雷鳴 10 - 12
(10)
拳を打ちつければ、鉄板を打ち付けた戸は、ガンガンと耳障りな音を立てる。拳には振動が返ってくる。
それは、いま間違いなくヒカルの感じることのできる、反応だった。
夕刻から開かれる碁会のために、自分は招かれた事実を思い出した時、ヒカルは悪意の存在をようやく認めていた。
泣き喚き、渾身の力で拳を叩きつけ、残る力の全てで体当たりをするヒカルは、既に極限にまで追い詰められていた。
それが無駄な努力だと、冷静に考える余裕など、完全に失われていた。
蔵である。
堅牢な作りの蔵の戸が、少年の涙ぐましい努力に、報いることはなかった。
力尽き、涙で汚れた頬を拭う気力もなくしたヒカルが、戸に背中を預けた姿勢で、その場に頽れた時だった。
そのタイミングを見計らっていたように、蔵の中の照明が唐突に消えた。
それは、絶望と希望の狭間で、頼りなく揺れていた少年の精神を、奈落に突き落とすも同然だった。
完全な闇。
瞼を開けているのかも閉じているのかも、すぐには理解できない闇の中、ヒカルの中でなにかがぷつりと音を立てて、切れた。
しんしんと降る雪は、少年の絶望に満ちた悲鳴を、ただ静かに吸い取るのだった。
(11)
闇の中、絶叫とともに意識を手放したヒカルが、再び瞼を開いたのは、頬に感じるぬくもりのおかげだった。
彼の体は、蔵の中央に横たえられていた。
天窓から零れる朝の光が、一条の光の帯となってヒカルの右の頬から肩にかけて、降り注いでいた。
ヒカルは、ゆっくりと体を起こしながら、あたりに目をやった。
馴染みのない部屋の様子に、自分がどこにいるのかすぐには思い出せなかった。
瞼が重かった。
それに、頬が妙に突っ張るように思えて、ヒカルはそっと手をやった。
頬に置いた自分の手が、白い包帯に包まれているのに気がつき、昨日、自分の身に何が起きたかを思い出す。
不安と孤独と恐怖が、冬の怒涛のような勢いで、ヒカルを飲みこんだ。
ヒカルはすぐさま、立ちあがった。が、視界が大きく揺れたと同時に、その場に無様に倒れ伏す。
彼の目に映る全てが黄色く染まり、輪郭がぼやけていた。
脳貧血を起こしているのだろう。
ヒカルは、犬のように這いつくばると、四肢をのろのろと動かし、戸口へと向かった。
しかし、その途中で、手足が止まる。
昨夜、拳に血が滲むまで、戸を叩いたことが思い出されたのだ。
怪我をした両手には、丁寧に包帯が巻かれてある。ということは、自分が気を失っている間に、誰かがここに入って来たのだ。
その人物は、自分の傷口に治療を施し、そしてまた出ていった……。
ヒカルの体が、がたがたと震え出す。
もう疑いようがなかった。
無視することができなかった。
気づかぬ振りなど、もうできない。
自分は何らかの悪意のもとに、監禁されたのだ。
「ふっ………うっ、う・・……うぅ……――――」
ヒカルはその場に突っ伏すと、堪えきれぬ嗚咽を漏らした。
(12)
飢えは深刻な問題ではなかった。
それよりも問題なのは、渇きだった。
不快な微睡の底で、ヒカルは水を求めてさまよっていた。
動かぬ足を叱咤して、水を求める自分の姿を、ヒカルはもう一つの視点で眺めやり、ゾンビのようだと肩を竦めていた。
いつか、佐為を驚かせるためだけに、飲むつもりもないのに買い求めたジュースが思い出された。
一口、二口、口をつけて、捨ててしまったあのジュースが、いま欲しくてたまらなかった。
いまあのジュースがここにあったら、どんなにいいだろう。
最後の一滴まで舐めとるだろう。
乾いた唇を湿らそうにも、乾いた舌先は嫌な熱を持ち、ますます乾きを募らせる。
外には雪が積もっているのに、それで喉を潤すことができないだなんて。
いまとなっては、流した涙でさえ、惜しまれる。
夢のなかでさえ、ヒカルは乾きに苦しんでいた。
それは幾度か訪れた眠りのなかで、心行くまで水を飲み、それが夢だと知ったときの絶望感からの、回避なのだろう。
監禁は、この時点で一日半が過ぎただけではあったが、暖房の効いた室内は必要以上に空気が乾燥していた。
あの紳士然とした壮年の男は、ヒカルに一滴の水も食事も与えなかった。
蔵の内部には、どうやら監視カメラが設置されているらしい。
ヒカルが脱力感から、2度目に意識を失ったときも、何者かが蔵の中に入ってきた形跡があった。
先程までなかったものが、戸口に置かれているのを見た瞬間、ヒカルは恐怖と屈辱にただ唇を震わせることしかできなかった。
戸口にあったのは尿瓶だった。
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