雷鳴 1 - 5
(1)
天窓から見えるのは、わずかに紅く色づいた雲だけだった。
それが朝焼けなのか夕焼けなのか判断することが、進藤ヒカルにはできなかった。
12月は高段の棋士にとって忙しい季節である。
名人戦と王座戦は11月に終わったものの、その他のタイトル戦はそれぞれ予選やリーグ戦を平行して行っている。
トップ棋士になればなるほど、真剣勝負が続くのがこの時期である。
塔矢アキラに続く「新しい波」として、いまではそれなりに評価もされ注目もされている進藤ヒカルではあったが、それが「トップ棋士」を意味するものではないことは明白であった。
才能は認められているが、頂点を目指す一握りの中に加わるには、まだまだ修羅場を経験する必要があるのだろう。
芹澤の代理として金沢に指導碁に行ってくれないかと、事務局から電話がきた時、ヒカルは快くそれを受諾した。
7大タイトルのほとんどに最後まで絡んでいる芹澤は、当面の目標である。
その芹澤が、自分を名指しで推薦してくれたことを、ヒカルは素直に嬉しいと思った。
彼が自分を認めてくれているように思えたからだ。
依頼主は、大企業の取締役に名を連ねる人物だった。
普段から芹澤に教えを乞うているそうで、金沢の別荘で人を招いて碁を打つらしい。
時節柄、忘年会も兼ねているのだろう。
一種の接待、その余興として指導を要請されたのだということは、いまでは和谷の説明を待つまでもなく理解できる。
その週はめずらしく手合いがなかったため、もとから旅行に行こうと思っていたヒカルだった。
そんな彼にとって、冬の金沢は魅力的だった。
指導碁が終えた足で、温泉地を巡るのもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、ヒカルは二つ返事で引きうけたのだった。
(2)
………それがこんなことになるなんて。
ヒカルは、重苦しく流れる北国の雪雲を見上げながら、ため息を零した。
自分の零したため息がとても弱々しく聞こえて、ヒカルはますます憂鬱になった。
これは気のせいではない。
ため息を零すことすら、いまの自分には苦しい。
かすみがちの瞳には、わずかな色をも失い、鈍色から黒へと染まっていく空の様子だけが、時を教えてくれる。
静かに夜がやってくる。
自分の記憶が間違っていなければ、この薄暗い部屋に閉じ込められて、一日半が過ぎたことになる。
――――いつまでこうしていればいいのだろう。
答えのない問いをぶつける相手は、ここには存在しない。
(3)
依頼主は黒塗りのベンツで、空港まで迎えにきてくれた。
父親より幾分年上と思われる紳士が、まだ十代の自分を「先生」と呼ぶことを気恥ずかしく思いながら、ヒカルが後部座席に乗り込んだのは、昨日の午前中のことだった。
別荘へと向かう道すがら、近場の温泉に付いて尋ねたとき、依頼主が熱心に耳を傾けてくれたことを、ヒカルはぼんやり思い出す。
仕事と温泉めぐりで、少なくとも三日は家を空けると言い置いて出てきたことを知ると、依頼主は「それは好都合だ」と、呟いた。
その時は、さして気にも留めなかった一言が、いまではヒカルを苛んでいる。
依頼主は、――この天窓しかない部屋に自分を閉じ込めた男は――、知っているのだ。
三日間、自分の居場所を確かめる人物がいないことを。
ヒカルは、それを思うと、悔しさ、歯がゆさが込み上げてきて、思わず唇を噛み締めていた。
昨日から、何度繰り返した行為だろう。
鋭い痛みとともに、鉄錆にも似た血の味が、また舌の上に広がる。
昨日の内に作ってしまった傷が、また開いたのだろう。
依頼主の別荘は、別荘と呼ぶのが憚れるほど立派な建物であった。
小京都と呼ばれる金沢の町に相応しい、平屋建ての日本建築。
先日来の雪に半ば埋まった広大な庭園は、心字池を配した本格的なもので、
雪吊りを施された木々のなか、紅い椿が咲き匂う、目に清しいものだった。
黒いベンツは、そのなかを音もなく走り抜け、車寄せに停まった。
風情や情緒といったものとは、普段縁のないヒカルではあったが、
彼の瑞々しい感性は、素直に白の紅のコントラストに感嘆を覚え、暫し目を奪われる。
(4)
「殺風景でしょう?」
依頼主の問いに、ヒカルはかぶりを振った。
「いいえ、綺麗です。白一色で……、本当に綺麗だ」
そう応えたとき、ヒカルの脳裏に閃く記憶があった。
綺麗な白。
それは、碁石のようにも思えたし、それを摘む指先のようにも思えた。
その記憶の緒を手繰り寄せようとしたとき、それを阻むかのように、雪雲の向こうで不思議と軽い破裂音がした。
それは、運動会の朝、校庭のほうから聞こえてくる花火の音によく似ていた。
「雪起しです」
依頼主の口にする、耳馴れぬ言葉にヒカルは首を傾げた。
「ゆきおこし」
壮年の紳士は、ゆっくりと言い直してくれた。
「ユキオコシ?」
「そう、雷鳴ですよ。雪の降る前や、最中になるんです。
雪起しは大雪の知らせとよく言われてます。じき雪が降り出すでしょう。積もるかな」
依頼主は楽しそうな表情で言葉を結ぶと、ヒカルのために扉を開いた。
からりと軽い音を立てて、開いた扉の向こうには、広い三和土と磨き抜かれた廊下、そして静寂があった。
「どうぞ、こちらへ」
(5)
依頼主が促すまま、ヒカルは長い廊下を歩いていった。
廊下にまで暖房が配置されているらしく、生暖かい空気が、時折頬を掠めていく。
しかし、足元からは冷気が這い登ってくる。
東京とは質の違う寒さに、ヒカルは軽く身を震わせた。
人の気配はまったく感じられなかった。
だが、碁会は夕方からと聞いていたので、まだ時間が早いのだろうと、ヒカルは一人納得していた。
「何人ぐらい集まるんですか?」
「そう多くはないですね。気心の知れた、大切な方を数名招きました」
指導碁と一口に言っても、いろいろな方法がある。
多面打ちをするのか、一局打ってから検討をするのか、それに応じて時間の使い方も変わってくるため、まず人数を把握したいと思ったのだが、欲しい答えは貰えなかった。
重ねて聞こうとヒカルが口を開きかけたとき、その心を読んだかのように、依頼主が言葉を続ける。
「ただ、市外からいらっしゃる方は、天候次第ですね……」
ヒカルは雪起しを思った。
重く垂れ込めるような雪雲とは対照的に響いた、軽い破裂音。
あれは大雪の前兆だと、依頼主は教えてくれた。
大雪が降れば、外出は躊躇われるものだ。
ヒカルは、窓の外に目をやった。
すると、その視線を待っていたかのように、雪が一片舞い落ちる。
ヒカルはそっと苦笑を漏らすしかなかった。
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