若手棋士による塔矢アキラ研究会 1 - 5
(1)
「塔矢くん、」
手合いが終わって帰ろうとしたアキラが声をかけられて振り向くと、見覚えのある先輩棋士だった。
「最近、研究会の方にあんまり来てくれないよな。」
そう言えば、以前にも彼に誘われて、何度か若手棋士の集まる研究会に行ったことがあった。
だが、最近は碁会所でのヒカルとの検討が楽しかったこともあって、ずっとその研究会には行って
いなかった。
「そうですね…」
アキラは少し考えた。
当分、ヒカルは碁会所には来ないだろう。
北斗杯までの4ヶ月間、ここには来ない、と彼は宣言したのだ。
ヒカルが来ないのならつまらない。
そう思って、自然とアキラの足も碁会所から遠のいた。
久しぶりに、別の研究会に行ってみるのも良いかもしれない。
「いいですよ、今度はいつですか?」
アキラはその男に、そう答えた。
(2)
正直に言えば、週に1〜2回程度のヒカルとの検討会がなくなっただけで、こんなに毎日が味気ないものに
なるとはアキラは思わなかった。常に一緒に居る必要は感じない。別々の場所にいても同じ目標を
見つめているのだから。だけど、そういう理屈とは別に、もう1人の自分が呟く。
(進藤に会いたい。)
盤上の石に熱く輝く視線を注ぎ、むきになって手筋を論じて動く彼の唇を見つめていたい。
「進藤に本気で意地を張らせてしまったのは、まずかったな…」
ヒカルの打つ碁は魅力的だ。ことごとく予想を裏切るやり方で定石に囚われない動きをする。
だが、それが通用するのはあくまで低段者が相手の話だろう。長い間プロをやって来た相手は、嫌と
いう程ヒカルのような若手を相手にして来ているのだ。アキラには危うさが感じられた。
ヒカルは分かっているようでいてまだ分かっていないところがある。
碁会所で温かい目で見つめてくれる年長者達とは違う生き物なのだ。プロの世界に棲む者とは。
それでついこちらも語気が荒くなった。
北斗杯予選でボクとの対戦にある意味面白さを感じてくれていたヒカルに、ついいじわるな言い方を
してしまった。アキラにしてみれば北斗杯など一つのイベントに過ぎない。
若手だけで勝敗を争い国を背負って頂点に立ったとしても、それに何の価値があるというのだろう。
クスッと、笑みがアキラの口から漏れた。
(そんな話、進藤には出来ないな…。)
そんな常にどこか客観的に物事を見据えてしまう自分が嫌いだからこそヒカルにこんなに
惹かれるのかもしれないと思っていた。他の何を失っても、ヒカルは失いたくないと。
「久しぶりだから、ちょっと時間をかけてやろう。」
先輩棋士からそう言われていたので、当日夕食を母親に断ってアキラは検討会に出かけた。
場所はいつもとは違う、アパートというよりマンションに近い建物の一室だった。
(3)
メンバーはアキラの他はいつも決まっているのが5人。場合によって1人2人の増減はある。
それでもアキラが一番年下には違いなかったが、塔矢門下と比べて年が近くて
ある意味新鮮な検討会が出来る。
「いらっしゃい、塔矢くん、ここすぐにわかったかい?」
「はい。」
メンバーの中でも一番体が大きくて長髪の先輩棋士が玄関先で出迎えてくれて、
アキラは軽く頭を下げて中に入った。
棋士の部屋とはみな同じ様なものなのだろう。壁一面の本棚の本とパソコン関係だけのシンプルな空間。
その中央で4人で既に盤を囲んで先日のアキラと一柳の一局の検討が始まっていた。
それは自分でもさんざん緒方や芦原とやってみたものだが、部屋の入り口近くに座り
彼等が思う所の意見に暫く耳を傾けていた。
彼等もアキラに気がつくとそれぞれがニコリと笑んで頭を下げて来た。
参加したりしなかったりではなかなかそういう他所よそしさは抜けない。
「記録係やってた奴に聞いたんだけど、この一戦の時進藤君も見に来たんだって?」
長髪の男がアキラの隣に腰掛けて訊ねて来た。
「そうみたいですね。」
進藤は来るだろうと思った。自分もそうだけど、おそらく進藤とはこの先の互いの手合いを
可能な限り直接立ち会おうとすることになるだろう。
ただ、ついそっけなく答えてしまったのにはもう一つ理由がある。
一柳との対局の後、1人遅れてアキラが部屋を出て階段を下りるとヒカルが階下で待っていた。
言葉は要らなかった。どちらからともなく歩み寄るとそっと軽く唇を重ねた。
(4)
いつもならそんな不用意な場所でキスはしない。ヒカルと顔を合わせるのは
ヒカルがアキラの碁会所に出向いて打ったり検討会をする時と大手合いで
棋院会館にやって来た時くらいだった。
初めてヒカルとキスをしたのは、…キスというより、本当に軽く顔と顔が近付いて
ぶつかった程度だったが、名人戦一時予選の対局の後のエレベーターの中だった。
ヒカルとsaiの事で言い合いになって、ヒカルから「バカ」と怒鳴られてカッとなって
掴み掛かろうとし、その時ヒカルの靴の先につまずいた。
“あっ”と思った時はヒカルの瞳が目の前にあった。
顔の下半分一帯が、ヒカルの顏の下半分に重なりあっていた。
壁に手をついて、ヒカルに預けた状態だった上半身を支え治した。
「…ごめん…」
おそらく、アキラにとって耳まで顔を赤くするのは生まれて初めての経験だった。
結果的にそうなっってしまったキスという行為も。
「じ、事故だよ、うん。あんま気にすんな。」
そう笑いながらもヒカルの顏も赤くなっていたと思う。
ただそれが、あんなに頑なでお互いを厳しい目で捕らえていたものが何か少し変化した。
それまで気がつかなかった何かに気付いてしまったとも言える。
ヒカルの唇の柔らかい感触は長くアキラの同じ場所に残った。
(5)
その後、進藤がアキラの碁会所にやってきて対局した。
その間、お互い口元ばかりを見ていた気がする。ヒカルも同じ事を考えている様な気がした。
たまたま他の客が早く帰り、市河も席を外していて室内にヒカルと2人きりになった。
「…塔矢、あのさ…」
ヒカルが口を開いた時、アキラの胸の中でドクンと強く心臓が脈打った。
「もう一度…ていいか?」
ヒカルが席から腰を浮かせてこちらに顔を寄せて来た。アキラは盤面に視線を落としたまま
小さく頷いた。ヒカルが顔を横に傾けて唇を軽く触れさせて来た。
「へへ、」
それだけでヒカルは満足したみたいに席に坐り直した。
その後も、もう一度棋院会館の人気のない廊下の奥でキスした。今度はもう少し
長く触れ合わせた。
「…塔矢の唇って、気持ちいいなあ…。」
ヒカルはまだ「キス」という行為にあまり深い意味を感じていないようだった。
幼児が無意識に股間を手で触るように“何となく落ち着く”程度のものなのだろう。
誰かがやめろと言えばやめるだろうし、こちらが同意すれば続ける。
それで「もう一回キスしたい」という一時的な衝動が治まるのだろう。
「進藤くんと、仲いいんだ。」
長髪の男からそう問いかけられてアキラは一瞬どう答えたらいいか迷った。
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