ストイック 1 - 5


(1)
彼がプロ試験に合格したと聞かされた時でさえ、僕は彼のことを考えようとはしなかった。
いや、気付くまいとしていたのだ。背後から近づいてくる影に。
拭おうとしても拭いきれない、背中に感じる彼の気配に。
それでも彼を振り返ってしまったのは、新初段戦で父が彼を対戦相手に指名したせいだった。
彼を振り返ったとき、彼は僕のすぐ後ろに迫っていた。
それなのに…
彼を見据えた僕の眼を、彼は見ていなかった。
彼の迷いのないまっすぐな眼は、振り返った僕の遥か先、更なる高みだけを見つめていた。
彼の眼には僕は映っていなかった。
それに気付いたとき、僕の心に生じた感情を、僕は認めまいとした。
認めたくなかった。抗いがたいほどに彼を求めていた自分自身を。


(2)
夢を見て、目が覚めた。
僕はしばらくの間、夢の余韻に浸っていた。
夢の中で、僕は彼を陵辱していた。
力任せに押さえつけ、抵抗する彼をくみしだき…
無意識のうちに、手が下腹部まさぐっていた。
ふと気付いて手を引き、胸から湧き上がる羞恥心に紅潮した。
あたりは既に明るく、窓から白い光が差し込んでいる。時計に眼をやれば、まだ起床時間にはずいぶん間がある。
布団の上に半身を起こして、片膝を立てた。
両手に顔をうずめ、思いに沈む。
(馬鹿馬鹿しい。あいつを押さえつけるなんて、向こうのほうがよっぽど体力がありそうじゃないか)
そう思って、少し笑った。
自嘲しながらも、思いは夢の残像を追っている。
夢の中で彼がどんな表情をしていたのか、思い出せない。
いや、夢の中では、彼の表情は曖昧だったのだろう。陵辱に助けを請うなんて、陽の光の似合う彼にはそぐわない。
思わず声を立てて笑ってしまった。
が、笑いはすぐに引き、僕は唇を噛んでいた。
夢の出来事にすぎないとわかっているのに…
触れ合った肌の感触を生々しく思い出していた。
「違う!」
思わず声に出していた。
いくら振り払おうとしても、彼の目が眼裏に焼きついて離れれない。
顔を覆う指の隙間から覗くようにして、僕は空を見据えた。
こぐらい闇の幻影が、僕を押し包む。
闇の底で、彼が眠っている。
あの明るい目を閉じて、蝋のように冷たい身体を横たえた彼が…
かっと熱くなる身体を、僕は無我夢中で掻き抱いた。


(3)
その日はなんの予定もなく、僕は家で過ごしていた。
いっそ予定に追われていればあの夢のことなど思い出さずにすんだだろうに…
そんなことを考えながらも誰とも会う気がせず、部屋で本を開き、読むともなしに活字を眺めていた。
ノックの音がして、僕は顔を上げた。家には父の門下生をはじめいろいろな人が出入りしているが、僕の部屋を訪なうのはごく少数だ。
母ならばノックをしながら声をかける。ノックをして僕が出るのを待っているのは、彼しかいない。
「葦原さん」
案の定、そこに立っていたのは葦原さんだった。
「どうしたんですか。父の研究会の方はいいんですか?」
「どうしたんですかはこっちのセリフだよ。アキラが顔を出さないなんてめずらしいと思って。具合でも悪いのかい?」
そう言って葦原さんは僕の顔を覗き込んだ。
葦原さんの屈託のない目に、僕は少したじろいだ。
僕の胸の底にある彼への邪心を、葦原さんに気付かれてしまいそうな気がしたのだ。
後から思い返してみればそんなことがあるはずはなく、彼のことばかりを考えていた僕の神経は、そのとき人の視線に過敏になりすぎていたのだ。
「ちょうど出かけようと思っていたんだ」
僕は嘘をついた。
「出かけるって、どこへ?」
「その、棋院に…」
「今日は手合いはなかったよね?」
「し、調べたいことがあって、資料室に…」
次々と、僕の口から嘘がこぼれていく。自分の嘘に追い詰められて、鼓動がはやまった。
「じゃあ一緒に行くよ」
「え?」
僕は驚いて葦原さんを見上げた。
全く他意のない芦原さんの笑顔が、今の自分とひどく対照的に見えた。


(4)
棋院の受付で資料室の閲覧を申請すると、しばらくして係員が鍵束を持って出てきた。
僕は葦原さんとここに来るまでの間、どんな話をしていたのか覚えていない。
ただ、時折葦原さんが見せる気遣いの表情を、疎ましく感じていたのは確かなことだ。
僕は棋院の職員の後をたどって、受付のある二階で上へのぼるエレベーターを待った。
葦原さんはあいかわらず、たあいのない言葉を投げてくる。葦原さんの気遣いを疎ましく思えば思うほど、僕の後ろめたさは加速度を増していった。
チン、と乾いた音を立てて、エレベーターが止まった。ゆっくりと開くエレベーターのドアからこぼれた声に、僕は思わず顔をあげた。
「でも、あの手は…」
「だから、あれは…」
そう言いかけて、声の主はこちらを見た。
彼の目をとらえて、僕の身体は硬直した。
(進藤ヒカル…)
突き上げるような熱を、背筋に感じた。
僕は彼から目をそらすことができなかった。
彼の目は一瞬僕を捕らえ、すぐに逸らされた。
進藤と一緒にいたのは、彼と一緒にプロ試験に合格した少年だった。
いつだったか、緒方さんが進藤を父の研究会に誘ったという話を聞いたが、進藤はそれを断って森下九段のもとに通うようになったという。進藤の隣で驚いた風に目を見開いているのは森下九段の門下生、そう、確か名前は和谷。
資料室の鍵を持った棋院の職員がエレベーターに乗り込んだ。
僕はできるかぎり冷静さを繕いながら、職員の後に続いた。


(5)
僕は足元を見ながらエレベーターに乗り、顔を上げないまま彼に背を向けた。
息苦しかった。
音を立てるのが怖くて、口の中にたまる唾液をのみ込むことさえできなかった。
彼は僕の右側の少し後ろに立っていた。
右肩から二の腕にかけたあたりに、彼の体温を感じていた。
身体中の神経がその部分に集中してしまったような気がした。
奥歯を強く噛みしめていたせいか、それともはやまる鼓動のせいか。耳の奥に痛みを感じた。
やがて六階で彼が降りていくまで、僕は息をするのさえ忘れていた。
「けんかでもしたのかい?」
芦原さんの言葉で、僕は我にかえった。
「え?」
「進藤くんと。ふたりしてずいぶん怖い顔していたじゃないか」
「そんなこと…」
言いかけて、僕は言葉を失った。
この時になってようやく、僕は芦原さんを疎ましく感じていた理由に思い至った。
芦原さんは僕にとって一番近しい友人で、誰よりも親しく言葉を交わせる相手だ。
その芦原さんの気遣いに、応えることができないせいだ。
(芦原さんにだって、こんなこと、言えるわけない…)
そう。
こんなこと、誰にも言えやしない…



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