羽化 16 - 20


(16)
「…ごめんなさい。」
やがてアキラは小さい声で呟いた。そして顔を上げて芦原を見据えて、言った。
「どうか、もう、お休みになってください。あとはボクが片付けますから。」
そんな事はできない、そう言いたい芦原を止めるように、アキラが言う。
「客間に床を用意してありますから。」
そしてアキラは立ち上がり、芦原に背を向けたまま、テーブルの上に放置されていたグラスや
つまみの皿を片付け始めた。

後ろ髪を引かれる思いで廊下を歩く。客間の襖を開けようとした芦原はアキラの視線を感じて振り
返った。
「芦原さん、ボクは……」
廊下の向こうからアキラの小さい声がはっきりと聞こえた。
「…ずっとあなたが好きでした。
だから、今夜の事はきっとボクが望んだ事なんです。あなたのせいじゃない。
だから……もし、あなたが忘れたいのなら、忘れてください。」
信じられないような言葉に芦原が立ちすくんでいると、アキラは小さく笑ったように見えた。
「おやすみなさい、芦原さん。」
そう言ってアキラは芦原の視界から姿を消した。

暗い、誰もいない廊下を呆然として芦原は見つめていた。
体内に残っていたアルコールと疲労感が急速に芦原から意識を奪おうとする。
半ば夢見ているようにゆっくりと部屋に入り、後ろ手で襖を閉めると、芦原は用意されていた布団
に潜り込み、そのまま眠りに落ちた。


(17)
コーヒーの香りで目が覚めた。
一瞬、ここはどこだったろうと思い、すぐに塔矢家の客間だと思い出した。
慣れない布団と枕のせいだろうか、肩や腰がぎしぎしと痛んだ。だがそれだけでは済まなかった。
「!」
頭を動かそうとして、激しい頭痛に見舞われた。と同時に胸がムカムカする。二日酔いだ。
だがコーヒーの香りに吸い寄せられるように芦原は食卓へ向かう。
「おはようございます、芦原さん。」
パジャマ姿で頭もぼさぼさの芦原を、既に制服に着替えたアキラの涼しい声が迎えた。
「ひどい顔色ですね。二日酔いですか?」
飲んだ量は大して変わらない気がするのに、アキラときたら平然としている。
芦原はなんだか悔しいような情けないような気がして、頭を抱えながら腰をおろした。
「…うん。おまえ、今日学校なのか?」
「ええ。海王は私立ですから、土曜も授業があるんです。
コーヒー、飲みますか?」
多分ひどい顔をしている芦原をいたわるような笑みを浮かべて、アキラはコーヒーカップを差し
出した。その白い指先に、一瞬目が吸い寄せられた。顔を上げてアキラを見ると、紅い唇に目
が止まってしまう。
「どうしたんですか?芦原さん。」
形のよい紅い唇が動き、涼やかな声が振ってくる。芦原は戸惑いを打ち消そうと頭をふった。
途端に猛烈な頭痛が彼を襲った。
「いたたたたた…」
芦原は頭を抱えて唸った。
「なに、してるんですか。芦原さん。大丈夫ですか?」
心配しながらも呆れたような声が聞こえる。よく知っている聞きなれたアキラの声。
どうかしてる。
「二日酔いの薬なんてあったかなあ…」


(18)
頭痛の奥から昨晩のとんでもない夢がよみがえってくる。
アキラの紅い唇。白い首筋に散った紅い花。熱い身体。彼のこぼした涙と甘い泣き声…
何て夢だ。欲求不満にも程がある。
「どうしたんですか?芦原さん。」
頭上からその、夢の中で彼を呼んだのと同じ声が振ってきて、芦原は慌てて夢の記憶を追い
やろうとしながら、叫んだ。
「なんでもない!なんでもない!!」
「…ヘンなの。どうかしたんですか、芦原さん。」
「どうもしない…けど、」
どことなくアキラの動きがぎこちない。
「いや、おまえこそ、おかしくないか…?どこか、怪我でもしてるのか?」
「ああ…。今朝、足元に本があるのに気付かないで踏んづけちゃって、おかげで机の角に腰を
思いっきりぶつけちゃったんです。声が出ないくらい痛かったですよ。」
アキラが屈託なげに笑って、言った。


(19)
妄想が頭から離れない自分が情けなくて、芦原はコーヒーを一気に飲み干した。
「顔洗ってくる…」
そう言って立ち上がり、洗面所へ向かおうとした。
すれ違いざまにアキラの身体がびくっと震えたような気がした。何の気なしに振り返ると、アキラ
の顔が強ばっているように見える。芦原が怪訝な顔をすると、アキラは慌てたように目をそらし、
そのはずみで、彼の身体がぐらついた。
「おい、大丈夫…か…」
つまづきそうになったアキラの身体を支えようとして、芦原は言葉を失った。確かに身体が覚え
ている、この感覚。けれど身体を強ばらせたまま、アキラは芦原を見上げて、言った。
「大丈夫です。」
そしてゆっくりと芦原の手を押し退ける。
「どうか…しましたか…?」
ポーカーフェイスを装ったアキラが冷たい声で言う。
制服から覗く白い首筋に目が吸い寄せられる。変形の詰襟の襟元から見え隠れする紅い痕跡。
ではあれは夢ではなかったのか?
「いや…なんでもない。」
震える声でそう答えながら、芦原はアキラの視線から逃れるように彼から離れた。
急に激しい頭痛と胸のむかつきがよみがえる。


(20)
冷たい水でざぶざぶと顔を洗いながら、芦原は考える。
夢ではないと言う事を、本当は知っていた。だが現実だと思いたくなかった。認めたくなかった。
認めてしまったその先にあるものを直視したくなかった。けれど、どこまでが現実で、どこからが
夢だったのか。あれが全て現実のはずがない。そう思ったからこそ、全てを夢のせいにしてしま
おうと思った。
「ずっとあなたが好きでした。」
あの言葉も、では現実だったと言うのか?そんな、そんな筈がない。信じられない。
いっそ欲望のままに彼を蹂躙した、ただそれだけの方がまだマシだ。ただの肉欲と肉欲との結果。
そうであれば、まだ、現実だと認められる。
蛇口から勢いよく出る水を、頭から浴びる。けれど混乱は混乱のままだ。
混乱したままの芦原の背中にアキラの声が投げかけられた。
「芦原さん、」
彼の声に、芦原の身体が硬直する。
「ボクはもう行きますけど、どうぞ芦原さんはごゆっくりなさっていて下さい。留守番をさせて
しまうようで申し訳ありませんけど、もしお帰りになるのでしたら戸締りをお願いします。鍵は
お渡ししてありましたよね?」
突然、芦原は、アキラを掴まえて一体何が真実なのか問い正ししたい衝動に駆られた。
「アキラ!」
彼の名を呼びながら、玄関へ向かう。
玄関のドアに手をかけていたアキラが振り返った。
「行ってきます、芦原さん。」
有無を言わさない笑顔でにっこりと笑うと、芦原を玄関に置いたままアキラは出て行った。



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