ストイック 16 - 20


(16)
碁盤に目を落しながら、僕は彼の存在を背後に感じていた。
高みを目指す棋士ならば、誰もが足を踏み入れる、長い、長い道のり。
彼は今僕が居る場所よりも遥か先を見据えている。
ならば僕は、決して彼を前には行かせまい、と固く心に誓っていた。
もしも僕が芦原さんとあんな関係になっていなければ、僕はその時、そんなにまで意固地になっていなかったかもしれない。もっと、余裕を持って彼の存在を受け止めていたかもしれない。
ただその時、芦原さんの存在がある意味僕を支えていたのも事実で、結局、過ぎ去った事実の前に『もしも』を投じたところで、答えなど出やしないのだ。
僕は全てを受け入れて、強くあろうとしていた。
それなのに…
僕との手合いの日に、彼が現れなかっただけで、僕は揺らいだ。
脱落した者など放っておけばいい、そう思いながらも、足は彼の元へ向かっていた。
そして僕を待っていたのは、絶対的な拒絶だった。


(17)
彼の拒絶が僕の中に残したものは…
それは、理不尽な怒りだった。
怒りの中で、僕は情けないほど、彼がそうした理由をさぐっていた。
いったい、なぜ?
あれほどまでにひたむきだった彼を、あの真っ直ぐに前だけ見ていた彼を変えさせたものはいったい何なんだ…?
父の引退だろうか、と最初に思った。
彼がひたすら追っていたのは、父の存在だったのだろうか?
そうだ、彼は父の見舞いにも来ていた。そんなに近しい間柄でもないのに…
自分自身、父を追っているうちのひとりだった。それでも、父の引退は、僕に目標を失わせるものではなかった。
それは親子だったからこそかもしれない。そうでない進藤にしてみれば、道標を失ったに等しいのかもしれない…
違うかもしれないと思いながらも、その時期に照らし合わせると、それ以外に思いつかなかった。
僕の背中を、今までになかった感情が駆け抜けた。
それは、嫉妬、だった…
僕は父にさえ、嫉妬していた。



消えてしまえ!
僕は、僕の心を揺さぶる存在に、胸中で叫んだ。
去るというのなら、僕の前から影も残さず、去ってしまえ。

「ボクは、お前になんか、負けやしない…」

ひとり閉じこもった部屋の中で、僕はうずくまり、唇をかみしめ…
流れる涙を、寂しさのせいではないと、自分に言い聞かせていた。


(18)
父が引退してからというもの、それまで以上に、家には多くの人が足を寄せた。
僕も家に居る時は、すすんで来客に顔を出すようにしていた。
もはや僕を脅かす者はいない。僕の前には、遥かな道筋だけがある。
迷いはない。そう信じることができた。
そんな僕の自負に一石を投じたのは、緒方さんの一言だった。
「アキラくんは、進藤がどうしているかは知らないのか?」
それは父を訪ねた緒方さんが帰るとき、僕が玄関まで見送る途中のことだった。
「なぜボクに聞くんですか?知りませんよ」
僕は内面の同様を押し隠しながら、そう答えた。
「いや、キミは彼とは親しそうだったからね。気分を害したのなら、謝るよ」
何故だか、緒方さんの言い方が癪に障った。
「別に、親しくなんかありません…」
「そういや、ゼミの仕事のとき…」
僕が言い終えぬうちに、緒方さんが独り言のように言った。
「え?」
僕が聞き返すと、緒方さんは足を止め、僕を見下ろした。
「いや、仕事で同じホテルに泊まったときに、彼と一局打つ機会があってね。そのときの彼の様子に、気にかかることがあったんだ」
緒方さんは再び歩きはじめ、僕は緒方さんの斜め後ろから、彼の歩調に合わせてついて行った。
「気にかかることって、なんですか?」
平静を装いながら、僕の声はうわずっていたかもしれない…
緒方さんはもう一度僕を振り返った。しばらく悩むように口元に手を寄せて、視線を宙にさまよわせてから、僕を見た。
「どこから話すにせよ、長くなりそうだ。場所を変えよう」
僕は緒方さんに導かれるままに、彼の後を追った。


(19)
何処へ行くのかと思えば、着いたのは緒方さんのマンションだった。
以前にも何度か訪ねたことのある部屋。
いつもと同じ、煙草の匂い…
「コーヒーでいいか?」
いつもと同じ、緒方さんのセリフ。
「ええ。餌、やってもいいですか?」
僕は水槽を指差しながら言った。
「ああ。悪いが、俺はこっちをやらせてもらう」
言いながら、緒方さんは酒瓶を取り出した。銘柄は知らない。わかるのは洋酒だということだけだ。
「昼間っからですか?身体に悪いですよ」
そう返して、僕は水槽に近づいた。水槽の端を叩くと、色鮮やかな魚たちが集まってくる。十分な餌は与えているだろうから、あげるのは少しだけだ。
魚に限らず、ものを食べる生物は見ていておもしろいと思う。飢えているわけではないのだろうに、それでも一心不乱とも言えるくらい、魚たちは餌をむさぼっている。


(20)
背後に気配を感じて、僕は振り返った。
すぐ後ろに、緒方さんが立っていた。
「芦原とは、いつからなんだ?」
一瞬、息が止まった。
「何の、ことですか…?」
僕はできるかぎりの平静さを取り繕った。
「キミは隠し事ができないな。すぐに顔に出る」
緒方さんは哂っていた。僕が今まで見たことのない緒方さんが、そこにいた。
「『どこか、連れてって』か…。もう少し、人目をはばかったほうがいい」
見られていたのだ、あの時、病院の階段で…
「そんなことを話しにきたんじゃありません!」
「俺は端からそのつもりだ…」
緒方さんの顔が、少しずつ近づいてきた。
僕は後ずさりをしようとして、背中が水槽にあたった。
ゆっくりと、唇が重なった。
緒方さんは僕を見ている。僕も、目を開いたままで、緒方さんを見ている。
薄く唇を重ねたまま、緒方さんは動かない。僕も、動かない。
まるでにらめっこだ、と僕は思った。
根競べのような、キス。
こちらの力量を測るような緒方さんの態度に、怒りと苛立ちが腹の底から沸いてきた。
先にしびれを切らせたのは、僕の方だった。
緒方さんが身を引いて、口元を押さえた。
僕が、緒方さんの唇を噛んだのだ。
驚いた風に目を見開く緒方さんの姿に、僕は背筋がぞくりとするような、言い知れぬ感情が走った。
上手く言葉にできない。
快楽にも似た、その感情…
もしかしたら、嗜虐、というのがそれにふさわしいのかも知れない…
そう、思った。



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