雷鳴 11 - 15


(11)
闇の中、絶叫とともに意識を手放したヒカルが、再び瞼を開いたのは、頬に感じるぬくもりのおかげだった。
彼の体は、蔵の中央に横たえられていた。
天窓から零れる朝の光が、一条の光の帯となってヒカルの右の頬から肩にかけて、降り注いでいた。
ヒカルは、ゆっくりと体を起こしながら、あたりに目をやった。
馴染みのない部屋の様子に、自分がどこにいるのかすぐには思い出せなかった。
瞼が重かった。
それに、頬が妙に突っ張るように思えて、ヒカルはそっと手をやった。
頬に置いた自分の手が、白い包帯に包まれているのに気がつき、昨日、自分の身に何が起きたかを思い出す。
不安と孤独と恐怖が、冬の怒涛のような勢いで、ヒカルを飲みこんだ。
ヒカルはすぐさま、立ちあがった。が、視界が大きく揺れたと同時に、その場に無様に倒れ伏す。
彼の目に映る全てが黄色く染まり、輪郭がぼやけていた。
脳貧血を起こしているのだろう。
ヒカルは、犬のように這いつくばると、四肢をのろのろと動かし、戸口へと向かった。
しかし、その途中で、手足が止まる。
昨夜、拳に血が滲むまで、戸を叩いたことが思い出されたのだ。
怪我をした両手には、丁寧に包帯が巻かれてある。ということは、自分が気を失っている間に、誰かがここに入って来たのだ。
その人物は、自分の傷口に治療を施し、そしてまた出ていった……。
ヒカルの体が、がたがたと震え出す。
もう疑いようがなかった。
無視することができなかった。
気づかぬ振りなど、もうできない。
自分は何らかの悪意のもとに、監禁されたのだ。
「ふっ………うっ、う・・……うぅ……――――」
ヒカルはその場に突っ伏すと、堪えきれぬ嗚咽を漏らした。


(12)
飢えは深刻な問題ではなかった。
それよりも問題なのは、渇きだった。


不快な微睡の底で、ヒカルは水を求めてさまよっていた。
動かぬ足を叱咤して、水を求める自分の姿を、ヒカルはもう一つの視点で眺めやり、ゾンビのようだと肩を竦めていた。
いつか、佐為を驚かせるためだけに、飲むつもりもないのに買い求めたジュースが思い出された。
一口、二口、口をつけて、捨ててしまったあのジュースが、いま欲しくてたまらなかった。
いまあのジュースがここにあったら、どんなにいいだろう。
最後の一滴まで舐めとるだろう。
乾いた唇を湿らそうにも、乾いた舌先は嫌な熱を持ち、ますます乾きを募らせる。
外には雪が積もっているのに、それで喉を潤すことができないだなんて。
いまとなっては、流した涙でさえ、惜しまれる。

夢のなかでさえ、ヒカルは乾きに苦しんでいた。
それは幾度か訪れた眠りのなかで、心行くまで水を飲み、それが夢だと知ったときの絶望感からの、回避なのだろう。
監禁は、この時点で一日半が過ぎただけではあったが、暖房の効いた室内は必要以上に空気が乾燥していた。
あの紳士然とした壮年の男は、ヒカルに一滴の水も食事も与えなかった。
蔵の内部には、どうやら監視カメラが設置されているらしい。
ヒカルが脱力感から、2度目に意識を失ったときも、何者かが蔵の中に入ってきた形跡があった。
先程までなかったものが、戸口に置かれているのを見た瞬間、ヒカルは恐怖と屈辱にただ唇を震わせることしかできなかった。
戸口にあったのは尿瓶だった。


(13)
蔵には、トイレと思しきドアはあるのだが、鍵がかかっていて入れない。
「これにしろっていうのかよ……」
ヒカルは、呆然と呟いたが、既に尿意はなく、尿瓶の世話になることはなかった。
目の前に置かれた尿瓶に、これから自分はどうなるのかという不安が煽られる。
尿瓶という日常的に使われることのない代物が、この状況が非日常的であることを物語る。
ヒカルは、考えることを放棄して、眠りに逃げこんだ。
そこもまた、乾きに苦しむ世界ではあったが、他者による悪意とは無縁であった。
それに、希望があった。
少なくとも、夢のなかでヒカルは水を探す自由があった。

