羽化 1 - 5


(1)
芦原が塔矢家の居間でビールなど飲みながらくつろいでいる所へ、アキラが洗い髪を拭き
ながら現れた。
「どうも失礼しました、芦原さん……、早速やってるんですか?」
「ああ、頂いてるよ。」
先に風呂を使わせてもらって、既に自分もパジャマ姿の芦原は二缶目のビールをぐいっと
呷りながら答えた。
「まあ、わざわざ金曜の夜に泊まりに来て頂いてるんですし、ビールくらい、いくらでも飲んで
下さい。」
そう言いながらアキラは芦原の向かいに腰を下ろした。
「それにしても、お父さんもお母さんも過保護ですよ。そう思いませんか?」
「確かにそうかもなあ。」
「ボクだってもう中三なのに、親が一週間ぐらい留守してたって、平気ですよ。」
「まあ、一泊二泊くらいならともかく、今回はちょっと長そうだからね。おまえがハメ外さないよう
にってお目付け役をおおせつかったってとこかな?」
「ハメを外すって、どんな?」
「例えばこんな事さ。」
テーブルの上のビールの缶の一つを手渡した。
「全然お目付け役になんかなってないじゃないですか。ひどい人選ミスだ。」
アキラが笑いながら缶を受け取る。
風呂上りに、ビールの爽快な味が心地よい。一気に半分くらいをごくごくと飲み干し、
「ふうっ…」
と、軽く息をついた。


(2)
「おいおい、いい飲みっぷりだなあ、アキラ。未成年のくせに。」
「その未成年に今ビールを渡したのは誰ですか?」
「まあまあ、カタイ事言うなって。」
「全く、お父さんのお弟子さんたちと来たら、緒方さんといい芦原さんといい、お父さんの目を
盗んでは悪い事ばっかり教えてくれて。」
「酒ぐらいたいした事ないだろ。塔矢先生の晩酌に付き合ったりはしないのか?」
「さすがにまだ親公認じゃないですよ。その親も明日の夜には帰ってきちゃうし、」
そう言いながらキラッと目を輝かせて芦原を見た。
「折角の貴重な金曜の夜に、彼女の家でなく師匠の息子の面倒なんか見に来た殊勝な芦原
さんのために秘蔵のボトルでもお出ししましょうか。」
「オレなんか口実でおまえが飲みたいだけだろ?それにどうせオレは今は彼女なんかいないし、
付き合ってくれるのはおまえくらいのもんさ。」
ちょっと拗ねたような口調で答えるとアキラがクスクスと笑う。
「応接間に移動しませんか?」


(3)
応接間のキャビネットの中にはずらりと高級洋酒が並んでいた。とは言ってもそんな高級酒
を飲み慣れていない芦原にはどれが美味いのかもよく分からない。キャビネットの前で唸って
いると、背後から声をかけられた。
「どうせ貰い物ばっかりだし、好きなのを選んでくださいよ。」
グラスと氷をお盆に載せたアキラが背後に立っていた。お盆をテーブルに載せるとアキラは
また台所に向かって、今度は古そうな瓶を持って戻ってきた。
それは何だ?と芦原が首を傾げると、
「母の秘蔵の梅酒。何年物かなあ…なんか書いてあるんだけどよく読めないなあ…。」
と答えながら、アキラは眉を顰めながら手書きのラベルを睨んだ。
「…オレもそれがいいな。」
「これはダメ。そっちのと違って沢山飲んだらすぐバレるし。
芦原さんはボクと違って大人なんだから、こんな子供でも飲める甘いお酒じゃなくて高級な
ブランデーでもウィスキーでも好きなのを飲んでくださいよ。」
「おまえなあ、そりゃないだろう?」
結局オレをだしにしてるだけじゃないか、とぶつぶつ文句を言っていると、
「しょうがないなあ、じゃ、一口だけ味見してみます?」
と差し出されたグラスに口をつけてみた。とろりと濃厚な甘い液体を舌に転がして味わう。
「ん〜、さすがに美味いな。でもちょっと濃すぎるかなあ…?ソーダ割にしたら美味そうだな。」
「何言ってるんですか。緒方さんちじゃあるまいし、ソーダだのトニックウォーターだの、常備
してませんよ。大体これを割っちゃうなん発想がね。だから芦原さんになんか飲ませられな
いんですよ。勿体無い。」
「…ひでぇ。」
結局選びかねて、芦原は一番手前にあったウィスキーをキャビネットから取り出した。


(4)
「おいおい、ペース速いんじゃないか?梅酒っていったってアルコールはキツイんだぜぇ?
いくらおまえが中学生にしちゃ酒に慣れてるって言ったってさあ…」
「そうかな…」
「なんかさあ、最近おまえ、荒れ気味だから、ちょっと心配だぜ?」
「荒れてる…?そうかも知れませんね。」
小さく笑うと、グラスに目を落とした。そして、グラスを揺すりながら、低い声で言う。
「前にボクに…気負うなって、誰も追ってきやしないさって、そう言いましたよね。
今でも、そう思ってますか?」
やはり彼の事か。芦原はそう思った。
進藤ヒカル。
いくらにぶい自分でも、アキラがどれだけ彼を気にしているかはさすがにわかっていた。
目覚しいスピードで駆け上がってきた彼の存在は芦原にとっても脅威だった。
アキラは別格だ。だからずっと年下のアキラとほぼ同レベルであったとしてもそれは仕方のない
こと、そんな風に思っていた。何しろ塔矢先生に碁の指導を受けている年月はアキラの方が長い
のだ。だから、年齢こそ上であっても、自分とアキラは先輩後輩と言うよりは、同輩、同じ位置に
いる、そんな風に思っていた。だから「友達」と言われても、確かにその通りだな、と思っていた。
棋士―勝負師にしては自分は多分のんびりした性格なんだと思う。昔はそののんびりさ加減で
もアキラとは気が合うと思っていたものだが。


(5)
だがアキラは変わった。進藤ヒカルがアキラを変えた。
アキラがあんなに気性の激しい少年だとは、いや、内に秘めた情熱の存在に気付いてはいたが
あれ程だとは思ってもいなかった。だが、ある意味アキラの対ヒカルの暴走振りも、芦原は微笑
ましく見ていた。やっと、おまえの待ち望んでいた相手に会えたんだな、と、そう思った。
アキラにとって同年代の友達であり、ライバルである存在ができたのは良い事だ、と。
時折進藤ヒカルの存在がチリッと胸を焦がすような気がする。だがそれはアキラ以外の年下の
少年に追いつき、追い越されるかもしれない、そんな嫌な予感のためなのだろう。
もちろん、自分としてもそんなに簡単に追いつかれる訳には行かない。
そろそろ、自分もアキラのように、自分の闘志を燃え立たせる誰かに会えないだろうか。



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