雷鳴 1 - 3
(1)
天窓から見えるのは、わずかに紅く色づいた雲だけだった。
それが朝焼けなのか夕焼けなのか判断することが、進藤ヒカルにはできなかった。
12月は高段の棋士にとって忙しい季節である。
名人戦と王座戦は11月に終わったものの、その他のタイトル戦はそれぞれ予選やリーグ戦を平行して行っている。
トップ棋士になればなるほど、真剣勝負が続くのがこの時期である。
塔矢アキラに続く「新しい波」として、いまではそれなりに評価もされ注目もされている進藤ヒカルではあったが、それが「トップ棋士」を意味するものではないことは明白であった。
才能は認められているが、頂点を目指す一握りの中に加わるには、まだまだ修羅場を経験する必要があるのだろう。
芹澤の代理として金沢に指導碁に行ってくれないかと、事務局から電話がきた時、ヒカルは快くそれを受諾した。
7大タイトルのほとんどに最後まで絡んでいる芹澤は、当面の目標である。
その芹澤が、自分を名指しで推薦してくれたことを、ヒカルは素直に嬉しいと思った。
彼が自分を認めてくれているように思えたからだ。
依頼主は、大企業の取締役に名を連ねる人物だった。
普段から芹澤に教えを乞うているそうで、金沢の別荘で人を招いて碁を打つらしい。
時節柄、忘年会も兼ねているのだろう。
一種の接待、その余興として指導を要請されたのだということは、いまでは和谷の説明を待つまでもなく理解できる。
その週はめずらしく手合いがなかったため、もとから旅行に行こうと思っていたヒカルだった。
そんな彼にとって、冬の金沢は魅力的だった。
指導碁が終えた足で、温泉地を巡るのもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、ヒカルは二つ返事で引きうけたのだった。
(2)
………それがこんなことになるなんて。
ヒカルは、重苦しく流れる北国の雪雲を見上げながら、ため息を零した。
自分の零したため息がとても弱々しく聞こえて、ヒカルはますます憂鬱になった。
これは気のせいではない。
ため息を零すことすら、いまの自分には苦しい。
かすみがちの瞳には、わずかな色をも失い、鈍色から黒へと染まっていく空の様子だけが、時を教えてくれる。
静かに夜がやってくる。
自分の記憶が間違っていなければ、この薄暗い部屋に閉じ込められて、一日半が過ぎたことになる。
――――いつまでこうしていればいいのだろう。
答えのない問いをぶつける相手は、ここには存在しない。
(3)
依頼主は黒塗りのベンツで、空港まで迎えにきてくれた。
父親より幾分年上と思われる紳士が、まだ十代の自分を「先生」と呼ぶことを気恥ずかしく思いながら、ヒカルが後部座席に乗り込んだのは、昨日の午前中のことだった。
別荘へと向かう道すがら、近場の温泉に付いて尋ねたとき、依頼主が熱心に耳を傾けてくれたことを、ヒカルはぼんやり思い出す。
仕事と温泉めぐりで、少なくとも三日は家を空けると言い置いて出てきたことを知ると、依頼主は「それは好都合だ」と、呟いた。
その時は、さして気にも留めなかった一言が、いまではヒカルを苛んでいる。
依頼主は、――この天窓しかない部屋に自分を閉じ込めた男は――、知っているのだ。
三日間、自分の居場所を確かめる人物がいないことを。
ヒカルは、それを思うと、悔しさ、歯がゆさが込み上げてきて、思わず唇を噛み締めていた。
昨日から、何度繰り返した行為だろう。
鋭い痛みとともに、鉄錆にも似た血の味が、また舌の上に広がる。
昨日の内に作ってしまった傷が、また開いたのだろう。
依頼主の別荘は、別荘と呼ぶのが憚れるほど立派な建物であった。
小京都と呼ばれる金沢の町に相応しい、平屋建ての日本建築。
先日来の雪に半ば埋まった広大な庭園は、心字池を配した本格的なもので、
雪吊りを施された木々のなか、紅い椿が咲き匂う、目に清しいものだった。
黒いベンツは、そのなかを音もなく走り抜け、車寄せに停まった。
風情や情緒といったものとは、普段縁のないヒカルではあったが、
彼の瑞々しい感性は、素直に白の紅のコントラストに感嘆を覚え、暫し目を奪われる。
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