまったんだけど。
「須川、体硬いなー。俺を見てみろ。――――ほら、な」
俺の内心など知るよしもない春日は、俺の真横に座って一人で屈伸をやり始めた。楽に上体を倒してつま先を握ってみせる。すごいだろ〜と春日はにへらにへら俺に笑いかけたのだが、それに返してやる余裕はなかった。
なぜなら、俺のすぐ横に座った春日のほてった体から放たれた熱が俺に伝わってきていたから。
そして、なぜだかそのとき、俺の視覚と触覚と視神経と感覚中枢と思考回路が一気に反乱を起こしていたから。
後から俺の頭によぎったのは、ひとつの病状。
「五月病」
新環境への不適応。
まさしく俺の病状はそれだ。
新環境は唐突に俺の視界に入ってくるから、十分用心しなければいけない。
以後である。
俺は注意を喚起しつづけた。
不文律を勝手に作る。俺からは触ってもいいけど、春日からは触られないようにする。
だって、やばいだろう。
意識していないときに触れられたりしたら、意識して支配している感覚器が暴れ出したり、脳内麻薬が大量に排出してしまうかもしれないだろ?
しかしである。
どうも、俺以外の男が春日に触るのは精神の安定に、非常に悪影響を及ぼすらしい。
我慢比べだな。
何を我慢しているのか、よくは考えたくないのだが。
どの方向から照らし合わせて見ても、やはり春日がべたべた触られるのは耐えがたい。
だが、しかし………そうなると春日が俺に触ってくる事態になる。
たかがストレッチ、されどストレッチ。
部活前のからだを解すためのストレッチごときで俺はすでに不適応症状に悩まされていた。
少し手を移動するだけで、あれこれ出来るんだよなー、などという言語道断な思考状態。
頭の中が、現実と妄想と理性と本能のタップダンスについて行っていないのだ。
はああ。
なんなんだ、一体。
なぜ俺は春日を裸にひん剥きたくなる衝動に駈られるんだ?
重症だ。重体だ。かなり重い。
春日の首が細いのが悪い。
頭が悪くて、放っておけないのが悪い。
ちょこまか動き回って、笑うのが―――――いや、やはり頭が悪いのが一番駄目なのだ。猪突猛進で、桐子を落とすなら俺………将を射んとすればを地でやったりするのはその脳みその容量の少なさゆえだ。俺の回りで愛想いっぱい振りまいて、俺の関心を得んと奮迅するのもそれゆえ。
だから気になる。気になってしまう。視界で春日がちょこちょこしてるから―――
俺はちっとも悪くないのだ。
俺が悪いはずがない。
はあ。
手が自然と汗をかいていた。俺の体温と春日の体温で相乗された熱い手のひらに。
それを少し滑らしたら………
「なんだよー、須川ちゃんと押せよ。俺、もっとべたっと床につくこと出来るんだぞ。遠慮すんなー」
遠慮、ねぇ。
遠慮しなくていいなら、もっと大胆に触るとこに触ってるんだけどな………
………
はあ。
やはり俺は病気なのだ。
それもこれも、春日が全て悪いのだ。
放課後である。なにやら絡んできた高原を相手に憂さを晴らしていたら、春日が俺の席に雪崩れこんできた。
「やだぁああああ、須川助けてぇえええええ」
俺の腕を取って必死の容貌で訴える春日は………目は何気に濡れていたりして………かなり、クるものがあった。
クるって何がクるんだ、あ?
「………どうしたんだ」
比較的冷静にたずねてやる。いきなり腕を取られたせいで、さっきから心臓は俺の制御を超えていた。それに加えて泣きそうな春日の顔。このダブルパンチを堪えての”比較的冷静”な声である。どれだけうまくいったかはわからなかった。
「俺………おれ、赤点とって……なんか、部活禁止っぽくって………追試三日後だし、受かんないと駄目だって………でも俺、4つもあるし、英語とか全然ワケわかんないし………俺ぜったい部活辞めさせられるんだぁあああ!!!」
自分でいっぱいの春日には、俺の動揺は伝わっていないらしい。
というか、文節が入り乱れた会話は瞬時には理解しがたかったが、それも、こいつがバカなんだという前提のもとでは許せてしまえる自分がいる。タコ原がこんな言い方したらまず殴って落ち着かせるんだけどな。
「赤点で追試、か」
「そう! んで、受かんないと部活辞めさせられるって………ココ、進学校だから」
「………ま、当然だろ」
「うううー」
「………春日、しかも4つも赤点だったのか。………教科は?」
「―――英語と数学と古文と日本史」
「壊滅的だな。得意不得意あったもんじゃない」
「ううぅ。だからさぁ〜助けてって………まじで、須川しか頼れない、な、な!」
須川「しか」ねぇ。
けっこうクるな。イイ台詞だ。
………
いや、それは大変マズイ。
「すがわ〜俺とお前の仲じゃんか〜。このクラスで、こーいうことで頼れるのはお前だけなの。ってか、俺の友達とかで、頭イイのお前だけなの!」
机に突っ伏したまま、顔だけ上げてすがる様に俺を見るな。俺の右手を両手で握り締めるな。
その頼りなさげな………濡れた………色っぽい………目を………、
「須川助けてやれば?」
高原が横やりを入れる。
こいつはなにが気に食わないのか、さっきから機嫌が悪い。今も、投げやりに言葉を放つ感じだった。
しかし、そういう第三者の存在は今の今なら助かる。突っ走って、春日を引き寄せるような真似をしないですむ。
引き寄せるって………だいぶイカレてるな。
「………嫌だね。自分でやれよ」
ため息と一緒に告げた。なんか、安堵感ともったいなさのない交ぜになった深いため息。
「そんな…ぁあああ」
「テメエが授業中あっちこっちふらふら集中を切らしてるのが悪いんだろ?」
って、なんで俺がそんなことを知ってるんだろな。
「自分の失地は自力で回復しろ。俺は関係ない」
「ひっでぇ………ひでーぞ、須川!」
知るか。
何が「俺とお前の仲」だ。そんな風に勘違いしてるのは春日だけだ。
くそっ。
俺は春日に掴まれた右手を振り払った。それだけで、春日は捨てられた小動物系の傷心を浸した瞳になる。「見捨てないで」っていうオーラを醸し出している。
まいったな。ぜったいムリだ。これ以上は関わんないほうが身の為かも。
頭ん中が、おかしい。春日が関わると、認識が変な風に捻じ曲げられる。普段とは明らかに異なる思考回路をたどる。理性が新環境に適応できない。
俺は春日に一瞥をくれた。ちゃんと睨めてるよな?俺は、今、変な顔になってないよな?