いまも、ヒカルは花びらのように舞い降りる雪の中、口を大きく開いて天を仰いでいた。
顎が痛くなるほど口を開いているのに、雪はヒカルの舌に届くことはない。
ヒカルの熱い呼吸に、儚く溶けていくのだ。舌に届く前に。
「なんでだよ!」
ヒカルは、夢のなかで喚いていた。
それでも、降りしきる雪が美しくて、また天を仰ぐ。

ひらりと舞う、純白の雪。

ヒカルは佐為を思った。
美しく儚い、佳人を思った。
自分を置いて、逝ってしまった魂を思った。

また、雪が、ひとひら。

ヒカルは、アキラを思った。
碁石を摘む、彼の白い指を思った。
常に自分の前に立ちはだかり、高みへ誘う存在を思った。


(14)
「塔矢、ごめんな……」
冷たさを感じることのない、雪の中、ヒカルはアキラに謝罪の言葉をかけていた。
「おまえの誕生日……、もう、終わったのかな……」
「今日が何日か、俺わかんないんだ」と、続けながら、ヒカルはアキラの寂しそうな顔を思い浮かべていた。
誕生日に何が欲しいかとヒカルが尋ねると、アキラはどこかに遊びに行かないかと、答えた。
それは11月の最後の水曜日だった。
そのとき、ヒカルもアキラも12月14日に対局は入っていなかった。
いいよと頷くのは容易かった。だが、ヒカルは頷くことができなかった。
それは、個人的な事情でしかない。
塔矢アキラと距離を取ることは、ヒカルにとっては大切なことだった。
佐為によって開かれた碁の道。そこで、先に立ち、自分を誘うのがアキラだった。
佐為なきいま、アキラを追う距離は徐々に縮まっている。
だが、それはまた、ヒカルに新たな悩みをもたらしたのだった。
なぜ自分は、これほどまでにアキラを追い求めてしまうのか。
佐為の面影を重ねているのかと思った時期もあった。
二人には、共通点があった。
―――世俗を離れ、神の一手を目指す、孤高の存在。
佐為とアキラがいなければ、自分は棋士にはならなかったろう。
この道を進みはしなかったろう。
そして、ヒカルを悩ませるもう一つの理由は、アキラ自身にあった。
ヒカルは、アキラを誰よりも綺麗だと思っていた。
姿形だけを問うならば、あかりや奈瀬のほうが可愛らしいし、和谷が部屋にポスターを貼っているアイドルのほうが文句なく美人だろう。
しかし、塔矢アキラほど綺麗だと思う存在を、ヒカルは知らない。
容姿だけでなく、彼の醸し出す雰囲気やちょっとした仕草が、ヒカルにはたまらなく綺麗に思えるのだ。
同性のアキラに対して、そんな感想を持つ自分に、ヒカルは戸惑っていた。
だから、一日碁を離れて遊びに行こうと塔矢アキラに言われたとき、ヒカルは即座に断ってしまったのだった。

「せっかくの誕生日に、俺なんかとふたりっきりで遊びに行きたいって、おかしいよ、塔矢」


(15)
「おかしいかな?」と、苦笑したアキラの表情を、ヒカルはいまだに鮮明に思い浮かべることができる。
笑ってはいたが、いまにも泣き出しそうだった。
そう見えた。
「ごめん、塔矢」
本当は嬉しかったのだ。
誕生日を自分と過ごしたいといってくれたことが、本当は、胸がどきどきするほど嬉しかったのだ。
だから、かえって頷くことができなかった。
アキラに向かう気持に、きちんとした名前を見つけられないでいる状態で、頷くことはできなかったのだ。

ヒカルは、夢の中、届くことのない謝罪を繰り返していた。
そんな彼の髪を、冷たい風が少し乱暴に撫でた。
風の勢いで、雪が流れる。
ヒカルの鼻先を掠めた雪は、それまでのものとは違い、匂いがあった。
清廉な水の匂いがあった。
それが、ヒカルの覚醒を促す。

ヒカルは、腫れぼったい瞼を必死になって開いた。
蔵の戸が開いていた。
すぐには信じられなくて瞬きを繰り返す。
あれほど望んでいたのに、いまヒカルの意識を支配するのは、蔵の戸が開いている事実ではない。
開いた戸口に、塔矢アキラが立っていることだった。



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