わかんねぇ。なんか、暴走しそう。俺の腕が、意志に反して動いてる。春日の頬のあたりを触ろうかという指の開き具合。視線は春日の瞳に固定されて………指先が、その柔らかそうな頬を掠める………その、寸前だった。
「俺がその役引きうけてやろうか?」
ぎくっと動きが止まった。この、突き放つような口調の男は―――振りかえって確認した。
「御崎………か」
高原に引き続き、御崎の存在がストッパーになる。本気で助かった。
視線でなんの用だと尋ねる。ていうか、コイツは一体いつからそこにいたんだ?
しかし御崎は俺を完全に無視して、机ごしに春日と対面の位置に立った。きょとんとなったまま、表情を決めきれない春日に笑いかける。
「春日君、俺が勉強教えてあげてもいいけど?………もちろん君が良かったらの話だけどね」
眼鏡がこういうときにはやたらと効いている。頭の良さそうなツラしてるんだよな、コイツ。しかも天下のトップクラスだし。春日の弱いポイントを掴んでる男。
………と思っていたら、案の定というか、春日はじわじわ瞳に期待感を乗せていた。口許が、緩んでいく。
「マジ!? 御崎、もしかしなくてもイイ奴?」
今までずっと、桐子を狙う上での目の上のたんこぶ的存在と認識していた男からの親切な申し出である。しかし、現金な春日はあっさりと御崎に靡きそうな勢いだ。俺を陥とすより先に、御崎を味方に引き入れるほうにシフトチェンジしそうな感じだ。俺にしつこく愛想を振りまいていたように、御崎にこれからついて行きそうな………そんな―――
考えたりとか、脳内シナプスが連絡取り合った結果とかではなかった。
「俺がやるんだよ。邪魔すんな御崎」
がんと机に両こぶしを叩きつけて、教室中の注目を掻っ攫っての宣告だった。久しぶりに、腹のそこから俺本来の声を出せた様な気がした。
それから割とスムーズに事態は進んでいった。
俺と春日が大会前にもかかわらず、三日間も部活を休むと言って部長があっさり承諾したのも、「真面目な春日が部活を辞めさせられるのは可哀想。不真面目でサボりがちの須川が三日間休むのは今更どうでもいい。つまり、須川をもって春日を救えば全てが丸く収まる。しかも三日間も公休を与えてやった須川も少しはおとなしくなるだろう」、という打算があることぐらい先に推測済みだった。
が、しかしである。
図書館―――ってのはマジで人がいなくて厄介な場所なんだな―――での英語の特訓が終わってからの春日の一言で俺は危地にいることを知らされた。
「須川〜、明日どうする? 俺、もうね、かなりやる気マンマンなんだけど!」
やる気ってな………俺がちょっとした一言でもやもやしている内に、春日は自分の家でいかにこの俺サマを歓待するかをつらつらと語って俺の気を引こうと必死になっていた。
「………あ、飯は母さんに作ってもらうから………それでもよければ、心配しなくていいし」
春日の家か。
行ってみたい気もするが……… 「て、店屋物取ろっか………?」
少し小首を傾げて俺の顔色を窺っている春日。そんなに小さいわけでもないのに、なんか、こいつってやっぱり小動物系なんだよな。リスみてぇ〜。寒くて震えているのが似合いそうだ。
………
って………俺は果たして春日の部屋でマトモでいられるんだろうか?
どうでもいい話なんだけど、エッチするときって彼女の部屋が多いんだよね。本当にどうでもいい話なんだが。
全然関係ない話なんだけどな。
………
人肌が残るのがイヤなんだよな。
俺の空間に俺以外のヤツの気配を残すのって嫌いだしな。
それに、明日なら桐子もいるし………
「部屋ならバカなことしたくないし………」
そうだ。バカなことはしないはずだ。
とにかく、このリス頭に追試を乗りきるだけの知恵をつけてやればいいだけなのだ。ならば、より、この俺が安心できる環境でやったほうがいいに決まっている。春日の部屋なんて危ない場所では、勉強を見てやる俺の気が散って仕方ないではないか。そうだ。その通りだ。
「いや、おまえの家より、俺の家で勉強しよう。桐子の参考書とかあるし、まあ、俺もそのほうがなにかとイイし………春日もそれで構わないか?」
構うどころか、春日は満面の笑顔で俺に頷き返した。
ホント、わかりやすいヤツ。
そして、日付けは翌日に移って、場所は俺の部屋に変わった。
ほ〜ら、全然大丈夫………なのか?
ホントに俺は冷静なのか!?
はあ。
マズイな。
どう解いたらいいかわかんない春日が、「ん〜」とかうめく度に一つずつ俺の中のねじが緩んでいってるぞ。
非常にマズイな。
マズイぞ………
(02 09.25)
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